大映:大日本映画製作の設立と大映への改称
1942年〜情報局の二社案を覆した三社案と、新興・大都・日活製作部門の大日本映画製作
1941年8月16日、情報局は業界団体の常務理事3氏を呼び、映画用生フィルムの原料を軍需品として民需に回さない方針を伝えた。原料を回す条件は、業界が臨戦体制へ機構を再編することである。当時の劇映画は、松竹・東宝・日活・新興キネマ・大都映画の5社と5つのプロダクションの計10社で成り立っていた。8月25日の政府原案は劇映画の製作所を2つに絞る内容で、新興キネマは松竹か東宝への併合を免れない見通しとなった。業界は3社案で折衝を重ね、9月19日の最終案で『劇映画会社は三社とする』と決まり、第3の1社は日活・新興・大都の合同と定められた。これを受けて1942年1月27日、永田雅一氏・河合龍斉氏ら9氏を発起人とし、資本金10万円で大日本映画製作が設立された。
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [1]1941年8月情報局が生フィルム原料の民需供給停止と業界再編を求め、政府原案の2社案から9月19日の最終案で劇映画3社(第3社=日活・新興・大都)に決定
- [2]1941年8月情報局が生フィルム原料の民需供給停止と業界再編を求め、政府原案の2社案から9月19日の最終案で劇映画3社(第3社=日活・新興・大都)に決定
- [3]1941年8月情報局が生フィルム原料の民需供給停止と業界再編を求め、政府原案の2社案から9月19日の最終案で劇映画3社(第3社=日活・新興・大都)に決定
- [4]1941年8月情報局が生フィルム原料の民需供給停止と業界再編を求め、政府原案の2社案から9月19日の最終案で劇映画3社(第3社=日活・新興・大都)に決定
- [5]1941年8月情報局が生フィルム原料の民需供給停止と業界再編を求め、政府原案の2社案から9月19日の最終案で劇映画3社(第3社=日活・新興・大都)に決定
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [6]1942年1月、永田雅一・河合龍斉ら9氏が発起人となり資本金10万円で大日本映画製作を設立(設立日1942年1月27日)
松竹系と東宝系の統合が1ヵ月ほどで片付いた一方、日活・新興キネマ・大都映画の3社は利害が対立して合同が進まなかった。日活が250万円の和議債務を抱え、返済を終えなければ法律上ほかの会社と合併できなかったためである。永田雅一氏は日活を興行会社として残し、製作部門だけを現物出資で新会社へ移す案を出した。日活の製作部門は315万円と評価され、215万円を現物出資、残る100万円を借入れとする扱い。新会社は1942年7月に新興キネマと大都映画を吸収合併し、日活から撮影所などの現物出資を受けて、資本金は770万円となった。日活は製作部門を大日本映画製作へ、配給部門を社団法人映画配給社へ移譲した。
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [7]日活は和議債務250万円で法律上合併できず、永田雅一が日活の製作部門のみを現物出資(評価315万円、うち215万円現物出資・100万円借入れ)とする案を提言
- [8]日活は和議債務250万円で法律上合併できず、永田雅一が日活の製作部門のみを現物出資(評価315万円、うち215万円現物出資・100万円借入れ)とする案を提言
- [9]日活は和議債務250万円で法律上合併できず、永田雅一が日活の製作部門のみを現物出資(評価315万円、うち215万円現物出資・100万円借入れ)とする案を提言
- [10]日活は和議債務250万円で法律上合併できず、永田雅一が日活の製作部門のみを現物出資(評価315万円、うち215万円現物出資・100万円借入れ)とする案を提言
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [11]1942年7月、新興キネマ・大都映画を吸収合併し日活から撮影所等の現物出資を受け、資本金770万円
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「興行娛樂」
- [12]日活は戦時統制で製作部門を大日本映画製作、配給部門を社団法人映画配給社へ移譲
発足時の大日本映画製作は、東京と京都に2ヵ所ずつ計4つの撮影所と、本社直轄13館・大阪支店管轄21館の映画館を持った。製作の分担は、京都の2撮影所が時代劇、東京の2撮影所が現代劇である。東京側には、日活が1935年11月に多摩川で完成させたトーキー用スタジオを含む製作部門が移っていた。一方で負債は1,000万円に上り、余剰人員1,000名の退職金と転業資金の計225万円が発足と同時に必要になった。永田雅一氏は長瀬商店の長瀬徳太郎氏から100万円の融資を取り付け、安田銀行など4行からも計160万円を借り入れた。撮影所の経費を見積りの半分近くに抑えて1942年4月に製作を始め、第1回作品「維新の曲」は5月に封切られた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [13]発足時の興行館は本社直轄13・大阪支店管轄21。発足時は東京第一・第二、京都第一・第二の4撮影所。京都は時代劇、東京は現代劇主体。第1回作品「維新の曲」1942年5月完成・封切
- [14]発足時の興行館は本社直轄13・大阪支店管轄21。発足時は東京第一・第二、京都第一・第二の4撮影所。京都は時代劇、東京は現代劇主体。第1回作品「維新の曲」1942年5月完成・封切
- [18]発足時の興行館は本社直轄13・大阪支店管轄21。発足時は東京第一・第二、京都第一・第二の4撮影所。京都は時代劇、東京は現代劇主体。第1回作品「維新の曲」1942年5月完成・封切
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「興行娛樂」
- [15]日活は1935年11月東京多摩川に新トーキースタジオを完成、のち製作部門を大日本映画製作へ移譲
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [16]負債1,000万円、余剰人員1,000名の退職金150万円・転業資金75万円。長瀬徳太郎が100万円融通、安田50万・武州30万・川崎第百50万・住友30万円の借入れ。各撮影所50万円を30万円程度に抑え4月製作開始
- [17]負債1,000万円、余剰人員1,000名の退職金150万円・転業資金75万円。長瀬徳太郎が100万円融通、安田50万・武州30万・川崎第百50万・住友30万円の借入れ。各撮影所50万円を30万円程度に抑え4月製作開始
参考文献[1]-[18]
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [1]1941年8月情報局が生フィルム原料の民需供給停止と業界再編を求め、政府原案の2社案から9月19日の最終案で劇映画3社(第3社=日活・新興・大都)に決定
- [2]1941年8月情報局が生フィルム原料の民需供給停止と業界再編を求め、政府原案の2社案から9月19日の最終案で劇映画3社(第3社=日活・新興・大都)に決定
- [3]1941年8月情報局が生フィルム原料の民需供給停止と業界再編を求め、政府原案の2社案から9月19日の最終案で劇映画3社(第3社=日活・新興・大都)に決定
- [4]1941年8月情報局が生フィルム原料の民需供給停止と業界再編を求め、政府原案の2社案から9月19日の最終案で劇映画3社(第3社=日活・新興・大都)に決定
- [5]1941年8月情報局が生フィルム原料の民需供給停止と業界再編を求め、政府原案の2社案から9月19日の最終案で劇映画3社(第3社=日活・新興・大都)に決定
- [7]日活は和議債務250万円で法律上合併できず、永田雅一が日活の製作部門のみを現物出資(評価315万円、うち215万円現物出資・100万円借入れ)とする案を提言
- [8]日活は和議債務250万円で法律上合併できず、永田雅一が日活の製作部門のみを現物出資(評価315万円、うち215万円現物出資・100万円借入れ)とする案を提言
- [9]日活は和議債務250万円で法律上合併できず、永田雅一が日活の製作部門のみを現物出資(評価315万円、うち215万円現物出資・100万円借入れ)とする案を提言
- [10]日活は和議債務250万円で法律上合併できず、永田雅一が日活の製作部門のみを現物出資(評価315万円、うち215万円現物出資・100万円借入れ)とする案を提言
- [16]負債1,000万円、余剰人員1,000名の退職金150万円・転業資金75万円。長瀬徳太郎が100万円融通、安田50万・武州30万・川崎第百50万・住友30万円の借入れ。各撮影所50万円を30万円程度に抑え4月製作開始
- [17]負債1,000万円、余剰人員1,000名の退職金150万円・転業資金75万円。長瀬徳太郎が100万円融通、安田50万・武州30万・川崎第百50万・住友30万円の借入れ。各撮影所50万円を30万円程度に抑え4月製作開始
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [6]1942年1月、永田雅一・河合龍斉ら9氏が発起人となり資本金10万円で大日本映画製作を設立(設立日1942年1月27日)
- [11]1942年7月、新興キネマ・大都映画を吸収合併し日活から撮影所等の現物出資を受け、資本金770万円
- [13]発足時の興行館は本社直轄13・大阪支店管轄21。発足時は東京第一・第二、京都第一・第二の4撮影所。京都は時代劇、東京は現代劇主体。第1回作品「維新の曲」1942年5月完成・封切
- [14]発足時の興行館は本社直轄13・大阪支店管轄21。発足時は東京第一・第二、京都第一・第二の4撮影所。京都は時代劇、東京は現代劇主体。第1回作品「維新の曲」1942年5月完成・封切
- [18]発足時の興行館は本社直轄13・大阪支店管轄21。発足時は東京第一・第二、京都第一・第二の4撮影所。京都は時代劇、東京は現代劇主体。第1回作品「維新の曲」1942年5月完成・封切
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「興行娛樂」
- [12]日活は戦時統制で製作部門を大日本映画製作、配給部門を社団法人映画配給社へ移譲
- [15]日活は1935年11月東京多摩川に新トーキースタジオを完成、のち製作部門を大日本映画製作へ移譲
1942年〜永田雅一氏の50日余の拘留と、菊池寛氏を社長に迎えた大日本映画製作
劇映画は2社以上にならないとみられていた統合が3社で決着したため、永田雅一氏が裏で工作したという憶測が広がった。噂の中身は情報局第五部長の川面隆三氏と第二課長の不破祐俊氏への贈賄で、情報局と所管を争う内務省の一部官僚がこれに乗じた。1942年10月10日、永田雅一氏は本社の計画会議の席から警視庁に拘引され、警視庁で45日、巣鴨の刑務所で10日の拘留を受けた。拘引は、1本10万円前後で製作した作品が25万円ほどで売れ、10月に月間の配給収入が70万円へ増えた矢先の出来事である。自白を迫られたものの事実無根とされ、12月3日に釈放。同じ1942年には「鞍馬天狗」「新雪」など10本の当たり作品が出て、経営の基礎が固まった。
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [19]3社案に永田雅一の情報局(川面隆三第五部長・不破祐俊第二課長)への贈賄の憶測。製作費10万円程度の作品が25万円ほどで売れ10月に配給収入月70万円。1942年10月10日拘引、警視庁45日・巣鴨10日、事実無根で12月3日釈放
- [20]3社案に永田雅一の情報局(川面隆三第五部長・不破祐俊第二課長)への贈賄の憶測。製作費10万円程度の作品が25万円ほどで売れ10月に配給収入月70万円。1942年10月10日拘引、警視庁45日・巣鴨10日、事実無根で12月3日釈放
- [21]3社案に永田雅一の情報局(川面隆三第五部長・不破祐俊第二課長)への贈賄の憶測。製作費10万円程度の作品が25万円ほどで売れ10月に配給収入月70万円。1942年10月10日拘引、警視庁45日・巣鴨10日、事実無根で12月3日釈放
- [22]3社案に永田雅一の情報局(川面隆三第五部長・不破祐俊第二課長)への贈賄の憶測。製作費10万円程度の作品が25万円ほどで売れ10月に配給収入月70万円。1942年10月10日拘引、警視庁45日・巣鴨10日、事実無根で12月3日釈放
- [23]3社案に永田雅一の情報局(川面隆三第五部長・不破祐俊第二課長)への贈賄の憶測。製作費10万円程度の作品が25万円ほどで売れ10月に配給収入月70万円。1942年10月10日拘引、警視庁45日・巣鴨10日、事実無根で12月3日釈放
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [24]1942年の興行で「鞍馬天狗」「新雪」「伊賀の水月」など10本の当たり映画を記録し社礎を固めた
釈放後の永田雅一氏は、社外から社長を迎えて自らは補佐に回る方針を固めた。第3の会社を残したことへの反発が拘引を招いたと判断し、会社への風当たりを弱めるためである。1943年1月に方針を株主と従業員に示して全取締役の辞表をまとめ、作家の菊池寛氏に就任を懇請すると、菊池寛氏は『永田君、私で間に合うなら承諾しよう』と即座に応じた。菊池寛氏は自由主義者として知られ、陸海軍や右翼団体からは就任に反対する声も上がった。役員は総辞職し、3月25日の定時総会で社長に菊池寛氏、専務に永田雅一氏と河合龍齊氏を選んだ。同じ月に東京と京都の撮影所をそれぞれ1ヵ所へ併合し、10月には「無法松の一生」を発表した。
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [25]永田雅一は1943年正月に社外から社長を迎える決意を表明し全重役の辞表をまとめ菊池寛に懇請、菊池が応諾。菊池は自由主義者で陸海軍・右翼に反対の声。3月25日定時総会で社長菊池寛・専務永田雅一・河合龍齊
- [26]永田雅一は1943年正月に社外から社長を迎える決意を表明し全重役の辞表をまとめ菊池寛に懇請、菊池が応諾。菊池は自由主義者で陸海軍・右翼に反対の声。3月25日定時総会で社長菊池寛・専務永田雅一・河合龍齊
- [27]永田雅一は1943年正月に社外から社長を迎える決意を表明し全重役の辞表をまとめ菊池寛に懇請、菊池が応諾。菊池は自由主義者で陸海軍・右翼に反対の声。3月25日定時総会で社長菊池寛・専務永田雅一・河合龍齊
- [28]永田雅一は1943年正月に社外から社長を迎える決意を表明し全重役の辞表をまとめ菊池寛に懇請、菊池が応諾。菊池は自由主義者で陸海軍・右翼に反対の声。3月25日定時総会で社長菊池寛・専務永田雅一・河合龍齊
- [29]永田雅一は1943年正月に社外から社長を迎える決意を表明し全重役の辞表をまとめ菊池寛に懇請、菊池が応諾。菊池は自由主義者で陸海軍・右翼に反対の声。3月25日定時総会で社長菊池寛・専務永田雅一・河合龍齊
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [30]1943年3月東京・京都の撮影所を各1ヵ所に併合、社長に菊池寛を迎え、10月「無法松の一生」を発表
参考文献[19]-[30]
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [19]3社案に永田雅一の情報局(川面隆三第五部長・不破祐俊第二課長)への贈賄の憶測。製作費10万円程度の作品が25万円ほどで売れ10月に配給収入月70万円。1942年10月10日拘引、警視庁45日・巣鴨10日、事実無根で12月3日釈放
- [20]3社案に永田雅一の情報局(川面隆三第五部長・不破祐俊第二課長)への贈賄の憶測。製作費10万円程度の作品が25万円ほどで売れ10月に配給収入月70万円。1942年10月10日拘引、警視庁45日・巣鴨10日、事実無根で12月3日釈放
- [21]3社案に永田雅一の情報局(川面隆三第五部長・不破祐俊第二課長)への贈賄の憶測。製作費10万円程度の作品が25万円ほどで売れ10月に配給収入月70万円。1942年10月10日拘引、警視庁45日・巣鴨10日、事実無根で12月3日釈放
- [22]3社案に永田雅一の情報局(川面隆三第五部長・不破祐俊第二課長)への贈賄の憶測。製作費10万円程度の作品が25万円ほどで売れ10月に配給収入月70万円。1942年10月10日拘引、警視庁45日・巣鴨10日、事実無根で12月3日釈放
- [23]3社案に永田雅一の情報局(川面隆三第五部長・不破祐俊第二課長)への贈賄の憶測。製作費10万円程度の作品が25万円ほどで売れ10月に配給収入月70万円。1942年10月10日拘引、警視庁45日・巣鴨10日、事実無根で12月3日釈放
- [25]永田雅一は1943年正月に社外から社長を迎える決意を表明し全重役の辞表をまとめ菊池寛に懇請、菊池が応諾。菊池は自由主義者で陸海軍・右翼に反対の声。3月25日定時総会で社長菊池寛・専務永田雅一・河合龍齊
- [26]永田雅一は1943年正月に社外から社長を迎える決意を表明し全重役の辞表をまとめ菊池寛に懇請、菊池が応諾。菊池は自由主義者で陸海軍・右翼に反対の声。3月25日定時総会で社長菊池寛・専務永田雅一・河合龍齊
- [27]永田雅一は1943年正月に社外から社長を迎える決意を表明し全重役の辞表をまとめ菊池寛に懇請、菊池が応諾。菊池は自由主義者で陸海軍・右翼に反対の声。3月25日定時総会で社長菊池寛・専務永田雅一・河合龍齊
- [28]永田雅一は1943年正月に社外から社長を迎える決意を表明し全重役の辞表をまとめ菊池寛に懇請、菊池が応諾。菊池は自由主義者で陸海軍・右翼に反対の声。3月25日定時総会で社長菊池寛・専務永田雅一・河合龍齊
- [29]永田雅一は1943年正月に社外から社長を迎える決意を表明し全重役の辞表をまとめ菊池寛に懇請、菊池が応諾。菊池は自由主義者で陸海軍・右翼に反対の声。3月25日定時総会で社長菊池寛・専務永田雅一・河合龍齊
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [24]1942年の興行で「鞍馬天狗」「新雪」「伊賀の水月」など10本の当たり映画を記録し社礎を固めた
- [30]1943年3月東京・京都の撮影所を各1ヵ所に併合、社長に菊池寛を迎え、10月「無法松の一生」を発表
1945年〜東京撮影所の接収と直営館の委譲、大映への改称と自主配給の開始
戦局の悪化で人材と資材が不足し、大日本映画製作は政府の命令による生産増強映画などの製作を余儀なくされた。1945年初頭には、軍部が東京撮影所を軍需工場の建物として強制的に接収した。同年2月にはフィルムの激減で全国1,800館のうち700館が整理され、直営館17館も休止となった。5月には残る直営館のうち3館を松竹、28館を日活に委譲し、会社には製作の機能だけが残された。一方、発足時に負った負債900万円と日活から引き継いだ100万円は、終戦までに完済した。1945年5月から8月には収入の多い社が少ない社を援助する申し合わせに従い、松竹と東宝へ分配した配給収入は計70万円である。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [31]戦局悪化で生産増強映画等の製作を余儀なくされ、1945年初頭東京撮影所が軍需工場として接収。2月全国1,800館中700館整理・直営17館休止、5月3館を松竹・28館を日活に委譲し製作専業
- [32]戦局悪化で生産増強映画等の製作を余儀なくされ、1945年初頭東京撮影所が軍需工場として接収。2月全国1,800館中700館整理・直営17館休止、5月3館を松竹・28館を日活に委譲し製作専業
- [33]戦局悪化で生産増強映画等の製作を余儀なくされ、1945年初頭東京撮影所が軍需工場として接収。2月全国1,800館中700館整理・直営17館休止、5月3館を松竹・28館を日活に委譲し製作専業
- [34]戦局悪化で生産増強映画等の製作を余儀なくされ、1945年初頭東京撮影所が軍需工場として接収。2月全国1,800館中700館整理・直営17館休止、5月3館を松竹・28館を日活に委譲し製作専業
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [35]発足時の負債900万円+日活分100万円を終戦までに完済。1945年5〜8月に松竹・東宝へ配給収入70万円を分配
- [36]発足時の負債900万円+日活分100万円を終戦までに完済。1945年5〜8月に松竹・東宝へ配給収入70万円を分配
1945年11月、大日本映画製作は商号を大映に改めた。新しい商号は、戦時中から観客が呼び慣れていた「大映」の略称である。戦時に各社の営業部を吸収した日本映画配給社の統制を離れ、松竹・東宝・大映の3社は1946年1月に同じ条件で再出発した。戦争末期に直営館を他社へ委譲した大映には、配給と興行を担う営業の基盤が残っていなかった。全国を北海道・関東・中部・関西・九州の5ブロックに分けて配給本部を置き、1946年1月に自主配給を始めた。製作専業に縮んだ会社が、配給網を自ら整えて製作と配給を一社で担う体制へ移ったとみられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [37]1945年11月現社名(大映)に変更、全国を5ブロックに分け配給本部を置き、1946年1月自主配給の業務開始
- [40]1945年11月現社名(大映)に変更、全国を5ブロックに分け配給本部を置き、1946年1月自主配給の業務開始
- [41]1945年11月現社名(大映)に変更、全国を5ブロックに分け配給本部を置き、1946年1月自主配給の業務開始
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [38]戦時中から「大映」の愛称で親しまれ登記も大映株式会社に改めた。3社は1946年1月から統制法を離れ再出発。戦時は営業部が公益法人の日本映画配給社に吸収
- [39]戦時中から「大映」の愛称で親しまれ登記も大映株式会社に改めた。3社は1946年1月から統制法を離れ再出発。戦時は営業部が公益法人の日本映画配給社に吸収
再開後の製作はインフレで製作費が高騰したものの、観客数の増加に支えられ、1946年には28本を数えた。同じ時期、民主化の風潮のなかで東宝に大規模な労働争議が起き、新東宝の設立で製作会社は4社となった。1947年1月には東横映画と、製作・配給・興行に関する3ヵ年期限の提携を締結。同年3月に社長の菊池寛氏が勇退すると、直後に統合を主導した永田雅一氏が社長を継いだ。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [42]インフレ高進で製作費高騰も観客数増加で製作本数は1946年28本から1950年47本へ。1947年1月東横映画と3ヵ年期限の製作配給興行提携。永田雅一は1947年3月菊池寛の勇退直後に社長就任、1948年1月追放該当で5月の解除まで真鍋八千代が社長
- [44]インフレ高進で製作費高騰も観客数増加で製作本数は1946年28本から1950年47本へ。1947年1月東横映画と3ヵ年期限の製作配給興行提携。永田雅一は1947年3月菊池寛の勇退直後に社長就任、1948年1月追放該当で5月の解除まで真鍋八千代が社長
- [45]インフレ高進で製作費高騰も観客数増加で製作本数は1946年28本から1950年47本へ。1947年1月東横映画と3ヵ年期限の製作配給興行提携。永田雅一は1947年3月菊池寛の勇退直後に社長就任、1948年1月追放該当で5月の解除まで真鍋八千代が社長
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [43]民主主義の風潮とともに東宝の大争議が起き、東宝が新東宝をつくり映画界は4社となった
参考文献[31]-[45]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- [31]戦局悪化で生産増強映画等の製作を余儀なくされ、1945年初頭東京撮影所が軍需工場として接収。2月全国1,800館中700館整理・直営17館休止、5月3館を松竹・28館を日活に委譲し製作専業
- [32]戦局悪化で生産増強映画等の製作を余儀なくされ、1945年初頭東京撮影所が軍需工場として接収。2月全国1,800館中700館整理・直営17館休止、5月3館を松竹・28館を日活に委譲し製作専業
- [33]戦局悪化で生産増強映画等の製作を余儀なくされ、1945年初頭東京撮影所が軍需工場として接収。2月全国1,800館中700館整理・直営17館休止、5月3館を松竹・28館を日活に委譲し製作専業
- [34]戦局悪化で生産増強映画等の製作を余儀なくされ、1945年初頭東京撮影所が軍需工場として接収。2月全国1,800館中700館整理・直営17館休止、5月3館を松竹・28館を日活に委譲し製作専業
- [37]1945年11月現社名(大映)に変更、全国を5ブロックに分け配給本部を置き、1946年1月自主配給の業務開始
- [40]1945年11月現社名(大映)に変更、全国を5ブロックに分け配給本部を置き、1946年1月自主配給の業務開始
- [41]1945年11月現社名(大映)に変更、全国を5ブロックに分け配給本部を置き、1946年1月自主配給の業務開始
- [42]インフレ高進で製作費高騰も観客数増加で製作本数は1946年28本から1950年47本へ。1947年1月東横映画と3ヵ年期限の製作配給興行提携。永田雅一は1947年3月菊池寛の勇退直後に社長就任、1948年1月追放該当で5月の解除まで真鍋八千代が社長
- [44]インフレ高進で製作費高騰も観客数増加で製作本数は1946年28本から1950年47本へ。1947年1月東横映画と3ヵ年期限の製作配給興行提携。永田雅一は1947年3月菊池寛の勇退直後に社長就任、1948年1月追放該当で5月の解除まで真鍋八千代が社長
- [45]インフレ高進で製作費高騰も観客数増加で製作本数は1946年28本から1950年47本へ。1947年1月東横映画と3ヵ年期限の製作配給興行提携。永田雅一は1947年3月菊池寛の勇退直後に社長就任、1948年1月追放該当で5月の解除まで真鍋八千代が社長
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)
- [35]発足時の負債900万円+日活分100万円を終戦までに完済。1945年5〜8月に松竹・東宝へ配給収入70万円を分配
- [36]発足時の負債900万円+日活分100万円を終戦までに完済。1945年5〜8月に松竹・東宝へ配給収入70万円を分配
- [38]戦時中から「大映」の愛称で親しまれ登記も大映株式会社に改めた。3社は1946年1月から統制法を離れ再出発。戦時は営業部が公益法人の日本映画配給社に吸収
- [39]戦時中から「大映」の愛称で親しまれ登記も大映株式会社に改めた。3社は1946年1月から統制法を離れ再出発。戦時は営業部が公益法人の日本映画配給社に吸収
- [43]民主主義の風潮とともに東宝の大争議が起き、東宝が新東宝をつくり映画界は4社となった
出典・参考
3件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「大映」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社 1955)「興行娛樂」
- 私の履歴書 経済人2「永田雅一」(1980、初出 1957年)