セッツ:不況下の合理化とセッツへの商号変更
1976年〜不況のどん底で決めた80億円の尼崎工場合理化
主工場の尼崎工場の合理化を摂津板紙が計画したのは、不況のどん底だった1976年で、総額80億円を投じて1979年上半期までにすべて完了した。次の課題は、1973年以降は設備投資も合理化も行っていない埼玉県の東京工場の最新鋭化。摂津板紙は隣接地に工場を建設して生産性の高い機械を入れる計画を立て、総額100億円ほどを見込み、1981年ごろに始めて1982年いっぱいで完成させる予定を置いた。設備投資はリズムをとりタイミングよくやることが大事であり、そうしないと技術者などの気持ちを殺し工場が死んでしまう。操業率が低いときでもやるべき時期にはやる——増田芳久社長が示した方針である。
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [1]摂津板紙は主工場の尼崎工場の合理化を不況のどん底であった1976年に計画した
- [2]尼崎工場の合理化は総額80億円を投じ1979年上半期までにすべて完了した
- [3]埼玉県の東京工場では1973年以降は設備投資も合理化も行っておらず、その最新鋭化が次の課題だった
- [4]東京工場の最新鋭化は隣接地に工場を建てて生産性の高い機械を入れる計画で、総額100億円ぐらい、1981年ごろから始めて1982年いっぱいで完成の予定だった
- [5]増田芳久社長は設備投資はリズムをとりタイミングよくやることが大事で、そうしないと技術者などの気持ちを殺し工場が死んでしまうと述べた
- [6]増田芳久社長は操業率が低いときでもやるべき時期には設備投資をやらなければならないと述べた
従業員数は1974年3月期の850人から1980年3月期の726人へ減り、同じ6年で売上高は352億円から506億円へ72%伸び、資本金は18億7,000万円から35億円へ87%増えた。自己資本も120億円から206億円へ72%増え、自己資本比率は26.2%から34.1%へ高まった。生産量は20%伸び、従業員1人当たりの売上高は4,100万円から7,000万円となった。損益分岐点は現状で50%操業でもまだ十分やっていける水準にあり、板紙は市況の変動が激しいため情勢の先行きを的確にとらえて素早く対応することが大事で、なによりも柔軟性が要る——増田芳久社長が示した認識である。
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [7]従業員数は1974年3月期の850人から1980年3月期には726人へ減少した
- [8]売上高は1974年3月期の352億円から1980年3月期の506億円へ72%伸びた
- [9]資本金は18億7,000万円から35億円へ87%増加した
- [10]自己資本は120億円から206億円へ72%増加した
- [11]自己資本比率は26.2%から34.1%へ高まった
- [12]生産量は20%伸び、従業員1人当たりの売上高は4,100万円が7,000万円となった
- [13]増田芳久社長は損益分岐点について現状なら50%操業でもまだ十分やっていけると答えた
- [14]増田芳久社長は板紙は市況の変動が激しいので情勢の先行きを的確にとらえて素早く対応することが大事で、なによりも柔軟性が必要だと述べた
参考文献[1]-[14]
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [1]摂津板紙は主工場の尼崎工場の合理化を不況のどん底であった1976年に計画した
- [2]尼崎工場の合理化は総額80億円を投じ1979年上半期までにすべて完了した
- [3]埼玉県の東京工場では1973年以降は設備投資も合理化も行っておらず、その最新鋭化が次の課題だった
- [4]東京工場の最新鋭化は隣接地に工場を建てて生産性の高い機械を入れる計画で、総額100億円ぐらい、1981年ごろから始めて1982年いっぱいで完成の予定だった
- [5]増田芳久社長は設備投資はリズムをとりタイミングよくやることが大事で、そうしないと技術者などの気持ちを殺し工場が死んでしまうと述べた
- [6]増田芳久社長は操業率が低いときでもやるべき時期には設備投資をやらなければならないと述べた
- [7]従業員数は1974年3月期の850人から1980年3月期には726人へ減少した
- [8]売上高は1974年3月期の352億円から1980年3月期の506億円へ72%伸びた
- [9]資本金は18億7,000万円から35億円へ87%増加した
- [10]自己資本は120億円から206億円へ72%増加した
- [11]自己資本比率は26.2%から34.1%へ高まった
- [12]生産量は20%伸び、従業員1人当たりの売上高は4,100万円が7,000万円となった
- [13]増田芳久社長は損益分岐点について現状なら50%操業でもまだ十分やっていけると答えた
- [14]増田芳久社長は板紙は市況の変動が激しいので情勢の先行きを的確にとらえて素早く対応することが大事で、なによりも柔軟性が必要だと述べた
1979年〜屑紙45万トンとウッドチップ20万トンの原料構成
摂津板紙は日本の製紙会社のうち、売上高で12番目、生産販売量で7番目に付けた。原料には屑紙を大量に使い、板紙工場が東京と大阪という屑紙の二大発生地に立地していたため、集荷に恵まれていた。1979年度に摂津板紙が使った屑紙は45万トンにのぼって世界一にあたり、これに対しウッドチップの使用量は20万トンで、屑紙の半分以下にとどまった。屑紙はもともと板紙メーカーだけが使う原料だったが、新聞用紙にも約20%混入するなど大手製紙メーカーもかなり使うようになり、増田芳久社長は楽観はできないとした。
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [15]摂津板紙は日本の製紙会社のうち売上高で12番目、生産販売量で7番目だった
- [16]摂津板紙の板紙工場は東京・大阪という屑紙の二大発生地に立地しており屑紙の集荷に恵まれていた
- [17]1979年度に使用した屑紙は45万トンで世界一だった
- [18]ウッドチップの使用量は20万トンで屑紙の半分以下だった
- [19]屑紙はもともと板紙メーカーだけで使っていたが新聞用紙にも約20%混入するなど大手製紙メーカーもかなり使うようになったので楽観はできないと増田芳久社長は述べた
日本の製紙業はまったく国際競争力を持たず、紙については国産品価格との比較で1ドル360円の為替レートでちょうどよいくらいだった——増田芳久社長が示した見方である。一方で、日本は紙の消費地として世界で2番目を占めていた。産業構造審議会のデータでも、1979年の消費量1,800万トンが10年後には2,700万トンになるとされ、その約45%が板紙だった。摂津板紙の製品別売上は1985年3月期で板紙が530.29億円、段ボールが102.09億円で、板紙が83.9%、段ボールが16.1%を占めた。
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [20]増田芳久社長は日本の製紙業がまったく国際競争力がないことを問題として挙げた
- [21]増田芳久社長は紙に関しては国産品価格との比較で1ドル360円の為替レートでちょうどよいくらいだと述べた
- [22]日本は紙の消費地として世界で2番目だった
- [23]産業構造審議会のデータでは1979年の紙消費量1,800万トンが10年後には2,700万トンになるとされ、その約45%が板紙だった
- 会社年鑑(1986年版)
- [24]1985年3月期の製品別売上は板紙530.29億円(83.9%)、段ボール102.09億円(16.1%)だった
参考文献[15]-[24]
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [15]摂津板紙は日本の製紙会社のうち売上高で12番目、生産販売量で7番目だった
- [16]摂津板紙の板紙工場は東京・大阪という屑紙の二大発生地に立地しており屑紙の集荷に恵まれていた
- [17]1979年度に使用した屑紙は45万トンで世界一だった
- [18]ウッドチップの使用量は20万トンで屑紙の半分以下だった
- [19]屑紙はもともと板紙メーカーだけで使っていたが新聞用紙にも約20%混入するなど大手製紙メーカーもかなり使うようになったので楽観はできないと増田芳久社長は述べた
- [20]増田芳久社長は日本の製紙業がまったく国際競争力がないことを問題として挙げた
- [21]増田芳久社長は紙に関しては国産品価格との比較で1ドル360円の為替レートでちょうどよいくらいだと述べた
- [22]日本は紙の消費地として世界で2番目だった
- [23]産業構造審議会のデータでは1979年の紙消費量1,800万トンが10年後には2,700万トンになるとされ、その約45%が板紙だった
- 会社年鑑(1986年版)
- [24]1985年3月期の製品別売上は板紙530.29億円(83.9%)、段ボール102.09億円(16.1%)だった
1980年〜ブルネイの20万エーカーと年商1,000億円の目標
摂津板紙は以前からシンガポールの木材団地の真ん中にチップ工場を新設し、南方材を導入していた。これに加えて着手したのが、ノース・ボルネオのブルネイでの資源開発で、同国との付き合いは15年ほど前から続いた。産油国でありながらいずれ石油がなくなったらどうしようかと考えていた同国に、増田芳久社長は植林して木を育てパルプ・紙にするリサイクル体制をとるようすすめた。基本的な同意を得たのは1974年で、その後の不況で話は中断したが、1980年7月に増田芳久社長が同国を訪ね、1981年あたりからの具体化を見込んだ。
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [25]摂津板紙は以前からシンガポールの木材団地の真ん中にチップ工場を作って南方材を導入していた
- [26]摂津板紙はノース・ボルネオのブルネイで資源開発を進めていた
- [27]ブルネイとは15年ほど前からの付き合いだった
- [28]産油国だがいずれ石油がなくなったらどうしようかと思っているブルネイに植林して木を育てパルプ・紙にするリサイクル体制をとるようすすめた
- [29]ブルネイから基本的な同意を得たのは1974年だった
- [30]その後の不況で話を中断していたが1980年7月に増田芳久社長が同国を訪ね1981年あたりから具体化することになった
計画の第一段階は、ブルネイから譲り受けた20万エーカーのコンセッションの木を伐り、良いところは製材し、廃材をチップにして日本の工場へ持ち帰ることに置いた。摂津板紙は伐採と並行して植林も指導し、試験植林に使ったのはジャイアント・イピルイピルという豆科の植物で、この木は5年間でパルプ用材として適正に育つ。資金計画は最初の段階で20億円ほどで、摂津板紙はそのうち6億円を出した。海外ではこのほか、アメリカの製紙会社から日本市場に紙を売るために提携したいという申し入れを受け、検討していた。
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [31]20万エーカーのコンセッションをブルネイから譲り受け、木を伐って良いところは製材し廃材をチップにして日本に持ち帰ることからスタートする計画だった
- [32]ブルネイでは伐採と同時に植林も指導した
- [33]試験植林をしていたジャイアント・イピルイピルという豆科の植物は5年間でパルプ用材として適正に育つ
- [34]ブルネイ事業の資金計画は最初の段階で20億円ぐらいで、摂津板紙から6億円ほど出していた
- [35]アメリカの製紙会社から日本市場に紙を売るために提携したいという申し入れを受け検討中だった
増田芳久社長は当面の目標として年間売上高1,000億円、経常利益100億円を掲げ、1981年3月期については通期の売上高670〜680億円、順調なら700億円超、経常利益40億円以上を見込んだ。実際の売上高は1980年3月期の505.7億円から1981年3月期601.3億円、1985年3月期632.4億円へ伸びた。経常利益は同じ3期で22.4億円、81.0億円、75.6億円と動き、1985年3月期の従業員は743名を数えた。同期の大株主は大和証券14,282千株、大同生命8,074千株、住友銀行7,057千株、住友信託6,885千株で、1975年3月期に5,968千株で筆頭だった増田義雄氏の名は上位から消えた。
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [36]増田芳久社長は当面は年間売上高1,000億円、経常利益100億円を目標とすると述べた
- [37]1981年3月期の見通しは通期売上高670〜680億円、順調なら700億円を超え、経常利益も40億円以上になることを期待していた
- 会社年鑑(1986年版)
- [38]売上高は1980年3月期505.7億円、1981年3月期601.3億円、1985年3月期632.4億円だった
- [39]経常利益は1980年3月期22.4億円、1981年3月期81.0億円、1985年3月期75.6億円だった
- [40]1985年3月期の従業員数は743名だった
- [41]1985年3月期の大株主は大和証券14,282千株、大同生命8,074千株、住友銀行7,057千株、住友信託6,885千株だった
- 会社年鑑(1976年版)
- [42]1975年3月期の筆頭株主は増田義雄で5,968千株だった
参考文献[25]-[42]
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
- [25]摂津板紙は以前からシンガポールの木材団地の真ん中にチップ工場を作って南方材を導入していた
- [26]摂津板紙はノース・ボルネオのブルネイで資源開発を進めていた
- [27]ブルネイとは15年ほど前からの付き合いだった
- [28]産油国だがいずれ石油がなくなったらどうしようかと思っているブルネイに植林して木を育てパルプ・紙にするリサイクル体制をとるようすすめた
- [29]ブルネイから基本的な同意を得たのは1974年だった
- [30]その後の不況で話を中断していたが1980年7月に増田芳久社長が同国を訪ね1981年あたりから具体化することになった
- [31]20万エーカーのコンセッションをブルネイから譲り受け、木を伐って良いところは製材し廃材をチップにして日本に持ち帰ることからスタートする計画だった
- [32]ブルネイでは伐採と同時に植林も指導した
- [33]試験植林をしていたジャイアント・イピルイピルという豆科の植物は5年間でパルプ用材として適正に育つ
- [34]ブルネイ事業の資金計画は最初の段階で20億円ぐらいで、摂津板紙から6億円ほど出していた
- [35]アメリカの製紙会社から日本市場に紙を売るために提携したいという申し入れを受け検討中だった
- [36]増田芳久社長は当面は年間売上高1,000億円、経常利益100億円を目標とすると述べた
- [37]1981年3月期の見通しは通期売上高670〜680億円、順調なら700億円を超え、経常利益も40億円以上になることを期待していた
- 会社年鑑(1986年版)
- [38]売上高は1980年3月期505.7億円、1981年3月期601.3億円、1985年3月期632.4億円だった
- [39]経常利益は1980年3月期22.4億円、1981年3月期81.0億円、1985年3月期75.6億円だった
- [40]1985年3月期の従業員数は743名だった
- [41]1985年3月期の大株主は大和証券14,282千株、大同生命8,074千株、住友銀行7,057千株、住友信託6,885千株だった
- 会社年鑑(1976年版)
- [42]1975年3月期の筆頭株主は増田義雄で5,968千株だった
1976年〜1987年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1976年03月期 | 単体 | 272 | n/a | 10 | 7 | 2.9% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 327 | +20.3% | 10 | 5 | 1.6% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 343 | +4.7% | 14 | 7 | 2.0% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 308 | ▲10.1% | 7 | 3 | 1.1% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 505 | +63.8% | 22 | 10 | 2.1% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 601 | +18.9% | 81 | 37 | 6.3% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 571 | ▲5.0% | 75 | 42 | 7.5% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 503 | ▲11.9% | 20 | 15 | 3.0% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 557 | +10.6% | 52 | 22 | 3.9% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 632 | +13.5% | 75 | 33 | 5.3% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑 1986年版
出典・参考
3件
- 会社年鑑(1976年版)
- 会社年鑑(1986年版)
- 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)