第1章 年〜年

住友精化:住友多木化学工業の設立と大阪・神戸証券取引所上場

1944年〜資本金1200万円で別府に生まれた住友多木化学工業と、軍需会社の指定

住友化学工業と多木製肥所は1944年7月20日、資本金1200万円の住友多木化学工業を設立した。発端は1943年初めに海軍航空本部が住友化学へ求めた硝石年1万3000トンの増産である。住友化学は新居浜で賄えない1万トンを、多木製肥所のアンモニア設備を生かした新工場で補う計画を立てた。ところが1944年4月、海軍省の通告で硝石工場の建設は基礎工事を終えた段階で中止となった。両社は軍需省・農商省の勧めを受け、1944年5月15日の覚書で、経営を主に住友化学が担う硫安と化学工業品の製造会社として設立に進んだ。設立から14年を経た1958年の時点でも、多木製肥所は大株主に名を連ねていた。

  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [1]1944年7月20日、住友化学工業と多木製肥所の共同出資で資本金1200万円の住友多木化学工業を設立(出資は住友610万円、多木590万円で550万円は硫安設備の現物出資)
    • [2]1943年初め海軍航空本部が住友化学に硝石年1万3000トンの増産を要請し、うち1万トンは多木製肥所のアンモニア設備を活用する計画とした
    • [3]1943年初め海軍航空本部が住友化学に硝石年1万3000トンの増産を要請し、うち1万トンは多木製肥所のアンモニア設備を活用する計画とした
    • [4]1944年4月、政府の非常措置と海軍省の通告で住友・多木の硝石工場建設は基礎工事を終えたところで中止
    • [5]軍需省・農商省の勧めを受け、住友多木化学工業の名称のまま硫安ほか化学工業品を製造する新会社の設立で両社が一致(1944年5月15日覚書)
  • 株式会社年鑑 1958年版「別府化学工業」
    • [6]1958年版年鑑に設立昭和19年7月20日、大株主として多木製肥所を記載

住友多木化学工業は1945年1月15日に軍需会社の指定を受け、軍需省の直接管理下に置かれた。発足後の急務は、1944年6月から停止していたアンモニア工場を直し、生産を再開することである。運転工・修理工の不足と原料資材の欠乏で、生産量は当局の指示を下回り続けた。木製飛行機の接着剤に使う尿素と航空燃料用の過酸化水素の製造も計画したものの、いずれも終戦までに成果を見なかった。1945年7月には事務部門の半数以上を近郊の寺社へ疎開させ、28日に工場が機銃掃射を受けた後は生産を全面的に止めたまま終戦を迎えた。戦後に工場が初めて硫安を生産したのは、同年11月6日のことである。

  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [7]1945年1月15日に軍需会社に指定され軍需省の直接管理下に置かれた
    • [8]1944年6月以来停止していたアンモニア工場の復旧と生産再開が発足後の緊急課題で、運転工・修理工の不足と原料資材の欠乏で指示された生産は望めなかった
    • [9]1944年6月以来停止していたアンモニア工場の復旧と生産再開が発足後の緊急課題で、運転工・修理工の不足と原料資材の欠乏で指示された生産は望めなかった
    • [10]木製飛行機接着剤用の尿素と航空燃料用の過酸化水素の製造計画は終戦まで成果を見なかった
    • [11]1945年7月に事務部門の半分以上を近郊の寺社に疎開、7月28日に工場が空襲で機銃掃射を受け、生産は全面停止のまま終戦
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
    • [12]1945年11月6日、戦後はじめて硫安を生産
参考文献[1]-[12]
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [1]1944年7月20日、住友化学工業と多木製肥所の共同出資で資本金1200万円の住友多木化学工業を設立(出資は住友610万円、多木590万円で550万円は硫安設備の現物出資)
    • [2]1943年初め海軍航空本部が住友化学に硝石年1万3000トンの増産を要請し、うち1万トンは多木製肥所のアンモニア設備を活用する計画とした
    • [3]1943年初め海軍航空本部が住友化学に硝石年1万3000トンの増産を要請し、うち1万トンは多木製肥所のアンモニア設備を活用する計画とした
    • [4]1944年4月、政府の非常措置と海軍省の通告で住友・多木の硝石工場建設は基礎工事を終えたところで中止
    • [5]軍需省・農商省の勧めを受け、住友多木化学工業の名称のまま硫安ほか化学工業品を製造する新会社の設立で両社が一致(1944年5月15日覚書)
    • [7]1945年1月15日に軍需会社に指定され軍需省の直接管理下に置かれた
    • [8]1944年6月以来停止していたアンモニア工場の復旧と生産再開が発足後の緊急課題で、運転工・修理工の不足と原料資材の欠乏で指示された生産は望めなかった
    • [9]1944年6月以来停止していたアンモニア工場の復旧と生産再開が発足後の緊急課題で、運転工・修理工の不足と原料資材の欠乏で指示された生産は望めなかった
    • [10]木製飛行機接着剤用の尿素と航空燃料用の過酸化水素の製造計画は終戦まで成果を見なかった
    • [11]1945年7月に事務部門の半分以上を近郊の寺社に疎開、7月28日に工場が空襲で機銃掃射を受け、生産は全面停止のまま終戦
  • 株式会社年鑑 1958年版「別府化学工業」
    • [6]1958年版年鑑に設立昭和19年7月20日、大株主として多木製肥所を記載
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
    • [12]1945年11月6日、戦後はじめて硫安を生産

1945年〜住友の名を外した別府化学工業と、資本金3000万円から重ねた増資

住友多木化学工業の生産再開の方向は、1945年9月1日に硫安とアンモニアの緊急出荷を求める政府の指示が届いて定まった。食糧不足は凶作と復員・引揚げによる人口の増加で深まり、硫安工業は最重点産業の一つに指定された。同年11月には創立時の社長が退任し、後任は住友化学新居浜製造所次長の松井虎太氏。1946年から1947年前半の生産は機器の故障と停電で振るわず、1947年秋の電力事情の好転でようやく安定した。松井虎太氏はのちに、当時の工場の音を多木三良氏に問われて『あれは生きておる証拠です。工場はまだ死んでおりません。生きておるのです』と答えたと振り返った。硫安生産の安定を受け、業績は1948年上期から黒字に転じた。

  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [13]1945年9月1日、硫安と民需用アンモニアの緊急出荷を指示する政府の通知が届き生産再開の方向が決まった
    • [14]凶作と復員軍人・引揚げ者による人口増加で食糧不足が深まり、硫安工業は石炭などと並ぶ最重点産業に指定された
    • [16]1946年から1947年前半の硫安生産は機器故障・停電で振るわず、1947年秋から電力事情の好転で軌道に乗った
    • [17]松井虎太が1959年の社長辞任の挨拶で、ガス工場のパージ音を多木三良に問われた際の応答を回想
    • [18]硫安生産が順調になった1948年上期から業績は黒字基調に転じた
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
    • [15]1945年11月、初代社長が退任し松井虎太が社長に就任

住友多木化学工業は1946年4月1日から、別府化学工業の社名を使い始めた。住友本社の解体に伴い、関係会社の社名から「住友」の呼称を外すことになったためである。新社名は工場の所在地区の中心である別府町にちなみ、松井虎太社長の『事業は地元とともに発展してゆくことこそあるべき姿である』という信念を込めた。1946年11月と12月には住友化学の取締役2名が退任し、松井虎太氏ら住友化学に籍を置いたままの52名は、その在籍を解かれた。住友化学が持っていた12万2000株は、持株会社整理委員会へ移った。社名の変更は、住友本社との資本と人事の結びつきが断たれたなかで、地元に根ざす独立した会社として歩む宣言だったとみられる。

  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [19]1946年3月の取締役会で別府化学工業への商号変更を決め、4月1日から使用
    • [20]住友本社の解体で関係会社の社名から「住友」が削られ、新社名「別府」は所在地区の中心の別府町にちなみ松井社長の信念を込めた
    • [21]住友本社の解体で関係会社の社名から「住友」が削られ、新社名「別府」は所在地区の中心の別府町にちなみ松井社長の信念を込めた
    • [22]制限会社の支配禁止に伴い1946年11月・12月に住友化学側の取締役が退任し、松井社長以下52名の住友化学在籍が解かれた
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
    • [23]住友化学所有の当社株式12万2000株を持株会社整理委員会へ

別府化学工業は1952年7月、大阪と神戸の両証券取引所に株式を上場した。設備資金は見返り資金・復興金融金庫・日本開発銀行の国家資金を主に充て、不足は住友銀行などの協調融資で補った。借入金は増資と社債の発行で返済する方針をとり、資本金は1949年12月の3000万円から増資を重ね、1951年5月には1億2000万円とした。1949年下期には、合理化の進展による初めての株式配当。1955年までに借りた国家資金は6億9800万円で、設備資金の借入総額16億6000万円の42%に当たる。業界平均の29%を上回る比率で、上場は低利の国家資金と市場の資金を併せて設備を増強するための手立てだったと思われる。

  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
    • [24]1952年7月、大阪・神戸両証券取引所に株式を上場
    • [26]借入金を増資と社債で返済し、1949年12月に資本金3000万円に増資
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [25]設備資金は見返り資金・復興金融金庫・日本開発銀行の国家資金を主にし、不足分は住友銀行・神戸銀行・日本興業銀行の協調融資。1951年5月に資本金1億2000万円、1949年下期から初めて配当
    • [27]設備資金は見返り資金・復興金融金庫・日本開発銀行の国家資金を主にし、不足分は住友銀行・神戸銀行・日本興業銀行の協調融資。1951年5月に資本金1億2000万円、1949年下期から初めて配当
    • [28]1955年までの国家資金借入は6億9800万円で設備資金総借入16億6000万円の42%(業界平均29%)
参考文献[13]-[28]
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [13]1945年9月1日、硫安と民需用アンモニアの緊急出荷を指示する政府の通知が届き生産再開の方向が決まった
    • [14]凶作と復員軍人・引揚げ者による人口増加で食糧不足が深まり、硫安工業は石炭などと並ぶ最重点産業に指定された
    • [16]1946年から1947年前半の硫安生産は機器故障・停電で振るわず、1947年秋から電力事情の好転で軌道に乗った
    • [17]松井虎太が1959年の社長辞任の挨拶で、ガス工場のパージ音を多木三良に問われた際の応答を回想
    • [18]硫安生産が順調になった1948年上期から業績は黒字基調に転じた
    • [19]1946年3月の取締役会で別府化学工業への商号変更を決め、4月1日から使用
    • [20]住友本社の解体で関係会社の社名から「住友」が削られ、新社名「別府」は所在地区の中心の別府町にちなみ松井社長の信念を込めた
    • [21]住友本社の解体で関係会社の社名から「住友」が削られ、新社名「別府」は所在地区の中心の別府町にちなみ松井社長の信念を込めた
    • [22]制限会社の支配禁止に伴い1946年11月・12月に住友化学側の取締役が退任し、松井社長以下52名の住友化学在籍が解かれた
    • [25]設備資金は見返り資金・復興金融金庫・日本開発銀行の国家資金を主にし、不足分は住友銀行・神戸銀行・日本興業銀行の協調融資。1951年5月に資本金1億2000万円、1949年下期から初めて配当
    • [27]設備資金は見返り資金・復興金融金庫・日本開発銀行の国家資金を主にし、不足分は住友銀行・神戸銀行・日本興業銀行の協調融資。1951年5月に資本金1億2000万円、1949年下期から初めて配当
    • [28]1955年までの国家資金借入は6億9800万円で設備資金総借入16億6000万円の42%(業界平均29%)
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
    • [15]1945年11月、初代社長が退任し松井虎太が社長に就任
    • [23]住友化学所有の当社株式12万2000株を持株会社整理委員会へ
    • [24]1952年7月、大阪・神戸両証券取引所に株式を上場
    • [26]借入金を増資と社債で返済し、1949年12月に資本金3000万円に増資

1953年〜35億円に膨らんだアンモニア合理化と、資本金10億円の製鉄化学工業

別府化学工業は1956年12月、アンモニアを中心とする別府工場の総合合理化計画をまとめた。1956肥料年度から硫安の国内価格が大幅に引き下げられ、石炭・コークスの価格も上がった。コークス法の設備改良は限界に達しており、米国テキサコ社の重油加圧ガス化法でアンモニアを作り、尿素へ進出する方針を決めた。所要資金は当初の10億円余から32億円に膨らみ、資本金5億円の会社として社内でZ起業と呼ぶ規模になった。東京証券取引所への株式の上場も、計画をまとめた1956年。1958年時点で東京事務所は丸の内の郵船ビルに置かれ、東証の銘柄コードは4008である。

  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
    • [29]1956年12月、アンモニア中心の総合合理化計画を決定
    • [33]1956年、東京証券取引所に株式を上場
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [30]1956肥料年度から硫安国内価格が大幅に切り下げられ、神武景気で石炭・コークスなど原材料が高騰
    • [31]コークス法アンモニアの合理化は限界で、テキサコ式重油加圧ガス化によるアンモニア新設と尿素新設を基本線とした(1956年1月)
    • [32]計画資金は当初10億円余から32億円に膨張、資本金5億円の当社は社内でZ起業と呼んだ。尿素はモンテカチニ社の新ファウザー法、硫酸はバディッシュ法、ガス化から精製はケミコ社のエンジニアリング
  • 株式会社年鑑 1958年版「別府化学工業」
    • [34]1958年版年鑑に東証銘柄コード4008、東京事務所は丸の内2丁目の郵船ビル

総合合理化の工事費は35億4000万円に膨らみ、別府化学工業は1958年5月に5億円を増資して資本金を10億円とした。1957年後半からの金融引き締めで、日本開発銀行の融資は4億5000万円に削減された。工事中の1957年6月と1958年2月には爆発事故が続き、死者5名・重軽傷者39名を出した。新設備は1958年4月に尿素、6月に硫酸、11月に原料を原油へ切り替えたアンモニアが操業に入った。テキサコ式の設備が動くと、旧来のコークス法アンモニア設備には抜本的な手当てが必要になった。1958年5月、住友化学社長の土井正治氏と富士製鐵社長の永野重雄氏は、広畑製鐵所の余剰コークス炉ガスを原料に使う構想で一致した。

  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [35]工事内容は35億4000万円に増大し、1958年5月に5億円を増資して資本金10億円
    • [36]1957年後半からの金融引締めで開発銀行融資は4億5000万円に削減
    • [38]尿素工場は1958年4月、硫酸工場は6月、原料を原油に切り替えたアンモニア工場は同年11月に操業
    • [39]新アンモニア設備の完成で旧コークス法設備に抜本措置が必要となり、1958年5月に土井正治(住友化学社長)と永野重雄(富士製鐵社長)が広畑製鐵所のCOG利用構想で一致
    • [40]新アンモニア設備の完成で旧コークス法設備に抜本措置が必要となり、1958年5月に土井正治(住友化学社長)と永野重雄(富士製鐵社長)が広畑製鐵所のCOG利用構想で一致
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
    • [37]1957年6月2日の液安計量タンク破裂と1958年2月22日の旧合成工場爆発で死者5名・重軽傷者39名

住友化学と富士製鐵は1960年6月1日、5億円ずつを出資して資本金10億円の製鉄化学工業を設立した。これに先立つ1959年2月、富士製鐵は別府化学工業の経営に参加し、住友化学が持つ410万株のうち200万株を譲り受けた。同年5月30日には社長の松井虎太氏が退任し、住友化学専務の正井省三氏が後任に就任した。広畑から別府へ原料ガスを送る管路は用地取得などの問題で実現が難しく、1959年11月に広畑の東の用地へ姫路製造所を設ける計画に改めた。製鉄化学工業の社長には正井省三氏が就任し、アンモニア工場の完成後に別府化学工業と合併する予定とされた。製鉄所の副生ガスを原料に取り込む提携が、硫安一本からの多角化の起点になったと推察される。

  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
    • [41]1960年6月1日、住友化学・富士製鐵が5億円ずつ出資し資本金10億円の製鉄化学工業を設立、社長は正井省三。アンモニア工場完成後に別府化学と合併を予定
    • [45]1960年6月1日、住友化学・富士製鐵が5億円ずつ出資し資本金10億円の製鉄化学工業を設立、社長は正井省三。アンモニア工場完成後に別府化学と合併を予定
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [42]1959年2月16日に富士製鐵が経営に参画し、住友化学所有の当社株410万株のうち200万株を富士製鐵へ譲渡
    • [43]1959年5月30日に松井虎太が社長を退任し、正井省三(住友化学専務取締役)が新社長に就任
    • [44]広畑-別府間パイプライン構想は電蝕問題や用地取得の関係で困難となり、1959年11月に姫路製造所を新設する計画に変更
参考文献[29]-[45]
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
    • [29]1956年12月、アンモニア中心の総合合理化計画を決定
    • [33]1956年、東京証券取引所に株式を上場
    • [37]1957年6月2日の液安計量タンク破裂と1958年2月22日の旧合成工場爆発で死者5名・重軽傷者39名
    • [41]1960年6月1日、住友化学・富士製鐵が5億円ずつ出資し資本金10億円の製鉄化学工業を設立、社長は正井省三。アンモニア工場完成後に別府化学と合併を予定
    • [45]1960年6月1日、住友化学・富士製鐵が5億円ずつ出資し資本金10億円の製鉄化学工業を設立、社長は正井省三。アンモニア工場完成後に別府化学と合併を予定
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
    • [30]1956肥料年度から硫安国内価格が大幅に切り下げられ、神武景気で石炭・コークスなど原材料が高騰
    • [31]コークス法アンモニアの合理化は限界で、テキサコ式重油加圧ガス化によるアンモニア新設と尿素新設を基本線とした(1956年1月)
    • [32]計画資金は当初10億円余から32億円に膨張、資本金5億円の当社は社内でZ起業と呼んだ。尿素はモンテカチニ社の新ファウザー法、硫酸はバディッシュ法、ガス化から精製はケミコ社のエンジニアリング
    • [35]工事内容は35億4000万円に増大し、1958年5月に5億円を増資して資本金10億円
    • [36]1957年後半からの金融引締めで開発銀行融資は4億5000万円に削減
    • [38]尿素工場は1958年4月、硫酸工場は6月、原料を原油に切り替えたアンモニア工場は同年11月に操業
    • [39]新アンモニア設備の完成で旧コークス法設備に抜本措置が必要となり、1958年5月に土井正治(住友化学社長)と永野重雄(富士製鐵社長)が広畑製鐵所のCOG利用構想で一致
    • [40]新アンモニア設備の完成で旧コークス法設備に抜本措置が必要となり、1958年5月に土井正治(住友化学社長)と永野重雄(富士製鐵社長)が広畑製鐵所のCOG利用構想で一致
    • [42]1959年2月16日に富士製鐵が経営に参画し、住友化学所有の当社株410万株のうち200万株を富士製鐵へ譲渡
    • [43]1959年5月30日に松井虎太が社長を退任し、正井省三(住友化学専務取締役)が新社長に就任
    • [44]広畑-別府間パイプライン構想は電蝕問題や用地取得の関係で困難となり、1959年11月に姫路製造所を新設する計画に変更
  • 株式会社年鑑 1958年版「別府化学工業」
    • [34]1958年版年鑑に東証銘柄コード4008、東京事務所は丸の内2丁目の郵船ビル

出典・参考

3件
出典・参考
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 本文
  • 製鉄化学工業『製鉄化学三十年の歩み』1976年 年表
  • 株式会社年鑑 1958年版「別府化学工業」

免責事項およびポリシー