コーエーテクモホールディングス:日本ヨットの設立と襟川陽一の光栄創業
1967年〜日本ヨットが設置したボウリング場の娯楽機と、ダイエーの売場へ移設した余剰機
テクモの前身は、1967年7月に発足した日本ヨット株式会社である。日本ヨットは1986年1月に社名をテクモへ改めた。国内の娯楽機器は、戦後に駐留軍の酒保からスロットマシンとジュークボックスが市中へ出回ったことに端を発した。両機種はブームとなったボウリング場の隅に、客の待ち時間を埋める目的で置かれ、全国へ広がった。日本ヨットの商売は、ボウリング場に置く娯楽機器を扱うことから始まった。国内でテレビゲームが知られるのは1974年発売のピンポンやテニスのゲームからで、創業期の商材はそれより前の世代の機器にあたる。ボウリングの流行に置き場を依存した出発点は、客の集まる場所が移れば機器も移すという後の判断の前提になったとみられる。
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年1月「テクモ」(柿原孝)
- [1]日本ヨットは1967年7月設立、1986年1月テクモに改称。娯楽機器は駐留軍酒保のジュークボックス・スロットマシンが起点で、ボウリング場に待ち時間用として置かれ普及
- [2]日本ヨットは1967年7月設立、1986年1月テクモに改称。娯楽機器は駐留軍酒保のジュークボックス・スロットマシンが起点で、ボウリング場に待ち時間用として置かれ普及
- [3]日本ヨットは1967年7月設立、1986年1月テクモに改称。娯楽機器は駐留軍酒保のジュークボックス・スロットマシンが起点で、ボウリング場に待ち時間用として置かれ普及
- [4]日本ヨットは1967年7月設立、1986年1月テクモに改称。娯楽機器は駐留軍酒保のジュークボックス・スロットマシンが起点で、ボウリング場に待ち時間用として置かれ普及
- [5]日本ヨットは1967年7月設立、1986年1月テクモに改称。娯楽機器は駐留軍酒保のジュークボックス・スロットマシンが起点で、ボウリング場に待ち時間用として置かれ普及
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年6月「テクモ」(長田延孝)
- [6]国内のテレビゲームは1974年発売のピンポン・テニスのゲームで認知された
1974年8月ごろから、店の乱立で競争が激しくなったボウリング場は人気を急速に失った。置き場を失った娯楽機器は余剰が深刻になった。同じ時期、ダイエーをはじめとするスーパーは大店法が施行されて売場の拡張を止められ、余った床を抱えていた。日本ヨットの打開策は、余った機器のスーパーの空いた売場への移し替え。米国ではNASAの技術者が卓球やテニスを模したテレビ向けのゲーム機を作ったものの、遊び方が単純で人気は出なかった。国内では1977年にブロック崩しが登場し、テレビゲームの題材は広がった。ボウリング場からスーパーへの移設は、機器を減らすより人の集まる場所を探し直すという判断だったと推察される。
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年1月「テクモ」(柿原孝)
- [7]1974年8月頃からボウリング場の人気が急落し娯楽機器が余剰に。大店法で売場を凍結されたダイエーなどのスーパーの空き場所へ移設。NASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機は単純で不人気
- [8]1974年8月頃からボウリング場の人気が急落し娯楽機器が余剰に。大店法で売場を凍結されたダイエーなどのスーパーの空き場所へ移設。NASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機は単純で不人気
- [9]1974年8月頃からボウリング場の人気が急落し娯楽機器が余剰に。大店法で売場を凍結されたダイエーなどのスーパーの空き場所へ移設。NASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機は単純で不人気
- [10]1974年8月頃からボウリング場の人気が急落し娯楽機器が余剰に。大店法で売場を凍結されたダイエーなどのスーパーの空き場所へ移設。NASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機は単純で不人気
- [11]1974年8月頃からボウリング場の人気が急落し娯楽機器が余剰に。大店法で売場を凍結されたダイエーなどのスーパーの空き場所へ移設。NASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機は単純で不人気
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年6月「テクモ」(長田延孝)
- [12]国内では1977年にブロック崩しが登場した
参考文献[1]-[12]
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年1月「テクモ」(柿原孝)
- [1]日本ヨットは1967年7月設立、1986年1月テクモに改称。娯楽機器は駐留軍酒保のジュークボックス・スロットマシンが起点で、ボウリング場に待ち時間用として置かれ普及
- [2]日本ヨットは1967年7月設立、1986年1月テクモに改称。娯楽機器は駐留軍酒保のジュークボックス・スロットマシンが起点で、ボウリング場に待ち時間用として置かれ普及
- [3]日本ヨットは1967年7月設立、1986年1月テクモに改称。娯楽機器は駐留軍酒保のジュークボックス・スロットマシンが起点で、ボウリング場に待ち時間用として置かれ普及
- [4]日本ヨットは1967年7月設立、1986年1月テクモに改称。娯楽機器は駐留軍酒保のジュークボックス・スロットマシンが起点で、ボウリング場に待ち時間用として置かれ普及
- [5]日本ヨットは1967年7月設立、1986年1月テクモに改称。娯楽機器は駐留軍酒保のジュークボックス・スロットマシンが起点で、ボウリング場に待ち時間用として置かれ普及
- [7]1974年8月頃からボウリング場の人気が急落し娯楽機器が余剰に。大店法で売場を凍結されたダイエーなどのスーパーの空き場所へ移設。NASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機は単純で不人気
- [8]1974年8月頃からボウリング場の人気が急落し娯楽機器が余剰に。大店法で売場を凍結されたダイエーなどのスーパーの空き場所へ移設。NASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機は単純で不人気
- [9]1974年8月頃からボウリング場の人気が急落し娯楽機器が余剰に。大店法で売場を凍結されたダイエーなどのスーパーの空き場所へ移設。NASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機は単純で不人気
- [10]1974年8月頃からボウリング場の人気が急落し娯楽機器が余剰に。大店法で売場を凍結されたダイエーなどのスーパーの空き場所へ移設。NASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機は単純で不人気
- [11]1974年8月頃からボウリング場の人気が急落し娯楽機器が余剰に。大店法で売場を凍結されたダイエーなどのスーパーの空き場所へ移設。NASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機は単純で不人気
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年6月「テクモ」(長田延孝)
- [6]国内のテレビゲームは1974年発売のピンポン・テニスのゲームで認知された
- [12]国内では1977年にブロック崩しが登場した
1978年〜足利で染料卸として興した光栄と、ヨーロッパへ流した中古インベーダー
襟川陽一氏は1978年、栃木県足利市で染料の卸販売を営む光栄を興し、代表取締役として経営を始めた。襟川陽一氏の前歴は、慶應義塾大学を卒業後、家業と取引のある化学品の専門商社での約4年半の営業担当。父に呼び戻されて家業に入ってから3カ月ほどで、父の会社は倒産した。国内の繊維産業が東南アジアからの輸入品に劣位に置かれ、収益率が低下していたことが倒産の背景である。約半年の残務整理で失敗の原因を見定めた襟川陽一氏は、前勤務先からの再入社の誘いを断り、28歳で自ら会社を経営すると決めた。光栄の設立の翌年、1979年には国内のテレビゲームがインベーダーでブームとなった。業態を父の代と同じ染料卸に据えたことから、襟川陽一氏の当初の目的は家業の再建にあったと考えられる。
- ドリームゲート 起業家インタビュー 2011年「コーエーテクモホールディングス株式会社 襟川陽一」
- [13]襟川陽一氏は化学品専門商社に約4年半勤務後、家業に入り3カ月で父の染料会社が倒産。残務整理を経て1978年、28歳で足利に染料卸の光栄を設立し代表取締役に
- [14]襟川陽一氏は化学品専門商社に約4年半勤務後、家業に入り3カ月で父の染料会社が倒産。残務整理を経て1978年、28歳で足利に染料卸の光栄を設立し代表取締役に
- [15]襟川陽一氏は化学品専門商社に約4年半勤務後、家業に入り3カ月で父の染料会社が倒産。残務整理を経て1978年、28歳で足利に染料卸の光栄を設立し代表取締役に
- [16]襟川陽一氏は化学品専門商社に約4年半勤務後、家業に入り3カ月で父の染料会社が倒産。残務整理を経て1978年、28歳で足利に染料卸の光栄を設立し代表取締役に
- [17]襟川陽一氏は化学品専門商社に約4年半勤務後、家業に入り3カ月で父の染料会社が倒産。残務整理を経て1978年、28歳で足利に染料卸の光栄を設立し代表取締役に
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年6月「テクモ」(長田延孝)
- [18]国内のテレビゲームは1979年のインベーダーでブーム化した
タイトーはテレビゲーム機のインベーダーを開発し、大ヒットさせた。日本ヨットはタイトーから供給を受けた機械を自社店に置き、ライセンス生産する会社と提携して販売にも加わった。インベーダーもボウリングと同じく台数が過剰となり、全国で中古機が行き場を失った。インベーダーのブーム期には同業どうしが互いの損になる競合を続けていたというのが、1993年のテクモ専務の長田延孝氏の回想である。中古機をヨーロッパへ移して成功した先行者が現れ、ヨーロッパでインベーダーはブームとなった。日本ヨットはこの先行者に続いて輸出を始め、外国部を創設した。国内で余った機器を需要のある地域へ移す発想は、ボウリング場からスーパーへの移設と同じ型だったといえる。
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年1月「テクモ」(柿原孝)
- [19]タイトーがインベーダーを開発しヒット。日本ヨットは供給を受け自社店に設置、ライセンス生産会社と提携販売。過剰で中古機があふれ、欧州への移設の成功を追って輸出し外国部を創設
- [20]タイトーがインベーダーを開発しヒット。日本ヨットは供給を受け自社店に設置、ライセンス生産会社と提携販売。過剰で中古機があふれ、欧州への移設の成功を追って輸出し外国部を創設
- [21]タイトーがインベーダーを開発しヒット。日本ヨットは供給を受け自社店に設置、ライセンス生産会社と提携販売。過剰で中古機があふれ、欧州への移設の成功を追って輸出し外国部を創設
- [23]タイトーがインベーダーを開発しヒット。日本ヨットは供給を受け自社店に設置、ライセンス生産会社と提携販売。過剰で中古機があふれ、欧州への移設の成功を追って輸出し外国部を創設
- [24]タイトーがインベーダーを開発しヒット。日本ヨットは供給を受け自社店に設置、ライセンス生産会社と提携販売。過剰で中古機があふれ、欧州への移設の成功を追って輸出し外国部を創設
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年6月「テクモ」(長田延孝)
- [22]長田延孝専務は、インベーダーのブーム期に業界が互いにマイナスになる無用な競合をしていたと述べた
光栄の染料卸は設立から2年間赤字が続き、襟川陽一氏は自分の給料も出せなかった。妻の貯蓄を取り崩して会社を支えながら、襟川陽一氏はビジネス書や経営セミナーに利益を出す手がかりを求めた。行きつけの書店で雑誌「月刊マイコン」を手に取り、プログラムを組めば財務と販売の管理を効率化できると考えた。襟川陽一氏は1980年、30歳を迎えた誕生日に妻から27万8000円のシャープ「MZ-80C」を贈られた。当時の会社員の月給は6万〜7万円ほどである。娯楽の分野では、NASAの技術者が作ったテレビゲーム機に着想を得て、タイトーがインベーダーを開発していた。襟川陽一氏がマイコンに求めた用途は、この時点では娯楽ではなく業務の効率化だったと思われる。
- ドリームゲート 起業家インタビュー 2011年「コーエーテクモホールディングス株式会社 襟川陽一」
- [25]光栄は設立後2年間赤字で社長の給料も出せず、妻の貯蓄で支えた。月刊マイコンを読み財務・販売管理の効率化を考え、1980年の30歳の誕生日に妻からMZ-80C(27万8000円)を贈られた
- [26]光栄は設立後2年間赤字で社長の給料も出せず、妻の貯蓄で支えた。月刊マイコンを読み財務・販売管理の効率化を考え、1980年の30歳の誕生日に妻からMZ-80C(27万8000円)を贈られた
- [27]光栄は設立後2年間赤字で社長の給料も出せず、妻の貯蓄で支えた。月刊マイコンを読み財務・販売管理の効率化を考え、1980年の30歳の誕生日に妻からMZ-80C(27万8000円)を贈られた
- [28]光栄は設立後2年間赤字で社長の給料も出せず、妻の貯蓄で支えた。月刊マイコンを読み財務・販売管理の効率化を考え、1980年の30歳の誕生日に妻からMZ-80C(27万8000円)を贈られた
- [29]光栄は設立後2年間赤字で社長の給料も出せず、妻の貯蓄で支えた。月刊マイコンを読み財務・販売管理の効率化を考え、1980年の30歳の誕生日に妻からMZ-80C(27万8000円)を贈られた
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年1月「テクモ」(柿原孝)
- [30]タイトーはNASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機にヒントを得てインベーダーを開発した
参考文献[13]-[30]
- ドリームゲート 起業家インタビュー 2011年「コーエーテクモホールディングス株式会社 襟川陽一」
- [13]襟川陽一氏は化学品専門商社に約4年半勤務後、家業に入り3カ月で父の染料会社が倒産。残務整理を経て1978年、28歳で足利に染料卸の光栄を設立し代表取締役に
- [14]襟川陽一氏は化学品専門商社に約4年半勤務後、家業に入り3カ月で父の染料会社が倒産。残務整理を経て1978年、28歳で足利に染料卸の光栄を設立し代表取締役に
- [15]襟川陽一氏は化学品専門商社に約4年半勤務後、家業に入り3カ月で父の染料会社が倒産。残務整理を経て1978年、28歳で足利に染料卸の光栄を設立し代表取締役に
- [16]襟川陽一氏は化学品専門商社に約4年半勤務後、家業に入り3カ月で父の染料会社が倒産。残務整理を経て1978年、28歳で足利に染料卸の光栄を設立し代表取締役に
- [17]襟川陽一氏は化学品専門商社に約4年半勤務後、家業に入り3カ月で父の染料会社が倒産。残務整理を経て1978年、28歳で足利に染料卸の光栄を設立し代表取締役に
- [25]光栄は設立後2年間赤字で社長の給料も出せず、妻の貯蓄で支えた。月刊マイコンを読み財務・販売管理の効率化を考え、1980年の30歳の誕生日に妻からMZ-80C(27万8000円)を贈られた
- [26]光栄は設立後2年間赤字で社長の給料も出せず、妻の貯蓄で支えた。月刊マイコンを読み財務・販売管理の効率化を考え、1980年の30歳の誕生日に妻からMZ-80C(27万8000円)を贈られた
- [27]光栄は設立後2年間赤字で社長の給料も出せず、妻の貯蓄で支えた。月刊マイコンを読み財務・販売管理の効率化を考え、1980年の30歳の誕生日に妻からMZ-80C(27万8000円)を贈られた
- [28]光栄は設立後2年間赤字で社長の給料も出せず、妻の貯蓄で支えた。月刊マイコンを読み財務・販売管理の効率化を考え、1980年の30歳の誕生日に妻からMZ-80C(27万8000円)を贈られた
- [29]光栄は設立後2年間赤字で社長の給料も出せず、妻の貯蓄で支えた。月刊マイコンを読み財務・販売管理の効率化を考え、1980年の30歳の誕生日に妻からMZ-80C(27万8000円)を贈られた
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年6月「テクモ」(長田延孝)
- [18]国内のテレビゲームは1979年のインベーダーでブーム化した
- [22]長田延孝専務は、インベーダーのブーム期に業界が互いにマイナスになる無用な競合をしていたと述べた
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年1月「テクモ」(柿原孝)
- [19]タイトーがインベーダーを開発しヒット。日本ヨットは供給を受け自社店に設置、ライセンス生産会社と提携販売。過剰で中古機があふれ、欧州への移設の成功を追って輸出し外国部を創設
- [20]タイトーがインベーダーを開発しヒット。日本ヨットは供給を受け自社店に設置、ライセンス生産会社と提携販売。過剰で中古機があふれ、欧州への移設の成功を追って輸出し外国部を創設
- [21]タイトーがインベーダーを開発しヒット。日本ヨットは供給を受け自社店に設置、ライセンス生産会社と提携販売。過剰で中古機があふれ、欧州への移設の成功を追って輸出し外国部を創設
- [23]タイトーがインベーダーを開発しヒット。日本ヨットは供給を受け自社店に設置、ライセンス生産会社と提携販売。過剰で中古機があふれ、欧州への移設の成功を追って輸出し外国部を創設
- [24]タイトーがインベーダーを開発しヒット。日本ヨットは供給を受け自社店に設置、ライセンス生産会社と提携販売。過剰で中古機があふれ、欧州への移設の成功を追って輸出し外国部を創設
- [30]タイトーはNASA技術者の卓球・テニスのテレビゲーム機にヒントを得てインベーダーを開発した
1981年〜日本ヨットの自社開発と、光栄の川中島の合戦
日本ヨットは、ヨーロッパへの中古インベーダーの輸出で相当の収益を上げた。それでも日本ヨットは、インベーダー以外に自前の商品が要ると判断した。専務の長田延孝氏は1993年、インベーダーの時代には同業どうしが互いの損になる競合を重ねていたと語った。日本ヨットは社内に開発部を新設し、コンピューターの技術者を招いて、業務用テレビゲーム機を自ら開発し始めた。自社開発の中ではサッカーのゲーム機が国内に加えて欧州や中南米、韓国でも人気を得て、以後の主力はスポーツを題材とした商品になった。開発の体制は、1993年時点で業務用と家庭用に各5チームを抱える規模まで拡大。他社の機械を仕入れて置くだけの商売では、同業との競合から抜け出せないと判断したのだろう。
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年1月「テクモ」(柿原孝)
- [31]インベーダー輸出でかなりの収益を上げたが、オリジナル商品が必要と考え開発部を創設し技術者を招いて業務用テレビゲーム機を開発。サッカーゲーム機が国内・欧州・中南米・韓国で人気となりスポーツ路線が主力に
- [32]インベーダー輸出でかなりの収益を上げたが、オリジナル商品が必要と考え開発部を創設し技術者を招いて業務用テレビゲーム機を開発。サッカーゲーム機が国内・欧州・中南米・韓国で人気となりスポーツ路線が主力に
- [34]インベーダー輸出でかなりの収益を上げたが、オリジナル商品が必要と考え開発部を創設し技術者を招いて業務用テレビゲーム機を開発。サッカーゲーム機が国内・欧州・中南米・韓国で人気となりスポーツ路線が主力に
- [35]インベーダー輸出でかなりの収益を上げたが、オリジナル商品が必要と考え開発部を創設し技術者を招いて業務用テレビゲーム機を開発。サッカーゲーム機が国内・欧州・中南米・韓国で人気となりスポーツ路線が主力に
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年6月「テクモ」(長田延孝)
- [33]長田延孝専務はインベーダー期の無用な競合に言及。1993年時点の開発体制は業務用・家庭用各5チーム
- [36]長田延孝専務はインベーダー期の無用な競合に言及。1993年時点の開発体制は業務用・家庭用各5チーム
1981年、襟川陽一氏は戦国の武将を題材に趣味で組んだ歴史シミュレーション「川中島の合戦」を発売した。上杉謙信と武田信玄を戦わせる内容で、昼は業務用システム、夜はゲームの制作に充てる日々から生まれた作品である。襟川陽一氏は「月刊マイコン」に半ページの広告を出し、定価3800円で通信販売を試みた。10本売れれば上出来という見込みに対し、数日後には数百通の現金書留が段ボール箱で届いた。テクモ専務の長田延孝氏は1993年、激しい動作のゲームが2〜3年流行した後には、落ち着いて遊べるゲームが必ず流行するという見方を示した。インベーダーの流行の後に出た「川中島の合戦」の反響は、この見方に沿う現象だったと解釈できる。
- ドリームゲート 起業家インタビュー 2011年「コーエーテクモホールディングス株式会社 襟川陽一」
- [37]1981年、趣味で作った上杉謙信と武田信玄の歴史シミュレーション「川中島の合戦」を月刊マイコンの半ページ広告で3800円で販売し、数百通の現金書留が届いた
- [38]1981年、趣味で作った上杉謙信と武田信玄の歴史シミュレーション「川中島の合戦」を月刊マイコンの半ページ広告で3800円で販売し、数百通の現金書留が届いた
- [39]1981年、趣味で作った上杉謙信と武田信玄の歴史シミュレーション「川中島の合戦」を月刊マイコンの半ページ広告で3800円で販売し、数百通の現金書留が届いた
- [40]1981年、趣味で作った上杉謙信と武田信玄の歴史シミュレーション「川中島の合戦」を月刊マイコンの半ページ広告で3800円で販売し、数百通の現金書留が届いた
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年6月「テクモ」(長田延孝)
- [41]長田延孝専務は、激しい動作のゲームが2〜3年流行した後はゆったり遊べるゲームが流行すると述べた
「川中島の合戦」の反響を受け、光栄は染料販売から撤退し、ゲームソフト制作へ全面的に移行した。襟川陽一氏は自ら組んだ業務用のソフトを知人の会社へ提供して評判を得ており、ソフト制作会社への転換を以前から検討していた。開業当初は自宅の応接間を事務所とし、プログラムの制作から梱包と発送、利用者の問い合わせ対応までを1人で担った。襟川陽一氏は、マイコンが小型化したパソコンが会社と家庭へ普及すると見込んでいた。1983年には任天堂がファミコンを発売してブームとなり、日本ヨットも新商品の開発の主力を家庭用へ移した。同じ1983年に光栄が徹夜続きで仕上げて発売したのが「信長の野望」である。業務ソフトへの転換を探っていた襟川陽一氏にとって、娯楽ソフトの反響はパソコン普及の読みを裏づける材料になったと推測される。
- ドリームゲート 起業家インタビュー 2011年「コーエーテクモホールディングス株式会社 襟川陽一」
- [42]川中島の合戦のヒット後、光栄は染料販売事業から撤退しゲームソフト制作事業に完全移行。自作業務ソフトの評判で転換を検討中だった。自宅応接間で一人で制作から発送まで担当。パソコン普及を予想。1983年に信長の野望を発売
- [43]川中島の合戦のヒット後、光栄は染料販売事業から撤退しゲームソフト制作事業に完全移行。自作業務ソフトの評判で転換を検討中だった。自宅応接間で一人で制作から発送まで担当。パソコン普及を予想。1983年に信長の野望を発売
- [44]川中島の合戦のヒット後、光栄は染料販売事業から撤退しゲームソフト制作事業に完全移行。自作業務ソフトの評判で転換を検討中だった。自宅応接間で一人で制作から発送まで担当。パソコン普及を予想。1983年に信長の野望を発売
- [45]川中島の合戦のヒット後、光栄は染料販売事業から撤退しゲームソフト制作事業に完全移行。自作業務ソフトの評判で転換を検討中だった。自宅応接間で一人で制作から発送まで担当。パソコン普及を予想。1983年に信長の野望を発売
- [47]川中島の合戦のヒット後、光栄は染料販売事業から撤退しゲームソフト制作事業に完全移行。自作業務ソフトの評判で転換を検討中だった。自宅応接間で一人で制作から発送まで担当。パソコン普及を予想。1983年に信長の野望を発売
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年1月「テクモ」(柿原孝)
- [46]1983年に任天堂がファミコンを発売しブームとなり、テクモも新商品開発を業務用から家庭用へシフトした
参考文献[31]-[47]
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年1月「テクモ」(柿原孝)
- [31]インベーダー輸出でかなりの収益を上げたが、オリジナル商品が必要と考え開発部を創設し技術者を招いて業務用テレビゲーム機を開発。サッカーゲーム機が国内・欧州・中南米・韓国で人気となりスポーツ路線が主力に
- [32]インベーダー輸出でかなりの収益を上げたが、オリジナル商品が必要と考え開発部を創設し技術者を招いて業務用テレビゲーム機を開発。サッカーゲーム機が国内・欧州・中南米・韓国で人気となりスポーツ路線が主力に
- [34]インベーダー輸出でかなりの収益を上げたが、オリジナル商品が必要と考え開発部を創設し技術者を招いて業務用テレビゲーム機を開発。サッカーゲーム機が国内・欧州・中南米・韓国で人気となりスポーツ路線が主力に
- [35]インベーダー輸出でかなりの収益を上げたが、オリジナル商品が必要と考え開発部を創設し技術者を招いて業務用テレビゲーム機を開発。サッカーゲーム機が国内・欧州・中南米・韓国で人気となりスポーツ路線が主力に
- [46]1983年に任天堂がファミコンを発売しブームとなり、テクモも新商品開発を業務用から家庭用へシフトした
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年6月「テクモ」(長田延孝)
- [33]長田延孝専務はインベーダー期の無用な競合に言及。1993年時点の開発体制は業務用・家庭用各5チーム
- [36]長田延孝専務はインベーダー期の無用な競合に言及。1993年時点の開発体制は業務用・家庭用各5チーム
- [41]長田延孝専務は、激しい動作のゲームが2〜3年流行した後はゆったり遊べるゲームが流行すると述べた
- ドリームゲート 起業家インタビュー 2011年「コーエーテクモホールディングス株式会社 襟川陽一」
- [37]1981年、趣味で作った上杉謙信と武田信玄の歴史シミュレーション「川中島の合戦」を月刊マイコンの半ページ広告で3800円で販売し、数百通の現金書留が届いた
- [38]1981年、趣味で作った上杉謙信と武田信玄の歴史シミュレーション「川中島の合戦」を月刊マイコンの半ページ広告で3800円で販売し、数百通の現金書留が届いた
- [39]1981年、趣味で作った上杉謙信と武田信玄の歴史シミュレーション「川中島の合戦」を月刊マイコンの半ページ広告で3800円で販売し、数百通の現金書留が届いた
- [40]1981年、趣味で作った上杉謙信と武田信玄の歴史シミュレーション「川中島の合戦」を月刊マイコンの半ページ広告で3800円で販売し、数百通の現金書留が届いた
- [42]川中島の合戦のヒット後、光栄は染料販売事業から撤退しゲームソフト制作事業に完全移行。自作業務ソフトの評判で転換を検討中だった。自宅応接間で一人で制作から発送まで担当。パソコン普及を予想。1983年に信長の野望を発売
- [43]川中島の合戦のヒット後、光栄は染料販売事業から撤退しゲームソフト制作事業に完全移行。自作業務ソフトの評判で転換を検討中だった。自宅応接間で一人で制作から発送まで担当。パソコン普及を予想。1983年に信長の野望を発売
- [44]川中島の合戦のヒット後、光栄は染料販売事業から撤退しゲームソフト制作事業に完全移行。自作業務ソフトの評判で転換を検討中だった。自宅応接間で一人で制作から発送まで担当。パソコン普及を予想。1983年に信長の野望を発売
- [45]川中島の合戦のヒット後、光栄は染料販売事業から撤退しゲームソフト制作事業に完全移行。自作業務ソフトの評判で転換を検討中だった。自宅応接間で一人で制作から発送まで担当。パソコン普及を予想。1983年に信長の野望を発売
- [47]川中島の合戦のヒット後、光栄は染料販売事業から撤退しゲームソフト制作事業に完全移行。自作業務ソフトの評判で転換を検討中だった。自宅応接間で一人で制作から発送まで担当。パソコン普及を予想。1983年に信長の野望を発売
出典・参考
3件
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年1月「テクモ」(柿原孝)
- 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1993年6月「テクモ」(長田延孝)
- ドリームゲート 起業家インタビュー 2011年「コーエーテクモホールディングス株式会社 襟川陽一」