セッツ:コルゲートマシン新設による段ボール一貫体制の確立
1960年〜原料パルプからパッキングケースまでの一貫体制
摂津板紙は1958年度から、原紙を抄いて売るだけの会社から、原料の調達と最終製品の加工までを自社で通す会社へ組み替えるため、原料パルプから段ボール紙器に至る一貫体制を確立する計画を立てた。1959年4月、原料の自給体制の一環としてケミグランドパルプ(CGP)の生産を始め、同年7月には第7号抄紙機を新設して、このCGPを使ったパルプ中芯原紙の抄造に入った。同年8月には大阪工場にコルゲートマシンを新設して段ボールの分野へ進出した。この大阪工場は、1955年に大極東製紙から買収した設備である。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
- [1]摂津板紙は1958年度から原料パルプから段ボール紙器に至る一貫体制確立の計画を立てた
- [5]大阪工場は1955年に大極東製紙から買収した工場である
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- [2]1959年4月に原料自給体制の一環としてケミグランドパルプ(CGP)の生産を開始した
- [3]1959年7月に第7号抄紙機を新設しCGPを使用してパルプ中芯原紙の抄造を開始した
- [4]1959年8月に大阪工場にコルゲートマシンを新設し段ボール分野に進出した
1960年6月、大阪工場に抄紙機2台を新設して耐火ボード原紙の抄造を始めた。同じ月に本社工場の従来の3号抄紙機を撤去し、大型の新3号機を据えて段ボールライナーの抄造を開始し、原料パルプから最終製品のパッキングケースまでの一貫体制を確立した。体質改善は2期に分かれ、第1期は1960年5月に段ボールライナーの抄造を始めて一貫体制が揃った時点で終わり、所要資金は22億円にのぼった。第2期は1961年6月から着手し、段ボール工場を新設し、装置を据え付け、抄紙機を改造して本社工場内に鉄筋4階建ての設備を建て、月産能力を当時の倍の3,000トンに引き上げる内容で、所要資金は10億円だった。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- [6]1960年6月に大阪工場に抄紙機2台を新設し耐火ボード原紙の抄造を開始した
- [7]1960年6月に本社工場の3号機を撤去して新3号抄紙機を新設し段ボールライナーの抄造を開始、原料パルプよりパッキングケースまでの一貫体制を確立した
- 野田経済 1961年10月9日号
- [8]体質改善計画の第一期工事は1960年5月に段ボールライナーの抄造を始めて一貫体制を確立したところで終わり、所要資金は22億円だった
- [9]第二期工事は1961年6月から着手し、段ボール工場の新設・装置・抄紙機の改造で本社工場内に鉄筋4階建ての設備を作り月産能力を倍の3,000トンにする内容で、所要資金は10億円だった
1961年4月、摂津板紙は既存の生産設備を拡充・合理化する工事に着手し、生産量を増やすとともに製品の等級を上げた。1962年3月には段ボール中芯原紙とライナーからパッキングケースまでを一貫して生産する目的で兵庫県伊丹に伊丹工場を着工し、前後して埼玉県八潮でも東京工場の建設に入った。伊丹工場は1963年4月に完成し、大阪工場の段ボール設備を移設してただちに操業を開始した。1963年4月末の事業所は本社工場、大阪工場、伊丹工場、東京工場の4か所で、段ボール原紙を抄く尼崎の本社工場が319名、耐火ボード原紙の大阪工場が57名、段ボールの伊丹工場が148名、東京工場は建設中だった。のちに増田芳久社長は、東京と大阪という屑紙の二大発生地に板紙工場を構えたことを、集荷の面での強みとして挙げた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- [10]1961年4月に既存生産設備の拡充・合理化工事に着手し、生産の増加と製品の高級化を図った
- [11]1962年3月に段ボール中芯原紙・ライナーからパッキングケースまでの一貫生産を目的に兵庫県伊丹で伊丹工場の建設に着手した
- [12]伊丹工場と前後して埼玉県八潮に東京工場の建設に着手した
- [13]1963年4月に伊丹工場を完成し、大阪工場の段ボール設備を移設して直ちに操業を開始した
- [14]1963年4月末の事業所は本社工場・大阪工場・伊丹工場・東京工場の4か所だった
- [15]本社工場(尼崎市・段ボール原紙・319名)、大阪工場(耐火ボード原紙・57名)、伊丹工場(伊丹市・段ボール・148名)、東京工場(埼玉県・建設中)
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [16]板紙工場が東京・大阪という屑紙の二大発生地に立地しているため屑紙の集荷に恵まれていた
参考文献[1]-[16]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
- [1]摂津板紙は1958年度から原料パルプから段ボール紙器に至る一貫体制確立の計画を立てた
- [5]大阪工場は1955年に大極東製紙から買収した工場である
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- [2]1959年4月に原料自給体制の一環としてケミグランドパルプ(CGP)の生産を開始した
- [3]1959年7月に第7号抄紙機を新設しCGPを使用してパルプ中芯原紙の抄造を開始した
- [4]1959年8月に大阪工場にコルゲートマシンを新設し段ボール分野に進出した
- [6]1960年6月に大阪工場に抄紙機2台を新設し耐火ボード原紙の抄造を開始した
- [7]1960年6月に本社工場の3号機を撤去して新3号抄紙機を新設し段ボールライナーの抄造を開始、原料パルプよりパッキングケースまでの一貫体制を確立した
- [10]1961年4月に既存生産設備の拡充・合理化工事に着手し、生産の増加と製品の高級化を図った
- [11]1962年3月に段ボール中芯原紙・ライナーからパッキングケースまでの一貫生産を目的に兵庫県伊丹で伊丹工場の建設に着手した
- [12]伊丹工場と前後して埼玉県八潮に東京工場の建設に着手した
- [13]1963年4月に伊丹工場を完成し、大阪工場の段ボール設備を移設して直ちに操業を開始した
- [14]1963年4月末の事業所は本社工場・大阪工場・伊丹工場・東京工場の4か所だった
- [15]本社工場(尼崎市・段ボール原紙・319名)、大阪工場(耐火ボード原紙・57名)、伊丹工場(伊丹市・段ボール・148名)、東京工場(埼玉県・建設中)
- 野田経済 1961年10月9日号
- [8]体質改善計画の第一期工事は1960年5月に段ボールライナーの抄造を始めて一貫体制を確立したところで終わり、所要資金は22億円だった
- [9]第二期工事は1961年6月から着手し、段ボール工場の新設・装置・抄紙機の改造で本社工場内に鉄筋4階建ての設備を作り月産能力を倍の3,000トンにする内容で、所要資金は10億円だった
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [16]板紙工場が東京・大阪という屑紙の二大発生地に立地しているため屑紙の集荷に恵まれていた
1962年〜故紙を主原料とする下級板紙で第1位
摂津板紙は、パルプから造る高級板紙を避け、もっぱら故紙を利用する下級板紙に重点を置いた。故紙を主原料とし、そこへ自社で生産するケミグランドパルプやセミケミカルパルプを補助として加える、故紙の再生会社である。戦後の新興会社でありながら板紙業界の中堅どころに伸び、下級板紙の分野では第1位を占めた。得意商品はチップボールと耐火ボード原紙で、1962年3月期の製品別売上構成は、チップボール25.2%、表ライナー21.0%、パルプ中芯原紙14.9%、段ボール14.4%、黄中芯原紙9.6%、耐火ボード原紙9.1%となった。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- [17]パルプから造る高級板紙を避け、もっぱら故紙利用の下級板紙に重点を置いた
- [18]故紙を主原料とし自社生産のケミグランドパルプやセミケミカルパルプを補助に加える故紙の再生会社である
- [19]戦後の新興会社だが板紙業界の中堅どころに発展し、とくに下級板紙の分野では第1位である
- [20]製品のなかでもチップボールや耐火ボード原紙が得意商品である
- 会社年鑑(1963年版)
- [21]1962年3月期の製品別売上構成はチップボール25.2%、表ライナー21.0%、パルプ中芯原紙14.9%、段ボール14.4%、黄中芯原紙9.6%、耐火ボード原紙9.1%だった
廃物の故紙と廃材を使いこなし、工場の立地にも恵まれた摂津板紙では、とりわけ故紙を集めやすい場所に工場があることが伸びる力になった。同社は本格的にパルプから一貫生産する構想を持っていたが取りやめ、自社の特色を生かしながら加工の度合いを高める道を選んだ。その方針は製品の構成に表れ、1970年3月期の売上は段ボール原紙パルプ芯が33.8%、段ボールが21.2%、段ボール原紙ライナーが10.1%、チップボールが8.3%、白ボールが8.0%、耐火ボード原紙が7.6%、紙管原紙が7.1%を占めた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- [22]廃物(故紙・廃材)利用に妙味を発揮し、工場立地のよいことが強みである
- [23]故紙の集荷という点で立地条件のよい工場を持つことが成長の原動力である
- [24]本格的パルプからの一貫生産という計画を中止し、特色を生かして加工度をあげてゆくことを経営の方針とした
- 会社年鑑(1971年版)
- [25]1970年3月期の製品別構成は段ボール原紙パルプ芯33.8%、段ボール21.2%、段ボール原紙ライナー10.1%、チップボール8.3%、白ボール8.0%、耐火ボード原紙7.6%、紙管原紙7.1%だった
1963年3月末時点で筆頭株主だったのは創業者の増田義雄氏で、2,269,440株、16.2%を持っていた。住友商事が1,590,000株・11.4%、大同生命が945,000株・6.8%、三菱商事が300,000株・2.1%でこれに続く。系列に属さない摂津板紙にとって、株主に名を連ねたこの2社の商社は、製品を売りさばく主要な経路でもあった。取引銀行も住友を筆頭に興銀、神戸、長銀、三和と並び、住友とのつながりはとりわけ濃かった。住友、三菱という有力なバックがあり、金融と販売の両面に不安はなく、1963年には、数期にわたり無配を続けていた日本製紙の再建に増田義雄社長が乗り出すことになった。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- [26]1963年3月末の大株主は増田義雄2,269,440株(16.2%)、住友商事1,590,000株(11.4%)、大同生命945,000株(6.8%)、三菱商事300,000株(2.1%)だった
- [27]系列に属さないが住友商事と三菱商事が大株主に加わり、この2社が販売の大きな窓口になっていた
- [28]とくに住友との関係が深く、主取引銀行は住友・興銀・神戸・長銀・三和である
- 野田経済 1961年10月9日号
- [29]住友、三菱という有力なバックがあり、金融・販売面ともに不安がないと評された
- 野田経済 1963年3月18日号
- [30]1963年、数期にわたり無配を続けていた日本製紙の再建に摂津板紙の増田社長が乗り出すことになったとみられると報じられた
参考文献[17]-[30]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- [17]パルプから造る高級板紙を避け、もっぱら故紙利用の下級板紙に重点を置いた
- [18]故紙を主原料とし自社生産のケミグランドパルプやセミケミカルパルプを補助に加える故紙の再生会社である
- [19]戦後の新興会社だが板紙業界の中堅どころに発展し、とくに下級板紙の分野では第1位である
- [20]製品のなかでもチップボールや耐火ボード原紙が得意商品である
- [22]廃物(故紙・廃材)利用に妙味を発揮し、工場立地のよいことが強みである
- [23]故紙の集荷という点で立地条件のよい工場を持つことが成長の原動力である
- [24]本格的パルプからの一貫生産という計画を中止し、特色を生かして加工度をあげてゆくことを経営の方針とした
- [26]1963年3月末の大株主は増田義雄2,269,440株(16.2%)、住友商事1,590,000株(11.4%)、大同生命945,000株(6.8%)、三菱商事300,000株(2.1%)だった
- [27]系列に属さないが住友商事と三菱商事が大株主に加わり、この2社が販売の大きな窓口になっていた
- [28]とくに住友との関係が深く、主取引銀行は住友・興銀・神戸・長銀・三和である
- 会社年鑑(1963年版)
- [21]1962年3月期の製品別売上構成はチップボール25.2%、表ライナー21.0%、パルプ中芯原紙14.9%、段ボール14.4%、黄中芯原紙9.6%、耐火ボード原紙9.1%だった
- 会社年鑑(1971年版)
- [25]1970年3月期の製品別構成は段ボール原紙パルプ芯33.8%、段ボール21.2%、段ボール原紙ライナー10.1%、チップボール8.3%、白ボール8.0%、耐火ボード原紙7.6%、紙管原紙7.1%だった
- 野田経済 1961年10月9日号
- [29]住友、三菱という有力なバックがあり、金融・販売面ともに不安がないと評された
- 野田経済 1963年3月18日号
- [30]1963年、数期にわたり無配を続けていた日本製紙の再建に摂津板紙の増田社長が乗り出すことになったとみられると報じられた
1963年〜大阪証券取引所第1部への指定替えと352億円の売上高
摂津板紙の株式が東京の店頭で公開されたのは1961年1月4日で、それ以前は大阪の店頭にあった。同年10月2日には大阪証券取引所第2部へ上場し、第1部への指定替えは1963年2月1日に決まった。設備投資と歩調を合わせて売上高も伸び、1959年3月期の11.2億円から1960年3月期18.3億円、1961年3月期25.1億円へ増え、1962年3月期は34.0億円で当期純利益1.4億円、1963年3月期は38.4億円で当期純利益1.7億円だった。1963年3月期の従業員は529名、平均年齢は28.3歳で、労働組合は組織されていなかった。
- 野田経済 1961年10月9日号
- [31]摂津板紙が東京店頭に公開されたのは1961年1月4日で、その前は大阪店頭にあった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- [32]1961年10月2日に大阪証券取引所第2部に上場した
- [33]1963年2月1日に大阪証券取引所第1部に指定替えした
- [35]1962年3月期の売上高34.0億円・当期純利益1.4億円、1963年3月期の売上高38.4億円・当期純利益1.7億円
- [36]1963年3月期の従業員は529名、平均年齢28.3歳で、労働組合は組織されていなかった
- 会社年鑑(1963年版)
- [34]売上高は1959年3月期11.2億円、1960年3月期18.3億円、1961年3月期25.1億円だった
売上高は1964年3月期に49.4億円、1965年3月期に59.6億円へ伸びたが、1966年3月期は56.5億円に減り、営業利益4.6億円に対して経常利益は1.3億円、当期純利益は0.9億円にとどまった。1966年に紙の市況が悪化して業績が落ち、市況の回復とともに上向いたため、摂津板紙は利益剰余金の積み増しを最優先に据えた。1966年3月期の従業員は758名で、1968年時点の資本金は10億5,000万円、従業員は798名に増えた。東京工場には段ボール用の中芯原紙マシンを増設して順調に動かし、家電業界の好況などで段ボールの需要は旺盛だった。
- 会社年鑑(1967年版)
- [37]売上高は1964年3月期49.4億円、1965年3月期59.6億円、1966年3月期56.5億円で、1966年3月期は営業利益4.6億円・経常利益1.3億円・当期純利益0.9億円だった
- [39]1966年3月期の従業員は758名だった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
- [38]1966年に紙の市況悪化で業績は悪化したが市況回復とともに上向き、利益剰余金の改善を最優先に体質強化中だった
- [40]1968年時点の資本金は10億5,000万円、従業員は798名だった
- [41]東京工場に段ボール用中芯原紙マシンを増設し稼働は順調だった
- [42]家電業界のブームなどで段ボール需要は旺盛だった
1970年3月期の売上高は146.9億円、営業利益22.9億円、経常利益14.7億円、当期純利益8.0億円で、従業員は806名だった。1974年3月期には売上高352.3億円、経常利益49.1億円、当期純利益22.7億円に達し、売上高は1970年3月期の2.4倍に伸びた。1975年3月期は売上高312.7億円、経常利益26.7億円、当期純利益13.4億円へ落ち、従業員は743名に減った。段ボール原紙のメーカーは1973年の第1次石油ショックの後に大変な苦しみを受け、高成長のころから激化していた過当競争のとがめもあって、同業者のなかには債務超過に陥る会社も出た。
- 会社年鑑(1971年版)
- [43]1970年3月期の売上高146.9億円、営業利益22.9億円、経常利益14.7億円、当期純利益8.0億円、従業員806名
- 会社年鑑(1976年版)
- [44]1974年3月期の売上高352.3億円、経常利益49.1億円、当期純利益22.7億円
- [45]1975年3月期の売上高312.7億円、経常利益26.7億円、当期純利益13.4億円、従業員743名
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [46]段ボール原紙メーカーは1973年の第1次石油ショック後に大変な苦しみを受け、高成長時から激化した過当競争のとがめもあって同業者の多くが傷つき債務超過の会社もいくつか出た
参考文献[31]-[46]
- 野田経済 1961年10月9日号
- [31]摂津板紙が東京店頭に公開されたのは1961年1月4日で、その前は大阪店頭にあった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- [32]1961年10月2日に大阪証券取引所第2部に上場した
- [33]1963年2月1日に大阪証券取引所第1部に指定替えした
- [35]1962年3月期の売上高34.0億円・当期純利益1.4億円、1963年3月期の売上高38.4億円・当期純利益1.7億円
- [36]1963年3月期の従業員は529名、平均年齢28.3歳で、労働組合は組織されていなかった
- 会社年鑑(1963年版)
- [34]売上高は1959年3月期11.2億円、1960年3月期18.3億円、1961年3月期25.1億円だった
- 会社年鑑(1967年版)
- [37]売上高は1964年3月期49.4億円、1965年3月期59.6億円、1966年3月期56.5億円で、1966年3月期は営業利益4.6億円・経常利益1.3億円・当期純利益0.9億円だった
- [39]1966年3月期の従業員は758名だった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
- [38]1966年に紙の市況悪化で業績は悪化したが市況回復とともに上向き、利益剰余金の改善を最優先に体質強化中だった
- [40]1968年時点の資本金は10億5,000万円、従業員は798名だった
- [41]東京工場に段ボール用中芯原紙マシンを増設し稼働は順調だった
- [42]家電業界のブームなどで段ボール需要は旺盛だった
- 会社年鑑(1971年版)
- [43]1970年3月期の売上高146.9億円、営業利益22.9億円、経常利益14.7億円、当期純利益8.0億円、従業員806名
- 会社年鑑(1976年版)
- [44]1974年3月期の売上高352.3億円、経常利益49.1億円、当期純利益22.7億円
- [45]1975年3月期の売上高312.7億円、経常利益26.7億円、当期純利益13.4億円、従業員743名
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [46]段ボール原紙メーカーは1973年の第1次石油ショック後に大変な苦しみを受け、高成長時から激化した過当競争のとがめもあって同業者の多くが傷つき債務超過の会社もいくつか出た
1959年〜1975年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1959年03月期 | 単体 | 11 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 18 | +63.4% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 25 | +37.2% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 34 | +35.5% | n/a | n/a | 1 | 4.1% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 38 | +12.9% | n/a | n/a | 1 | 4.4% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 49 | +28.6% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 59 | +20.6% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 56 | ▲5.2% | 4 | 1 | 0 | 1.6% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 70 | +24.8% | n/a | n/a | 0 | 0.1% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 92 | +30.9% | n/a | n/a | 1 | 1.1% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 112 | +22.1% | n/a | n/a | 4 | 3.9% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 146 | +30.3% | 22 | 14 | 8 | 5.4% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 176 | +19.9% | n/a | 22 | 11 | 6.6% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 171 | ▲2.8% | n/a | 14 | 8 | 5.1% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 217 | +27.2% | n/a | 20 | 11 | 5.1% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 352 | +61.8% | n/a | 49 | 22 | 6.4% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 312 | ▲11.2% | n/a | 26 | 13 | 4.3% | n/a |
出所:会社年鑑 1963年版 半期合算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算、会社年鑑 1967年版 半期合算、会社年鑑 1971年版 半期合算、会社年鑑 1976年版 半期合算
出典・参考
9件
- 会社年鑑(1963年版)
- 会社年鑑(1967年版)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
- 会社年鑑(1971年版)
- 会社年鑑(1976年版)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- 野田経済 1961年10月9日号
- 野田経済 1963年3月18日号