第2章 年〜年

日本長期信用銀行:債券発行残高1兆円の到達と東証二部上場

1961年〜技術革新期の設備資金と1兆円の到達

1961年6月、政府が保有していた優先株式の利益消却が完了し、長銀は民間資本だけの銀行になった。同年7月には千代田区大手町に新本店が竣工した。日本の産業はこの時期に技術革新の展開期を迎え、鉄鋼、電気機械、石油化学、自動車といった重化学工業の資金需要が旺盛だった。長銀の貸出もこれらに向かい、設備資金貸出純増額の42%を占めた。1961年度から1962年度にかけては資本市場の混乱で割引債の消化が停滞したものの、1963年度以降は再び拡大に転じ、1967年3月には債券発行残高が1兆円を超えて、日本で10番目の1兆円銀行となった。1968年3月末の債券発行残高は1兆1728億円、貸付残高は1兆1069億円だった。貸出の83%にあたる9195億円が設備資金で、これは全国銀行の設備資金貸出額の20%にあたる。この間の1966年8月、浜口巌根氏が会長に、宮崎一雄氏が頭取に就任した。

  • 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
    • [1]1961年6月に政府保有の優先株式の利益消却が完了した
  • 金融財政事情 35(4)(1640)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆
    • [2]1961年7月に千代田区大手町の新本店が竣工した
    • [5]1967年3月に債券発行残高が1兆円を超え日本で10番目の1兆円銀行となった
    • [8]1966年8月に浜口巌根氏が会長、宮崎一雄氏が頭取に就任した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)
    • [3]わが国産業はこの期に技術革新の展開期を迎え、鉄鋼・電気機械・石油化学・自動車など重化学工業の資金需要が旺盛だった
    • [4]重化学工業向けが設備資金貸出純増額の42%を占めた
    • [6]1968年3月末の債券発行残高1兆1728億円・貸付残高1兆1069億円
    • [7]設備資金9195億円は全国銀行の設備資金貸出額の20%にあたる

支店網は設立時の大阪・札幌に加え、名古屋、福岡、仙台、金沢、高松、広島へ順に広がり、1966年の広島支店開設で国内8支店になった。1964年にはニューヨークに駐在員事務所を置いた。もっとも、この店舗数は普通銀行とは比較にならない。1969年9月末時点の従業員数は1953人で、興銀の3653人より少なく、平均年齢28.4歳、平均勤続年数6.3年と若い組織だった。少数の店舗と行員で全国の産業に資金を配るために、長銀は都市銀行、地方銀行、信託銀行、相互銀行、信用金庫の527行と代理店契約を締結し、その窓口を通じて地方産業へ貸し付けた。1969年9月期の代理貸付は1万4532件で全体の74.3%を占めた。

  • 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
    • [9]1966年の広島支店開設で国内8支店となった
    • [10]1964年にニューヨーク駐在員事務所を開設した
    • [11]1969年9月末の店舗は本店と8支店のみで、従業員数1953人は興銀の3653人を下回った
    • [12]1969年9月末の従業員数1953人・平均年齢28.4歳・平均勤続6.3年、興銀は3653人
    • [13]527の金融機関と代理店契約を結び地方産業へ貸し付けた
    • [14]1969年9月期の代理貸付は1万4532件で全体の74.3%

1962年10月に10億円の公募増資で資本金を100億円とし、1963年9月に120億円、1965年8月に150億円と積み増した。1967年7月には3株に1株の割当で50億円を加え、資本金は200億円に達した。債券の発行残高が1兆円を超えたのは同じ1967年の3月だった。1970年2月には1株に0.1株の半額公募で40億円を加え、240億円となった。同年3月末の債券勘定は1兆5026億円で、資本合計512億円のおよそ29倍にあたる。債券で集めた資金を貸す仕組みは、資本の厚みがそのまま発行の上限を決める構造でもあった。

  • 日本企業要覧 1970年版「日本長期信用銀行」
    • [15]1962年10月に10億円の公募増資で資本金100億円となった
    • [16]1963年9月に1対0.2の増資で資本金120億円、1965年8月に1対0.25の増資で150億円となった
    • [17]1967年7月に3対1の増資で50億円を加え資本金200億円となった
    • [19]1970年2月に1対0.1の半額公募で40億円を加え資本金240億円となった
    • [20]1970年3月31日現在の債券勘定1兆5026億円・資本合計512億6461万円
  • 金融財政事情 35(4)(1640)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆
    • [18]1967年3月に債券発行残高が1兆円を超えた
参考文献[1]-[20]
  • 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
    • [1]1961年6月に政府保有の優先株式の利益消却が完了した
    • [9]1966年の広島支店開設で国内8支店となった
    • [10]1964年にニューヨーク駐在員事務所を開設した
    • [11]1969年9月末の店舗は本店と8支店のみで、従業員数1953人は興銀の3653人を下回った
    • [12]1969年9月末の従業員数1953人・平均年齢28.4歳・平均勤続6.3年、興銀は3653人
    • [13]527の金融機関と代理店契約を結び地方産業へ貸し付けた
    • [14]1969年9月期の代理貸付は1万4532件で全体の74.3%
  • 金融財政事情 35(4)(1640)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆
    • [2]1961年7月に千代田区大手町の新本店が竣工した
    • [5]1967年3月に債券発行残高が1兆円を超え日本で10番目の1兆円銀行となった
    • [8]1966年8月に浜口巌根氏が会長、宮崎一雄氏が頭取に就任した
    • [18]1967年3月に債券発行残高が1兆円を超えた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)
    • [3]わが国産業はこの期に技術革新の展開期を迎え、鉄鋼・電気機械・石油化学・自動車など重化学工業の資金需要が旺盛だった
    • [4]重化学工業向けが設備資金貸出純増額の42%を占めた
    • [6]1968年3月末の債券発行残高1兆1728億円・貸付残高1兆1069億円
    • [7]設備資金9195億円は全国銀行の設備資金貸出額の20%にあたる
  • 日本企業要覧 1970年版「日本長期信用銀行」
    • [15]1962年10月に10億円の公募増資で資本金100億円となった
    • [16]1963年9月に1対0.2の増資で資本金120億円、1965年8月に1対0.25の増資で150億円となった
    • [17]1967年7月に3対1の増資で50億円を加え資本金200億円となった
    • [19]1970年2月に1対0.1の半額公募で40億円を加え資本金240億円となった
    • [20]1970年3月31日現在の債券勘定1兆5026億円・資本合計512億6461万円

1970年〜東証二部上場の時点で抱えていた収益と資本の構造

1970年4月1日、長銀は東京証券取引所第二部に株式を上場した。銘柄コードは8303、上場時の資本金は240億円、上場株式数は4800万株で、公開価格は820円だった。1969年9月末の大株主には北海道拓殖銀行が3.38%、日本勧業銀行が2.34%と、母体となった2行が並んだ。以下は三菱重工業、川崎製鉄、大阪瓦斯、古河電気工業、第一銀行、日本鋼管、富士製鉄、八幡製鉄が1%台で続いた。上位10社を合わせても14.70%にとどまり、株主構成は融資先の事業会社に広く分散していた。大口貸出先も東京電力を筆頭に川崎製鉄、石川島播磨重工業、日本鋼管、東京芝浦電気、八幡製鉄、三菱重工業、富士製鉄、住友金属工業、日新製鋼と重工業が並び、上位10社で貸出金残高1兆3515億円の約13%を占めた。

  • 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
    • [21]1970年4月1日に東京証券取引所第二部へ上場し銘柄コードは8303
    • [22]上場時の資本金240億円・上場株式数4800万株・公開価格820円
    • [23]大株主は北海道拓殖銀行3.38%・日本勧業銀行2.34%で母体2行が上位を占めた
    • [24]1969年9月末の大株主は三菱重工業1.25%、川崎製鉄1.24%、大阪瓦斯1.10%、古河電気工業1.10%、第一銀行1.08%、日本鋼管1.07%、富士製鉄1.07%、八幡製鉄1.07%
    • [25]上位10社の持株比率は合計14.70%にとどまった
    • [26]大口貸出先上位10社で貸出金残高1兆3515億円の約13%を占めた

収益構造は制度に強く規定されていた。1969年9月期の経常収益662億円のうち86.4%が貸出金利息で、経常費用618億円の57.6%が債券利息、債券発行差金と発行費用の償却を加えると債券関係費用が82%を占めた。長信銀3行の貸出・証券利回りは8.18%、資金調達コストは7.73%で、利ざやは0.45%だった。同じ期の都市銀行は利回り7.21%、コスト6.36%で利ざやは0.86%あり、倍の開きがある。低金利政策のもとで長期貸出の基準金利が1966年10月から年8.2%に据え置かれ、長短金利の差が縮んだことがこの薄さの背景にある。経常収支率は長銀93.4%、興銀94.4%と、都市銀行の86.6%に比べて悪い。

  • 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
    • [27]預金の受入先が法律で限られ債券発行で資金を調達する制度のもとで、経常収益の86.4%を貸出金利息、経常費用の82%を債券関係費用が占めた
    • [28]1969年9月期の経常収益662億円のうち86.4%が貸出金利息
    • [29]経常費用の82%が債券関係費用だった
    • [30]利ざやは0.45%で都市銀行の0.86%の半分程度だった
    • [31]1966年10月から長期貸出の基準金利が年8.2%に据え置かれ長短金利差が縮んだ
    • [32]経常収支率は長銀93.4%・興銀94.4%で都市銀行86.6%より悪い

1970年3月末の株主は1万8366名で、その他の法人808名が58.98%、金融機関246名が30.84%を持っていた。一般の株主は1万7281名を数えながら持株比率は8.30%にとどまり、外国人の保有はなかった。10万株以上を持つ株主は112名で、発行済み4800万株の63.62%を保有していた。公開価格820円に対し、上場した1970年4月の株価は1150円から1245円の間で動いた。幹事証券会社は野村を筆頭に大和、山一、日興、日本勧業角丸など8社が並び、上場市場は東京と大阪だった。株式に値段が付いたあとも、資金の調達を債券に頼る構造は動かなかった。

  • 日本企業要覧 1970年版「日本長期信用銀行」
    • [33]1970年3月31日現在の株主総数1万8366名のうち、その他の法人808名が58.98%、金融機関246名が30.84%を保有した
    • [34]その他一般の株主は1万7281名で持株比率は8.30%
    • [35]外国人の保有株式は0株だった
    • [36]10万株以上の株主112名が発行済み4800万株の63.62%を保有した
    • [38]1970年4月の公開後の株価は最高1245円・最低1150円
    • [39]幹事証券会社は野村・大和・山一・日興・日本勧業角丸・新日本・第一・大阪屋の8社、上場市場は東京と大阪
  • 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
    • [37]上場時の公開価格は820円だった
参考文献[21]-[39]
  • 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
    • [21]1970年4月1日に東京証券取引所第二部へ上場し銘柄コードは8303
    • [22]上場時の資本金240億円・上場株式数4800万株・公開価格820円
    • [23]大株主は北海道拓殖銀行3.38%・日本勧業銀行2.34%で母体2行が上位を占めた
    • [24]1969年9月末の大株主は三菱重工業1.25%、川崎製鉄1.24%、大阪瓦斯1.10%、古河電気工業1.10%、第一銀行1.08%、日本鋼管1.07%、富士製鉄1.07%、八幡製鉄1.07%
    • [25]上位10社の持株比率は合計14.70%にとどまった
    • [26]大口貸出先上位10社で貸出金残高1兆3515億円の約13%を占めた
    • [27]預金の受入先が法律で限られ債券発行で資金を調達する制度のもとで、経常収益の86.4%を貸出金利息、経常費用の82%を債券関係費用が占めた
    • [28]1969年9月期の経常収益662億円のうち86.4%が貸出金利息
    • [29]経常費用の82%が債券関係費用だった
    • [30]利ざやは0.45%で都市銀行の0.86%の半分程度だった
    • [31]1966年10月から長期貸出の基準金利が年8.2%に据え置かれ長短金利差が縮んだ
    • [32]経常収支率は長銀93.4%・興銀94.4%で都市銀行86.6%より悪い
    • [37]上場時の公開価格は820円だった
  • 日本企業要覧 1970年版「日本長期信用銀行」
    • [33]1970年3月31日現在の株主総数1万8366名のうち、その他の法人808名が58.98%、金融機関246名が30.84%を保有した
    • [34]その他一般の株主は1万7281名で持株比率は8.30%
    • [35]外国人の保有株式は0株だった
    • [36]10万株以上の株主112名が発行済み4800万株の63.62%を保有した
    • [38]1970年4月の公開後の株価は最高1245円・最低1150円
    • [39]幹事証券会社は野村・大和・山一・日興・日本勧業角丸・新日本・第一・大阪屋の8社、上場市場は東京と大阪

1971年〜三つのVのもとでの融資先と業務領域の入れ替え

1960年代の後半、日本経済は開放体制を完成させ、基礎産業に代わって自動車や電気機器の機械産業が伸び、その下では建設、流通、運輸、サービスの第三次産業が興っていた。長銀も融資基盤の入れ替えを迫られる。業務部長として資金調達と運用の両方を見た杉浦敏介氏は、西武流通グループ、高島屋、そごう、丸井、長崎屋、イトーヨーカ堂、ジャスコ、ニチイの多店舗化を支援し、この分野では興銀を上回った。東海興業、佐藤工業、フジタ工業、鹿島建設、東急建設を中心に不動産担保金融も広げた。当時の行内では、1950年代の金融緩和は技術革新投資による一時的なもので、1960年代後半には長銀の存立基盤が崩れるのではないかという議論があった。

  • 金融財政事情 35(4)(1640)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆
    • [40]建設・流通・運輸・サービスの第三次産業が興り融資基盤の入れ替えが必要になった
    • [41]西武流通グループ・イトーヨーカ堂など流通業の多店舗化を支援し興銀を上回った
    • [42]建設会社を中心に不動産担保金融を拡大した
    • [43]1960年代後半には長銀の存立基盤が崩れるのではないかという議論が行内にあった

1971年5月、杉浦敏介氏が頭取に就任した。就任にあたって掲げたのが三つのVで、従来の路線に固執せず変化に対応する先見性を持つこと、行員がバイタリティを発揮すること、危険をすべて避けようとせず主体性のあるベンチャーであることの3点を指す。まもなく日本経済はニクソン・ショックと円切り上げ、1973年の石油危機に見舞われた。長銀が得意とした社会開発金融は杉浦氏の頭取就任時点で総貸出残高の4.6%を占めていたが、円切り上げと石油危機で地価が急騰したため、住宅と土地関連の融資を抑え、関連会社の再編に着手した。第一住宅金融の設立や日本ランドシステムへの人材派遣がその一例である。頭取として最も力を入れたのは国際業務で、外国部を国際業務部、国際金融部、外国営業部の3部制に改め、ロンドンとニューヨークの事務所を支店に昇格させた。1978年、杉浦氏は頭取を吉村勘兵衛氏に譲り、会長に就任した。

  • 金融財政事情 35(4)(1640)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆
    • [44]1971年5月に杉浦敏介氏が頭取に就任し三つのVを掲げた
    • [45]三つのVは先見性・バイタリティ・ベンチャーの3点を指す
    • [46]杉浦氏の頭取就任後まもなく日本経済は昭和46年のニクソン・ショックと円切上げ、昭和48年の石油危機に見舞われた
    • [47]社会開発金融は頭取就任時に総貸出残高の4.6%を占めていた
    • [48]円切り上げと石油危機の地価急騰を受け住宅・土地関連融資を抑制し関連会社を再編した
    • [49]住宅・土地関連融資の抑制と関連会社再編成の一例が第一住宅金融の設立と日本ランドシステム社長への倉科氏派遣だった
    • [50]外国部を3部制に改めロンドン・ニューヨークの事務所を支店へ昇格させた
    • [51]1978年に杉浦敏介氏が頭取を吉村勘兵衛氏に譲り会長に就いた

私募債を斡旋し取りまとめる仕事は、証券取引法の上で引受業務とはされず、証券会社にしか許されない仕事でもなかった。長銀は1970年の時点で、証券市場と多方面で関わり、国際金融業務にも積極的に近づこうとしていると評された。1972年4月からは、外国企業のドル建て私募債を国内で売る動きが活発になった。1972年8月、長銀はフィンランド不動産銀行の私募債で幹事として販売を引き受けた。翌9月には興銀もテキサコ社の私募債で同じ役割に就いた。証券界はこれを銀行の参入と捉え、対立はのちに垣根論争と呼ばれるまでに広がった。貸出先を広げる動きは、業務の領域そのものを外へ押し出していた。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留、1986年)1章「六五条をめぐる証券と銀行」銀行からの証券業務参入
    • [52]私募債の斡旋・取りまとめは証券取引法上の引受業務に該当せず、証券会社だけに認められたものではなかった
    • [54]1972年4月以降、外国企業のドル建て私募債の国内販売が盛んになった
    • [55]1972年8月のフィンランド不動産銀行の私募債について日本長期信用銀行が幹事として販売を行った
    • [56]1972年9月のテキサコ社の私募債には日本興業銀行が幹事として販売を行った
    • [57]銀行による私募債販売は銀行からの参入とみなされ、いわゆる垣根論争に発展した
  • 日本企業要覧 1970年版「日本長期信用銀行」
    • [53]長銀は証券市場とも多面的に密接な関係を有し、国際金融業務への接近も意欲的だと評された
参考文献[40]-[57]
  • 金融財政事情 35(4)(1640)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆
    • [40]建設・流通・運輸・サービスの第三次産業が興り融資基盤の入れ替えが必要になった
    • [41]西武流通グループ・イトーヨーカ堂など流通業の多店舗化を支援し興銀を上回った
    • [42]建設会社を中心に不動産担保金融を拡大した
    • [43]1960年代後半には長銀の存立基盤が崩れるのではないかという議論が行内にあった
    • [44]1971年5月に杉浦敏介氏が頭取に就任し三つのVを掲げた
    • [45]三つのVは先見性・バイタリティ・ベンチャーの3点を指す
    • [46]杉浦氏の頭取就任後まもなく日本経済は昭和46年のニクソン・ショックと円切上げ、昭和48年の石油危機に見舞われた
    • [47]社会開発金融は頭取就任時に総貸出残高の4.6%を占めていた
    • [48]円切り上げと石油危機の地価急騰を受け住宅・土地関連融資を抑制し関連会社を再編した
    • [49]住宅・土地関連融資の抑制と関連会社再編成の一例が第一住宅金融の設立と日本ランドシステム社長への倉科氏派遣だった
    • [50]外国部を3部制に改めロンドン・ニューヨークの事務所を支店へ昇格させた
    • [51]1978年に杉浦敏介氏が頭取を吉村勘兵衛氏に譲り会長に就いた
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留、1986年)1章「六五条をめぐる証券と銀行」銀行からの証券業務参入
    • [52]私募債の斡旋・取りまとめは証券取引法上の引受業務に該当せず、証券会社だけに認められたものではなかった
    • [54]1972年4月以降、外国企業のドル建て私募債の国内販売が盛んになった
    • [55]1972年8月のフィンランド不動産銀行の私募債について日本長期信用銀行が幹事として販売を行った
    • [56]1972年9月のテキサコ社の私募債には日本興業銀行が幹事として販売を行った
    • [57]銀行による私募債販売は銀行からの参入とみなされ、いわゆる垣根論争に発展した
  • 日本企業要覧 1970年版「日本長期信用銀行」
    • [53]長銀は証券市場とも多面的に密接な関係を有し、国際金融業務への接近も意欲的だと評された

筆者考察

1兆円銀行という呼び名は、成長の勲章であると同時に、それしか手がなかったことの記録でもある。1969年9月期の長銀は、経常収益662億円の86.4%を貸出金利息で稼ぎ、経常費用の82%を債券に関わる費用で失っていた。利ざやは0.45%で、都市銀行の0.86%の半分しかない。1966年10月から長期貸出の基準金利が年8.2%に据え置かれ、長短の金利差が縮んだためである。利幅を広げる手段を制度に封じられた銀行が利益を増やすには、貸す金額そのものを増やすほかにない。1967年3月の1兆円到達も、1970年3月末に1兆5026億円へ達した債券残高も、その算術の帰結だった。

量を追う銀行は、貸す相手を選び続けなければならない。1960年代の後半に基礎産業の設備投資が一巡すると、杉浦敏介氏は西武流通グループやイトーヨーカ堂の多店舗化へ、東海興業や鹿島建設の不動産担保金融へと貸出先を移した。1971年に掲げた三つのVのうち、危険をすべて避けようとせず主体性のあるベンチャーであれという一条は、この移動を正当化する言葉でもある。1972年にフィンランド不動産銀行の私募債で幹事に立ち、証券会社との境界へ踏み込んだのも同じ動きの延長にある。貸す先を探し続ける銀行という性格は、このとき長銀の体質になった。

債券発行残高の推移 1961年〜1970年(億円)

3,572 1961年3月 11,728 1968年3月 15,026 1970年3月
  • 各年3月末の残高。1970年3月末は貸借対照表の債券勘定。

出典・参考

5件
出典・参考
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)
  • 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
  • 日本企業要覧 1970年版「日本長期信用銀行」
  • 金融財政事情 35(4)(1640)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留、1986年)1章「六五条をめぐる証券と銀行」銀行からの証券業務参入

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