安田倉庫:興亜起業の設立と普通倉庫業の開業
1919年〜守屋町の埋立地を現物出資した払込400万円の興亜起業と、青島の接収不動産
興亜起業は1919年12月20日、東京市日本橋区呉服町の保善社ビルで創立総会を開催し、資本金1,000万円・払込400万円で発足した。払込には、守屋此助氏が埋め立てた横浜・守屋町の残地73,020坪を現物出資で充てた。発端は、第一次大戦後に日本の守備軍がドイツ人から接収した青島の不動産の払い下げである。青島民政署長官の秋山雅之介氏は守屋此助氏に入札参加をすすめ、青島開発への安田財閥の資本進出を強く求めた。個人の資力に限界を見た守屋此助氏は保善社の事業とするよう安田善次郎氏に進言し、創立事務所を保善社内に置いた。代表取締役会長には守屋此助氏、経営を後見する相談役には安田善次郎氏が就任し、守屋町の埋立地の管理も事業の一つに加わった。
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [1]1919年12月20日 保善社ビルで創立総会、資本金1,000万円・払込400万円、守屋町残地を現物出資
- [2]1919年12月20日 保善社ビルで創立総会、資本金1,000万円・払込400万円、守屋町残地を現物出資
- [3]青島の接収不動産の払い下げ、秋山長官が入札参加と安田財閥の資本進出を要請
- [4]青島の接収不動産の払い下げ、秋山長官が入札参加と安田財閥の資本進出を要請
- [5]守屋会長が保善社の事業化を安田善次郎に進言、守屋が代表取締役会長・安田善次郎が相談役
- [6]守屋会長が保善社の事業化を安田善次郎に進言、守屋が代表取締役会長・安田善次郎が相談役
- 証券アナリストジャーナル 1999年7月号
- [7]大正8年、守屋町の埋立地の管理を主体に発足
1919年12月20日に設立した興亜起業は、翌1920年1月に払い下げ会社の山東起業へ25,000株・312,500円を払い込んだ。同年2月には青島支店を登記し、第1期中に支店事務所を含む土地建物512千円分を取得した。取得した煉瓦造の住宅と店舗は、急増した在留邦人と現地の中国人に向けた賃貸用である。並行して膠州湾対岸の張哥庄に58町5反歩、第3期に海庄に50町歩の塩田を取得し、青島塩の生産と販売に参入した。1921年5月末の第3期末で、青島への投資は山東起業への出資を含めて約960千円にのぼった。守屋町の土地という現物で起こした会社の現金は、まず青島の家賃と塩に向かったのだろう。
- 証券 第51巻8号(1999)新規上場会社紹介
- [8]設立年月日 大正8年12月20日
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [9]1920年1月 山東起業へ25,000株312,500円払込、守屋会長が取締役。2月20日青島支店登記、第1期に土地建物512千円購入
- [10]1920年1月 山東起業へ25,000株312,500円払込、守屋会長が取締役。2月20日青島支店登記、第1期に土地建物512千円購入
- [11]邦人及び中国人向け住居・店舗の賃貸事業を開始
- [12]張哥庄に塩田58町5反歩、第3期に海庄に50町歩購入。第3期末の青島投資総額約960千円
- [13]張哥庄に塩田58町5反歩、第3期に海庄に50町歩購入。第3期末の青島投資総額約960千円
1921年9月28日、経営を後見していた相談役の安田善次郎氏が大磯の別荘で殺害された。1923年には取締役の原田虎太郎氏と川添末吉氏が病没し、齋藤恂氏も退任して、創業時の役員は守屋此助氏1人となった。業績は1920年3月に始まった戦後恐慌の直撃を受け、第1期の後は5期にわたって赤字決算が続いた。守屋町の土地はフォードの進出まで1件も売却が成約せず、貸地も撤退と借地代の滞納に見舞われた。青島では1922年に山東利権の中国への還付が決まり、塩田は約173千円で引き渡して1923年2月末に事業を終えた。残った守屋町の埋立地が、1924年に開業する倉庫業の土台となる。
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [14]1921年9月28日安田善次郎死去。1923年に原田虎太郎・川添末吉が病没、齋藤恂退任、創業期役員は守屋会長のみ
- [15]1921年9月28日安田善次郎死去。1923年に原田虎太郎・川添末吉が病没、齋藤恂退任、創業期役員は守屋会長のみ
- [16]戦後恐慌で第1期後5期赤字。フォード進出まで守屋町の売却成約なし、貸地は撤退・滞納で不振
- [17]戦後恐慌で第1期後5期赤字。フォード進出まで守屋町の売却成約なし、貸地は撤退・滞納で不振
- [18]ワシントン会議で山東利権還付、塩田を約173千円で引き渡し1923年2月末完了
- 証券 第51巻8号(1999)新規上場会社紹介
- [19]大正13年に倉庫業を開業
参考文献[1]-[19]
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [1]1919年12月20日 保善社ビルで創立総会、資本金1,000万円・払込400万円、守屋町残地を現物出資
- [2]1919年12月20日 保善社ビルで創立総会、資本金1,000万円・払込400万円、守屋町残地を現物出資
- [3]青島の接収不動産の払い下げ、秋山長官が入札参加と安田財閥の資本進出を要請
- [4]青島の接収不動産の払い下げ、秋山長官が入札参加と安田財閥の資本進出を要請
- [5]守屋会長が保善社の事業化を安田善次郎に進言、守屋が代表取締役会長・安田善次郎が相談役
- [6]守屋会長が保善社の事業化を安田善次郎に進言、守屋が代表取締役会長・安田善次郎が相談役
- [9]1920年1月 山東起業へ25,000株312,500円払込、守屋会長が取締役。2月20日青島支店登記、第1期に土地建物512千円購入
- [10]1920年1月 山東起業へ25,000株312,500円払込、守屋会長が取締役。2月20日青島支店登記、第1期に土地建物512千円購入
- [11]邦人及び中国人向け住居・店舗の賃貸事業を開始
- [12]張哥庄に塩田58町5反歩、第3期に海庄に50町歩購入。第3期末の青島投資総額約960千円
- [13]張哥庄に塩田58町5反歩、第3期に海庄に50町歩購入。第3期末の青島投資総額約960千円
- [14]1921年9月28日安田善次郎死去。1923年に原田虎太郎・川添末吉が病没、齋藤恂退任、創業期役員は守屋会長のみ
- [15]1921年9月28日安田善次郎死去。1923年に原田虎太郎・川添末吉が病没、齋藤恂退任、創業期役員は守屋会長のみ
- [16]戦後恐慌で第1期後5期赤字。フォード進出まで守屋町の売却成約なし、貸地は撤退・滞納で不振
- [17]戦後恐慌で第1期後5期赤字。フォード進出まで守屋町の売却成約なし、貸地は撤退・滞納で不振
- [18]ワシントン会議で山東利権還付、塩田を約173千円で引き渡し1923年2月末完了
- 証券アナリストジャーナル 1999年7月号
- [7]大正8年、守屋町の埋立地の管理を主体に発足
- 証券 第51巻8号(1999)新規上場会社紹介
- [8]設立年月日 大正8年12月20日
- [19]大正13年に倉庫業を開業
1923年〜関東大震災で焼け残った守屋町の土地と、普通倉庫業の開業
1923年9月1日の関東大震災で守屋町の進出工場はほとんどが倒壊・焼失したものの、興亜起業の土地の被害は軽微だった。守屋町の土地が復旧物資の陸揚げ地となり、物資と借地の需要が殺到したのは、横浜港周辺の港湾施設が壊滅したためである。倉庫の経験がない興亜起業は、横浜共立倉庫の前支配人の高田道信氏に可否を問い、守屋町で倉庫業を計画していた高田道信氏の参画を得た。1924年1月19日の取締役会は資金15万円の予算で倉庫部の創設を決め、3月1日に13名で事業を始めた。開業から1カ月で揚げ荷は1万トンを超え、初年度は80日余りの営業で25千円の純益を計上。所有地の広さを生かし、岸壁と倉庫に鉄道の引込線を備えた構内での開業である。
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [20]震災で守屋町の進出工場は倒壊焼失、当社の土地の被害は軽微。復旧物資の陸揚げ地として物資・借地需要が殺到
- [21]震災で守屋町の進出工場は倒壊焼失、当社の土地の被害は軽微。復旧物資の陸揚げ地として物資・借地需要が殺到
- [22]高田道信前支配人が参画、1924年1月19日取締役会で資金15万円・倉庫部創設、3月1日13名で開始
- [23]高田道信前支配人が参画、1924年1月19日取締役会で資金15万円・倉庫部創設、3月1日13名で開始
- [24]開業1カ月で揚げ荷1万トン突破、初年度80日余で純益25千円
- 証券アナリストジャーナル 1999年7月号
- [25]守屋町に岸壁・倉庫・鉄道引込線を設けて倉庫業を開始
守屋町の土地の売却が動き出したのは、1927年4月に日本フォード自動車が2丁目の8,195坪を総額492千円で取得してからである。1928年12月に竣工した組立工場はベルトコンベア方式で、工員440名と組立能力300台を擁した。続いて日本ビクター蓄音器が1929年4月に3丁目の7,906坪を474千円で取得し、1930年11月に建坪4,500坪の新工場を完成させた。興亜起業は1927年8月に日本自動車へ貸工場2棟を建て、輸入自動車と部品の保管も引き受けた。貨物の急増を受けて進出工場と共同で鉄道省へ陳情し、1929年9月に興亜起業が提供した517坪の敷地で入江貨物駅が開業した。岸壁と鉄道引込線を持つ倉庫部の構内が、工場の荷の出入り口となった。
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [26]1927年4月 日本フォード自動車が守屋町2丁目8,195坪を492千円で購入、1928年12月竣工、工員440名
- [27]1927年4月 日本フォード自動車が守屋町2丁目8,195坪を492千円で購入、1928年12月竣工、工員440名
- [28]1929年4月 日本ビクターが守屋町3丁目7,906坪を474千円で購入、1930年11月建坪4,500坪の新工場竣工
- [29]1927年8月日本自動車向け貸工場建設、1929年9月当社提供敷地517坪に入江貨物駅開業
- [30]1927年8月日本自動車向け貸工場建設、1929年9月当社提供敷地517坪に入江貨物駅開業
- 証券アナリストジャーナル 1999年7月号
- [31]守屋町に岸壁・倉庫・鉄道引込線を設けて倉庫業を開始
1924年に開業した倉庫部は、支配人の高田道信氏の下で経験者を招いた少人数で始まり、殺到する貨物を前に人手不足を工夫で補った。直傭で荷役能力を持つ運送業者や乙仲業者には自由荷役を認め、顧客の荷捌きを優先した。引込線の利便性も評価され、1925年11月末の第12期には満庫となり、予算18万円で運河の開削と倉庫・引込線の増設に着手。1927年5月末には横浜倉庫同業会の保管残高で第2位を記録し、昭和恐慌の下でも拡張投資を継続した。1931年11月末の所有倉庫は40棟6,255坪となり、倉庫事業収入は総収入の7割を占めるに至った。保善社にも支援の余力はなく、木造亜鉛葺の急造型の倉庫で満庫に応じるほかなかったのだろう。
- 証券 第51巻8号(1999)新規上場会社紹介
- [32]大正13年に倉庫業を開業
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [33]高田支配人以下の少人数、自由荷役を認める少数精鋭・顧客優先主義
- [34]高田支配人以下の少人数、自由荷役を認める少数精鋭・顧客優先主義
- [35]第12期(大正14年11月末)満庫、予算18万円で運河開削・倉庫・引込線増設
- [36]昭和2年5月末 横浜倉庫同業会で保管残高第2位、昭和6年11月末 所有倉庫40棟6,255坪・倉庫収入7割、倉庫は木造亜鉛葺
- [37]昭和2年5月末 横浜倉庫同業会で保管残高第2位、昭和6年11月末 所有倉庫40棟6,255坪・倉庫収入7割、倉庫は木造亜鉛葺
参考文献[20]-[37]
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [20]震災で守屋町の進出工場は倒壊焼失、当社の土地の被害は軽微。復旧物資の陸揚げ地として物資・借地需要が殺到
- [21]震災で守屋町の進出工場は倒壊焼失、当社の土地の被害は軽微。復旧物資の陸揚げ地として物資・借地需要が殺到
- [22]高田道信前支配人が参画、1924年1月19日取締役会で資金15万円・倉庫部創設、3月1日13名で開始
- [23]高田道信前支配人が参画、1924年1月19日取締役会で資金15万円・倉庫部創設、3月1日13名で開始
- [24]開業1カ月で揚げ荷1万トン突破、初年度80日余で純益25千円
- [26]1927年4月 日本フォード自動車が守屋町2丁目8,195坪を492千円で購入、1928年12月竣工、工員440名
- [27]1927年4月 日本フォード自動車が守屋町2丁目8,195坪を492千円で購入、1928年12月竣工、工員440名
- [28]1929年4月 日本ビクターが守屋町3丁目7,906坪を474千円で購入、1930年11月建坪4,500坪の新工場竣工
- [29]1927年8月日本自動車向け貸工場建設、1929年9月当社提供敷地517坪に入江貨物駅開業
- [30]1927年8月日本自動車向け貸工場建設、1929年9月当社提供敷地517坪に入江貨物駅開業
- [33]高田支配人以下の少人数、自由荷役を認める少数精鋭・顧客優先主義
- [34]高田支配人以下の少人数、自由荷役を認める少数精鋭・顧客優先主義
- [35]第12期(大正14年11月末)満庫、予算18万円で運河開削・倉庫・引込線増設
- [36]昭和2年5月末 横浜倉庫同業会で保管残高第2位、昭和6年11月末 所有倉庫40棟6,255坪・倉庫収入7割、倉庫は木造亜鉛葺
- [37]昭和2年5月末 横浜倉庫同業会で保管残高第2位、昭和6年11月末 所有倉庫40棟6,255坪・倉庫収入7割、倉庫は木造亜鉛葺
- 証券アナリストジャーナル 1999年7月号
- [25]守屋町に岸壁・倉庫・鉄道引込線を設けて倉庫業を開始
- [31]守屋町に岸壁・倉庫・鉄道引込線を設けて倉庫業を開始
- 証券 第51巻8号(1999)新規上場会社紹介
- [32]大正13年に倉庫業を開業
1932年〜芝浦に開いた東京営業所と、臨港倉庫への改称
1931年6月9日に守屋此助氏が病没すると、保有株式は安田保善社が引き取り、安田保善社と関係行社が株式の100%を所有した。代表取締役専務には帝国製麻常務の左乙女謙吉氏が派遣され、興亜起業は安田保善社の管理監督を受けることになった。守屋此助氏の存命中の1931年頃に芝浦への東京進出を内定したのは、横浜だけでは倉庫事業の拡大に限界があるとの判断による。1932年1月20日に東京営業所の開設が決裁され、3月1日に高田道信氏の下、11名で営業を始めた。東京の竹芝・日之出・芝浦の埠頭整備に合わせた進出で、倉庫は2カ月後の5月末に自動車と内鮮米の入庫で満庫となった。政府米の寄託契約も得て、1934年5月末には米穀が東京営業所の保管残高の8割強を占めた。
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [38]1931年6月9日守屋会長死去、株式は安田保善社が引取り100%保有、左乙女謙吉が代表取締役専務
- [39]1931年6月9日守屋会長死去、株式は安田保善社が引取り100%保有、左乙女謙吉が代表取締役専務
- [40]昭和6年頃から東京進出を内定、1932年1月20日取締役会で東京営業所開設決裁、3月1日11名で開設
- [41]昭和6年頃から東京進出を内定、1932年1月20日取締役会で東京営業所開設決裁、3月1日11名で開設
- [42]1932年5月末満庫、政府米寄託契約、1934年5月末米穀が保管残高の8割強
- [44]1932年5月末満庫、政府米寄託契約、1934年5月末米穀が保管残高の8割強
- 証券アナリストジャーナル 1999年7月号
- [43]竹芝・日之出・芝浦の3埠頭完成に伴い昭和7年に芝浦へ進出
1932年に芝浦へ進出した興亜起業に対し、東京地区の同業会である東京倉庫同盟会は庫腹過剰を理由に倉庫開設の中止を求めた。興亜起業は着工済みで中止は困難と回答し、1932年4月にパルプと煙草を扱わない条件を受け入れて同盟会へ加盟した。東京港の拡張推進運動に加われなかったのは、高田道信氏が横浜の同業会に興亜起業を代表して加盟していたためである。同年8月に脱会し、1933年6月に高田道信氏が会合に出ない条件で再加盟したものの、営業規制の要求は強まるばかりであった。専務の得能佳吉氏も営業の自由を掲げて譲らず、同盟会は1934年12月29日に除名を決議。同業会への復帰は、軍需景気で業界が活況に転じた後の1937年4月のことである。
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [45]東京倉庫同盟会が庫腹過剰を理由に開設中止を要請、1932年4月条件付きで加盟
- [47]東京倉庫同盟会が庫腹過剰を理由に開設中止を要請、1932年4月条件付きで加盟
- [48]築港推進運動への参加を認められず同年8月脱会、1933年6月再加盟
- [49]築港推進運動への参加を認められず同年8月脱会、1933年6月再加盟
- [50]得能専務が営業の自由を掲げ、1934年12月29日同盟会が除名決議
- [51]1937年4月 東京倉庫同盟会など各同業組織に再加盟
- 証券アナリストジャーナル 1999年7月号
- [46]昭和7年に芝浦へ進出
倉庫事業収入が70%を超え、横浜と東京の臨港地に11,000坪強の倉庫を所有した興亜起業は、1934年7月1日に臨港倉庫へ社名を変更した。安田倉庫とする案は、安田商事函館支店の「安田倉庫」の存在と規模の不足から見送った。青島支店は1935年5月期で廃止して出張所に縮め、1937年8月の居留邦人の引揚命令で所員も帰国した。1939年7月には委託先の東京建物へ青島の所有不動産を470千円で売却し、青島事業を終えた。国内では日中戦争の下で満州特産物と国産自動車・鉄材の入庫が増え、倉庫は軍需景気に潤った。社名から「興亜」が消え青島からも撤退したことで、会社は安田系の国内倉庫業者として次の改称を迎えたとみられる。
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [52]1934年7月1日臨港倉庫に改称。倉庫収入70%超・所有倉庫11,000坪強。安田倉庫案は函館の安田倉庫存在と規模で見送り
- [54]1934年7月1日臨港倉庫に改称。倉庫収入70%超・所有倉庫11,000坪強。安田倉庫案は函館の安田倉庫存在と規模で見送り
- [55]1935年5月期青島支店廃止・出張所化、1937年8月引揚、1939年7月青島不動産を東京建物へ470千円で売却
- [56]1935年5月期青島支店廃止・出張所化、1937年8月引揚、1939年7月青島不動産を東京建物へ470千円で売却
- [57]日中戦争下、満州特産物・国産自動車・鉄材など軍需物資の入庫が増加
- 証券アナリストジャーナル 1999年7月号
- [53]昭和7年芝浦進出後、横浜と東京の2拠点で事業展開
参考文献[38]-[57]
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- [38]1931年6月9日守屋会長死去、株式は安田保善社が引取り100%保有、左乙女謙吉が代表取締役専務
- [39]1931年6月9日守屋会長死去、株式は安田保善社が引取り100%保有、左乙女謙吉が代表取締役専務
- [40]昭和6年頃から東京進出を内定、1932年1月20日取締役会で東京営業所開設決裁、3月1日11名で開設
- [41]昭和6年頃から東京進出を内定、1932年1月20日取締役会で東京営業所開設決裁、3月1日11名で開設
- [42]1932年5月末満庫、政府米寄託契約、1934年5月末米穀が保管残高の8割強
- [44]1932年5月末満庫、政府米寄託契約、1934年5月末米穀が保管残高の8割強
- [45]東京倉庫同盟会が庫腹過剰を理由に開設中止を要請、1932年4月条件付きで加盟
- [47]東京倉庫同盟会が庫腹過剰を理由に開設中止を要請、1932年4月条件付きで加盟
- [48]築港推進運動への参加を認められず同年8月脱会、1933年6月再加盟
- [49]築港推進運動への参加を認められず同年8月脱会、1933年6月再加盟
- [50]得能専務が営業の自由を掲げ、1934年12月29日同盟会が除名決議
- [51]1937年4月 東京倉庫同盟会など各同業組織に再加盟
- [52]1934年7月1日臨港倉庫に改称。倉庫収入70%超・所有倉庫11,000坪強。安田倉庫案は函館の安田倉庫存在と規模で見送り
- [54]1934年7月1日臨港倉庫に改称。倉庫収入70%超・所有倉庫11,000坪強。安田倉庫案は函館の安田倉庫存在と規模で見送り
- [55]1935年5月期青島支店廃止・出張所化、1937年8月引揚、1939年7月青島不動産を東京建物へ470千円で売却
- [56]1935年5月期青島支店廃止・出張所化、1937年8月引揚、1939年7月青島不動産を東京建物へ470千円で売却
- [57]日中戦争下、満州特産物・国産自動車・鉄材など軍需物資の入庫が増加
- 証券アナリストジャーナル 1999年7月号
- [43]竹芝・日之出・芝浦の3埠頭完成に伴い昭和7年に芝浦へ進出
- [46]昭和7年に芝浦へ進出
- [53]昭和7年芝浦進出後、横浜と東京の2拠点で事業展開
出典・参考
3件
- 安田倉庫七十五年史(1994)
- 証券アナリストジャーナル 1999年7月号
- 証券 第51巻8号(1999)新規上場会社紹介