日本長期信用銀行:不良債権処理の遅れと特別公的管理による一時国有化
1993年〜イ・アイ・イへの支援打ち切りと経営陣の交代
1993年7月、長銀はイ・アイ・イ・インターナショナルへの支援を打ち切った。1991年4月から2次にわたるリストラ計画を進めたうえでの判断だった。ところが撤退の後も同社との関係は残り、1995年3月には東京協和信用組合と安全信用組合の問題に関連して、堀江鐵彌頭取が国会に参考人として招致された。支援打ち切りの経緯をめぐる答弁が事実と食い違い、証人喚問へ発展した。同月31日、長銀は堀江氏の辞任と副頭取だった大野木克信氏の頭取昇格を発表した。長銀の行内には、何かあれば日本興業銀行の後ろについていけばよいという意識があり、自ら危機を回避する経験を積んでこなかった。
- 日経ビジネス 1995年7月10日号
- [1]1993年7月にイ・アイ・イへの支援を打ち切った
- [2]イ・アイ・イの第1次リストラ計画は1991年4月に始まり、長銀は91年4月からのリストラ期間を経て93年7月に支援を打ち切った
- [3]1995年3月に堀江鐵彌頭取が2信組問題で国会に参考人招致され証人喚問へ発展した
- [4]1995年3月31日に堀江氏の辞任と大野木克信氏の頭取昇格を発表した
- [5]興銀の後ろについていけばよいという意識のもとで危機回避の訓練を積んでこなかった
大野木克信氏が頭取に就任した直後の1995年4月、スタンダード・アンド・プアーズは長銀の格付けを引き下げる方針を伝えてきた。1993年からシングルAマイナスまで下がっていた格付けは、通告どおりトリプルBプラスに落ちた。国際金融の世界でトリプルBは一流の銀行ではないという評価にあたり、ドルの短期調達で長期運用を賄う邦銀にとって、格付けの低下はそのまま流動性の問題に直結した。長銀が示した回答は、1998年度に業務純益1200億円以上を確保するという計画だった。1995年3月期の809億円の1.5倍にあたる。高利回りの利付金融債約5兆円が低い利回りへ乗り換われば2000億円以上の収益改善が見込め、これに中堅企業の新規開拓を年500社から600社上積みし、デリバティブ取引で収益の4分の1を稼ぐ構想を立てた。
- 日経ビジネス 1995年7月10日号
- [6]1995年4月にS&Pが格付け引き下げを通告しトリプルBプラスへ転落した
- [7]ドルを短期で調達し長期で運用する構造のため格付け低下が流動性の問題に直結した
- [8]1998年度に業務純益1200億円以上という計画は1995年3月期809億円の1.5倍にあたる
- [9]高利回りの利付金融債約5兆円の乗り換えで2000億円以上の収益改善を見込んだ
- [10]中堅企業を年500社から600社新規開拓しデリバティブで収益の4分の1を稼ぐ構想だった
参考文献[1]-[10]
- 日経ビジネス 1995年7月10日号
- [1]1993年7月にイ・アイ・イへの支援を打ち切った
- [2]イ・アイ・イの第1次リストラ計画は1991年4月に始まり、長銀は91年4月からのリストラ期間を経て93年7月に支援を打ち切った
- [3]1995年3月に堀江鐵彌頭取が2信組問題で国会に参考人招致され証人喚問へ発展した
- [4]1995年3月31日に堀江氏の辞任と大野木克信氏の頭取昇格を発表した
- [5]興銀の後ろについていけばよいという意識のもとで危機回避の訓練を積んでこなかった
- [6]1995年4月にS&Pが格付け引き下げを通告しトリプルBプラスへ転落した
- [7]ドルを短期で調達し長期で運用する構造のため格付け低下が流動性の問題に直結した
- [8]1998年度に業務純益1200億円以上という計画は1995年3月期809億円の1.5倍にあたる
- [9]高利回りの利付金融債約5兆円の乗り換えで2000億円以上の収益改善を見込んだ
- [10]中堅企業を年500社から600社新規開拓しデリバティブで収益の4分の1を稼ぐ構想だった
1997年〜スイス銀行との提携と市場からの圧力
1997年7月、長銀はスイス銀行と株式の相互持ち合いや合弁会社の設立を柱とする業務・資本提携を結んだ。同年3月に日本債券信用銀行がバンカース・トラストと、4月に北海道拓殖銀行がバークレイズ銀行と提携を発表しており、市場は長銀の出方を注視していた。市場業務で収益を上げる投資銀行への転換は、産業金融が細った長信銀にとって残された道であり、提携そのものは市場から評価された。長銀が投資銀行への転換を初めて掲げたのは第5次長期経営計画だった。これを否定し、中堅企業への融資拡大を掲げる第6次長期経営計画を策定したのが、当時の企画部長だった大野木氏である。提携はいったん退けた路線を引き戻すもので、その間に処理すべき不良債権が積み上がった。
- 日経ビジネス 1998年7月6日号
- [11]1997年7月9日にスイス銀行と業務・資本提携を結んだ
- [12]日債銀はバンカース・トラストと、拓銀はバークレイズ銀行と相次いで提携を発表していた
- [13]長銀は提携を機に証券・投資顧問業務を強化し投資銀行として活路を見いだす方針で、市場は提携を評価していた
- 日経ビジネス 2000年4月3日号
- [14]投資銀行への転換を初めて掲げたのは第5次長期経営計画だった
- [15]第5次計画の投資銀行路線を否定し中堅企業への融資拡大を掲げる第6次計画を策定したのが企画部長時代の大野木氏だった
- [16]大野木氏は投資銀行路線を掲げた第5次長期経営計画を否定した第6次長計の策定者であり、遅れて実現した投資銀行構想の間にバブル期の負の遺産処理は先送りされた
1997年8月、提携がまとまってから2か月もたたないうちに、ムーディーズは長銀の社債格付けと財務格付けをともに下げ、提携によっても本業の地盤沈下は埋め合わせられないとの判断を示した。株式の持ち合い比率も、当初取り決めた互いに10%から、年内は互いに1%で始める形に改められていた。11月に入って三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券が相次いで破綻し市場の目が長銀へ集まると、スイス銀行が提携を解消するという噂まで出回り、株価は急激に下落した。1998年6月には合弁会社の長銀ウォーバーグ証券が長銀株を市場で売却し、提携解消の動きと受け止められて株価は額面の50円に迫った。長銀は風説の流布として証券取引等監視委員会に調査を依頼し、信用不安を報じた雑誌を提訴したが、市場の評価は戻らなかった。
- 日経ビジネス 1998年7月6日号
- [17]1997年8月にムーディーズが提携は主力業務の低下を補わないとして格付けを引き下げた
- [18]株式の相互持ち合いは10%ずつから年内に1%ずつへ修正された
- [19]1997年11月に三洋証券・北海道拓殖銀行・山一証券が相次いで破綻し市場の視線が長銀へ向かった
- [21]長銀ウォーバーグ証券の長銀株売却が提携解消の動きと受け止められ株価が額面に迫った
- 日経ビジネス 2000年4月3日号
- [20]株式市場にスイス銀行が長銀との提携を解消するとの噂が駆け巡り、長銀株は前日比で急落した
- [22]風説の流布として証券取引等監視委員会へ調査を依頼し雑誌を提訴した
1998年6月26日、長銀は住友信託銀行との合併に向けた検討に入ると発表した。合併時期は翌年4月をめどとし、行名も経営も住友信託が引き継ぐ内容で、実質は救済合併だった。1998年3月期の公表不良債権は1兆3785億円、引当率は53.5%で上位行のなかでは低い。当時の業務純益1646億円を全額償却に充てても、処理の完了までに8年余りかかる計算だった。市場が疑ったのは公表値そのものより、日本リース、長銀インターナショナルリース、エヌ・イー・ディー、日本ランディックといった関連会社に不良債権が隠れていないかという点にある。長銀は必要な支援を終えたとの立場をとったが、関連ノンバンク3社を法的に整理して損失額を確定させた日債銀と比べ、支援終了という言葉は市場に届かなかった。
- 日経ビジネス 1998年7月6日号
- [23]1998年6月26日に住友信託銀行との合併検討を発表し行名も経営も住友信託が引き継ぐ内容だった
- [24]1998年3月期の公表不良債権1兆3785億円・引当率53.5%
- [25]業務純益1646億円を全額償却に充てても処理完了まで8年余りを要する計算だった
- [26]日本リースなど関連会社に不良債権が隠れているという疑念が市場にあった
- [27]関連ノンバンク3社を法的整理して損失を確定させた日債銀と比べ支援終了の説明は届かなかった
参考文献[11]-[27]
- 日経ビジネス 1998年7月6日号
- [11]1997年7月9日にスイス銀行と業務・資本提携を結んだ
- [12]日債銀はバンカース・トラストと、拓銀はバークレイズ銀行と相次いで提携を発表していた
- [13]長銀は提携を機に証券・投資顧問業務を強化し投資銀行として活路を見いだす方針で、市場は提携を評価していた
- [17]1997年8月にムーディーズが提携は主力業務の低下を補わないとして格付けを引き下げた
- [18]株式の相互持ち合いは10%ずつから年内に1%ずつへ修正された
- [19]1997年11月に三洋証券・北海道拓殖銀行・山一証券が相次いで破綻し市場の視線が長銀へ向かった
- [21]長銀ウォーバーグ証券の長銀株売却が提携解消の動きと受け止められ株価が額面に迫った
- [23]1998年6月26日に住友信託銀行との合併検討を発表し行名も経営も住友信託が引き継ぐ内容だった
- [24]1998年3月期の公表不良債権1兆3785億円・引当率53.5%
- [25]業務純益1646億円を全額償却に充てても処理完了まで8年余りを要する計算だった
- [26]日本リースなど関連会社に不良債権が隠れているという疑念が市場にあった
- [27]関連ノンバンク3社を法的整理して損失を確定させた日債銀と比べ支援終了の説明は届かなかった
- 日経ビジネス 2000年4月3日号
- [14]投資銀行への転換を初めて掲げたのは第5次長期経営計画だった
- [15]第5次計画の投資銀行路線を否定し中堅企業への融資拡大を掲げる第6次計画を策定したのが企画部長時代の大野木氏だった
- [16]大野木氏は投資銀行路線を掲げた第5次長期経営計画を否定した第6次長計の策定者であり、遅れて実現した投資銀行構想の間にバブル期の負の遺産処理は先送りされた
- [20]株式市場にスイス銀行が長銀との提携を解消するとの噂が駆け巡り、長銀株は前日比で急落した
- [22]風説の流布として証券取引等監視委員会へ調査を依頼し雑誌を提訴した
1998年〜一時国有化とリップルウッド陣営への譲渡
長銀は1998年3月に健全な銀行と認められて1800億円の公的資金を受けていたため、合併を救済と位置づければ、資金を注入した根拠を自ら覆すことになる。大野木克信頭取が思い描いていたのは、互いの得意分野を合わせる対等な形の統合だったが、住友信託の高橋温社長は正常債権のほかは引き受けないとの立場を崩さず、協議は最後まで折り合わなかった。8月に入って額面50円を下回った株価は、8月21日に37円まで下げ、合併を通じた再建の道は閉ざされた。長銀の扱いは与野党の争点となり、数か月の攻防を経て特別公的管理による一時国有化が決まった。1998年10月、長銀は一時国有化を申請した。債務超過の穴埋めと譲渡までの引当金の積み増しで、1行の破綻処理に投じられた公的資金は4兆円を超えた。国有化後の金融監督庁の検査では、不良債権が長銀の自己査定より約1兆4000億円多いことが判明した。
- Decide 17(3)(185)(1999年)
- [28]1998年3月に健全な銀行と認定され1800億円の公的資金が投入された
- [35]金融監督庁の検査で不良債権が自己査定より約1兆4000億円多いと判明した
- 日経ビジネス 2000年4月3日号
- [29]合併発表会見で大野木氏はあくまで通常の合併と主張し、住友信託の高橋温社長は正常債権しか引き取るつもりはないと述べ、両者の主張は全く噛み合わなかった
- [32]長銀は与野党の政争の具となり、数カ月にわたる攻防の末に一時国有化という結論が出された
- [33]1998年10月23日に特別公的管理による一時国有化を申請した
- 日経ビジネス 1998年7月6日号
- [30]大野木頭取は通常の合併と述べ住友信託の高橋温社長は正常債権しか引き取らないと主張した
- Decide 16(6)(176)(1998年)
- [31]株価は1998年8月に額面50円を割り込み8月21日には37円まで下げた
- 日経ビジネス 1999年10月4日号
- [34]債務超過の穴埋めに3兆6000億円が投じられ破綻処理は総額4兆円を超えた
一時国有化された長銀の頭取には、日本銀行出身の安斎隆氏が就任した。譲渡先の選定は難航した。名乗りを上げたのはリップルウッド・ホールディングス、中央信託銀行と三井信託銀行、モルガンとオリックスの連合、パリバ銀行の4グループで、うち3つが外資系だったこともあり、金融界には国内勢を推す動きが目立った。譲り受け後に融資先が倒産して生じる二次損失の負担が争点となり、欧米で一般的な損失分担方式の導入を再生委員会は認めなかった。最終的には譲渡前に貸倒引当金を積み増す形で決着し、1999年、リップルウッド陣営への譲渡が決まった。前シティバンク在日代表の八城政基氏が最高経営責任者に就任する体制で、2年後の再上場を目指すとされた。2000年6月、長銀は行名を新生銀行に改めた。
- 日経ビジネス 2000年4月3日号
- [36]一時国有化後の頭取に日本銀行出身の安斎隆氏が就いた
- [42]2000年6月に行名を新生銀行へ改め46年の歴史を終えた
- 日経ビジネス 1999年10月4日号
- [37]譲渡先の選定は当初言われていた時期から後ろへずれ込み、買収交渉は約半年に及んだ
- [38]買収に名乗りを上げたのはリップルウッド・中央信託と三井信託・モルガンとオリックス・パリバの4グループ
- [39]二次損失の負担が争点となり損失分担方式は認められず引当金の積み増しで決着した
- [40]二次損失の負担問題は譲渡前に貸倒引当金を積み増すことなどで決着し、リップルウッドが中心となって設立したニュー・LTCB・パートナーズへの譲渡が決まった
- [41]前シティバンク在日代表の八城政基氏が最高経営責任者に就く体制で2年後の再上場を目指すとされた
破綻の原因を経営陣の資質だけに帰すことはできない。長銀が置かれた構造は、設立の時点から収益性の低さを内包していた。制度が保証したのは債券発行という調達手段であって、貸出先ではない。基幹産業が自ら市場から調達を始めた1980年代以降、長信銀は普通銀行の20分の1の店舗で新しい借り手を探すほかなく、その先にノンバンクと不動産があった。同じ構造に置かれた日債銀も破綻し、興銀も単独では残らなかった。長銀は最後まで経営の実態を市場へ開示しなかった。1999年、旧経営陣の刑事訴追を目指す東京地検特捜部の事情聴取を受けた元副頭取の上原隆氏が自殺した。
- 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
- [43]1969年9月期の経常収支率は長銀93.4%・興銀94.4%と都市銀行86.6%に比べ悪く、長信銀3行は都市銀行や地方銀行と比べ収益率が低かった
- Decide 11(7)(117)(1993年)
- [44]制度が保証したのは債券発行という調達手段であって貸出先ではなかった
- [45]長信銀は店舗数で大手都銀の20分の1以下という条件のもとでノンバンク融資と不動産融資に走った
- 日経ビジネス 1999年10月4日号
- [46]日債銀も破綻し興銀も単独では残らなかった
- 日経ビジネス 2000年4月3日号
- [47]長銀は最後まで経営の実態を市場へ開示しなかった
- [48]1999年に元副頭取の上原隆氏が東京地検特捜部の事情聴取を受けた後に自殺した
参考文献[28]-[48]
- Decide 17(3)(185)(1999年)
- [28]1998年3月に健全な銀行と認定され1800億円の公的資金が投入された
- [35]金融監督庁の検査で不良債権が自己査定より約1兆4000億円多いと判明した
- 日経ビジネス 2000年4月3日号
- [29]合併発表会見で大野木氏はあくまで通常の合併と主張し、住友信託の高橋温社長は正常債権しか引き取るつもりはないと述べ、両者の主張は全く噛み合わなかった
- [32]長銀は与野党の政争の具となり、数カ月にわたる攻防の末に一時国有化という結論が出された
- [33]1998年10月23日に特別公的管理による一時国有化を申請した
- [36]一時国有化後の頭取に日本銀行出身の安斎隆氏が就いた
- [42]2000年6月に行名を新生銀行へ改め46年の歴史を終えた
- [47]長銀は最後まで経営の実態を市場へ開示しなかった
- [48]1999年に元副頭取の上原隆氏が東京地検特捜部の事情聴取を受けた後に自殺した
- 日経ビジネス 1998年7月6日号
- [30]大野木頭取は通常の合併と述べ住友信託の高橋温社長は正常債権しか引き取らないと主張した
- Decide 16(6)(176)(1998年)
- [31]株価は1998年8月に額面50円を割り込み8月21日には37円まで下げた
- 日経ビジネス 1999年10月4日号
- [34]債務超過の穴埋めに3兆6000億円が投じられ破綻処理は総額4兆円を超えた
- [37]譲渡先の選定は当初言われていた時期から後ろへずれ込み、買収交渉は約半年に及んだ
- [38]買収に名乗りを上げたのはリップルウッド・中央信託と三井信託・モルガンとオリックス・パリバの4グループ
- [39]二次損失の負担が争点となり損失分担方式は認められず引当金の積み増しで決着した
- [40]二次損失の負担問題は譲渡前に貸倒引当金を積み増すことなどで決着し、リップルウッドが中心となって設立したニュー・LTCB・パートナーズへの譲渡が決まった
- [41]前シティバンク在日代表の八城政基氏が最高経営責任者に就く体制で2年後の再上場を目指すとされた
- [46]日債銀も破綻し興銀も単独では残らなかった
- 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
- [43]1969年9月期の経常収支率は長銀93.4%・興銀94.4%と都市銀行86.6%に比べ悪く、長信銀3行は都市銀行や地方銀行と比べ収益率が低かった
- Decide 11(7)(117)(1993年)
- [44]制度が保証したのは債券発行という調達手段であって貸出先ではなかった
- [45]長信銀は店舗数で大手都銀の20分の1以下という条件のもとでノンバンク融資と不動産融資に走った
出典・参考
8件
- 日経ビジネス 1995年7月10日号
- 日経ビジネス 1998年7月6日号
- 日経ビジネス 1999年10月4日号
- 日経ビジネス 2000年4月3日号
- 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)
- Decide 11(7)(117)(1993年)
- Decide 16(6)(176)(1998年)
- Decide 17(3)(185)(1999年)