第1章 年〜年

西武ホールディングス:武蔵野鉄道の設立と箱根土地の国立開発

1894年〜川越鉄道の開通と、平沼専蔵氏らが資本金100万円で興した武蔵野鉄道

1895年3月に川越鉄道が開通すると、飯能の人々は馬車で入間川町へ出てから同鉄道で国分寺に向かい、中央線に乗り継いで新宿へ入るようになった。それまで飯能から東京へ出る手段は、所沢と田無を抜けて四谷大木戸へ至る街道と、川越の新河岸から出る川船の2つに限られた。川船は午後に新河岸を発ち、翌朝に浅草花川戸へ着いた。秩父の名栗や吾野の木材は筏に組まれ、荒川を下って千住まで運ばれるのが常である。1887年には飯能と入間川を結ぶ馬車会社が設立され、上尾で高崎線に接続した。川越鉄道の開通後も、飯能の交通事情の悪さは残ったままである。鉄道が町の外を通り馬車の乗り継ぎが残ったことが、飯能に自前の路線を求めさせる下地になったと考えられる。

  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
    • [1]飯能の東京方面への交通は所沢・田無経由四谷大木戸の本道と川越新河岸から浅草花川戸への川船のみ、名栗・吾野の木材は筏で荒川を千住へ。1887年入間川馬車会社設立、1895年3月川越鉄道開通後は馬車で入間川町→川越鉄道で国分寺→中央線で新宿
    • [2]飯能の東京方面への交通は所沢・田無経由四谷大木戸の本道と川越新河岸から浅草花川戸への川船のみ、名栗・吾野の木材は筏で荒川を千住へ。1887年入間川馬車会社設立、1895年3月川越鉄道開通後は馬車で入間川町→川越鉄道で国分寺→中央線で新宿
    • [3]飯能の東京方面への交通は所沢・田無経由四谷大木戸の本道と川越新河岸から浅草花川戸への川船のみ、名栗・吾野の木材は筏で荒川を千住へ。1887年入間川馬車会社設立、1895年3月川越鉄道開通後は馬車で入間川町→川越鉄道で国分寺→中央線で新宿
    • [4]飯能の東京方面への交通は所沢・田無経由四谷大木戸の本道と川越新河岸から浅草花川戸への川船のみ、名栗・吾野の木材は筏で荒川を千住へ。1887年入間川馬車会社設立、1895年3月川越鉄道開通後は馬車で入間川町→川越鉄道で国分寺→中央線で新宿
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
    • [5]飯能は陸路のほか川越―浅草間の川船のみ、1887年に馬車会社、1895年に川越鉄道開通。それでも交通事情の悪さが武蔵野鉄道敷設の必然性となった
    • [6]飯能は陸路のほか川越―浅草間の川船のみ、1887年に馬車会社、1895年に川越鉄道開通。それでも交通事情の悪さが武蔵野鉄道敷設の必然性となった

飯能は周辺地域の要地でありながら、東京方面との往来に難を抱えた。1912年5月、飯能町の有志は資本金100万円で武蔵野鉄道を設立し、平沼専蔵氏が社長に就任。発端は1910年2月で、平沼専蔵氏を筆頭とする有志が鉄道敷設運動の準備会を組織し、政府へ働きかけた。1911年10月には池袋―飯能間43.8キロの敷設認可が下りた。1955年刊行の企業史書は、飯能を中心とする地域の産業の興隆が交通の不便に阻まれ、それが敷設の機運を生んだと記した。1968年刊行の企業史書も、交通事情の悪さを武蔵野鉄道が敷かれる必然の理由とする。起点を国分寺でなく池袋に置いた選択には、中央線を経ずに東京の市街へ直接入る狙いがあったのだろう。

  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
    • [7]1911年10月池袋―飯能間43.8km敷設認可、1912年5月資本金100万円で武蔵野鉄道設立・社長平沼専蔵。飯能中心の産業の興隆が交通事情で阻まれ敷設の機運となった
    • [8]1911年10月池袋―飯能間43.8km敷設認可、1912年5月資本金100万円で武蔵野鉄道設立・社長平沼専蔵。飯能中心の産業の興隆が交通事情で阻まれ敷設の機運となった
    • [10]1911年10月池袋―飯能間43.8km敷設認可、1912年5月資本金100万円で武蔵野鉄道設立・社長平沼専蔵。飯能中心の産業の興隆が交通事情で阻まれ敷設の機運となった
    • [11]1911年10月池袋―飯能間43.8km敷設認可、1912年5月資本金100万円で武蔵野鉄道設立・社長平沼専蔵。飯能中心の産業の興隆が交通事情で阻まれ敷設の機運となった
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
    • [9]1910年2月平沼専蔵を筆頭に飯能町有志が鉄道敷設運動準備会を組織し政府を動かした。交通事情の悪さが敷設の必然性
    • [12]1910年2月平沼専蔵を筆頭に飯能町有志が鉄道敷設運動準備会を組織し政府を動かした。交通事情の悪さが敷設の必然性

武蔵野鉄道は1915年4月、池袋―飯能間43.8キロで汽車による営業を始めた。社長の平沼専蔵氏のもとで設立直後から建設に着手し、会社設立から約3年での開業にあたる。開業により、飯能から東京へは馬車で入間川町へ出て川越鉄道と中央線を乗り継ぐ回り道を経ずに、池袋へ直接入れるようになった。開業時の動力は電気でなく蒸気で、電化工事の着手は1922年まで待った。東京側の起点とした池袋は、1955年時点では地下鉄の乗り入れもあって立地条件が大きく好転したと評された。汽車で先に全線を開業させた判断には、資本金100万円という限られた資金で開業を急ぐ事情があったと推察される。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
    • [13]1915年4月、汽車により池袋―飯能間の営業を開始
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
    • [14]設立後直ちに建設に着手し1915年4月池袋・飯能間営業開始。1922年から電化工事。1955年時点で池袋の発展と地下鉄乗入で池袋線の立地条件が著しく良化
    • [15]設立後直ちに建設に着手し1915年4月池袋・飯能間営業開始。1922年から電化工事。1955年時点で池袋の発展と地下鉄乗入で池袋線の立地条件が著しく良化
    • [16]設立後直ちに建設に着手し1915年4月池袋・飯能間営業開始。1922年から電化工事。1955年時点で池袋の発展と地下鉄乗入で池袋線の立地条件が著しく良化
    • [17]設立後直ちに建設に着手し1915年4月池袋・飯能間営業開始。1922年から電化工事。1955年時点で池袋の発展と地下鉄乗入で池袋線の立地条件が著しく良化
参考文献[1]-[17]
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
    • [1]飯能の東京方面への交通は所沢・田無経由四谷大木戸の本道と川越新河岸から浅草花川戸への川船のみ、名栗・吾野の木材は筏で荒川を千住へ。1887年入間川馬車会社設立、1895年3月川越鉄道開通後は馬車で入間川町→川越鉄道で国分寺→中央線で新宿
    • [2]飯能の東京方面への交通は所沢・田無経由四谷大木戸の本道と川越新河岸から浅草花川戸への川船のみ、名栗・吾野の木材は筏で荒川を千住へ。1887年入間川馬車会社設立、1895年3月川越鉄道開通後は馬車で入間川町→川越鉄道で国分寺→中央線で新宿
    • [3]飯能の東京方面への交通は所沢・田無経由四谷大木戸の本道と川越新河岸から浅草花川戸への川船のみ、名栗・吾野の木材は筏で荒川を千住へ。1887年入間川馬車会社設立、1895年3月川越鉄道開通後は馬車で入間川町→川越鉄道で国分寺→中央線で新宿
    • [4]飯能の東京方面への交通は所沢・田無経由四谷大木戸の本道と川越新河岸から浅草花川戸への川船のみ、名栗・吾野の木材は筏で荒川を千住へ。1887年入間川馬車会社設立、1895年3月川越鉄道開通後は馬車で入間川町→川越鉄道で国分寺→中央線で新宿
    • [7]1911年10月池袋―飯能間43.8km敷設認可、1912年5月資本金100万円で武蔵野鉄道設立・社長平沼専蔵。飯能中心の産業の興隆が交通事情で阻まれ敷設の機運となった
    • [8]1911年10月池袋―飯能間43.8km敷設認可、1912年5月資本金100万円で武蔵野鉄道設立・社長平沼専蔵。飯能中心の産業の興隆が交通事情で阻まれ敷設の機運となった
    • [10]1911年10月池袋―飯能間43.8km敷設認可、1912年5月資本金100万円で武蔵野鉄道設立・社長平沼専蔵。飯能中心の産業の興隆が交通事情で阻まれ敷設の機運となった
    • [11]1911年10月池袋―飯能間43.8km敷設認可、1912年5月資本金100万円で武蔵野鉄道設立・社長平沼専蔵。飯能中心の産業の興隆が交通事情で阻まれ敷設の機運となった
    • [14]設立後直ちに建設に着手し1915年4月池袋・飯能間営業開始。1922年から電化工事。1955年時点で池袋の発展と地下鉄乗入で池袋線の立地条件が著しく良化
    • [15]設立後直ちに建設に着手し1915年4月池袋・飯能間営業開始。1922年から電化工事。1955年時点で池袋の発展と地下鉄乗入で池袋線の立地条件が著しく良化
    • [16]設立後直ちに建設に着手し1915年4月池袋・飯能間営業開始。1922年から電化工事。1955年時点で池袋の発展と地下鉄乗入で池袋線の立地条件が著しく良化
    • [17]設立後直ちに建設に着手し1915年4月池袋・飯能間営業開始。1922年から電化工事。1955年時点で池袋の発展と地下鉄乗入で池袋線の立地条件が著しく良化
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
    • [5]飯能は陸路のほか川越―浅草間の川船のみ、1887年に馬車会社、1895年に川越鉄道開通。それでも交通事情の悪さが武蔵野鉄道敷設の必然性となった
    • [6]飯能は陸路のほか川越―浅草間の川船のみ、1887年に馬車会社、1895年に川越鉄道開通。それでも交通事情の悪さが武蔵野鉄道敷設の必然性となった
    • [9]1910年2月平沼専蔵を筆頭に飯能町有志が鉄道敷設運動準備会を組織し政府を動かした。交通事情の悪さが敷設の必然性
    • [12]1910年2月平沼専蔵を筆頭に飯能町有志が鉄道敷設運動準備会を組織し政府を動かした。交通事情の悪さが敷設の必然性
    • [13]1915年4月、汽車により池袋―飯能間の営業を開始

1918年〜軽井沢千ヶ滝から始めた堤康次郎氏の不毛地開発と、強羅10万坪の箱根土地

堤康次郎氏は1918年、軽井沢の千ヶ滝で土地開発に着手した。それまでの堤康次郎氏は、満鉄株への投機、名古屋の浪越汽船の全株取得、鳥羽での真珠養殖と事業を重ね、いずれも失敗に終わった。1918年に取得した1,600トンの木造船2隻は、石炭の積み取りに向かう途中で行方不明となった。真珠養殖は技師に任せたまま、3〜4年にわたり製品ができなかった。堤康次郎氏は後年、利益を追ったことを失敗の原因と省み、世の中への奉仕として不毛地の開発を選んだと回想した。1966年には西武鉄道社長の小島正治郎氏も、堤康次郎氏を不動産で身を起こした人物として紹介している。相次ぐ失敗で資本も信用も限られたなか、値の付かない土地は少ない元手で始められる事業だったとみるべきだろう。

  • 私の履歴書 経済人1(1980年)「堤康次郎」
    • [18]満鉄株の投機・浪越汽船全株買収(1918年、木造船2隻遭難)・鳥羽の真珠養殖に失敗。もうけを追ったのが誤りと省み奉仕の心で不毛地開発へ。1918年軽井沢千ヶ滝から土地開発に着手
    • [19]満鉄株の投機・浪越汽船全株買収(1918年、木造船2隻遭難)・鳥羽の真珠養殖に失敗。もうけを追ったのが誤りと省み奉仕の心で不毛地開発へ。1918年軽井沢千ヶ滝から土地開発に着手
    • [20]満鉄株の投機・浪越汽船全株買収(1918年、木造船2隻遭難)・鳥羽の真珠養殖に失敗。もうけを追ったのが誤りと省み奉仕の心で不毛地開発へ。1918年軽井沢千ヶ滝から土地開発に着手
    • [21]満鉄株の投機・浪越汽船全株買収(1918年、木造船2隻遭難)・鳥羽の真珠養殖に失敗。もうけを追ったのが誤りと省み奉仕の心で不毛地開発へ。1918年軽井沢千ヶ滝から土地開発に着手
    • [22]満鉄株の投機・浪越汽船全株買収(1918年、木造船2隻遭難)・鳥羽の真珠養殖に失敗。もうけを追ったのが誤りと省み奉仕の心で不毛地開発へ。1918年軽井沢千ヶ滝から土地開発に着手
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
    • [23]小島正治郎社長の講演で、故・会長の堤康次郎は不動産で身を起こしたといわれるほど不動産に明るかったと紹介

堤康次郎氏は1919年に箱根の強羅で10万坪の土地を取得し、翌1920年に箱根土地株式会社を創立した。土地開発に全力を注ぐための会社であり、堤康次郎氏は開発と切り離せないものとして交通機関の手当てを重く見た。箱根では有料道路の敷設を内務省などと議論したうえで許可を得ており、堤康次郎氏はこれが自動車道路法の制定の一因になったと回想した。1926年には東京から箱根へ水上飛行機を飛ばす試みも実行に移している。箱根の拠点は後年まで残り、1968年時点の西武鉄道が箱根で経営するのは、湯の花ホテルとホテル竜宮である。土地の値打ちを交通の整備で引き上げる発想は、のちの鉄道経営への関与につながるものと思われる。

  • 私の履歴書 経済人1(1980年)「堤康次郎」
    • [24]1919年箱根強羅に10万坪を買い、1920年箱根土地株式会社創立。土地開発には交通機関が重要として箱根に有料道路(内務省と議論のうえ許可、自動車道路法制定の一因)。1926年東京―箱根に水上飛行機
    • [25]1919年箱根強羅に10万坪を買い、1920年箱根土地株式会社創立。土地開発には交通機関が重要として箱根に有料道路(内務省と議論のうえ許可、自動車道路法制定の一因)。1926年東京―箱根に水上飛行機
    • [26]1919年箱根強羅に10万坪を買い、1920年箱根土地株式会社創立。土地開発には交通機関が重要として箱根に有料道路(内務省と議論のうえ許可、自動車道路法制定の一因)。1926年東京―箱根に水上飛行機
    • [27]1919年箱根強羅に10万坪を買い、1920年箱根土地株式会社創立。土地開発には交通機関が重要として箱根に有料道路(内務省と議論のうえ許可、自動車道路法制定の一因)。1926年東京―箱根に水上飛行機
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
    • [28]1968年時点で西武鉄道は旅館業として箱根に湯の花ホテル、ホテル竜宮等を経営

箱根土地の新しい試みは見物人の関心を集めた一方、採算には結びつかなかった。軽井沢に飛行場を整えた初飛行の日には、約3万人の見物人が集まった。部品のねじ1本の不具合で離陸が約3時間遅れ、見物人の半数ほどが会社を非難して帰った。飛行機の購入では代金を持ち逃げされる損失も発生。定期便は採算が合わず取りやめとなり、テントホテルやバンガローも利用者がほとんどいなかった。同じ時期には建売分譲住宅も手がけ、株の値上がりと東京市内・近郊の土地で利益を得て、土地開発の採算を確保した。1966年に社長の小島正治郎氏は、西武鉄道が昔から多くの不動産を保有し、宅地の分譲で事業を広げてきたと説明している。

  • 私の履歴書 経済人1(1980年)「堤康次郎」
    • [29]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
    • [30]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
    • [31]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
    • [32]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
    • [33]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
    • [34]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
    • [35]西武鉄道は昔から不動産を沢山持ち、それを宅地に分譲して活躍した
参考文献[18]-[35]
  • 私の履歴書 経済人1(1980年)「堤康次郎」
    • [18]満鉄株の投機・浪越汽船全株買収(1918年、木造船2隻遭難)・鳥羽の真珠養殖に失敗。もうけを追ったのが誤りと省み奉仕の心で不毛地開発へ。1918年軽井沢千ヶ滝から土地開発に着手
    • [19]満鉄株の投機・浪越汽船全株買収(1918年、木造船2隻遭難)・鳥羽の真珠養殖に失敗。もうけを追ったのが誤りと省み奉仕の心で不毛地開発へ。1918年軽井沢千ヶ滝から土地開発に着手
    • [20]満鉄株の投機・浪越汽船全株買収(1918年、木造船2隻遭難)・鳥羽の真珠養殖に失敗。もうけを追ったのが誤りと省み奉仕の心で不毛地開発へ。1918年軽井沢千ヶ滝から土地開発に着手
    • [21]満鉄株の投機・浪越汽船全株買収(1918年、木造船2隻遭難)・鳥羽の真珠養殖に失敗。もうけを追ったのが誤りと省み奉仕の心で不毛地開発へ。1918年軽井沢千ヶ滝から土地開発に着手
    • [22]満鉄株の投機・浪越汽船全株買収(1918年、木造船2隻遭難)・鳥羽の真珠養殖に失敗。もうけを追ったのが誤りと省み奉仕の心で不毛地開発へ。1918年軽井沢千ヶ滝から土地開発に着手
    • [24]1919年箱根強羅に10万坪を買い、1920年箱根土地株式会社創立。土地開発には交通機関が重要として箱根に有料道路(内務省と議論のうえ許可、自動車道路法制定の一因)。1926年東京―箱根に水上飛行機
    • [25]1919年箱根強羅に10万坪を買い、1920年箱根土地株式会社創立。土地開発には交通機関が重要として箱根に有料道路(内務省と議論のうえ許可、自動車道路法制定の一因)。1926年東京―箱根に水上飛行機
    • [26]1919年箱根強羅に10万坪を買い、1920年箱根土地株式会社創立。土地開発には交通機関が重要として箱根に有料道路(内務省と議論のうえ許可、自動車道路法制定の一因)。1926年東京―箱根に水上飛行機
    • [27]1919年箱根強羅に10万坪を買い、1920年箱根土地株式会社創立。土地開発には交通機関が重要として箱根に有料道路(内務省と議論のうえ許可、自動車道路法制定の一因)。1926年東京―箱根に水上飛行機
    • [29]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
    • [30]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
    • [31]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
    • [32]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
    • [33]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
    • [34]軽井沢に飛行場、初飛行に約3万人、ねじ不良で約3時間遅れ見物の半分が怒って帰る。定期便は引き合わず中止、テントホテル・バンガローも利用者ほぼ無し。建売分譲住宅も実施、株の値上がりと東京市内・近郊の土地でもうけた
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
    • [23]小島正治郎社長の講演で、故・会長の堤康次郎は不動産で身を起こしたといわれるほど不動産に明るかったと紹介
    • [35]西武鉄道は昔から不動産を沢山持ち、それを宅地に分譲して活躍した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
    • [28]1968年時点で西武鉄道は旅館業として箱根に湯の花ホテル、ホテル竜宮等を経営

1924年〜商科大学を招いた国立の開発と、沿線100万坪を抱えた武蔵野鉄道

1923年の関東大震災の後、商科大学の移転が決まった。堤康次郎氏は学長の佐野善作氏と歩調を合わせ、国分寺と立川の間に用地を定めて国立と名付けた。箱根土地は開発の手始めに駅を建設し、国鉄へ寄付。国分寺と立川より低い地勢を利用して両側から線路を上げ、跨線橋なしで乗り降りできる駅とした。24間幅の道路を通すため敷地は100万坪が必要となり、上海にいた地主を追って交渉した例もある。国立駅は1926年に完成し、学園都市の完成は浜口内閣の金解禁に伴う不況の時期と重なった。坪40円で売り出す予定の土地は、5〜6円でしか売れなかった。西武鉄道の戦前の分譲地に、1区画100坪を下回るものはない。

  • 私の履歴書 経済人1(1980年)「堤康次郎」
    • [36]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [37]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [38]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [39]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [40]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [41]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [42]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
    • [43]戦前の分譲地には100坪以下のものはなかった(現在は60坪単位)

堤康次郎氏は武蔵野鉄道の沿線に約100万坪の土地を持ち、大泉学園を経営した。堤康次郎氏は土地の開発と交通機関を不可分のものと考え、それ以前から駿豆鉄道の大株主・重役として運営の実権を握った。武蔵野鉄道の株も相当数を保有し、経営を担う意思はなかったものの、沿線の土地を抱える立場から経営の行方に強い関心を寄せた。1928年には資本金100万円で多摩湖鉄道を創立し、創立2年目に国分寺―村山間を開通させてガソリンカーを走らせた。東京市が建設中の村山貯水池を、一大観光地とする計画だった。多摩湖鉄道の路線は、国分寺と村山貯水池を結ぶ9.9キロである。沿線の地価を左右する武蔵野鉄道の経営悪化は、大泉学園の分譲を抱える堤康次郎氏自身の事業の危機でもあったと推測される。

  • 私の履歴書 経済人1(1980年)「堤康次郎」
    • [44]武蔵野鉄道沿線に約100万坪を持ち大泉学園を経営、同社株もかなり保有。土地開発と交通機関は不可分として駿豆鉄道の大株主・重役。1928年資本金100万円で多摩湖鉄道創立、2年目に国分寺―村山開通しガソリンカー、村山貯水池を観光地にする計画
    • [45]武蔵野鉄道沿線に約100万坪を持ち大泉学園を経営、同社株もかなり保有。土地開発と交通機関は不可分として駿豆鉄道の大株主・重役。1928年資本金100万円で多摩湖鉄道創立、2年目に国分寺―村山開通しガソリンカー、村山貯水池を観光地にする計画
    • [46]武蔵野鉄道沿線に約100万坪を持ち大泉学園を経営、同社株もかなり保有。土地開発と交通機関は不可分として駿豆鉄道の大株主・重役。1928年資本金100万円で多摩湖鉄道創立、2年目に国分寺―村山開通しガソリンカー、村山貯水池を観光地にする計画
    • [47]武蔵野鉄道沿線に約100万坪を持ち大泉学園を経営、同社株もかなり保有。土地開発と交通機関は不可分として駿豆鉄道の大株主・重役。1928年資本金100万円で多摩湖鉄道創立、2年目に国分寺―村山開通しガソリンカー、村山貯水池を観光地にする計画
    • [48]武蔵野鉄道沿線に約100万坪を持ち大泉学園を経営、同社株もかなり保有。土地開発と交通機関は不可分として駿豆鉄道の大株主・重役。1928年資本金100万円で多摩湖鉄道創立、2年目に国分寺―村山開通しガソリンカー、村山貯水池を観光地にする計画
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
    • [49]多摩湖鉄道は国分寺―村山貯水池間9.9km

武蔵野鉄道は1922年に電化工事へ着手し、1925年12月までに全線を電車へ切り替えた。続いて1927年10月に練馬―豊島園間、1929年5月に西所沢―狭山湖間を開業し、同年9月の飯能―吾野間の開通で現在の池袋線を完成させた。株主は浅野・安田の両財閥と堤康次郎氏でほぼ三分され、経営を担うのは、いずれの系統にも属さない専務である。事件と経営の不手際が重なり、武蔵野鉄道は資金繰りに窮した。堤康次郎氏が再建を引き受けた時点では、社債を引き受けた富国徴兵保険や金融業者の馬越文太郎氏が、主要駅の窓口で運賃収入を差し押さえていた。電化と延伸の資金を社債に依存した負担が、路線の完成と前後して経営を圧迫したとみられる。

  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
    • [50]1922年から電化工事、1925年12月までに全部電車に切り替え。1927年10月練馬・豊島園間、1929年5月西所沢・狭山湖間、同年9月飯能・吾野間開通で池袋線完成
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
    • [51]1927年10月練馬―豊島園、1929年5月西所沢―狭山湖、同年9月飯能―吾野開通で現在の池袋線完成、同社の基礎が築かれた
  • 私の履歴書 経済人1(1980年)「堤康次郎」
    • [52]武蔵野鉄道の全株を浅野・安田両財閥と堤で三分、経営は小林専務に任せたが事件と不手際で行き詰まり、堤が再建を頼まれる。社債を引き受けた富国徴兵保険や馬越文太郎が主要駅で運賃収入を差押え
    • [53]武蔵野鉄道の全株を浅野・安田両財閥と堤で三分、経営は小林専務に任せたが事件と不手際で行き詰まり、堤が再建を頼まれる。社債を引き受けた富国徴兵保険や馬越文太郎が主要駅で運賃収入を差押え
    • [54]武蔵野鉄道の全株を浅野・安田両財閥と堤で三分、経営は小林専務に任せたが事件と不手際で行き詰まり、堤が再建を頼まれる。社債を引き受けた富国徴兵保険や馬越文太郎が主要駅で運賃収入を差押え
参考文献[36]-[54]
  • 私の履歴書 経済人1(1980年)「堤康次郎」
    • [36]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [37]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [38]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [39]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [40]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [41]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [42]1923年震災後に商科大学移転、佐野善作学長と共鳴し国分寺―立川間を国立と命名、駅をつくり国鉄に寄付、24間道路・敷地100万坪、国立駅完成は1926年。完成は金解禁の不況期で坪40円予定が5〜6円で売却
    • [44]武蔵野鉄道沿線に約100万坪を持ち大泉学園を経営、同社株もかなり保有。土地開発と交通機関は不可分として駿豆鉄道の大株主・重役。1928年資本金100万円で多摩湖鉄道創立、2年目に国分寺―村山開通しガソリンカー、村山貯水池を観光地にする計画
    • [45]武蔵野鉄道沿線に約100万坪を持ち大泉学園を経営、同社株もかなり保有。土地開発と交通機関は不可分として駿豆鉄道の大株主・重役。1928年資本金100万円で多摩湖鉄道創立、2年目に国分寺―村山開通しガソリンカー、村山貯水池を観光地にする計画
    • [46]武蔵野鉄道沿線に約100万坪を持ち大泉学園を経営、同社株もかなり保有。土地開発と交通機関は不可分として駿豆鉄道の大株主・重役。1928年資本金100万円で多摩湖鉄道創立、2年目に国分寺―村山開通しガソリンカー、村山貯水池を観光地にする計画
    • [47]武蔵野鉄道沿線に約100万坪を持ち大泉学園を経営、同社株もかなり保有。土地開発と交通機関は不可分として駿豆鉄道の大株主・重役。1928年資本金100万円で多摩湖鉄道創立、2年目に国分寺―村山開通しガソリンカー、村山貯水池を観光地にする計画
    • [48]武蔵野鉄道沿線に約100万坪を持ち大泉学園を経営、同社株もかなり保有。土地開発と交通機関は不可分として駿豆鉄道の大株主・重役。1928年資本金100万円で多摩湖鉄道創立、2年目に国分寺―村山開通しガソリンカー、村山貯水池を観光地にする計画
    • [52]武蔵野鉄道の全株を浅野・安田両財閥と堤で三分、経営は小林専務に任せたが事件と不手際で行き詰まり、堤が再建を頼まれる。社債を引き受けた富国徴兵保険や馬越文太郎が主要駅で運賃収入を差押え
    • [53]武蔵野鉄道の全株を浅野・安田両財閥と堤で三分、経営は小林専務に任せたが事件と不手際で行き詰まり、堤が再建を頼まれる。社債を引き受けた富国徴兵保険や馬越文太郎が主要駅で運賃収入を差押え
    • [54]武蔵野鉄道の全株を浅野・安田両財閥と堤で三分、経営は小林専務に任せたが事件と不手際で行き詰まり、堤が再建を頼まれる。社債を引き受けた富国徴兵保険や馬越文太郎が主要駅で運賃収入を差押え
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
    • [43]戦前の分譲地には100坪以下のものはなかった(現在は60坪単位)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
    • [49]多摩湖鉄道は国分寺―村山貯水池間9.9km
    • [51]1927年10月練馬―豊島園、1929年5月西所沢―狭山湖、同年9月飯能―吾野開通で現在の池袋線完成、同社の基礎が築かれた
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
    • [50]1922年から電化工事、1925年12月までに全部電車に切り替え。1927年10月練馬・豊島園間、1929年5月西所沢・狭山湖間、同年9月飯能・吾野間開通で池袋線完成

出典・参考

4件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
  • 私の履歴書 経済人1(1980年)「堤康次郎」
  • 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)

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