富士急行:富士山麓電気鉄道の設立と河口湖への鉄道延伸
1926年〜堀内良平氏が根津嘉一郎氏と起こした富士山麓電気鉄道と、大月から富士吉田への23.6キロ
堀内良平氏は1925年2月10日、東京市麹町区有楽町の帝国鉄道協会で、在京の甲州系実業人と山梨県の協議委員に北麓の新鉄道計画を示した。当時の堀内良平氏は富士身延鉄道の社長であり、日本観光が営む熱海ホテルの経営も順調だった。山梨県知事の本間利雄氏も北麓開発を構想し、2月6日に県内有力者約100名から全会一致の賛同を取りつけた。見込んだ需要は春から秋の遊覧客、冬の山中湖のスケート客、岳麓から運び出す木材の3つ。準備委員長と目された根津嘉一郎氏は固辞し、同年5月に81人の発起人をまとめる役は堀内良平氏に委ねられた。熱海で観光客を呼び込んだ経験が、鉄道を起点に富士北麓を観光地へ変える構想へ堀内良平氏を向かわせたとみられる。
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ551-600
- [1]1925年2月6日に本間知事が県内有力者約100名から全会一致の賛同を得、2月10日に帝国鉄道協会で在京甲州系実業人との協議会を開き堀内良平が計画案を説明した。知事談話は遊覧客・冬の山中湖スケート客・木材輸送を見込む
- [3]1925年2月6日に本間知事が県内有力者約100名から全会一致の賛同を得、2月10日に帝国鉄道協会で在京甲州系実業人との協議会を開き堀内良平が計画案を説明した。知事談話は遊覧客・冬の山中湖スケート客・木材輸送を見込む
- [4]1925年2月6日に本間知事が県内有力者約100名から全会一致の賛同を得、2月10日に帝国鉄道協会で在京甲州系実業人との協議会を開き堀内良平が計画案を説明した。知事談話は遊覧客・冬の山中湖スケート客・木材輸送を見込む
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ101-150
- [2]1925年5月の発起人会で根津嘉一郎が委員長を辞退し、委員長業務の代行が堀内良平に委任された。発起人は81人。堀内は日本観光の熱海ホテルを経営し順調だった
- [5]1925年5月の発起人会で根津嘉一郎が委員長を辞退し、委員長業務の代行が堀内良平に委任された。発起人は81人。堀内は日本観光の熱海ホテルを経営し順調だった
1926年9月18日、富士山麓電気鉄道と富士山麓土地の創立総会が帝国鉄道協会で同時に開かれた。この日が現在の富士急行の創立日である。資本金は電鉄が500万円、土地会社が100万円とされた。電鉄の定款第3条は、鉄道による旅客と貨物の運輸に加え、乗合自動車と湖水での水上運輸を事業に掲げた。堀内良平氏が代表取締役社長に就任し、常務には鉄道省の局長だった伊藤常夫氏を迎えた。翌1927年3月7日には御殿場―吉田―船津の乗合自動車を営む甲駿自動車商会を買収し、同年8月1日から電鉄の名でバスを走らせた。線路より先に車で客を運び始めた順序には、北麓へ客を呼ぶ手段を鉄道1本に限らない設計が表れていると考えられる。
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ551-600
- [6]1926年9月18日、帝国鉄道協会で富士山麓電気鉄道と富士山麓土地の創立総会。定款第3条に電気鉄道のほか乗合自動車と湖水の水上運輸。社長堀内良平、常務伊藤常夫(元鉄道省局長)
- [9]1926年9月18日、帝国鉄道協会で富士山麓電気鉄道と富士山麓土地の創立総会。定款第3条に電気鉄道のほか乗合自動車と湖水の水上運輸。社長堀内良平、常務伊藤常夫(元鉄道省局長)
- [10]1926年9月18日、帝国鉄道協会で富士山麓電気鉄道と富士山麓土地の創立総会。定款第3条に電気鉄道のほか乗合自動車と湖水の水上運輸。社長堀内良平、常務伊藤常夫(元鉄道省局長)
- 企業の現代史 1966年「富士山とともに60年(富士急行)」
- [7]富士急行の創立は1926年9月18日
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ101-150
- [8]資本金は富士山麓電気鉄道500万円、富士山麓土地100万円
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ601-650
- [11]1927年3月7日に御殿場―吉田―船津の乗合自動車を営む甲駿自動車商会を買収。1927年8月1日から富士山麓電鉄としてバス事業を開始
富士山麓電気鉄道は1927年5月14日、大月―吉田間に軽便の電車を走らせていた富士電気軌道を60万円で買収した。ただし富士電気軌道の線路は国道139号線の路肩や道路敷の上に大半が敷かれ、新しい電気鉄道には転用できなかった。軌道用地はほぼすべて新たに取得し、地主との交渉が難航した谷村―吉田間では土地収用法の適用申請を経て1929年1月に全区間の用地を確保した。工事は1928年7月3日の谷村での起工に始まり、大月―谷村間を清水組、谷村―吉田間を間組が受け持った。1929年6月19日、大月―吉田間23.6キロに9駅・1日21往復の電車が走り出し、片道の運賃は70銭とされた。中央線の大月で東京の客を受け、そのまま北麓まで運ぶには、道路脇を走る軽便では足りないと判断したのだろう。
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ151-200
- [12]1927年5月14日、大月―吉田間に既設軌道を持つ富士電気軌道の設備と資産を60万円で買収
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ601-650
- [13]富士電軌の軌道は国道139号線の道路敷・路肩が大部分で利用できず用地を新規買収。谷村―吉田間は土地収用法の適用申請を経て1929年1月に買収完了。1928年7月3日谷村で起工、清水組・間組が施工。1929年6月19日大月―吉田間23.6キロ開業、9駅・1日21往復、片道70銭
- [14]富士電軌の軌道は国道139号線の道路敷・路肩が大部分で利用できず用地を新規買収。谷村―吉田間は土地収用法の適用申請を経て1929年1月に買収完了。1928年7月3日谷村で起工、清水組・間組が施工。1929年6月19日大月―吉田間23.6キロ開業、9駅・1日21往復、片道70銭
- [15]富士電軌の軌道は国道139号線の道路敷・路肩が大部分で利用できず用地を新規買収。谷村―吉田間は土地収用法の適用申請を経て1929年1月に買収完了。1928年7月3日谷村で起工、清水組・間組が施工。1929年6月19日大月―吉田間23.6キロ開業、9駅・1日21往復、片道70銭
- [16]富士電軌の軌道は国道139号線の道路敷・路肩が大部分で利用できず用地を新規買収。谷村―吉田間は土地収用法の適用申請を経て1929年1月に買収完了。1928年7月3日谷村で起工、清水組・間組が施工。1929年6月19日大月―吉田間23.6キロ開業、9駅・1日21往復、片道70銭
参考文献[1]-[16]
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ551-600
- [1]1925年2月6日に本間知事が県内有力者約100名から全会一致の賛同を得、2月10日に帝国鉄道協会で在京甲州系実業人との協議会を開き堀内良平が計画案を説明した。知事談話は遊覧客・冬の山中湖スケート客・木材輸送を見込む
- [3]1925年2月6日に本間知事が県内有力者約100名から全会一致の賛同を得、2月10日に帝国鉄道協会で在京甲州系実業人との協議会を開き堀内良平が計画案を説明した。知事談話は遊覧客・冬の山中湖スケート客・木材輸送を見込む
- [4]1925年2月6日に本間知事が県内有力者約100名から全会一致の賛同を得、2月10日に帝国鉄道協会で在京甲州系実業人との協議会を開き堀内良平が計画案を説明した。知事談話は遊覧客・冬の山中湖スケート客・木材輸送を見込む
- [6]1926年9月18日、帝国鉄道協会で富士山麓電気鉄道と富士山麓土地の創立総会。定款第3条に電気鉄道のほか乗合自動車と湖水の水上運輸。社長堀内良平、常務伊藤常夫(元鉄道省局長)
- [9]1926年9月18日、帝国鉄道協会で富士山麓電気鉄道と富士山麓土地の創立総会。定款第3条に電気鉄道のほか乗合自動車と湖水の水上運輸。社長堀内良平、常務伊藤常夫(元鉄道省局長)
- [10]1926年9月18日、帝国鉄道協会で富士山麓電気鉄道と富士山麓土地の創立総会。定款第3条に電気鉄道のほか乗合自動車と湖水の水上運輸。社長堀内良平、常務伊藤常夫(元鉄道省局長)
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ101-150
- [2]1925年5月の発起人会で根津嘉一郎が委員長を辞退し、委員長業務の代行が堀内良平に委任された。発起人は81人。堀内は日本観光の熱海ホテルを経営し順調だった
- [5]1925年5月の発起人会で根津嘉一郎が委員長を辞退し、委員長業務の代行が堀内良平に委任された。発起人は81人。堀内は日本観光の熱海ホテルを経営し順調だった
- [8]資本金は富士山麓電気鉄道500万円、富士山麓土地100万円
- 企業の現代史 1966年「富士山とともに60年(富士急行)」
- [7]富士急行の創立は1926年9月18日
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ601-650
- [11]1927年3月7日に御殿場―吉田―船津の乗合自動車を営む甲駿自動車商会を買収。1927年8月1日から富士山麓電鉄としてバス事業を開始
- [13]富士電軌の軌道は国道139号線の道路敷・路肩が大部分で利用できず用地を新規買収。谷村―吉田間は土地収用法の適用申請を経て1929年1月に買収完了。1928年7月3日谷村で起工、清水組・間組が施工。1929年6月19日大月―吉田間23.6キロ開業、9駅・1日21往復、片道70銭
- [14]富士電軌の軌道は国道139号線の道路敷・路肩が大部分で利用できず用地を新規買収。谷村―吉田間は土地収用法の適用申請を経て1929年1月に買収完了。1928年7月3日谷村で起工、清水組・間組が施工。1929年6月19日大月―吉田間23.6キロ開業、9駅・1日21往復、片道70銭
- [15]富士電軌の軌道は国道139号線の道路敷・路肩が大部分で利用できず用地を新規買収。谷村―吉田間は土地収用法の適用申請を経て1929年1月に買収完了。1928年7月3日谷村で起工、清水組・間組が施工。1929年6月19日大月―吉田間23.6キロ開業、9駅・1日21往復、片道70銭
- [16]富士電軌の軌道は国道139号線の道路敷・路肩が大部分で利用できず用地を新規買収。谷村―吉田間は土地収用法の適用申請を経て1929年1月に買収完了。1928年7月3日谷村で起工、清水組・間組が施工。1929年6月19日大月―吉田間23.6キロ開業、9駅・1日21往復、片道70銭
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ151-200
- [12]1927年5月14日、大月―吉田間に既設軌道を持つ富士電気軌道の設備と資産を60万円で買収
1930年〜山中湖畔旭日丘の貸別荘23棟と、富士自動車の合併と松田自動車の傘下入りで広げたバス網
大月―吉田間の電車は、開業から3日ほどを過ぎると運賃収入が人件費を下回った。堀内良平氏は電車開業に先立つ1928年8月1日、8万円を投じた山中湖ホテルを開業させ、続いて山中湖畔の旭日丘で貸別荘の建築を始めた。1930年8月1日に23棟がそろい、別荘地には富士山麓土地の出張所や食品の販売所、診療所も置かれた。1931年7月には徳富蘇峰氏が別荘A3号棟へ入居し、旭日丘の地名も徳富蘇峰氏の命名による。徳富蘇峰氏への別荘の無料提供は、著名人の滞在を通じた山中湖畔の宣伝も兼ねた。電車に乗る理由そのものを沿線の先に用意しなければ、北麓へ向かう客は増えないと堀内良平氏は見ていたと推察される。
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ601-650
- [17]開業から3日間ほどは収入が人件費を上回ったがその後は下回った。1931年7月に徳富蘇峰が別荘A3号棟に入居、旭日丘の名は蘇峰の命名
- [20]開業から3日間ほどは収入が人件費を上回ったがその後は下回った。1931年7月に徳富蘇峰が別荘A3号棟に入居、旭日丘の名は蘇峰の命名
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ151-200
- [18]1928年8月1日、8万円をかけた山中湖ホテルを開業。旭日丘に貸別荘を建築し、1930年8月1日に23棟完成。別荘地に土地会社の出張所・食品販売所・診療所。徳富蘇峰への別荘無料提供は宣伝効果を考えてのもの
- [19]1928年8月1日、8万円をかけた山中湖ホテルを開業。旭日丘に貸別荘を建築し、1930年8月1日に23棟完成。別荘地に土地会社の出張所・食品販売所・診療所。徳富蘇峰への別荘無料提供は宣伝効果を考えてのもの
- [21]1928年8月1日、8万円をかけた山中湖ホテルを開業。旭日丘に貸別荘を建築し、1930年8月1日に23棟完成。別荘地に土地会社の出張所・食品販売所・診療所。徳富蘇峰への別荘無料提供は宣伝効果を考えてのもの
富士山麓土地は1932年1月の臨時株主総会で、富士山麓電気鉄道に吸収される合併を決め、4月1日から電鉄の一部門となった。世界恐慌のもとで土地の分譲と賃貸は振るわず、土地会社の業績は低下していた。合併後、山中湖畔の別荘地の一部をゴルフ場に転用する準備が進んだ。社内の反対を押し切った堀内良平氏の判断で建設を決め、会員制の富士ゴルフ倶楽部が入会金300円で募った会員は100人にとどまった。不足は会社の資金で補い、18ホール・6,507ヤードのコースが1935年8月1日に営業を開始。案内では中央線経由でも東海道線経由でも東京から3時間半を売り文句とし、自社の電車とバスを乗り継ぐ道筋を示した。同じ人々が同じ目的で興した2社を1社にまとめ、土地の開発と鉄道の客を一つの勘定で回す狙いがあったと思われる。
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ601-650
- [22]1932年1月の臨時株主総会で富士山麓土地の吸収合併を議決し4月1日発足。社内の反対を押し切り堀内良平の決断でゴルフ場建設、入会金300円で100人応募、会社が多額の資金を投入。18ホール6507ヤード、1935年8月1日営業開始、東京から3時間半
- [25]1932年1月の臨時株主総会で富士山麓土地の吸収合併を議決し4月1日発足。社内の反対を押し切り堀内良平の決断でゴルフ場建設、入会金300円で100人応募、会社が多額の資金を投入。18ホール6507ヤード、1935年8月1日営業開始、東京から3時間半
- [26]1932年1月の臨時株主総会で富士山麓土地の吸収合併を議決し4月1日発足。社内の反対を押し切り堀内良平の決断でゴルフ場建設、入会金300円で100人応募、会社が多額の資金を投入。18ホール6507ヤード、1935年8月1日営業開始、東京から3時間半
- [27]1932年1月の臨時株主総会で富士山麓土地の吸収合併を議決し4月1日発足。社内の反対を押し切り堀内良平の決断でゴルフ場建設、入会金300円で100人応募、会社が多額の資金を投入。18ホール6507ヤード、1935年8月1日営業開始、東京から3時間半
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ151-200
- [23]世界恐慌で土地分譲と賃貸が不調となり富士山麓土地の業績が低下。当初の別荘地をゴルフ場に転用する準備を進めた
- [24]世界恐慌で土地分譲と賃貸が不調となり富士山麓土地の業績が低下。当初の別荘地をゴルフ場に転用する準備を進めた
富士山麓電気鉄道は1937年3月12日、静岡県の富士自動車を合併し、大型57両・小型7両と定期21路線・延長190キロ余を引き継いだ。富士自動車には東海自動車や静岡電鉄も合併を持ちかけており、交渉は競合のなかで進んだ。富士自動車社長の西村清策氏の述懐には『堀内社長は私のところに3晩も泊り込み,交渉に当たられた。私はその心に打たれた。』とある。この合併で富士山を周回する180キロの観光路線を押さえ、同年には吉田・御殿場・沼津・富士・大宮を起点とする一周の定期バスを走らせた。1939年7月には西村清策氏が経営する松田自動車を傘下に収めて神奈川県へ進出し、バス網は3県で49路線・476キロに及んだ。鉄道は大月―吉田間で止まり、富士山麓一帯の交通は堀内良平氏が築いたバス網が担うことになった。
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ601-650
- [28]1937年3月12日に富士自動車を合併、大型57両・小型7両、定期21路線190キロ余。東海自動車・静岡電鉄からも交渉。富士山一周観光コース180キロ。同年富士山一周の定期バス。1939年7月に松田自動車を傘下に収め神奈川県に進出、3県49路線476キロ・185両
- [29]1937年3月12日に富士自動車を合併、大型57両・小型7両、定期21路線190キロ余。東海自動車・静岡電鉄からも交渉。富士山一周観光コース180キロ。同年富士山一周の定期バス。1939年7月に松田自動車を傘下に収め神奈川県に進出、3県49路線476キロ・185両
- [30]1937年3月12日に富士自動車を合併、大型57両・小型7両、定期21路線190キロ余。東海自動車・静岡電鉄からも交渉。富士山一周観光コース180キロ。同年富士山一周の定期バス。1939年7月に松田自動車を傘下に収め神奈川県に進出、3県49路線476キロ・185両
- [31]1937年3月12日に富士自動車を合併、大型57両・小型7両、定期21路線190キロ余。東海自動車・静岡電鉄からも交渉。富士山一周観光コース180キロ。同年富士山一周の定期バス。1939年7月に松田自動車を傘下に収め神奈川県に進出、3県49路線476キロ・185両
- [32]1937年3月12日に富士自動車を合併、大型57両・小型7両、定期21路線190キロ余。東海自動車・静岡電鉄からも交渉。富士山一周観光コース180キロ。同年富士山一周の定期バス。1939年7月に松田自動車を傘下に収め神奈川県に進出、3県49路線476キロ・185両
- 企業の現代史 1966年「富士山とともに60年(富士急行)」
- [33]大月―富士吉田間の鉄道営業から富士山麓一帯のバス網の建設まで、創立者の堀内良平が手がけた
参考文献[17]-[33]
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ601-650
- [17]開業から3日間ほどは収入が人件費を上回ったがその後は下回った。1931年7月に徳富蘇峰が別荘A3号棟に入居、旭日丘の名は蘇峰の命名
- [20]開業から3日間ほどは収入が人件費を上回ったがその後は下回った。1931年7月に徳富蘇峰が別荘A3号棟に入居、旭日丘の名は蘇峰の命名
- [22]1932年1月の臨時株主総会で富士山麓土地の吸収合併を議決し4月1日発足。社内の反対を押し切り堀内良平の決断でゴルフ場建設、入会金300円で100人応募、会社が多額の資金を投入。18ホール6507ヤード、1935年8月1日営業開始、東京から3時間半
- [25]1932年1月の臨時株主総会で富士山麓土地の吸収合併を議決し4月1日発足。社内の反対を押し切り堀内良平の決断でゴルフ場建設、入会金300円で100人応募、会社が多額の資金を投入。18ホール6507ヤード、1935年8月1日営業開始、東京から3時間半
- [26]1932年1月の臨時株主総会で富士山麓土地の吸収合併を議決し4月1日発足。社内の反対を押し切り堀内良平の決断でゴルフ場建設、入会金300円で100人応募、会社が多額の資金を投入。18ホール6507ヤード、1935年8月1日営業開始、東京から3時間半
- [27]1932年1月の臨時株主総会で富士山麓土地の吸収合併を議決し4月1日発足。社内の反対を押し切り堀内良平の決断でゴルフ場建設、入会金300円で100人応募、会社が多額の資金を投入。18ホール6507ヤード、1935年8月1日営業開始、東京から3時間半
- [28]1937年3月12日に富士自動車を合併、大型57両・小型7両、定期21路線190キロ余。東海自動車・静岡電鉄からも交渉。富士山一周観光コース180キロ。同年富士山一周の定期バス。1939年7月に松田自動車を傘下に収め神奈川県に進出、3県49路線476キロ・185両
- [29]1937年3月12日に富士自動車を合併、大型57両・小型7両、定期21路線190キロ余。東海自動車・静岡電鉄からも交渉。富士山一周観光コース180キロ。同年富士山一周の定期バス。1939年7月に松田自動車を傘下に収め神奈川県に進出、3県49路線476キロ・185両
- [30]1937年3月12日に富士自動車を合併、大型57両・小型7両、定期21路線190キロ余。東海自動車・静岡電鉄からも交渉。富士山一周観光コース180キロ。同年富士山一周の定期バス。1939年7月に松田自動車を傘下に収め神奈川県に進出、3県49路線476キロ・185両
- [31]1937年3月12日に富士自動車を合併、大型57両・小型7両、定期21路線190キロ余。東海自動車・静岡電鉄からも交渉。富士山一周観光コース180キロ。同年富士山一周の定期バス。1939年7月に松田自動車を傘下に収め神奈川県に進出、3県49路線476キロ・185両
- [32]1937年3月12日に富士自動車を合併、大型57両・小型7両、定期21路線190キロ余。東海自動車・静岡電鉄からも交渉。富士山一周観光コース180キロ。同年富士山一周の定期バス。1939年7月に松田自動車を傘下に収め神奈川県に進出、3県49路線476キロ・185両
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ151-200
- [18]1928年8月1日、8万円をかけた山中湖ホテルを開業。旭日丘に貸別荘を建築し、1930年8月1日に23棟完成。別荘地に土地会社の出張所・食品販売所・診療所。徳富蘇峰への別荘無料提供は宣伝効果を考えてのもの
- [19]1928年8月1日、8万円をかけた山中湖ホテルを開業。旭日丘に貸別荘を建築し、1930年8月1日に23棟完成。別荘地に土地会社の出張所・食品販売所・診療所。徳富蘇峰への別荘無料提供は宣伝効果を考えてのもの
- [21]1928年8月1日、8万円をかけた山中湖ホテルを開業。旭日丘に貸別荘を建築し、1930年8月1日に23棟完成。別荘地に土地会社の出張所・食品販売所・診療所。徳富蘇峰への別荘無料提供は宣伝効果を考えてのもの
- [23]世界恐慌で土地分譲と賃貸が不調となり富士山麓土地の業績が低下。当初の別荘地をゴルフ場に転用する準備を進めた
- [24]世界恐慌で土地分譲と賃貸が不調となり富士山麓土地の業績が低下。当初の別荘地をゴルフ場に転用する準備を進めた
- 企業の現代史 1966年「富士山とともに60年(富士急行)」
- [33]大月―富士吉田間の鉄道営業から富士山麓一帯のバス網の建設まで、創立者の堀内良平が手がけた
1940年〜戦時の酷使で疲れた鉄道と、大月から河口湖まで延ばした26.7キロ
戦時下の1943年5月からガソリンは切符制となり、富士山麓電気鉄道の路線には木炭や薪を燃やして走るバスが出た。車両と軌道は戦争中の酷使で傷み、敗戦後には列車事故も起きた。創業者の堀内良平氏が退任した後、株式は兜町に流れ、2代目と3代目の社長は兜町から送り込まれた。その後に続いたのが、堀内良平氏の長男である堀内一雄氏の社長就任。1948年には40人乗りの大型ディーゼルバス25両を発注し、11月には谷村貸切自動車も傘下に入れた。翌1949年には燃料不足で休んでいた定期バス路線の運行を再開した。堀内家に経営が戻ったことで、戦時に止めた路線をまず元の姿へ戻すことが立て直しの第一歩になったとみてよいだろう。
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ201-220
- [34]1943年5月からガソリンが切符制となり、木炭や薪を燃料とするバスが走った
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ651-700
- [35]戦時中の酷使で鉄道もバスも疲弊、敗戦後に列車事故。1948年に40人乗り大型ディーゼルバス25両を発注、同年11月に谷村貸切自動車を買収。1949年に燃料不足で休業していた定期バス路線を再開
- [38]戦時中の酷使で鉄道もバスも疲弊、敗戦後に列車事故。1948年に40人乗り大型ディーゼルバス25両を発注、同年11月に谷村貸切自動車を買収。1949年に燃料不足で休業していた定期バス路線を再開
- [39]戦時中の酷使で鉄道もバスも疲弊、敗戦後に列車事故。1948年に40人乗り大型ディーゼルバス25両を発注、同年11月に谷村貸切自動車を買収。1949年に燃料不足で休業していた定期バス路線を再開
- 企業の現代史 1966年「富士山とともに60年(富士急行)」
- [36]堀内良平が去った後、株が兜町に流れ2代・3代の社長が兜町から送り込まれた。その後堀内一雄が社長に就任
- [37]堀内良平が去った後、株が兜町に流れ2代・3代の社長が兜町から送り込まれた。その後堀内一雄が社長に就任
富士山麓電気鉄道は1950年2月14日、富士吉田―河口湖間の延長敷設工事について連合軍から認可を受けた。5月15日の起工から3か月余りの8月24日に3.1キロが完成し、大月―河口湖間26.7キロが開業した。戦前には吉田から山中湖を経て御殿場へ、本栖湖を経て常葉へ向かう線も認可されたが、創業期の資金では着工できなかった。戦後に延ばした鉄道は河口湖までの3.1キロにとどまった。並行して1950年4月25日に本栖―甲斐常葉間のバスを開業し、1951年8月1日には箱根宮の下まで乗り入れた。大月―河口湖の鉄道と富士山麓一帯の路線バスを併せ持つ体制で、北麓の交通では他社が並ぶ余地のない地位を得た。
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ651-700
- [40]1950年2月14日に連合軍が河口湖線延長敷設を認可、5月15日起工、8月24日富士吉田―河口湖3.1キロ完成、大月―河口湖26.7キロ開業。1950年4月25日本栖―甲斐常葉バス、1951年8月1日箱根宮の下へ乗り入れ
- [41]1950年2月14日に連合軍が河口湖線延長敷設を認可、5月15日起工、8月24日富士吉田―河口湖3.1キロ完成、大月―河口湖26.7キロ開業。1950年4月25日本栖―甲斐常葉バス、1951年8月1日箱根宮の下へ乗り入れ
- [44]1950年2月14日に連合軍が河口湖線延長敷設を認可、5月15日起工、8月24日富士吉田―河口湖3.1キロ完成、大月―河口湖26.7キロ開業。1950年4月25日本栖―甲斐常葉バス、1951年8月1日箱根宮の下へ乗り入れ
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ601-650
- [42]吉田―山中―御殿場線32.9キロ、吉田―本栖―常葉線38.7キロも認可されていたが工事できず、鉄道は大月―吉田23.6キロと戦後の吉田―河口湖3.1キロにとどまった
- [43]吉田―山中―御殿場線32.9キロ、吉田―本栖―常葉線38.7キロも認可されていたが工事できず、鉄道は大月―吉田23.6キロと戦後の吉田―河口湖3.1キロにとどまった
- 企業の現代史 1966年「富士山とともに60年(富士急行)」
- [45]大月―河口湖(1950年に富士吉田から延長)の鉄道と富士山麓一帯の路線バスで圧倒的な地位
富士山麓電気鉄道は1950年4月に東京証券取引所への株式上場を決め、同時に資本金を3,000万円に増額した。資本金はその後も増資を重ね、1957年1月には4億4千万円まで増えた。1960年5月の定時株主総会で、社名を富士急行に改める案が可決された。改称は常務だった堀内光雄氏の発意によるもので、私鉄に多い「電鉄」の2字を社名に付けなかった。それまでの会社は、鉄道とバスで北麓の交通を押さえる交通業者にとどまっていた。改称後の会社は『足をもった観光会社』を看板に掲げることになる。社名から鉄道を外した時点で、堀内光雄氏は運輸と並ぶ収益源として観光を育てる道筋を描いていたのではないか。
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ651-700
- [46]1950年4月に東京証券取引所への上場を決め資本金3,000万円に増額。1957年1月に4億4千万円。1960年5月の定時株主総会で富士急行へ改称を決議。常務堀内光雄の発意で、富士急行電鉄とせず、運輸・観光を両軸とする第一歩
- [47]1950年4月に東京証券取引所への上場を決め資本金3,000万円に増額。1957年1月に4億4千万円。1960年5月の定時株主総会で富士急行へ改称を決議。常務堀内光雄の発意で、富士急行電鉄とせず、運輸・観光を両軸とする第一歩
- [48]1950年4月に東京証券取引所への上場を決め資本金3,000万円に増額。1957年1月に4億4千万円。1960年5月の定時株主総会で富士急行へ改称を決議。常務堀内光雄の発意で、富士急行電鉄とせず、運輸・観光を両軸とする第一歩
- [49]1950年4月に東京証券取引所への上場を決め資本金3,000万円に増額。1957年1月に4億4千万円。1960年5月の定時株主総会で富士急行へ改称を決議。常務堀内光雄の発意で、富士急行電鉄とせず、運輸・観光を両軸とする第一歩
- 企業の現代史 1966年「富士山とともに60年(富士急行)」
- [50]富士山麓電気鉄道が富士急行と社名を改めたのは1960年5月。キャッチフレーズは「足をもった観光会社」。それまでは私鉄企業・バス会社の交通業者だった
- [51]富士山麓電気鉄道が富士急行と社名を改めたのは1960年5月。キャッチフレーズは「足をもった観光会社」。それまでは私鉄企業・バス会社の交通業者だった
参考文献[34]-[51]
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ201-220
- [34]1943年5月からガソリンが切符制となり、木炭や薪を燃料とするバスが走った
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ651-700
- [35]戦時中の酷使で鉄道もバスも疲弊、敗戦後に列車事故。1948年に40人乗り大型ディーゼルバス25両を発注、同年11月に谷村貸切自動車を買収。1949年に燃料不足で休業していた定期バス路線を再開
- [38]戦時中の酷使で鉄道もバスも疲弊、敗戦後に列車事故。1948年に40人乗り大型ディーゼルバス25両を発注、同年11月に谷村貸切自動車を買収。1949年に燃料不足で休業していた定期バス路線を再開
- [39]戦時中の酷使で鉄道もバスも疲弊、敗戦後に列車事故。1948年に40人乗り大型ディーゼルバス25両を発注、同年11月に谷村貸切自動車を買収。1949年に燃料不足で休業していた定期バス路線を再開
- [40]1950年2月14日に連合軍が河口湖線延長敷設を認可、5月15日起工、8月24日富士吉田―河口湖3.1キロ完成、大月―河口湖26.7キロ開業。1950年4月25日本栖―甲斐常葉バス、1951年8月1日箱根宮の下へ乗り入れ
- [41]1950年2月14日に連合軍が河口湖線延長敷設を認可、5月15日起工、8月24日富士吉田―河口湖3.1キロ完成、大月―河口湖26.7キロ開業。1950年4月25日本栖―甲斐常葉バス、1951年8月1日箱根宮の下へ乗り入れ
- [44]1950年2月14日に連合軍が河口湖線延長敷設を認可、5月15日起工、8月24日富士吉田―河口湖3.1キロ完成、大月―河口湖26.7キロ開業。1950年4月25日本栖―甲斐常葉バス、1951年8月1日箱根宮の下へ乗り入れ
- [46]1950年4月に東京証券取引所への上場を決め資本金3,000万円に増額。1957年1月に4億4千万円。1960年5月の定時株主総会で富士急行へ改称を決議。常務堀内光雄の発意で、富士急行電鉄とせず、運輸・観光を両軸とする第一歩
- [47]1950年4月に東京証券取引所への上場を決め資本金3,000万円に増額。1957年1月に4億4千万円。1960年5月の定時株主総会で富士急行へ改称を決議。常務堀内光雄の発意で、富士急行電鉄とせず、運輸・観光を両軸とする第一歩
- [48]1950年4月に東京証券取引所への上場を決め資本金3,000万円に増額。1957年1月に4億4千万円。1960年5月の定時株主総会で富士急行へ改称を決議。常務堀内光雄の発意で、富士急行電鉄とせず、運輸・観光を両軸とする第一歩
- [49]1950年4月に東京証券取引所への上場を決め資本金3,000万円に増額。1957年1月に4億4千万円。1960年5月の定時株主総会で富士急行へ改称を決議。常務堀内光雄の発意で、富士急行電鉄とせず、運輸・観光を両軸とする第一歩
- 企業の現代史 1966年「富士山とともに60年(富士急行)」
- [36]堀内良平が去った後、株が兜町に流れ2代・3代の社長が兜町から送り込まれた。その後堀内一雄が社長に就任
- [37]堀内良平が去った後、株が兜町に流れ2代・3代の社長が兜町から送り込まれた。その後堀内一雄が社長に就任
- [45]大月―河口湖(1950年に富士吉田から延長)の鉄道と富士山麓一帯の路線バスで圧倒的な地位
- [50]富士山麓電気鉄道が富士急行と社名を改めたのは1960年5月。キャッチフレーズは「足をもった観光会社」。それまでは私鉄企業・バス会社の交通業者だった
- [51]富士山麓電気鉄道が富士急行と社名を改めたのは1960年5月。キャッチフレーズは「足をもった観光会社」。それまでは私鉄企業・バス会社の交通業者だった
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ601-650
- [42]吉田―山中―御殿場線32.9キロ、吉田―本栖―常葉線38.7キロも認可されていたが工事できず、鉄道は大月―吉田23.6キロと戦後の吉田―河口湖3.1キロにとどまった
- [43]吉田―山中―御殿場線32.9キロ、吉田―本栖―常葉線38.7キロも認可されていたが工事できず、鉄道は大月―吉田23.6キロと戦後の吉田―河口湖3.1キロにとどまった
出典・参考
7件
- 企業の現代史 1966年「富士山とともに60年(富士急行)」
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ551-600
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ601-650
- 富士急行『富士山麓史』1977年 コマ651-700
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ101-150
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ151-200
- 塩田道夫『富士を拓く 堀内良平の生涯』1994年 コマ201-220