第2章 年〜年

日活:石原裕次郎ブームの到来と多角化の破綻

1954年〜「東洋一」の撮影所建設と一貫経営の復帰

1953年9月、調布・多摩川畔に6億円を投じる撮影所建設へ着手し、1954年3月の一部竣工と同時に14年ぶりの映画製作再開を果たした。"東洋一"と称された大撮影所は設備拡張により月8〜9本の製作能力を備え、1955年1月には自社作品による全プログラム配給を開始する。全国の直営館の上映を自社作品へ戻し、配給契約館は1955年7月時点で1500館に達した。配給は週2本の封切体制を構築し、沖縄・台湾・東南アジアや南米への配給網の拡充も進めている。戦時統制で奪われた製作・配給・興行の一貫経営をここで取り戻し、営業収入は1955年7月期に22億6000万円を記録した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [1]1953年9月 6億円を投じ撮影所建設着手、1954年3月 一部竣工で14年ぶり製作再開(月8〜9本)
    • [2]1955年7月時点で配給契約館1500館、1955年7月期 営業収入22億6000万円

1956年に公開した石原慎太郎氏原作"太陽の季節"が、太陽族映画として社会的賛否を巻き起こしながら大ヒットし、石原裕次郎氏がスクリーンに登場した。"狂った果実""嵐を呼ぶ男"とヒットが続き、1959年の"渡り鳥"シリーズ、1960年の"ダイヤモンド・ライン"結成へとスター中心の量産体制が確立する。製作再開からわずか数年で"現代劇の日活"の地位を確立し、1959年1月期には1割3分の復配を実現、以後1962年1月期まで配当を続けた。戦前からの時代劇路線を持つ松竹・東映に対し、現代劇とアクションという独自路線が当たった結果だった。

  • 日活株式会社 公式サイト 沿革
    • [3]1956年 石原慎太郎原作『太陽の季節』公開で石原裕次郎が登場、『狂った果実』『嵐を呼ぶ男』が続く
  • 新日本経済 31(3)(新日本経済社, 1967)
    • [4]1959年1月期に1割3分を復配、1962年1月期まで配当を継続
参考文献[1]-[4]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [1]1953年9月 6億円を投じ撮影所建設着手、1954年3月 一部竣工で14年ぶり製作再開(月8〜9本)
    • [2]1955年7月時点で配給契約館1500館、1955年7月期 営業収入22億6000万円
  • 日活株式会社 公式サイト 沿革
    • [3]1956年 石原慎太郎原作『太陽の季節』公開で石原裕次郎が登場、『狂った果実』『嵐を呼ぶ男』が続く
  • 新日本経済 31(3)(新日本経済社, 1967)
    • [4]1959年1月期に1割3分を復配、1962年1月期まで配当を継続

1959年〜強気の拡大路線と堀社長の斜陽論否定

映画館の観客動員は1950年代末をピークに減少へ転じたが、堀社長は強気を崩さなかった。1959年の登別を皮切りに天城・小倉とホテルを相次いで建設し、1961年6月には株主割当増資と公募で資本金を50億円へ引き上げる。増資は未収入金や売掛金がいずれ回収できるとの見通しを前提としており、映画斜陽化の進行とは逆向きの膨張政策と後に批判された。堀社長は1951年の渡米で、テレビに観客を奪われた米国映画界の惨状を自ら見聞きした経験を持ちながら、帰国後の日本では映画斜陽論を一貫して否定し、映画とテレビの共存を説き続けた。1960年の経済誌での発言には、その論理が凝縮されている。

  • 新日本経済 31(3)(新日本経済社, 1967)
    • [5]1959年 登別を皮切りに天城・小倉とホテルを建設
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982)
    • [6]1961年6月 株主割当増資と公募で資本金50億円
  • 経済展望 1961年6月号(経済展望社)
    • [7]堀社長は1961年の経済展望インタビューで「二十六年(昭和26年=1951年)にアメリカに行った」と述べている

拡大の裏で財務は悪化していた。復配の裏には多額の回収不能の未収入金が隠れており、ホテル建設と株式投資への資金投下は14億8700万円に上る赤字につながった。1962年1月期を最後に配当は途絶え、1964年には丸の内日活の売却で保有不動産の切り売りが始まった。1967年1月には株主総会を前に撮影所幹部の総入れ替えと5部長の自宅待機が断行され、江守清樹郎専務以下の辞任が取り沙汰される内紛へ発展する。売上の8割超を占める映画部門を江守専務に委ね、堀社長は俳優と配役の確認にとどまっていた経営の実態も、このとき表面化した。

  • 新日本経済 31(3)(新日本経済社, 1967)
    • [8]1967年の経済誌が累積赤字14億8700万円と報道
    • [9]1962年1月期を最後に配当途絶、1964年 丸の内日活売却、1967年1月 撮影所幹部総入替・5部長自宅待機・江守清樹郎専務以下の辞任が取り沙汰
参考文献[5]-[9]
  • 新日本経済 31(3)(新日本経済社, 1967)
    • [5]1959年 登別を皮切りに天城・小倉とホテルを建設
    • [8]1967年の経済誌が累積赤字14億8700万円と報道
    • [9]1962年1月期を最後に配当途絶、1964年 丸の内日活売却、1967年1月 撮影所幹部総入替・5部長自宅待機・江守清樹郎専務以下の辞任が取り沙汰
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982)
    • [6]1961年6月 株主割当増資と公募で資本金50億円
  • 経済展望 1961年6月号(経済展望社)
    • [7]堀社長は1961年の経済展望インタビューで「二十六年(昭和26年=1951年)にアメリカに行った」と述べている

1954年〜1970年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1954年01月期 単体 11 n/a n/a 1 14.0% n/a
1955年07月期 単体 22 +92.4% n/a 2 10.4% n/a
1956年07月期 単体 25 +13.5% n/a 2 10.1% n/a
1957年07月期 単体 28 +9.4% n/a 0 0.4% n/a
1958年07月期 単体 32 +14.8% n/a 0 0.0% n/a
1959年07月期 単体 29 ▲9.5% n/a 2 8.8% n/a
1960年07月期 単体 34 +19.4% n/a 4 11.6% n/a
1961年07月期 単体 38 +11.8% n/a 4 12.1% n/a
1962年07月期 単体 41 +6.9% n/a 0 0.0% n/a
1963年07月期 単体 37 ▲10.7% n/a ▲3 ▲8.2% n/a
1964年07月期 単体 36 ▲1.3% n/a 3 10.8% n/a
1965年07月期 単体 33 ▲7.6% n/a ▲2 ▲7.7% n/a
1966年07月期 単体 36 +8.6% n/a ▲14 ▲40.5% n/a
1967年07月期 単体 34 ▲7.0% n/a 0 ▲2.8% n/a
1968年07月期 単体 42 +23.5% n/a ▲4 ▲11.5% n/a
1969年07月期 単体 33 ▲22.0% n/a ▲6 ▲21.1% n/a
1970年07月期 単体 31 ▲6.1% 0 0 0.2% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

5件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
  • 経済展望 1961年6月号(経済展望社)
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982)
  • 新日本経済 31(3)(新日本経済社, 1967)
  • 日活株式会社 公式サイト 沿革

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