明治ホールディングス:明治製糖の創立と明治製菓・明治乳業の発足
明治製糖の房総煉乳出資から極東煉乳での分社へ
1906年〜明治製糖の余剰資本による製菓と製乳への多角化
1906年12月29日、糖業技術者の相馬半治氏を専務取締役として、資本金500万円の明治製糖が創立総会を開催した。台湾総督府との折衝を重ねて台南州に本社と蒜頭工場の設置許可を得た同社は、渋沢栄一氏を相談役に迎え、大日本製糖・台湾製糖・塩水港製糖と並ぶ四大製糖会社へ育った。1914年に始まった第一次世界大戦で世界の産糖の半ばを占める甜菜糖の主産地が戦場となると糖価は高騰し、明治製糖の業績はいよいよ上がって資本が蓄積された。当時の欧米諸国の砂糖消費量は日本の数倍で、製菓・製乳・果実かん詰めといった砂糖の関連事業の発達も日本の比ではなかった。大戦前に諸外国が東南アジアと南洋へ輸出していた菓子類はおよそ1千万円に上ったが、日本からの輸出は5万円にすぎなかった。
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [1]1906年12月29日 明治製糖の創立総会 資本金500万円・専務取締役に相馬半治
- [2]台湾総督府との折衝により台南州に本社と蒜頭工場の設置が許可された
- [3]明治製糖の創立に際し渋沢栄一を相談役に委嘱
- [4]明治製糖は大日本製糖・台湾製糖・塩水港製糖と並ぶ当時の四大製糖会社
- [5]第一次世界大戦で甜菜糖の主産地が壊滅し糖価が高騰・明治製糖の業績上昇と資本蓄積
- [6]当時の欧米諸国の砂糖消費量は日本の数倍で製菓・製乳・果実かん詰め等の発達も日本の比ではない
- [7]大戦前に諸外国が東南アジア・南洋へ輸出した菓子類は約1千万円・日本の輸出は5万円
明治製糖はまず製菓事業に参入し、1916年11月に相馬半治氏と有島健助氏を創立委員として資本金150万円の大正製菓を起こしたが、その直前の同年10月9日に別系の東京菓子が資本金100万円で設立されていた。同種事業が分立する不利を避けるため、翌1917年3月に大正製菓は東京菓子へ合併された。乳業への出資はその翌月で、千葉県安房郡の房総煉乳が増資するのに際して明治製糖が資本参加した。房総煉乳は前年9月に磯貝・玉川の煉乳所と平群・滝田の製酪所を併せて設立された資本金7万5千円の会社である。明治製糖はこの経営を自ら執らず、東京菓子に任せた。砂糖の出口を自ら育てる多角化であり、原料と販路が重なる菓子会社へ煉乳を預けるほうが理に適っていた。1920年12月、東京菓子は房総煉乳を合併して煉乳部とした。
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [8]1916年11月 大正製菓の設立・資本金150万円・創立委員は相馬半治と有島健助
- [9]1916年10月9日 東京菓子の設立・資本金100万円
- [10]1917年3月 同種事業の分立を不利として大正製菓を東京菓子へ合併
- [11]1917年4月 明治製糖が房総煉乳の増資に資本参加・乳業進出の初め
- [12]房総煉乳は1916年9月設立・資本金7万5千円・磯貝と玉川の煉乳所、平群と滝田の製酪所を併合
- [13]明治製糖は房総煉乳の経営を東京菓子に任せた
- 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
- [14]1920年12月 東京菓子が房総煉乳を合併し煉乳部とする
1923年9月の関東大震災で煉乳部は少なからぬ被害を受け、翌年には100万円へ減資した。この際に勝山・館山両工場の練乳設備を滝田工場へ移し、中心工場を一つに絞った。並行して東京へ出て、1924年4月から京橋区南鍛冶町でアイスクリームの製造を始め、同年9月に東京菓子は明治製菓へ商号を改めた。1927年5月には本所区亀沢町に両国工場を開設し、1928年10月からびん装の明治牛乳の卸売を始めた。両国工場長となった国生義夫氏は近代的なミルクプラントを導入し、びん詰め牛乳の量産に成功している。1934年には大阪市乳販売購買組合が経営していたミルクプラントを合併し、東京・横浜・大阪という消費地に足場を得た。保存の利く煉乳から毎日運ばねばならない市乳へ主力を移す判断は、工場を原料の産地から消費地へ引き寄せる選択でもあった。
- 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
- [15]1923年9月の関東大震災で煉乳部が被災・翌年100万円へ減資
- [20]国生義夫が両国工場長として近代的ミルクプラントを導入しびん詰め牛乳の量産に成功
- [21]1934年 大阪市乳販売購買組合のミルクプラントを合併
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [16]勝山・館山両工場の練乳設備を滝田工場へ移管し中心工場を滝田に一本化
- [17]1924年4月 京橋区南鍛冶町でアイスクリームの製造を開始
- [18]1924年9月 東京菓子が明治製菓へ商号変更
- [19]1927年5月 両国工場開設・1928年10月 びん装明治牛乳の卸売開始
参考文献[1]-[21]
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [1]1906年12月29日 明治製糖の創立総会 資本金500万円・専務取締役に相馬半治
- [2]台湾総督府との折衝により台南州に本社と蒜頭工場の設置が許可された
- [3]明治製糖の創立に際し渋沢栄一を相談役に委嘱
- [4]明治製糖は大日本製糖・台湾製糖・塩水港製糖と並ぶ当時の四大製糖会社
- [5]第一次世界大戦で甜菜糖の主産地が壊滅し糖価が高騰・明治製糖の業績上昇と資本蓄積
- [6]当時の欧米諸国の砂糖消費量は日本の数倍で製菓・製乳・果実かん詰め等の発達も日本の比ではない
- [7]大戦前に諸外国が東南アジア・南洋へ輸出した菓子類は約1千万円・日本の輸出は5万円
- [8]1916年11月 大正製菓の設立・資本金150万円・創立委員は相馬半治と有島健助
- [9]1916年10月9日 東京菓子の設立・資本金100万円
- [10]1917年3月 同種事業の分立を不利として大正製菓を東京菓子へ合併
- [11]1917年4月 明治製糖が房総煉乳の増資に資本参加・乳業進出の初め
- [12]房総煉乳は1916年9月設立・資本金7万5千円・磯貝と玉川の煉乳所、平群と滝田の製酪所を併合
- [13]明治製糖は房総煉乳の経営を東京菓子に任せた
- [16]勝山・館山両工場の練乳設備を滝田工場へ移管し中心工場を滝田に一本化
- [17]1924年4月 京橋区南鍛冶町でアイスクリームの製造を開始
- [18]1924年9月 東京菓子が明治製菓へ商号変更
- [19]1927年5月 両国工場開設・1928年10月 びん装明治牛乳の卸売開始
- 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
- [14]1920年12月 東京菓子が房総煉乳を合併し煉乳部とする
- [15]1923年9月の関東大震災で煉乳部が被災・翌年100万円へ減資
- [20]国生義夫が両国工場長として近代的ミルクプラントを導入しびん詰め牛乳の量産に成功
- [21]1934年 大阪市乳販売購買組合のミルクプラントを合併
1930年〜ネッスルの進出と臨時資金調整法が決めた事業を担う会社
1930年前後、スイスのネッスル社と米国のカーネーション社が日本の乳業へ進出しようとした。鷲印練乳のネッスル社は関東大震災の際に大量の無関税乳製品を持ち込んで以来これを企図し、極東煉乳・大日本乳製品・北海道製酪販売組合連合会・藤井煉乳と交渉を重ねた末に藤井煉乳と提携した。牧場を併営する無糖練乳のカーネーション社は伊豆畜産販売購買利用組合と組んだ。国産の煉乳は輸入の鷲印煉乳の販路を押し戻して国内需要のおよそ7割を占めるに至っており、業界は練乳の生産と販売の協定を結び、乳製品共同販売と共同国産煉乳の2社を設立して進出を防いだ。明治製菓は1930年4月に煉乳部を東京の本社へ移して製乳部と改称し、外資への対応と事業の拡張をいずれも本社の直轄に置いた。
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [22]1930年前後 スイスのネッスル社と米国のカーネーション社が日本の乳業へ進出を企図
- [23]ネッスル社は関東大震災時に無関税乳製品を大量に持ち込み、極東煉乳・大日本乳製品・北海道製酪販売組合連合会・藤井煉乳と交渉のうえ藤井煉乳と提携
- [24]カーネーション社は牧場を併営する無糖練乳メーカーで伊豆畜産販売購買利用組合と提携
- [25]国産煉乳が輸入鷲印煉乳の販路を駆逐し国内全需要高の7割を占めた
- [26]業界は練乳の生産・販売協定を結び乳製品共同販売と共同国産煉乳を設立して外資の進出を防止
- [27]1930年4月 煉乳部を本社内へ移し製乳部と改称
1938年4月に市乳部が置かれ、同年7月には1日平均の市乳処理量が100石を超えた。乳業が製乳と市乳の2部に育った一方、臨時資金調整法は乳業と製菓を別々の資金の区分に置いていた。そこで明治製菓は乳業部門の独立分離を決め、独立先の会社には1917年12月に馬越恭平氏を社長として資本金150万円で設立され、1935年から明治製菓が経営を担当していた極東煉乳を用いた。1940年12月6日に結んだ経営委任の仮契約は、極東煉乳が明治製菓の乳業に関する一切の事業場と設備、商標を自己の名で使って経営し、総収入から営業諸経費を控除した残額の7割3分を明治製菓へ支払うと定めた。契約は同時に、極東煉乳が可能な最短期間で商号を明治乳業へ変更することも定めていた。同月27日、明治乳業が発足した。
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [28]1938年4月 市乳部の設置・同年7月 1日平均の市乳処理量が100石を突破
- [29]臨時資金調整法で乳業は乙種、製菓は別の種に区分された
- [30]明治製菓が乳業部門の独立分離を決定
- [32]1940年12月6日の経営委任仮契約 第1条・第3条 事業場と商標の使用と総収入から営業諸経費を控除した残額の7割3分の支払い
- [33]同仮契約第7条 極東煉乳は可能な最短期間に商号を明治乳業株式会社へ変更する
- [34]1940年12月27日 明治乳業株式会社の発足
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- [31]極東煉乳は1917年12月設立・資本金150万円・社長は馬越恭平/1935年から明治製菓が経営を担当
発足の翌1941年3月、有限会社北海道興農公社の設立に際して、明治製菓と極東煉乳は釧路・帯広・旭川・札幌ほか9つの乳製品工場を現物出資した。北海道の生産拠点を失った明治乳業は、1943年に明治製菓の乳製品部門と明治製糖の3牧場を譲り受け、内地の事業へ専念した。この譲受には設備代金204万7,482円73銭を支払い、経営委任契約の解除補償金132万3,469円は1943年9月から1950年3月まで14回に分けて納めた。原資は350万円の増資で、資本金は500万円となった。1945年には東京牛乳乳製品統制会社の設立に東京都内のミルクプラント全部を、千葉県酪業の設立に千葉県内の事業所全部を現物出資した。統制は工場を国策会社と統制会社へ移して進み、発祥の地である安房の工場まで手元から離れた。
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [35]1941年3月 北海道興農公社の設立に明治製菓と極東煉乳が釧路・帯広・清水・旭川・札幌・豊平・伊達・八雲・木古内の9乳製品工場を現物出資
- [37]1943年8月20日の設備譲渡仮契約 設備代金204万7,482円73銭・委任契約解除補償金132万3,469円を1943年9月から1950年3月まで14回分割
- [38]1943年4月 350万円の増資により資本金500万円
- 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
- [36]1943年 明治製菓の乳製品部門と明治製糖の3牧場を譲受し内地の乳製品事業へ専念
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- [39]1945年 東京牛乳乳製品統制会社へ東京都内のミルクプラント全部、千葉県酪業へ千葉県内の事業所全部を現物出資
参考文献[22]-[39]
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [22]1930年前後 スイスのネッスル社と米国のカーネーション社が日本の乳業へ進出を企図
- [23]ネッスル社は関東大震災時に無関税乳製品を大量に持ち込み、極東煉乳・大日本乳製品・北海道製酪販売組合連合会・藤井煉乳と交渉のうえ藤井煉乳と提携
- [24]カーネーション社は牧場を併営する無糖練乳メーカーで伊豆畜産販売購買利用組合と提携
- [25]国産煉乳が輸入鷲印煉乳の販路を駆逐し国内全需要高の7割を占めた
- [26]業界は練乳の生産・販売協定を結び乳製品共同販売と共同国産煉乳を設立して外資の進出を防止
- [27]1930年4月 煉乳部を本社内へ移し製乳部と改称
- [28]1938年4月 市乳部の設置・同年7月 1日平均の市乳処理量が100石を突破
- [29]臨時資金調整法で乳業は乙種、製菓は別の種に区分された
- [30]明治製菓が乳業部門の独立分離を決定
- [32]1940年12月6日の経営委任仮契約 第1条・第3条 事業場と商標の使用と総収入から営業諸経費を控除した残額の7割3分の支払い
- [33]同仮契約第7条 極東煉乳は可能な最短期間に商号を明治乳業株式会社へ変更する
- [34]1940年12月27日 明治乳業株式会社の発足
- [35]1941年3月 北海道興農公社の設立に明治製菓と極東煉乳が釧路・帯広・清水・旭川・札幌・豊平・伊達・八雲・木古内の9乳製品工場を現物出資
- [37]1943年8月20日の設備譲渡仮契約 設備代金204万7,482円73銭・委任契約解除補償金132万3,469円を1943年9月から1950年3月まで14回分割
- [38]1943年4月 350万円の増資により資本金500万円
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- [31]極東煉乳は1917年12月設立・資本金150万円・社長は馬越恭平/1935年から明治製菓が経営を担当
- [39]1945年 東京牛乳乳製品統制会社へ東京都内のミルクプラント全部、千葉県酪業へ千葉県内の事業所全部を現物出資
- 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
- [36]1943年 明治製菓の乳製品部門と明治製糖の3牧場を譲受し内地の乳製品事業へ専念
1946年〜東京乳業と朝日乳業の合併による事業地の復元
1950年、乳業の統制は3か月のうちに解けた。1月1日に配給規則が切符制から予約制へ改まり、バターの物品税が廃止された。2月22日には東京都の特別区ほか約300市町村で飲用牛乳の統制地域指定が解除され、公定価格も同日廃止された。4月1日には食料品配給公団が廃止され、練粉乳の配給と価格の統制も撤廃された。10年の統制から解かれた市乳の需要は跳ね上がり、1950年下期の処理量は前年同期の5倍、1948年の20倍に達した。集乳量は1949年の時点ですでに戦前の記録を更新していた。明治乳業はこの需要に処理能力で応え、1952年5月に日平均300石の烏山工場を、1954年7月に日平均200石の戸田橋工場を新設し、京浜各工場の機械を最新式のものへ更新した。
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [40]1950年1月1日 配給規則の改正により切符制を予約制へ変更・バターの物品税を廃止
- [41]1950年2月22日 東京都の特別区ほか約300市町村で飲用牛乳の統制地域指定と公定価格を廃止
- [42]1950年4月1日 食料品配給公団の廃止・練粉乳の配給と価格の統制を撤廃
- [43]1950年下期の市乳処理量は前年同期の5倍・1948年の20倍
- [44]1949年に集乳量が戦前の記録を更新
- 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
- [45]1952年5月 日平均300石の烏山工場・1954年7月 日平均200石の戸田橋工場を新設し京浜各工場の機械を更新
事業地の回復は合併で進んだ。1950年12月、戦時に東京都内のミルクプラントを供出した相手である東京乳業を合併して両国・烏山・八王子・江戸川の4工場を取り戻し、同時に湘南牛乳を合併して鎌倉工場を加えた。これによって10数年ぶりに関東の市乳へ自由に進出できるようになった。翌1951年12月には千葉県内の事業所を供出した先である朝日乳業を合併し、勝山・滝田・館山・主基の4工場を回復した。創業の地である安房の事業地がここで戻った。北海道へは、過度経済力集中排除法の指令で北海道酪農協同から今金工場を譲り受けたのを足がかりに再進出し、1953年から54年にかけて帯広・月形・三川へ乳製品工場を新設した。資本金は1949年11月の1億500万円から1956年12月の12億円まで、統制解除後の10年でおよそ9倍に膨らんだ。
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [46]1950年12月 東京乳業の合併により両国・烏山・八王子・江戸川の4工場、湘南牛乳の合併により鎌倉工場を取得
- [47]東京乳業の合併により10数年ぶりに関東の市乳界へ自由に進出
- [48]1951年12月 朝日乳業の合併により勝山・滝田・館山・主基の4工場を取得
- [49]朝日乳業の合併により当社発祥の事業地を復元
- [51]資本金は1949年11月の1億500万円から1956年12月の12億円へ・統制解除後10年で約9倍
- 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
- [50]過度経済力集中排除法の指令により北海道酪農協同から今金工場を譲受・1953年から1954年に帯広・月形・三川へ乳製品工場を新設
戦後の明治乳業を支えたのは薬品だった。1946年に大阪工場へペニシリンの製造設備を新設し、1950年3月に30トンタンク3基で量産へ移った。1953年9月期には2兆5,000億単位を生産して全国占有率13%を記録し、以後も生産を伸ばして国内最大のペニシリンメーカーとなった。ところが1956年上期のペニシリンショックと他の抗生物質との競合で市況は急に悪化し、総売上の1割前後を占めていた製薬部門の販売高比率は同年9月期に1%を割った。ショック死が体質に由来すると立証され市況は戻ったが、1957年から明治製菓との間でペニシリン事業の調整統合が話し合われ、1958年4月1日、大阪工場は明治製菓淀川工場として再発足した。乳業へ絞り直した明治乳業は同じ日に全国8営業所を設け、1968年度には年商1,000億円に迫った。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- [52]1946年 大阪工場にペニシリン製造設備を新設
- 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
- [53]1950年3月 30トンタンク3基の完成により本格的なタンク培養による製造を開始
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [54]1953年9月期 ペニシリン2兆5,000億単位・全国占有率13%/以後3兆6,200億単位、4兆875億単位と伸び国内最大
- [55]1956年上期のペニシリンショックと他の抗生物質との競合により製薬部門の販売高比率が総売上の1割前後から同年9月期に1%を割る
- [56]ペニシリンのショック死は体質に由来すると立証され市況が回復
- [57]1957年からの明治製菓との協議を経て1958年4月1日 大阪工場が明治製菓淀川工場として再発足
- [58]1958年4月1日 全国8営業所の設置
- 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
- [59]1968年度の年商は1,000億円に迫る水準・純益15億円強
参考文献[40]-[59]
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- [40]1950年1月1日 配給規則の改正により切符制を予約制へ変更・バターの物品税を廃止
- [41]1950年2月22日 東京都の特別区ほか約300市町村で飲用牛乳の統制地域指定と公定価格を廃止
- [42]1950年4月1日 食料品配給公団の廃止・練粉乳の配給と価格の統制を撤廃
- [43]1950年下期の市乳処理量は前年同期の5倍・1948年の20倍
- [44]1949年に集乳量が戦前の記録を更新
- [46]1950年12月 東京乳業の合併により両国・烏山・八王子・江戸川の4工場、湘南牛乳の合併により鎌倉工場を取得
- [47]東京乳業の合併により10数年ぶりに関東の市乳界へ自由に進出
- [48]1951年12月 朝日乳業の合併により勝山・滝田・館山・主基の4工場を取得
- [49]朝日乳業の合併により当社発祥の事業地を復元
- [51]資本金は1949年11月の1億500万円から1956年12月の12億円へ・統制解除後10年で約9倍
- [54]1953年9月期 ペニシリン2兆5,000億単位・全国占有率13%/以後3兆6,200億単位、4兆875億単位と伸び国内最大
- [55]1956年上期のペニシリンショックと他の抗生物質との競合により製薬部門の販売高比率が総売上の1割前後から同年9月期に1%を割る
- [56]ペニシリンのショック死は体質に由来すると立証され市況が回復
- [57]1957年からの明治製菓との協議を経て1958年4月1日 大阪工場が明治製菓淀川工場として再発足
- [58]1958年4月1日 全国8営業所の設置
- 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)
- [45]1952年5月 日平均300石の烏山工場・1954年7月 日平均200石の戸田橋工場を新設し京浜各工場の機械を更新
- [50]過度経済力集中排除法の指令により北海道酪農協同から今金工場を譲受・1953年から1954年に帯広・月形・三川へ乳製品工場を新設
- [53]1950年3月 30トンタンク3基の完成により本格的なタンク培養による製造を開始
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- [52]1946年 大阪工場にペニシリン製造設備を新設
- 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
- [59]1968年度の年商は1,000億円に迫る水準・純益15億円強
筆者考察
明治乳業は、牛乳を売りたい会社としてではなく、砂糖を売りたい会社の都合から生まれた。台湾の蔗糖で資本を蓄えた明治製糖は、その余剰を砂糖の出口となる産業へ向けた。菓子も煉乳も、当時は砂糖を大量に使う加工品である。1917年の房総煉乳への出資が投資ではなく川下の確保だったことは、明治製糖がその経営を自ら執らず、同じ年に取得した東京菓子へ委ねたことに表れている。製糖会社が牛乳を扱うより、菓子会社が煉乳を扱うほうが、原料の調達も販路も重なる。乳業は独立した事業として始まったのではなく、砂糖という一つの原料を軸にした事業群の一部として始まった。
この生まれ方は、半世紀のあいだに三度、事業を担う会社を作り変えさせた。一度目は1940年で、臨時資金調整法が菓子と乳業を別の資金区分へ置いたため、明治製菓は乳業部門を切り出し、すでに系列下にあった極東煉乳に乳業を担わせた。二度目は戦時で、北海道の9工場を国策会社へ、東京と千葉の事業所を統制会社へ現物出資し、名前だけを残して工場を失った。三度目は戦後で、供出先となった東京乳業と朝日乳業をそのまま合併し、手放した事業地を買い戻した。会社の形がどう変わっても、房総の煉乳所から積み上げた工場と販路は残り、そこへ戻ることが再建の道筋になった。
- 1917年は極東煉乳としての設立時、1943年は明治製菓からの設備譲受に伴う増資後の額。
- 1951年は朝日乳業の合併、1953年は戸田橋工場の新設、1956年は設備合理化資金の増資による。
- 出所は明治乳業50年史および明治製菓40年小史。
出典・参考
4件
- 明治乳業50年史(明治乳業、1969年)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社、1968年)
- 明治製菓40年小史(明治製菓、1958年)