森矗昶
レゾナックHD・元取締役社長(昭和電工 初代)
社長就任1939年6月
生年月日—
学歴—
出自—
経歴1908〜1940年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1908年主要役職の状況(推定含む目安)1940年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 総房水産 | 1908 | 設立 | ||
| 1919 | 合併 | ||||
| 東信電気 | 1919 | 取締役水産部長 | |||
| 1927 | 専務取締役 | ||||
| 日本沃度(1934年3月 日本電気工業に改称) | 1926 | 設立 社長 | |||
| 1934 | 社長 | ||||
| 昭和肥料 | 1928 | 専務取締役 | |||
| 1934 | 社長 | ||||
| レゾナックHD | 1939 | 取締役社長 | |||
| 1940 | 社長 退任 | ||||
| 日本肥料 | 1940 | 理事長 | |||
| 帝国アルミニウム統制 | 1940 | 社長 |
社長就任までの出自
出自
1884年10月21日、千葉県夷隅郡清海村の網元である森為吉氏の長男として生まれた。13歳のころから父のカジメ焼きを手伝い、1901年には勝浦にある粗製ヨード工場で製法を学び、その後は父が地元に建てた工場で製造を担った。総房水産と東信電気を経て1926年に日本沃度を設立し、1924年5月からは衆議院議員を兼ねた。ただし森矗昶氏が資本で押さえていた会社は日本電気工業に限られ、東信電気と昭和肥料の資本は鈴木三郎助氏が出していた。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1938年4月、東京電灯と古河電気工業の間で、アルミニウム年産5万トンの日本軽金属を国策会社として設ける計画が進んだ。大電源を持たない日本電気工業はこれに対抗するため、昭和肥料と東信電気を加えた電気化学会社を構想した。当時の森矗昶氏は日本電気工業と昭和肥料の社長に加え、東信電気の専務を兼ねていた。東信電気が参加を見送ったため2社の対等合併となり、設立委員長を務めた森矗昶氏が1939年6月1日発足の昭和電工の初代社長に就任した。
在任中の主な施策
施策
合併の狙いは、昭和肥料鹿瀬工場が東信電気新郷発電所から得た4万キロワットの受電権利を、日本電気工業が福島県喜多方町に計画したアルミニウム年産1万1000トンの工場へ振り向けることにあった。硫安と石灰窒素は政府の価格抑制で営業が縛られ、アルミニウムにも抑制強化が予想されたため、生産費の引き下げが急務となっていた。在任は1年余りで、1940年7月に国策会社の日本肥料の理事長に就任して昭和電工を去り、翌8月に鈴木忠治氏が第2代社長に就任した。
創業ストーリー
創業ストーリー
参考文献3件
参考文献
- 昭和電工五十年史(1977)序章「森矗昶」略歴
- 昭和電工五十年史(1977)序章1「総房水産とその消長」
- 昭和電工五十年史(1977)第2章1「昭和電工の誕生」・第2章「森矗昶の逝去」
事実根拠:出所(レゾナックHD)