第3章 年〜年

日本長期信用銀行:イ・アイ・イ・インターナショナルへの役員派遣と融資先の変質

1980年〜社債市場の発達と格付けの引き下げ

1980年代に入ると、長銀から資金を借りる企業の側が変わった。鉄鋼をはじめとする基幹産業は社債市場から低利で資金を調達できるようになり、長信銀からの借入依存度を下げた。長期の産業資金を安定して供給するという設立の趣旨は、その供給先が自力で市場から調達するようになった時点で成り立たなくなる。1987年、ムーディーズは邦銀の長期債格付けを相次いで引き下げ、最上級のAaaだった長銀を2段階下のAa2とした。ムーディーズが挙げた理由は3つある。日本の金融システムにおける長信銀の将来の役割が不透明であること。債券市場の自由化と資金調達の証券化で、国内金融に占める長銀の重要性が下がること。国内の支店網が都市銀行に比べて限られ、小口や中堅企業の市場に参入しにくいこと。

  • Decide 11(7)(117)(1993年)
    • [1]鉄鋼メーカーは社債市場の発達で低利の資金を調達できるようになり、長信銀からの借入依存度を下げた
    • [2]基幹産業が社債市場から低利で調達できるようになり長信銀への借入依存度が下がった
    • [3]長期に安定した産業資金を供給するという長信銀の趣旨に対し、大手企業が社債市場から低利で調達するようになったことが長信銀の使命は終わったといわれるゆえんとされた
  • Decide 5(8)(46)(1987年)
    • [4]1987年にムーディーズが長銀の長期債格付けをAaaから2段階下のAa2へ引き下げた
    • [5]ムーディーズは格下げ理由の第一に日本の金融システムにおける長信銀の将来の役割の不透明さを挙げた
    • [6]格下げ理由は長信銀の将来の役割の不透明さ・証券化による重要性低下・支店網の限界

格付けの引き下げと同時に、自己資本の薄さも外から指摘された。1987年3月期の自己資本比率は本則基準で長銀2.80%、興銀2.90%、日債銀2.70%で、大蔵省が示した4%程度以上という目標に届かない。欧米の一流銀行は6%程度を持っており、この差は国際業務を続けるうえで不利に働いた。長信銀3行はこの年、時価発行増資と海外転換社債で資本を積み増し、長銀と日債銀はそれぞれ700億円から900億円を集めた。もっとも、転換社債の転換がすべて済んだとしても自己資本比率の改善は0.2%から0.3%程度にとどまる計算だった。株式の含み益を自己資本に算入することがBISのクック委員会で認められ、邦銀は翌年度から実施した。この年の邦銀全体の時価発行増資は1兆5000億円に達し、長信銀では興銀が中間発行だけで2177億円を集めた。

  • Decide 5(8)(46)(1987年)
    • [7]邦銀の自己資本比率の低さが内外から指摘され、リスクをカバーし切れない恐れがあると分析された
    • [8]1987年3月期の自己資本比率は本則基準で長銀2.80%・興銀2.90%・日債銀2.70%
    • [9]大蔵省の目標4%程度に対し欧米の一流銀行は6%程度の自己資本比率を持っていた
    • [10]1987年秋に長銀と日債銀は時価発行増資と海外転換社債で700億〜900億円を調達した
    • [11]増資実施後の自己資本比率は転換社債の転換が全部済んだとしても0.2〜0.3%上がる程度と見込まれた
    • [12]BISのクック委員会が株式含み益の自己資本算入を認め邦銀は翌年度から実施した
    • [13]1987年秋の邦銀の時価発行増資は総額1兆5000億円で興銀は中間発行だけで2177億円を調達した
参考文献[1]-[13]
  • Decide 11(7)(117)(1993年)
    • [1]鉄鋼メーカーは社債市場の発達で低利の資金を調達できるようになり、長信銀からの借入依存度を下げた
    • [2]基幹産業が社債市場から低利で調達できるようになり長信銀への借入依存度が下がった
    • [3]長期に安定した産業資金を供給するという長信銀の趣旨に対し、大手企業が社債市場から低利で調達するようになったことが長信銀の使命は終わったといわれるゆえんとされた
  • Decide 5(8)(46)(1987年)
    • [4]1987年にムーディーズが長銀の長期債格付けをAaaから2段階下のAa2へ引き下げた
    • [5]ムーディーズは格下げ理由の第一に日本の金融システムにおける長信銀の将来の役割の不透明さを挙げた
    • [6]格下げ理由は長信銀の将来の役割の不透明さ・証券化による重要性低下・支店網の限界
    • [7]邦銀の自己資本比率の低さが内外から指摘され、リスクをカバーし切れない恐れがあると分析された
    • [8]1987年3月期の自己資本比率は本則基準で長銀2.80%・興銀2.90%・日債銀2.70%
    • [9]大蔵省の目標4%程度に対し欧米の一流銀行は6%程度の自己資本比率を持っていた
    • [10]1987年秋に長銀と日債銀は時価発行増資と海外転換社債で700億〜900億円を調達した
    • [11]増資実施後の自己資本比率は転換社債の転換が全部済んだとしても0.2〜0.3%上がる程度と見込まれた
    • [12]BISのクック委員会が株式含み益の自己資本算入を認め邦銀は翌年度から実施した
    • [13]1987年秋の邦銀の時価発行増資は総額1兆5000億円で興銀は中間発行だけで2177億円を調達した

1985年〜海外M&Aの仲介による新規取引先の開拓

制度に守られた貸出が減るなかで、長銀は手数料と新規取引先を同時に得る手立てとしてM&Aの仲介に力を入れた。1985年にこの分野へ参入し、1989年の日本企業による海外企業買収の仲介ランキングでは買収総額で日本勢の首位に立った。長銀はこの分野に参入して5年のうちに、60件、合計60億ドルの案件を手がけた。助言役を務めた案件には、1988年9月に西武セゾングループがインターコンチネンタル・ホテルズを買収した件や、1990年に日本航空・ルフトハンザ航空・日商岩井がDHLに資本参加した件がある。長銀の設立は1952年で銀行としては新しく、取引先は大企業が中心で7000社から8000社にとどまっていた。そのためM&Aは、新しい取引先を開拓する手段と位置づけられた。長銀が重視したのは仲介料の収入よりも、買収資金を融資する機会と、企業の内部事情を知る機会だった。

  • 日経ビジネス 1990年8月13日号
    • [14]金融自由化で銀行間の貸出競争が激化するなか、長銀のM&Aは仲介手数料に加えて新規取引先開拓の先兵の役割を担った
    • [15]1985年にM&A仲介へ参入し1989年の仲介ランキングで買収総額の日本勢首位となった
    • [16]参入から5年で60件・総額60億ドルの案件をまとめた
    • [17]西武セゾングループのインターコンチネンタル・ホテルズ買収と日本航空のDHL資本参加を助言した
    • [18]取引先は大企業中心に7000社から8000社と少なかった
    • [19]M&Aは仲介手数料だけでなく買収資金の融資につながり、企業のフトコロに入り込んで抱える問題やニーズを知る機会になると長銀は位置づけた

1989年6月、堀江鐵彌氏が頭取に就任した。1953年に東京大学経済学部を出て長銀に入った第一期生で、審査部を振り出しに主に国際畑を歩み、1973年に国際業務部長、1986年3月に副頭取を務めた。国際業務部長のときには石油危機でユーロ市場が混乱し、長期の貸出をユーロダラーの短期資金で賄っていた長銀は資金調達と為替の両面で損失を抱えかけた。堀江氏のもとで長銀は第6次の長期経営計画を始め、資金為替業務やマーチャントバンキングの充実に続いて、資産業務の収益性を高める方針を掲げた。長銀は、単なる商業銀行でも投資銀行でもないクオリティー・バンクを目指すと掲げた。

  • 日経ビジネス 1989年9月11日号
    • [20]1989年6月に堀江鐵彌氏が頭取に就任した
    • [21]堀江鐵彌氏は1953年東大経済学部卒の第一期生で1973年国際業務部長・1986年3月副頭取
    • [22]石油危機時に長期貸出をユーロダラーの短期資金で賄い調達と為替の損失を抱えかけた
    • [23]第6次長期経営計画で資産業務の収益性向上を掲げクオリティー・バンクを目標とした
参考文献[14]-[23]
  • 日経ビジネス 1990年8月13日号
    • [14]金融自由化で銀行間の貸出競争が激化するなか、長銀のM&Aは仲介手数料に加えて新規取引先開拓の先兵の役割を担った
    • [15]1985年にM&A仲介へ参入し1989年の仲介ランキングで買収総額の日本勢首位となった
    • [16]参入から5年で60件・総額60億ドルの案件をまとめた
    • [17]西武セゾングループのインターコンチネンタル・ホテルズ買収と日本航空のDHL資本参加を助言した
    • [18]取引先は大企業中心に7000社から8000社と少なかった
    • [19]M&Aは仲介手数料だけでなく買収資金の融資につながり、企業のフトコロに入り込んで抱える問題やニーズを知る機会になると長銀は位置づけた
  • 日経ビジネス 1989年9月11日号
    • [20]1989年6月に堀江鐵彌氏が頭取に就任した
    • [21]堀江鐵彌氏は1953年東大経済学部卒の第一期生で1973年国際業務部長・1986年3月副頭取
    • [22]石油危機時に長期貸出をユーロダラーの短期資金で賄い調達と為替の損失を抱えかけた
    • [23]第6次長期経営計画で資産業務の収益性向上を掲げクオリティー・バンクを目標とした

1986年〜ノンバンクと不動産向け融資への傾斜

産業向けの貸出が減るなかで、長銀が新しい貸出先としたのはノンバンクと不動産だった。ノンバンクの多くは銀行や商社の系列企業で、以前から取引があり、信用度の高い借り手と見なされていた。1985年10月に東京支店内へ新規取引専門部を置き、翌1986年1月にイ・アイ・イ・インターナショナルとの取引を始めた。同社を率いた高橋治則氏を、長銀の役員は次の世代を担う企業を育てるという方針に合う経営者と見ていた。1988年4月には役員を派遣した。1989年11月には新規プロジェクトの抑制を申し入れ、1990年11月には同社の資金繰りが悪化した。1994年3月末、長信銀3行はいずれも不動産業と金融保険業向けの融資比率を高めており、長銀の金融保険業向けは23.6%に達した。

  • Decide 11(7)(117)(1993年)
    • [24]従来の産業金融が手詰まりとなるなかで長信銀3行はノンバンク融資と不動産を担保にした融資に走った
    • [25]ノンバンクの多くは銀行や商社の系列企業で信用度の高い借り手と見なされていた
  • 日経ビジネス 1995年7月10日号
    • [26]1985年10月に東京支店内へ新規取引専門部を設置し1986年1月にイ・アイ・イと取引を開始した
    • [27]長銀の役員は高橋治則氏をロマンのある経営者と評価していた
    • [28]1988年4月に役員を派遣し1989年11月に新規プロジェクトの抑制を申し入れた
    • [29]1994年3月末時点で長銀の金融保険業向け融資比率は23.6%だった

1993年の時点で、長信銀の存在理由は業界の内側から否定されていた。基幹産業である鉄鋼メーカーの財務担当役員の目にも、長期信用銀行の存在理由はとうになくなっていた。金融制度改革によって中長期の定期預金が解禁され、期間4年物が1993年10月、5年物が1994年中に導入されることで、長短金融の垣根は事実上消えた。大蔵省は金融債を長信銀の既得権として扱い、証券業務と信託業務への参入を都市銀行より1年早く認めたが、それは制度そのものの寿命を延ばすものではなかった。同じ時期に長銀は証券子会社を設立した。大企業の長信銀離れ、金融自由化、バブルの後遺症という3つが重なり、店舗数は大手都銀の20分の1以下、行員数は4分の1以下という規模で都市銀行と競った。

  • Decide 11(7)(117)(1993年)
    • [30]基幹産業の側から、長信銀は新しい道を探らなければ生きていけなくなるのではないかと評された
    • [31]鉄鋼メーカーの財務担当役員が長期信用銀行の存在理由はなくなっていると評した
    • [32]金融制度改革で中長期定期預金が解禁され4年物は1993年10月・5年物は1994年中に導入された
    • [33]大蔵省は金融債を長信銀の既得権とし証券・信託業務への参入を都銀より1年早く認めた
    • [34]長銀は証券子会社を設立したものの、ノウハウがなくパワー不足と評された
    • [35]大企業の長信銀離れ・金融自由化・バブルの後遺症の3つを抱えた
    • [36]店舗数は大手都銀の20分の1以下、行員数は4分の1以下だった
参考文献[24]-[36]
  • Decide 11(7)(117)(1993年)
    • [24]従来の産業金融が手詰まりとなるなかで長信銀3行はノンバンク融資と不動産を担保にした融資に走った
    • [25]ノンバンクの多くは銀行や商社の系列企業で信用度の高い借り手と見なされていた
    • [30]基幹産業の側から、長信銀は新しい道を探らなければ生きていけなくなるのではないかと評された
    • [31]鉄鋼メーカーの財務担当役員が長期信用銀行の存在理由はなくなっていると評した
    • [32]金融制度改革で中長期定期預金が解禁され4年物は1993年10月・5年物は1994年中に導入された
    • [33]大蔵省は金融債を長信銀の既得権とし証券・信託業務への参入を都銀より1年早く認めた
    • [34]長銀は証券子会社を設立したものの、ノウハウがなくパワー不足と評された
    • [35]大企業の長信銀離れ・金融自由化・バブルの後遺症の3つを抱えた
    • [36]店舗数は大手都銀の20分の1以下、行員数は4分の1以下だった
  • 日経ビジネス 1995年7月10日号
    • [26]1985年10月に東京支店内へ新規取引専門部を設置し1986年1月にイ・アイ・イと取引を開始した
    • [27]長銀の役員は高橋治則氏をロマンのある経営者と評価していた
    • [28]1988年4月に役員を派遣し1989年11月に新規プロジェクトの抑制を申し入れた
    • [29]1994年3月末時点で長銀の金融保険業向け融資比率は23.6%だった

出典・参考

5件
出典・参考
  • 日経ビジネス 1989年9月11日号
  • 日経ビジネス 1990年8月13日号
  • 日経ビジネス 1995年7月10日号
  • Decide 5(8)(46)(1987年)
  • Decide 11(7)(117)(1993年)

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