日本ハム:大社義規の徳島食肉加工場創業と徳島ハムの法人化
1942年〜香川の養豚組合から独立した30坪・7人の徳島食肉加工場と、空襲で消えた徳島駅前の工場
創業者の大社義規氏は1942年3月、徳島駅に近い徳島市寺島本町に徳島食肉加工場を創業した。大社義規氏はそれまで、叔父の藤沢克太郎氏が理事長を務める香川県の養豚組合で営業を手伝い、組合が始めたハム・ソーセージの加工販売に携わっていた。大地主だった生家が没落して家計が逼迫し、学業を中断して入った仕事にあたる。1941年に食肉が配給制へ移り、藤沢克太郎氏が組合長を辞したため、大社義規氏は独立を決めた。統制が県単位で敷かれるなか、香川県には叔父の組合があり、隣の徳島県にはハム工場が1つもない状態。徳島県では豚の配給が見込め、代用肉に使えるうさぎも多かった。加工場は延べ30坪、総勢7人で始まった。統制下で競合のいない県を選んだことが、資金の乏しい独立を成り立たせたと考えられる。
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [1]1941年の統制強化で食肉が配給制となり叔父が組合長を辞任、大社は独立を決意。1942年3月徳島市寺島本町に延べ30坪・総勢7人で徳島食肉加工場を設けた
- [4]1941年の統制強化で食肉が配給制となり叔父が組合長を辞任、大社は独立を決意。1942年3月徳島市寺島本町に延べ30坪・総勢7人で徳島食肉加工場を設けた
- [7]1941年の統制強化で食肉が配給制となり叔父が組合長を辞任、大社は独立を決意。1942年3月徳島市寺島本町に延べ30坪・総勢7人で徳島食肉加工場を設けた
- 『日本会社史総覧』1995年 日本ハム
- [2]大社義規は叔父・藤沢克太郎が理事長の香川県養豚購買販売利用組合で営業を手伝い、組合はハム・ソーセージ加工販売も手がけた。1県1業1社の統制下で徳島県にハム工場はなかった
- [5]大社義規は叔父・藤沢克太郎が理事長の香川県養豚購買販売利用組合で営業を手伝い、組合はハム・ソーセージ加工販売も手がけた。1県1業1社の統制下で徳島県にハム工場はなかった
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』1993年「三度の出征 戦争さなかに旗揚げ」(大社義規)
- [3]生家(大地主)の没落で学業半ばに養豚組合へ入った。徳島は豚の配給が期待でき、代用肉のうさぎも豊富だった
- [6]生家(大地主)の没落で学業半ばに養豚組合へ入った。徳島は豚の配給が期待でき、代用肉のうさぎも豊富だった
開業した加工場は、戦争の長期化で物資が乏しくなり、原料に恵まれた徳島でも豚がほとんど手に入らなくなった。大社義規氏は農家を回って原料の調達に努めたものの、1943年に2度目、1945年6月に3度目の召集を受け、その間は工場を休業した。3度目の召集では分隊長として鹿児島県鹿屋の海軍基地に送られ、海岸防衛の壕掘りに従事したまま敗戦を迎えた。1945年7月には、徳島の工場が戦災で焼失。大社義規氏は同年11月に京都へ戻り、その後に訪ねた徳島駅近くの工場は跡形も残っていなかった。大社義規氏は30歳でハム以外の道も考えたものの、社会が落ち着けばハムの需要が伸びると見て再建を選んだ。召集と原料難が重なり、創業期の工場は安定した生産に至らないまま失われたと推察される。
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』1993年「三度の出征 戦争さなかに旗揚げ」(大社義規)
- [8]戦争の長期化で徳島でも豚がほぼいなくなり、1943年秋に2度目・1945年6月に3度目の召集を受け工場は休業、空襲で工場を失った
- [9]戦争の長期化で徳島でも豚がほぼいなくなり、1943年秋に2度目・1945年6月に3度目の召集を受け工場は休業、空襲で工場を失った
- ポケット社史『幸せな食創りで世界一をめざす(日本ハム)』1993年
- [10]1945年6月の3度目の召集で分隊長となり鹿屋の海軍基地で海岸防衛の壕掘りに従事したまま8月15日を迎えた
- 証券 14(3)(154) 1962年
- [11]沿革:昭和20年7月 戦災により焼失
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [12]1945年11月に京都へ帰還後、徳島駅近くの工場は跡形もなかった。30歳で他の道も考えたが、社会が落ち着けばハム需要が伸びると判断し再建を決めた
- [13]1945年11月に京都へ帰還後、徳島駅近くの工場は跡形もなかった。30歳で他の道も考えたが、社会が落ち着けばハム需要が伸びると判断し再建を決めた
参考文献[1]-[13]
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [1]1941年の統制強化で食肉が配給制となり叔父が組合長を辞任、大社は独立を決意。1942年3月徳島市寺島本町に延べ30坪・総勢7人で徳島食肉加工場を設けた
- [4]1941年の統制強化で食肉が配給制となり叔父が組合長を辞任、大社は独立を決意。1942年3月徳島市寺島本町に延べ30坪・総勢7人で徳島食肉加工場を設けた
- [7]1941年の統制強化で食肉が配給制となり叔父が組合長を辞任、大社は独立を決意。1942年3月徳島市寺島本町に延べ30坪・総勢7人で徳島食肉加工場を設けた
- [12]1945年11月に京都へ帰還後、徳島駅近くの工場は跡形もなかった。30歳で他の道も考えたが、社会が落ち着けばハム需要が伸びると判断し再建を決めた
- [13]1945年11月に京都へ帰還後、徳島駅近くの工場は跡形もなかった。30歳で他の道も考えたが、社会が落ち着けばハム需要が伸びると判断し再建を決めた
- 『日本会社史総覧』1995年 日本ハム
- [2]大社義規は叔父・藤沢克太郎が理事長の香川県養豚購買販売利用組合で営業を手伝い、組合はハム・ソーセージ加工販売も手がけた。1県1業1社の統制下で徳島県にハム工場はなかった
- [5]大社義規は叔父・藤沢克太郎が理事長の香川県養豚購買販売利用組合で営業を手伝い、組合はハム・ソーセージ加工販売も手がけた。1県1業1社の統制下で徳島県にハム工場はなかった
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』1993年「三度の出征 戦争さなかに旗揚げ」(大社義規)
- [3]生家(大地主)の没落で学業半ばに養豚組合へ入った。徳島は豚の配給が期待でき、代用肉のうさぎも豊富だった
- [6]生家(大地主)の没落で学業半ばに養豚組合へ入った。徳島は豚の配給が期待でき、代用肉のうさぎも豊富だった
- [8]戦争の長期化で徳島でも豚がほぼいなくなり、1943年秋に2度目・1945年6月に3度目の召集を受け工場は休業、空襲で工場を失った
- [9]戦争の長期化で徳島でも豚がほぼいなくなり、1943年秋に2度目・1945年6月に3度目の召集を受け工場は休業、空襲で工場を失った
- ポケット社史『幸せな食創りで世界一をめざす(日本ハム)』1993年
- [10]1945年6月の3度目の召集で分隊長となり鹿屋の海軍基地で海岸防衛の壕掘りに従事したまま8月15日を迎えた
- 証券 14(3)(154) 1962年
- [11]沿革:昭和20年7月 戦災により焼失
1948年〜出荷先を失った農家の豚で再建した加工場と、資本金150万円の徳島ハム
大社義規氏は1948年8月、徳島市に加工場を再建した。再建に先立って以前の仕入れ先の農家を訪ねると、食肉加工用に豚やうさぎを購入するメーカーが無く、農家は売り先に困っていた。大社義規氏は戦災を免れた高松の養豚組合の工場へ原料肉を持ち込み、加工賃を払って製品に仕上げてもらう委託加工の取引を始めた。農家は代金を製品の販売後に払えばよいとし、少ない手元資金でも原料を仕入れられた。見積もり150万円の建設資金のうち80万円は委託加工の利益で蓄え、残りは百十四銀行の営業部長だった中条晴夫氏の判断で融資を受けた。完成した徳島市万代町の工場は建坪24坪のトタン屋根で、製造の中心は月500貫のプレスハムである。原料の仕入れ先と自己資金を委託加工で先に固めたことが、資材も資金も無い状態からの再建を可能にしたのだろう。
- 『日本会社史総覧』1995年 日本ハム
- [14]1948年8月、徳島市に再び加工場を建設して事業を始めた
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』1993年「三度の出征 戦争さなかに旗揚げ」(大社義規)
- [15]農家を訪ねると食肉加工用の買い手がなく豚・うさぎが売れず困っていた。無傷の養豚組合工場との委託加工を始め、1948年8月に建坪24坪の工場を完成、月500貫のプレスハム主体
- [16]農家を訪ねると食肉加工用の買い手がなく豚・うさぎが売れず困っていた。無傷の養豚組合工場との委託加工を始め、1948年8月に建坪24坪の工場を完成、月500貫のプレスハム主体
- [19]農家を訪ねると食肉加工用の買い手がなく豚・うさぎが売れず困っていた。無傷の養豚組合工場との委託加工を始め、1948年8月に建坪24坪の工場を完成、月500貫のプレスハム主体
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [17]農家は代金を製品が売れてから払えばよいとした。工場建設資金見積150万円のうち80万円は委託加工の蓄え、残りは百十四銀行営業部長・中条晴夫の融資。工場は徳島市万代町
- [18]農家は代金を製品が売れてから払えばよいとした。工場建設資金見積150万円のうち80万円は委託加工の蓄え、残りは百十四銀行営業部長・中条晴夫の融資。工場は徳島市万代町
大社義規氏は1951年12月、個人の加工場を資本金150万円の徳島ハム株式会社に改組した。当時の徳島県では、軍が皮を飛行服に使うため飼育を奨励したうさぎが戦後も多く、豚の生産が戻るまでの代用原料を大量に集荷できた。子牛の肉6・うさぎ肉2・豚肉2の割合で作るプレスハムが製品のほとんどを占め、売上は毎年拡大した。法人化の時点の月商は700万円ほど。工場は毎年のように増設を重ね、3年半で広さが約6倍になった。法人化したころの社員は50人ほどで、大社義規氏の指示が末端の社員まで届く規模である。資本金は1953年10月に480万円、1956年6月に960万円へ増資した。取引の拡大に合わせて増資で工場を拡張できる会社形態として、株式会社を選んだと思われる。
- 『日本会社史総覧』1995年 日本ハム
- [20]原料難ながら業況が伸び、1951年12月に加工場を資本金150万円の徳島ハム株式会社に改組(実質上の設立)
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [21]徳島県は軍兎の名残でうさぎ肉を大量集荷できた。製品は子牛6・うさぎ2・豚2のプレスハムが主。売上は毎年伸び、1951年12月の法人化時に月商約700万円
- [22]徳島県は軍兎の名残でうさぎ肉を大量集荷できた。製品は子牛6・うさぎ2・豚2のプレスハムが主。売上は毎年伸び、1951年12月の法人化時に月商約700万円
- [23]徳島県は軍兎の名残でうさぎ肉を大量集荷できた。製品は子牛6・うさぎ2・豚2のプレスハムが主。売上は毎年伸び、1951年12月の法人化時に月商約700万円
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』1993年「三度の出征 戦争さなかに旗揚げ」(大社義規)
- [24]毎年のように工場を増設し3年半で広さ約6倍。法人化した1951年頃の社員は50人ほど
- [25]毎年のように工場を増設し3年半で広さ約6倍。法人化した1951年頃の社員は50人ほど
- 証券 14(3)(154) 1962年
- [26]資本金の変遷:1951年12月1,500千円、1953年10月4,800千円、1956年6月9,600千円
再建後の徳島ハムは、製品の主な販売先を京阪神に置いた。委託加工の時期から、大社義規氏は高松や徳島の地方都市では需要が小さいとみて、営業担当の時代に得た京阪神の肉屋に製品を置いてもらっていた。製品は石炭の空き箱に詰め、高松から船で関西へ運んだ。1948年の工場再建後は、妻の弟で水産学校の教師だった板坂喜一氏が大阪営業所の責任者となり、京阪神の販路を開拓した。大社義規氏は1961年の対談で、徳島は家畜の飼料が豊富なうえ京阪神の市場に近く、販売上有利だと語った。関西で先行していたのは伊藤、竹岸、鳥清の3社である。後発の徳島ハムは工場に食肉処理場を併設し、原料肉の鮮度で競合に対抗した。産地の工場で作り消費地の営業所で販売する分業が、初期の徳島ハムの事業の形だったとみられる。
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [27]高松・徳島では需要が見込めず京阪神の得意先の肉屋で販売。再建後は妻の弟・板坂喜一が大阪営業所の責任者として京阪神の販路開拓にあたった
- [28]高松・徳島では需要が見込めず京阪神の得意先の肉屋で販売。再建後は妻の弟・板坂喜一が大阪営業所の責任者として京阪神の販路開拓にあたった
- [30]高松・徳島では需要が見込めず京阪神の得意先の肉屋で販売。再建後は妻の弟・板坂喜一が大阪営業所の責任者として京阪神の販路開拓にあたった
- ポケット社史『幸せな食創りで世界一をめざす(日本ハム)』1993年
- [29]製品は石炭の空箱に詰め船で関西へ運んだ。工場に食肉処理場を併設し、後発ながら鮮度で競合に対抗した
- [33]製品は石炭の空箱に詰め船で関西へ運んだ。工場に食肉処理場を併設し、後発ながら鮮度で競合に対抗した
- 野田経済 782号 1961年9月11日
- [31]徳島は家畜飼料が豊富で京阪神市場に近く販売上有利。1948年の再発足時、関西には伊藤・竹岸・鳥清の3社が先行
- [32]徳島は家畜飼料が豊富で京阪神市場に近く販売上有利。1948年の再発足時、関西には伊藤・竹岸・鳥清の3社が先行
参考文献[14]-[33]
- 『日本会社史総覧』1995年 日本ハム
- [14]1948年8月、徳島市に再び加工場を建設して事業を始めた
- [20]原料難ながら業況が伸び、1951年12月に加工場を資本金150万円の徳島ハム株式会社に改組(実質上の設立)
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』1993年「三度の出征 戦争さなかに旗揚げ」(大社義規)
- [15]農家を訪ねると食肉加工用の買い手がなく豚・うさぎが売れず困っていた。無傷の養豚組合工場との委託加工を始め、1948年8月に建坪24坪の工場を完成、月500貫のプレスハム主体
- [16]農家を訪ねると食肉加工用の買い手がなく豚・うさぎが売れず困っていた。無傷の養豚組合工場との委託加工を始め、1948年8月に建坪24坪の工場を完成、月500貫のプレスハム主体
- [19]農家を訪ねると食肉加工用の買い手がなく豚・うさぎが売れず困っていた。無傷の養豚組合工場との委託加工を始め、1948年8月に建坪24坪の工場を完成、月500貫のプレスハム主体
- [24]毎年のように工場を増設し3年半で広さ約6倍。法人化した1951年頃の社員は50人ほど
- [25]毎年のように工場を増設し3年半で広さ約6倍。法人化した1951年頃の社員は50人ほど
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [17]農家は代金を製品が売れてから払えばよいとした。工場建設資金見積150万円のうち80万円は委託加工の蓄え、残りは百十四銀行営業部長・中条晴夫の融資。工場は徳島市万代町
- [18]農家は代金を製品が売れてから払えばよいとした。工場建設資金見積150万円のうち80万円は委託加工の蓄え、残りは百十四銀行営業部長・中条晴夫の融資。工場は徳島市万代町
- [21]徳島県は軍兎の名残でうさぎ肉を大量集荷できた。製品は子牛6・うさぎ2・豚2のプレスハムが主。売上は毎年伸び、1951年12月の法人化時に月商約700万円
- [22]徳島県は軍兎の名残でうさぎ肉を大量集荷できた。製品は子牛6・うさぎ2・豚2のプレスハムが主。売上は毎年伸び、1951年12月の法人化時に月商約700万円
- [23]徳島県は軍兎の名残でうさぎ肉を大量集荷できた。製品は子牛6・うさぎ2・豚2のプレスハムが主。売上は毎年伸び、1951年12月の法人化時に月商約700万円
- [27]高松・徳島では需要が見込めず京阪神の得意先の肉屋で販売。再建後は妻の弟・板坂喜一が大阪営業所の責任者として京阪神の販路開拓にあたった
- [28]高松・徳島では需要が見込めず京阪神の得意先の肉屋で販売。再建後は妻の弟・板坂喜一が大阪営業所の責任者として京阪神の販路開拓にあたった
- [30]高松・徳島では需要が見込めず京阪神の得意先の肉屋で販売。再建後は妻の弟・板坂喜一が大阪営業所の責任者として京阪神の販路開拓にあたった
- 証券 14(3)(154) 1962年
- [26]資本金の変遷:1951年12月1,500千円、1953年10月4,800千円、1956年6月9,600千円
- ポケット社史『幸せな食創りで世界一をめざす(日本ハム)』1993年
- [29]製品は石炭の空箱に詰め船で関西へ運んだ。工場に食肉処理場を併設し、後発ながら鮮度で競合に対抗した
- [33]製品は石炭の空箱に詰め船で関西へ運んだ。工場に食肉処理場を併設し、後発ながら鮮度で競合に対抗した
- 野田経済 782号 1961年9月11日
- [31]徳島は家畜飼料が豊富で京阪神市場に近く販売上有利。1948年の再発足時、関西には伊藤・竹岸・鳥清の3社が先行
- [32]徳島は家畜飼料が豊富で京阪神市場に近く販売上有利。1948年の再発足時、関西には伊藤・竹岸・鳥清の3社が先行
1956年〜業界初の鉄筋コンクリートの大阪工場と、広島・旭川の産地工場、営業所25カ所
徳島ハムは1956年5月、業界初の鉄筋コンクリート造りの大阪工場を建設した。原料肉の県外調達と販路の拡大で輸送費が増え、冷蔵設備の乏しい船便では鮮度の維持も難しくなっていた。大社義規氏は1954年、大阪市西淀川区竹島町に徳島工場の約5倍の2000坪の用地を取得した。大阪で小さな工場を持つ意味は薄いとして規模を大きく取り、衛生管理のため木造ではなく鉄筋を選んだ。1957年までに月産300トンを生産できるようになり、生産能力は徳島工場の10倍になった。建設費の大半は借入金で、百十四銀行の中条晴夫氏の後押しで融資が通った。売上高は1954年1月期の2億2000万円から、1958年1月期には7億1000万円に拡大した。
- 『日本会社史総覧』1995年 日本ハム
- [34]1956年5月、業界初の鉄筋コンクリート造りの大阪工場(現大阪北工場)を建設
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [35]原料の県外調達と販路拡大で輸送費が増え鮮度維持も困難に。1954年竹島町に徳島工場の約5倍・2000坪を取得、1956年第1期・1957年第2期完成。小工場は妙味なし、衛生面で鉄筋を採用。建設費の大半は借入金で中条晴夫が支援。売上高1954年1月期2億2000万円→1958年1月期7億1000万円
- [36]原料の県外調達と販路拡大で輸送費が増え鮮度維持も困難に。1954年竹島町に徳島工場の約5倍・2000坪を取得、1956年第1期・1957年第2期完成。小工場は妙味なし、衛生面で鉄筋を採用。建設費の大半は借入金で中条晴夫が支援。売上高1954年1月期2億2000万円→1958年1月期7億1000万円
- [37]原料の県外調達と販路拡大で輸送費が増え鮮度維持も困難に。1954年竹島町に徳島工場の約5倍・2000坪を取得、1956年第1期・1957年第2期完成。小工場は妙味なし、衛生面で鉄筋を採用。建設費の大半は借入金で中条晴夫が支援。売上高1954年1月期2億2000万円→1958年1月期7億1000万円
- [39]原料の県外調達と販路拡大で輸送費が増え鮮度維持も困難に。1954年竹島町に徳島工場の約5倍・2000坪を取得、1956年第1期・1957年第2期完成。小工場は妙味なし、衛生面で鉄筋を採用。建設費の大半は借入金で中条晴夫が支援。売上高1954年1月期2億2000万円→1958年1月期7億1000万円
- [40]原料の県外調達と販路拡大で輸送費が増え鮮度維持も困難に。1954年竹島町に徳島工場の約5倍・2000坪を取得、1956年第1期・1957年第2期完成。小工場は妙味なし、衛生面で鉄筋を採用。建設費の大半は借入金で中条晴夫が支援。売上高1954年1月期2億2000万円→1958年1月期7億1000万円
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』1993年「三度の出征 戦争さなかに旗揚げ」(大社義規)
- [38]1957年までに月産300トン、生産能力は当時の徳島工場の10倍の新鋭工場を建設
徳島ハムは1960年1月に広島県、同年5月に旭川市に工場を新設した。大社義規氏は大阪工場の第2期工事を終えた1957年、日本生産性本部の食肉業界視察団に加わって米国を回った。米国では、家畜を生きたまま消費地へ運ぶ方式から、産地でと畜・加工する方式へ移りつつあった。日本では北海道や九州の牛豚を貨車で東京・大阪へ運び、輸送費を生産者が負担していた。大社義規氏は1961年の対談で、生体輸送は肉が痩せて運賃もかさむので、産地で半製品にして消費地で仕上げる方針を示した。長崎県の諫早工場の完成は1961年12月である。消費地の得意先が産地でと畜した肉の質を疑ったため、徳島ハムは当初、得意先の説得に手間取った。販路の理解は産地工場の稼働より遅れて得られたとうかがえる。
- 『日本会社史総覧』1995年 日本ハム
- [41]1960年1月と5月に広島・旭川両工場を建設
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [42]1957年に日本生産性本部の視察団で渡米し産地一貫処理への移行を見た。日本は北海道・九州の牛豚を貨車で東京・大阪へ生体輸送し輸送費は生産者負担。帰国後に広島・旭川・諫早に産地工場を建てたが、得意先が産地の肉を嫌い苦労した
- [43]1957年に日本生産性本部の視察団で渡米し産地一貫処理への移行を見た。日本は北海道・九州の牛豚を貨車で東京・大阪へ生体輸送し輸送費は生産者負担。帰国後に広島・旭川・諫早に産地工場を建てたが、得意先が産地の肉を嫌い苦労した
- [44]1957年に日本生産性本部の視察団で渡米し産地一貫処理への移行を見た。日本は北海道・九州の牛豚を貨車で東京・大阪へ生体輸送し輸送費は生産者負担。帰国後に広島・旭川・諫早に産地工場を建てたが、得意先が産地の肉を嫌い苦労した
- [47]1957年に日本生産性本部の視察団で渡米し産地一貫処理への移行を見た。日本は北海道・九州の牛豚を貨車で東京・大阪へ生体輸送し輸送費は生産者負担。帰国後に広島・旭川・諫早に産地工場を建てたが、得意先が産地の肉を嫌い苦労した
- 野田経済 782号 1961年9月11日
- [45]生体輸送は肉がやせ運賃がかさむため、産地で半製品にし消費地で仕上げる方針。諫早は年内完成を目指し建設中
- 証券 14(3)(154) 1962年
- [46]沿革:35.1 広島工場(広島県安芸郡海田町)、35.5 旭川工場新設。諫早工場は36.12完成
徳島ハムは1960年に大阪で株式を店頭公開し、1961年10月に大阪証券取引所第2部へ上場した。各地で工場の新増設が続き、金融機関からの借入だけでは資金に限界があったためで、知名度を上げて人材を確保する狙いもあった。大社義規氏は1961年9月の対談で、茨城県下館での工場建設と、東京のストックポイントを年内に5カ所へ増やす構想を示した。1962年2月3日には東京証券取引所第2部に上場し、資本金は250,000千円、従業員は1961年12月時点で728名だった。同じ1962年には営業所を東京4カ所を含む25カ所に広げた。上場時の販売網は西日本が中心で、関東の市場開拓を進めている段階にあった。上場で得た資金と知名度が、首都圏に生産拠点を構える前提になったと推測される。
- 『日本会社史総覧』1995年 日本ハム
- [48]1960年大阪店頭公開、1961年10月大証2部上場。1962年営業所を東京4カ所含む25カ所に拡充
- [52]1960年大阪店頭公開、1961年10月大証2部上場。1962年営業所を東京4カ所含む25カ所に拡充
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [49]1961年10月の大証2部上場は工場新増設で借入だけでは限界があったため。企業イメージ向上と人材確保も狙った
- 野田経済 782号 1961年9月11日
- [50]1961年9月時点で設備資金4億5000万円を増資・借入金・自己資金で賄う計画、茨城県下館に工場建設、東京のストックポイントを年内5カ所へ
- 証券 14(3)(154) 1962年
- [51]1962年2月3日東証2部上場、資本金250,000千円、従業員728名(1961年12月18日現在)。販売網は西日本中心で関東の市場開拓を進行中
- [53]1962年2月3日東証2部上場、資本金250,000千円、従業員728名(1961年12月18日現在)。販売網は西日本中心で関東の市場開拓を進行中
参考文献[34]-[53]
- 『日本会社史総覧』1995年 日本ハム
- [34]1956年5月、業界初の鉄筋コンクリート造りの大阪工場(現大阪北工場)を建設
- [41]1960年1月と5月に広島・旭川両工場を建設
- [48]1960年大阪店頭公開、1961年10月大証2部上場。1962年営業所を東京4カ所含む25カ所に拡充
- [52]1960年大阪店頭公開、1961年10月大証2部上場。1962年営業所を東京4カ所含む25カ所に拡充
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- [35]原料の県外調達と販路拡大で輸送費が増え鮮度維持も困難に。1954年竹島町に徳島工場の約5倍・2000坪を取得、1956年第1期・1957年第2期完成。小工場は妙味なし、衛生面で鉄筋を採用。建設費の大半は借入金で中条晴夫が支援。売上高1954年1月期2億2000万円→1958年1月期7億1000万円
- [36]原料の県外調達と販路拡大で輸送費が増え鮮度維持も困難に。1954年竹島町に徳島工場の約5倍・2000坪を取得、1956年第1期・1957年第2期完成。小工場は妙味なし、衛生面で鉄筋を採用。建設費の大半は借入金で中条晴夫が支援。売上高1954年1月期2億2000万円→1958年1月期7億1000万円
- [37]原料の県外調達と販路拡大で輸送費が増え鮮度維持も困難に。1954年竹島町に徳島工場の約5倍・2000坪を取得、1956年第1期・1957年第2期完成。小工場は妙味なし、衛生面で鉄筋を採用。建設費の大半は借入金で中条晴夫が支援。売上高1954年1月期2億2000万円→1958年1月期7億1000万円
- [39]原料の県外調達と販路拡大で輸送費が増え鮮度維持も困難に。1954年竹島町に徳島工場の約5倍・2000坪を取得、1956年第1期・1957年第2期完成。小工場は妙味なし、衛生面で鉄筋を採用。建設費の大半は借入金で中条晴夫が支援。売上高1954年1月期2億2000万円→1958年1月期7億1000万円
- [40]原料の県外調達と販路拡大で輸送費が増え鮮度維持も困難に。1954年竹島町に徳島工場の約5倍・2000坪を取得、1956年第1期・1957年第2期完成。小工場は妙味なし、衛生面で鉄筋を採用。建設費の大半は借入金で中条晴夫が支援。売上高1954年1月期2億2000万円→1958年1月期7億1000万円
- [42]1957年に日本生産性本部の視察団で渡米し産地一貫処理への移行を見た。日本は北海道・九州の牛豚を貨車で東京・大阪へ生体輸送し輸送費は生産者負担。帰国後に広島・旭川・諫早に産地工場を建てたが、得意先が産地の肉を嫌い苦労した
- [43]1957年に日本生産性本部の視察団で渡米し産地一貫処理への移行を見た。日本は北海道・九州の牛豚を貨車で東京・大阪へ生体輸送し輸送費は生産者負担。帰国後に広島・旭川・諫早に産地工場を建てたが、得意先が産地の肉を嫌い苦労した
- [44]1957年に日本生産性本部の視察団で渡米し産地一貫処理への移行を見た。日本は北海道・九州の牛豚を貨車で東京・大阪へ生体輸送し輸送費は生産者負担。帰国後に広島・旭川・諫早に産地工場を建てたが、得意先が産地の肉を嫌い苦労した
- [47]1957年に日本生産性本部の視察団で渡米し産地一貫処理への移行を見た。日本は北海道・九州の牛豚を貨車で東京・大阪へ生体輸送し輸送費は生産者負担。帰国後に広島・旭川・諫早に産地工場を建てたが、得意先が産地の肉を嫌い苦労した
- [49]1961年10月の大証2部上場は工場新増設で借入だけでは限界があったため。企業イメージ向上と人材確保も狙った
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』1993年「三度の出征 戦争さなかに旗揚げ」(大社義規)
- [38]1957年までに月産300トン、生産能力は当時の徳島工場の10倍の新鋭工場を建設
- 野田経済 782号 1961年9月11日
- [45]生体輸送は肉がやせ運賃がかさむため、産地で半製品にし消費地で仕上げる方針。諫早は年内完成を目指し建設中
- [50]1961年9月時点で設備資金4億5000万円を増資・借入金・自己資金で賄う計画、茨城県下館に工場建設、東京のストックポイントを年内5カ所へ
- 証券 14(3)(154) 1962年
- [46]沿革:35.1 広島工場(広島県安芸郡海田町)、35.5 旭川工場新設。諫早工場は36.12完成
- [51]1962年2月3日東証2部上場、資本金250,000千円、従業員728名(1961年12月18日現在)。販売網は西日本中心で関東の市場開拓を進行中
- [53]1962年2月3日東証2部上場、資本金250,000千円、従業員728名(1961年12月18日現在)。販売網は西日本中心で関東の市場開拓を進行中
出典・参考
6件
- ポケット社史『幸せな食創りで世界一をめざす(日本ハム)』1993年
- 『日本会社史総覧』1995年 日本ハム
- 野田経済 782号 1961年9月11日
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人22』大社義規(1987年、初出 日本経済新聞 1977年7月連載)
- 証券 14(3)(154) 1962年
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』1993年「三度の出征 戦争さなかに旗揚げ」(大社義規)