京浜急行電鉄:大師電気鉄道の創立と品川〜神奈川間の全通
1898年〜川崎大師への参詣道に敷いた資本金9万8,000円の電車と、京浜電気鉄道への改称
大師電気鉄道は1898年2月25日、資本金9万8,000円で創立した。京浜間では1893年に雨宮敬次郎氏らと中野武営氏らが別々に電気鉄道を出願し、経路の違う計画が入り乱れて導入が遅れた。川崎の旅館経営者の田中亀之助氏らは、川崎町〜大師間で人力車と馬車に代わる交通機関を企図した。東京の立川勇次郎氏は田中亀之助氏らの計画に着目し、短い区間で資本の節約を見込んで、『関東ニ於ケル電気鉄道ノ標本ヲ実験』する電気鉄道を構想。競願相手の横浜電車鉄道とは、神奈川県が特許の条件に合同を求め、1897年6月24日に合同契約を結んだ。京浜間の大きな計画が動かないなか、参詣路の短い線で電車の採算を先に示す判断だったとみられる。
- ポケット社史「首都圏を舞台に(京浜急行)」(1968)
- [1]1898年2月25日、資本金9万8,000円で大師電気鉄道株式会社が設立、創立者は立川勇次郎ほか26名
- 京浜急行八十年史(1980)1章 創業期
- [2]1893年に雨宮敬次郎ら・中野武営らが京浜間電気鉄道を出願し諸計画が乱立、導入が遅れた。田中亀之助らが川崎町〜大師間の交通機関を企図し、立川勇次郎が資本節約の判断から企業化を図った
- [3]1893年に雨宮敬次郎ら・中野武営らが京浜間電気鉄道を出願し諸計画が乱立、導入が遅れた。田中亀之助らが川崎町〜大師間の交通機関を企図し、立川勇次郎が資本節約の判断から企業化を図った
- [4]1893年に雨宮敬次郎ら・中野武営らが京浜間電気鉄道を出願し諸計画が乱立、導入が遅れた。田中亀之助らが川崎町〜大師間の交通機関を企図し、立川勇次郎が資本節約の判断から企業化を図った
- [5]神奈川県が1897年6月21日に合同を慫慂し特許の条件とし、6月24日に横浜電車鉄道との合同契約を締結、合同後の資本金9万8,000円
大師電気鉄道は1899年1月21日、川崎大師の縁日に合わせて六郷橋〜大師間2.0kmの営業を始めた。当初の予定は1898年10月の開業だった。輸入した蒸気機関と発電機は製造会社の倒産で届かず、発電機の着荷は1899年1月16日まで遅れた。運賃は並等5銭・上等10銭とし、官設鉄道の川崎停車場との間は人力車組合と連絡切符を出して客をつないだ。開業広告は『関東ニ於ケル電気鉄道ノ嚆矢ニシテ日本国中ニ於ケル広軌鉄道ノ元祖』と宣伝し、開業から5月末までの乗車人員は約16万人、1日平均1,224人に上った。最初の期末には1割1分2厘強の株式配当を出した。単線と車両不足で縁日の客を運びきれない状態は、線を延ばす投資を急がせる材料になったと考えられる。
- 京浜急行電鉄「80年の歩み」(1978)
- [6]1899年1月21日、六郷橋〜川崎大師間2.0kmの営業開始
- 京浜急行八十年史(1980)1章 創業期
- [7]開業予定は1898年10月、バグナル・ヒルス商会発注の機器が製造会社倒産で不着、発電機到着は1899年1月16日。運賃並等5銭・上等10銭、人力車組合と連絡切符。5月末まで乗車約16万人・1日平均1,224人、縁日は単線と車両不足で運びきれず
- [8]開業予定は1898年10月、バグナル・ヒルス商会発注の機器が製造会社倒産で不着、発電機到着は1899年1月16日。運賃並等5銭・上等10銭、人力車組合と連絡切符。5月末まで乗車約16万人・1日平均1,224人、縁日は単線と車両不足で運びきれず
- [9]開業予定は1898年10月、バグナル・ヒルス商会発注の機器が製造会社倒産で不着、発電機到着は1899年1月16日。運賃並等5銭・上等10銭、人力車組合と連絡切符。5月末まで乗車約16万人・1日平均1,224人、縁日は単線と車両不足で運びきれず
- [10]開業予定は1898年10月、バグナル・ヒルス商会発注の機器が製造会社倒産で不着、発電機到着は1899年1月16日。運賃並等5銭・上等10銭、人力車組合と連絡切符。5月末まで乗車約16万人・1日平均1,224人、縁日は単線と車両不足で運びきれず
- ポケット社史「首都圏を舞台に(京浜急行)」(1968)
- [11]大師の縁日に開業、期末に1割1分2厘強の株式配当
大師電気鉄道は開業から3か月後の1899年4月25日、社名を京浜電気鉄道に改めた。1898年には競願相手の京浜間電気鉄道が品川橋〜六郷橋間の特許を得そうな形勢となった。大師電気鉄道は同年10月に川崎〜横浜間の延長出願を取り下げ、品川〜川崎間の連絡線を先に建設する方針へ切り替えた。1899年4月5日には合同仮契約を結び、京浜間の軌道条例と鉄道条例による出願権をすべて合同した。資本金は85万円・1万7,000株へ増やし、旧株主と京浜間電気鉄道の発起人に7,500株ずつを割り当てた。同年11月には品川延長線の特許を取得している。開業済みの会社に後発の計画を合流させたことで、1893年以来の京浜連絡の乱立は1社にまとまったといえる。
- 京浜急行電鉄「80年の歩み」(1978)
- [12]1899年4月、在京資本と合体して社名を京浜電気鉄道に変更
- 京浜急行八十年史(1980)1章 創業期
- [13]1898年に京浜間電気鉄道が品川橋〜六郷橋間の特許を得そうな形勢となり、同年10月に川崎〜横浜間の新線出願を取り下げ品川〜川崎間を優先。1899年4月5日合同仮契約、出願権をすべて合同、資本金85万円・1万7,000株、7,500株ずつ割当
- [14]1898年に京浜間電気鉄道が品川橋〜六郷橋間の特許を得そうな形勢となり、同年10月に川崎〜横浜間の新線出願を取り下げ品川〜川崎間を優先。1899年4月5日合同仮契約、出願権をすべて合同、資本金85万円・1万7,000株、7,500株ずつ割当
- [15]1898年に京浜間電気鉄道が品川橋〜六郷橋間の特許を得そうな形勢となり、同年10月に川崎〜横浜間の新線出願を取り下げ品川〜川崎間を優先。1899年4月5日合同仮契約、出願権をすべて合同、資本金85万円・1万7,000株、7,500株ずつ割当
- [16]1898年に京浜間電気鉄道が品川橋〜六郷橋間の特許を得そうな形勢となり、同年10月に川崎〜横浜間の新線出願を取り下げ品川〜川崎間を優先。1899年4月5日合同仮契約、出願権をすべて合同、資本金85万円・1万7,000株、7,500株ずつ割当
- ポケット社史「首都圏を舞台に(京浜急行)」(1968)
- [17]1899年11月28日に品川延長線の特許を取得
参考文献[1]-[17]
- ポケット社史「首都圏を舞台に(京浜急行)」(1968)
- [1]1898年2月25日、資本金9万8,000円で大師電気鉄道株式会社が設立、創立者は立川勇次郎ほか26名
- [11]大師の縁日に開業、期末に1割1分2厘強の株式配当
- [17]1899年11月28日に品川延長線の特許を取得
- 京浜急行八十年史(1980)1章 創業期
- [2]1893年に雨宮敬次郎ら・中野武営らが京浜間電気鉄道を出願し諸計画が乱立、導入が遅れた。田中亀之助らが川崎町〜大師間の交通機関を企図し、立川勇次郎が資本節約の判断から企業化を図った
- [3]1893年に雨宮敬次郎ら・中野武営らが京浜間電気鉄道を出願し諸計画が乱立、導入が遅れた。田中亀之助らが川崎町〜大師間の交通機関を企図し、立川勇次郎が資本節約の判断から企業化を図った
- [4]1893年に雨宮敬次郎ら・中野武営らが京浜間電気鉄道を出願し諸計画が乱立、導入が遅れた。田中亀之助らが川崎町〜大師間の交通機関を企図し、立川勇次郎が資本節約の判断から企業化を図った
- [5]神奈川県が1897年6月21日に合同を慫慂し特許の条件とし、6月24日に横浜電車鉄道との合同契約を締結、合同後の資本金9万8,000円
- [7]開業予定は1898年10月、バグナル・ヒルス商会発注の機器が製造会社倒産で不着、発電機到着は1899年1月16日。運賃並等5銭・上等10銭、人力車組合と連絡切符。5月末まで乗車約16万人・1日平均1,224人、縁日は単線と車両不足で運びきれず
- [8]開業予定は1898年10月、バグナル・ヒルス商会発注の機器が製造会社倒産で不着、発電機到着は1899年1月16日。運賃並等5銭・上等10銭、人力車組合と連絡切符。5月末まで乗車約16万人・1日平均1,224人、縁日は単線と車両不足で運びきれず
- [9]開業予定は1898年10月、バグナル・ヒルス商会発注の機器が製造会社倒産で不着、発電機到着は1899年1月16日。運賃並等5銭・上等10銭、人力車組合と連絡切符。5月末まで乗車約16万人・1日平均1,224人、縁日は単線と車両不足で運びきれず
- [10]開業予定は1898年10月、バグナル・ヒルス商会発注の機器が製造会社倒産で不着、発電機到着は1899年1月16日。運賃並等5銭・上等10銭、人力車組合と連絡切符。5月末まで乗車約16万人・1日平均1,224人、縁日は単線と車両不足で運びきれず
- [13]1898年に京浜間電気鉄道が品川橋〜六郷橋間の特許を得そうな形勢となり、同年10月に川崎〜横浜間の新線出願を取り下げ品川〜川崎間を優先。1899年4月5日合同仮契約、出願権をすべて合同、資本金85万円・1万7,000株、7,500株ずつ割当
- [14]1898年に京浜間電気鉄道が品川橋〜六郷橋間の特許を得そうな形勢となり、同年10月に川崎〜横浜間の新線出願を取り下げ品川〜川崎間を優先。1899年4月5日合同仮契約、出願権をすべて合同、資本金85万円・1万7,000株、7,500株ずつ割当
- [15]1898年に京浜間電気鉄道が品川橋〜六郷橋間の特許を得そうな形勢となり、同年10月に川崎〜横浜間の新線出願を取り下げ品川〜川崎間を優先。1899年4月5日合同仮契約、出願権をすべて合同、資本金85万円・1万7,000株、7,500株ずつ割当
- [16]1898年に京浜間電気鉄道が品川橋〜六郷橋間の特許を得そうな形勢となり、同年10月に川崎〜横浜間の新線出願を取り下げ品川〜川崎間を優先。1899年4月5日合同仮契約、出願権をすべて合同、資本金85万円・1万7,000株、7,500株ずつ割当
- 京浜急行電鉄「80年の歩み」(1978)
- [6]1899年1月21日、六郷橋〜川崎大師間2.0kmの営業開始
- [12]1899年4月、在京資本と合体して社名を京浜電気鉄道に変更
1904年〜4フィート6インチに縮めた軌間と、官設鉄道に並んだ品川〜神奈川間の全通
京浜電気鉄道は1903年4月19日、軌間を4フィート8インチ半から4フィート6インチへ縮める命令書変更を願い出た。東京市内を走る東京電車鉄道と軌間をそろえ、直通運転に備えるための変更だった。品川延長を控えた同年12月5日には、雨宮敬次郎氏直系の岩田作兵衛氏が立川勇次郎氏に代わって専務取締役に就任。岩田作兵衛氏は社債と増資で膨らむ資金の手当てを受け持った。既設線の改軌は1904年3月1日に終わり、5月8日に品川(八ツ山橋)〜大森海岸間4.3kmを開業した。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際に置き、大正末年まで東京側のターミナルとして使った。直通運転と高速運転は当局の認可基準と合わず、後年まで持ち越しとなった。
- 京浜急行八十年史(1980)2章 形成期
- [18]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [19]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [20]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [21]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [23]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [24]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- 京浜急行電鉄「80年の歩み」(1978)
- [22]1904年3月1日に軌間変更工事竣工(1435mm→1372mm)、5月8日に品川(八ツ山橋)〜大森海岸間4.3km営業開始
京浜電気鉄道は1905年12月24日に川崎〜神奈川間9.9kmを開業し、品川〜神奈川間の全通で京浜間を1本の電車で結んだ。工事は同年4月13日に起工し、全線を新設軌道の複線で仕上げた。路線は鉄道作業局の品川〜横浜間と並行し、同じ区間の旅客を争うことになった。鉄道作業局は12月27日に新橋〜横浜間で急行列車の営業を始め、所要時間を27分に縮めた。京浜電気鉄道は品川〜神奈川間を29分30秒で走る計画を立て、ボギー車6両の臨時運転で官線に対抗した。作業局の推計では、品川〜神奈川間の作業局線の旅客は1906年9月に1905年12月比で63%減った。鉄道作業局の対抗策は、1915年に京浜線電車の運転が始まるまで続く。
- 京浜急行電鉄「80年の歩み」(1978)
- [25]1905年12月24日、川崎〜神奈川間9.9km営業開始、京浜間の連絡が実現
- 京浜急行八十年史(1980)2章 形成期
- [26]1905年4月13日起工、新設軌道・複線で12月17日竣功。鉄道作業局の品川〜横浜間と並行、作業局は12月27日に急行列車(新橋〜横浜27分)を営業開始。作業局推計で品川〜神奈川間旅客は1906年9月に1905年12月比63%減、対抗策は1915年の京浜線電車運転開始まで継続
- [27]1905年4月13日起工、新設軌道・複線で12月17日竣功。鉄道作業局の品川〜横浜間と並行、作業局は12月27日に急行列車(新橋〜横浜27分)を営業開始。作業局推計で品川〜神奈川間旅客は1906年9月に1905年12月比63%減、対抗策は1915年の京浜線電車運転開始まで継続
- [28]1905年4月13日起工、新設軌道・複線で12月17日竣功。鉄道作業局の品川〜横浜間と並行、作業局は12月27日に急行列車(新橋〜横浜27分)を営業開始。作業局推計で品川〜神奈川間旅客は1906年9月に1905年12月比63%減、対抗策は1915年の京浜線電車運転開始まで継続
- [30]1905年4月13日起工、新設軌道・複線で12月17日竣功。鉄道作業局の品川〜横浜間と並行、作業局は12月27日に急行列車(新橋〜横浜27分)を営業開始。作業局推計で品川〜神奈川間旅客は1906年9月に1905年12月比63%減、対抗策は1915年の京浜線電車運転開始まで継続
- [31]1905年4月13日起工、新設軌道・複線で12月17日竣功。鉄道作業局の品川〜横浜間と並行、作業局は12月27日に急行列車(新橋〜横浜27分)を営業開始。作業局推計で品川〜神奈川間旅客は1906年9月に1905年12月比63%減、対抗策は1915年の京浜線電車運転開始まで継続
- ポケット社史「首都圏を舞台に(京浜急行)」(1968)
- [29]品川〜神奈川間を29分30秒で走る計画を立て、ボギー車6両の臨時運転で官線と競走
京浜電気鉄道の資本金は、品川延長の設備資金のため1904年8月に255万円へ増えていた。全通後の投資に応じ、1906年12月25日の株主総会で1株に1株を割り当てる第3回増資255万円を決め、公称資本金は510万円となった。日露戦争後の不況で払込みは進まず、1907〜1909年度は4分の1のまま推移。打開策として雨宮敬次郎氏は外資の導入を主導し、1909年4月28日に横浜のセール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書を交わした。5月には藤本ビルブローカーへの預金の回収不能で重役が総辞職し、雨宮敬次郎氏直系の経営陣が外債交渉を引き継いだ。償還期限が会社の存続年限18年を超える疑義から9月25日に社債を断念し、同社から150万円の財団抵当借入に切り替えた。
- ポケット社史「首都圏を舞台に(京浜急行)」(1968)
- [32]資金需要が旺盛で1904年8月に3倍増資を行い資本金255万円
- 京浜急行八十年史(1980)2章 形成期
- [33]1906年12月25日に第3回増資255万円を決議、公称資本金510万円、払込は1907〜09年度4分の1で推移。1909年4月28日セール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書、5月15日藤本ビルブローカー問題で重役総辞職し雨宮直系の経営陣、9月25日社債断念し150万円の財団抵当借入
- [34]1906年12月25日に第3回増資255万円を決議、公称資本金510万円、払込は1907〜09年度4分の1で推移。1909年4月28日セール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書、5月15日藤本ビルブローカー問題で重役総辞職し雨宮直系の経営陣、9月25日社債断念し150万円の財団抵当借入
- [35]1906年12月25日に第3回増資255万円を決議、公称資本金510万円、払込は1907〜09年度4分の1で推移。1909年4月28日セール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書、5月15日藤本ビルブローカー問題で重役総辞職し雨宮直系の経営陣、9月25日社債断念し150万円の財団抵当借入
- [36]1906年12月25日に第3回増資255万円を決議、公称資本金510万円、払込は1907〜09年度4分の1で推移。1909年4月28日セール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書、5月15日藤本ビルブローカー問題で重役総辞職し雨宮直系の経営陣、9月25日社債断念し150万円の財団抵当借入
- [37]1906年12月25日に第3回増資255万円を決議、公称資本金510万円、払込は1907〜09年度4分の1で推移。1909年4月28日セール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書、5月15日藤本ビルブローカー問題で重役総辞職し雨宮直系の経営陣、9月25日社債断念し150万円の財団抵当借入
参考文献[18]-[37]
- 京浜急行八十年史(1980)2章 形成期
- [18]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [19]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [20]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [21]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [23]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [24]1903年4月19日に軌間縮小(4フィート8インチ半→東京電車鉄道と共通の4フィート6インチ)の命令書変更願。1903年12月5日、立川勇次郎に代わり雨宮敬次郎直系の岩田作兵衛が専務取締役に就任し資金調達にあたる。直通・高速運転は懸案として持越し。品川停留場は品川町北端の品川鉄橋際、八ツ山停留場と通称され大正末年までターミナル
- [26]1905年4月13日起工、新設軌道・複線で12月17日竣功。鉄道作業局の品川〜横浜間と並行、作業局は12月27日に急行列車(新橋〜横浜27分)を営業開始。作業局推計で品川〜神奈川間旅客は1906年9月に1905年12月比63%減、対抗策は1915年の京浜線電車運転開始まで継続
- [27]1905年4月13日起工、新設軌道・複線で12月17日竣功。鉄道作業局の品川〜横浜間と並行、作業局は12月27日に急行列車(新橋〜横浜27分)を営業開始。作業局推計で品川〜神奈川間旅客は1906年9月に1905年12月比63%減、対抗策は1915年の京浜線電車運転開始まで継続
- [28]1905年4月13日起工、新設軌道・複線で12月17日竣功。鉄道作業局の品川〜横浜間と並行、作業局は12月27日に急行列車(新橋〜横浜27分)を営業開始。作業局推計で品川〜神奈川間旅客は1906年9月に1905年12月比63%減、対抗策は1915年の京浜線電車運転開始まで継続
- [30]1905年4月13日起工、新設軌道・複線で12月17日竣功。鉄道作業局の品川〜横浜間と並行、作業局は12月27日に急行列車(新橋〜横浜27分)を営業開始。作業局推計で品川〜神奈川間旅客は1906年9月に1905年12月比63%減、対抗策は1915年の京浜線電車運転開始まで継続
- [31]1905年4月13日起工、新設軌道・複線で12月17日竣功。鉄道作業局の品川〜横浜間と並行、作業局は12月27日に急行列車(新橋〜横浜27分)を営業開始。作業局推計で品川〜神奈川間旅客は1906年9月に1905年12月比63%減、対抗策は1915年の京浜線電車運転開始まで継続
- [33]1906年12月25日に第3回増資255万円を決議、公称資本金510万円、払込は1907〜09年度4分の1で推移。1909年4月28日セール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書、5月15日藤本ビルブローカー問題で重役総辞職し雨宮直系の経営陣、9月25日社債断念し150万円の財団抵当借入
- [34]1906年12月25日に第3回増資255万円を決議、公称資本金510万円、払込は1907〜09年度4分の1で推移。1909年4月28日セール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書、5月15日藤本ビルブローカー問題で重役総辞職し雨宮直系の経営陣、9月25日社債断念し150万円の財団抵当借入
- [35]1906年12月25日に第3回増資255万円を決議、公称資本金510万円、払込は1907〜09年度4分の1で推移。1909年4月28日セール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書、5月15日藤本ビルブローカー問題で重役総辞職し雨宮直系の経営陣、9月25日社債断念し150万円の財団抵当借入
- [36]1906年12月25日に第3回増資255万円を決議、公称資本金510万円、払込は1907〜09年度4分の1で推移。1909年4月28日セール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書、5月15日藤本ビルブローカー問題で重役総辞職し雨宮直系の経営陣、9月25日社債断念し150万円の財団抵当借入
- [37]1906年12月25日に第3回増資255万円を決議、公称資本金510万円、払込は1907〜09年度4分の1で推移。1909年4月28日セール・フレーザー社と英貨債30万ポンドの覚書、5月15日藤本ビルブローカー問題で重役総辞職し雨宮直系の経営陣、9月25日社債断念し150万円の財団抵当借入
- 京浜急行電鉄「80年の歩み」(1978)
- [22]1904年3月1日に軌間変更工事竣工(1435mm→1372mm)、5月8日に品川(八ツ山橋)〜大森海岸間4.3km営業開始
- [25]1905年12月24日、川崎〜神奈川間9.9km営業開始、京浜間の連絡が実現
- ポケット社史「首都圏を舞台に(京浜急行)」(1968)
- [29]品川〜神奈川間を29分30秒で走る計画を立て、ボギー車6両の臨時運転で官線と競走
- [32]資金需要が旺盛で1904年8月に3倍増資を行い資本金255万円
1925年〜三浦半島へ延ばす資本金1,200万円の湘南電気鉄道と、両線の連絡を代行させた乗合自動車
湘南電気鉄道は1925年12月27日、資本金1,200万円で発足。計画は1917年9月の免許申請に始まり、創立委員長の野村龍太郎氏ら発起人は東京〜横浜間の京神電気鉄道も出願した。両線で東京から三浦半島までを一貫して営む構想だったものの、京神電気鉄道は武蔵電気鉄道との競願で免許を得られなかった。湘南電気鉄道の免許は1923年8月に下りた。1925年10〜11月には京浜電気鉄道の青木正太郎氏・中根虎四郎氏・半田貢氏らが発起人に加わり、後背地の三浦半島に目を向けた京浜電気鉄道は経営に参画した。軌間は京浜電気鉄道線との統一を理由に4フィート8インチ半へ改めた。免許を持つ別会社へ首脳が加わるほうが、新たに出願するより早く三浦半島へ届くと判断したのだろう。
- 京浜急行八十年史(1980)3章 拡張期
- [38]1917年9月5日に免許申請、創立委員長野村龍太郎、京神電気鉄道も出願し東京〜三浦半島の一貫経営をもくろむが京神は武蔵電気鉄道との競願で免許取得に至らず。1923年8月免許。1925年12月27日資本金1,200万円で創立総会。軌間は京浜電気鉄道線との統一のため4フィート8インチ半へ変更
- [39]1917年9月5日に免許申請、創立委員長野村龍太郎、京神電気鉄道も出願し東京〜三浦半島の一貫経営をもくろむが京神は武蔵電気鉄道との競願で免許取得に至らず。1923年8月免許。1925年12月27日資本金1,200万円で創立総会。軌間は京浜電気鉄道線との統一のため4フィート8インチ半へ変更
- [40]1917年9月5日に免許申請、創立委員長野村龍太郎、京神電気鉄道も出願し東京〜三浦半島の一貫経営をもくろむが京神は武蔵電気鉄道との競願で免許取得に至らず。1923年8月免許。1925年12月27日資本金1,200万円で創立総会。軌間は京浜電気鉄道線との統一のため4フィート8インチ半へ変更
- [41]1917年9月5日に免許申請、創立委員長野村龍太郎、京神電気鉄道も出願し東京〜三浦半島の一貫経営をもくろむが京神は武蔵電気鉄道との競願で免許取得に至らず。1923年8月免許。1925年12月27日資本金1,200万円で創立総会。軌間は京浜電気鉄道線との統一のため4フィート8インチ半へ変更
- [43]1917年9月5日に免許申請、創立委員長野村龍太郎、京神電気鉄道も出願し東京〜三浦半島の一貫経営をもくろむが京神は武蔵電気鉄道との競願で免許取得に至らず。1923年8月免許。1925年12月27日資本金1,200万円で創立総会。軌間は京浜電気鉄道線との統一のため4フィート8インチ半へ変更
- 京浜急行電鉄「80年の歩み」(1978)
- [42]京浜電気鉄道は後背地として三浦半島に着目し、大正14年に湘南電気鉄道の経営に参画(発起人に青木正太郎・中根虎四郎・半田貢らが加入は八十年史)
京浜電気鉄道は1927年8月27日、川崎住宅地内で初めての乗合自動車営業を始めた。京浜間の路線は1922年から再三出願したものの、高輪〜六郷間の路線権を東京乗合自動車が持ち、新規参入は認められなかった。競願のない住宅地〜八丁畷駅間は軌道の培養線として認可を得て、6人乗り2台・創業費4,500円程度で開業した。1929年7月には高輪〜六郷土手間の新国道経由の路線も認可された。1930年4月に開業した湘南電気鉄道の横浜側の起点は黄金町で、省線横浜駅に達した京浜電気鉄道線とは離れていた。両社は当面の連絡を乗合自動車に代行させ、1930年7月10日に横浜〜黄金町間の運行を始めた。鉄道でつなぐ前に道路で客を受け渡す手当てが、次章の両社の一体化の下地になったと推察される。
- 京浜急行電鉄「80年の歩み」(1978)
- [44]1927年8月27日川崎住宅地内乗合自動車営業開始、1930年7月10日横浜〜黄金町間乗合自動車営業開始
- [49]1927年8月27日川崎住宅地内乗合自動車営業開始、1930年7月10日横浜〜黄金町間乗合自動車営業開始
- 京浜急行八十年史(1980)3章 拡張期
- [45]1922年以来京浜間の乗合自動車を出願したが東京乗合自動車が高輪〜六郷間の路線権を持ち参入できず。川崎住宅地〜八丁畷駅間は培養線的・競願なしで1927年7月認可、6人乗2台・創業費4,500円程度。1929年7月高輪〜六郷土手間認可。湘南の起点黄金町との連絡は当面乗合自動車に代行
- [46]1922年以来京浜間の乗合自動車を出願したが東京乗合自動車が高輪〜六郷間の路線権を持ち参入できず。川崎住宅地〜八丁畷駅間は培養線的・競願なしで1927年7月認可、6人乗2台・創業費4,500円程度。1929年7月高輪〜六郷土手間認可。湘南の起点黄金町との連絡は当面乗合自動車に代行
- [47]1922年以来京浜間の乗合自動車を出願したが東京乗合自動車が高輪〜六郷間の路線権を持ち参入できず。川崎住宅地〜八丁畷駅間は培養線的・競願なしで1927年7月認可、6人乗2台・創業費4,500円程度。1929年7月高輪〜六郷土手間認可。湘南の起点黄金町との連絡は当面乗合自動車に代行
- ポケット社史「首都圏を舞台に(京浜急行)」(1968)
- [48]湘南電鉄は1930年4月1日に黄金町〜浦賀間などの営業を開始
参考文献[38]-[49]
- 京浜急行八十年史(1980)3章 拡張期
- [38]1917年9月5日に免許申請、創立委員長野村龍太郎、京神電気鉄道も出願し東京〜三浦半島の一貫経営をもくろむが京神は武蔵電気鉄道との競願で免許取得に至らず。1923年8月免許。1925年12月27日資本金1,200万円で創立総会。軌間は京浜電気鉄道線との統一のため4フィート8インチ半へ変更
- [39]1917年9月5日に免許申請、創立委員長野村龍太郎、京神電気鉄道も出願し東京〜三浦半島の一貫経営をもくろむが京神は武蔵電気鉄道との競願で免許取得に至らず。1923年8月免許。1925年12月27日資本金1,200万円で創立総会。軌間は京浜電気鉄道線との統一のため4フィート8インチ半へ変更
- [40]1917年9月5日に免許申請、創立委員長野村龍太郎、京神電気鉄道も出願し東京〜三浦半島の一貫経営をもくろむが京神は武蔵電気鉄道との競願で免許取得に至らず。1923年8月免許。1925年12月27日資本金1,200万円で創立総会。軌間は京浜電気鉄道線との統一のため4フィート8インチ半へ変更
- [41]1917年9月5日に免許申請、創立委員長野村龍太郎、京神電気鉄道も出願し東京〜三浦半島の一貫経営をもくろむが京神は武蔵電気鉄道との競願で免許取得に至らず。1923年8月免許。1925年12月27日資本金1,200万円で創立総会。軌間は京浜電気鉄道線との統一のため4フィート8インチ半へ変更
- [43]1917年9月5日に免許申請、創立委員長野村龍太郎、京神電気鉄道も出願し東京〜三浦半島の一貫経営をもくろむが京神は武蔵電気鉄道との競願で免許取得に至らず。1923年8月免許。1925年12月27日資本金1,200万円で創立総会。軌間は京浜電気鉄道線との統一のため4フィート8インチ半へ変更
- [45]1922年以来京浜間の乗合自動車を出願したが東京乗合自動車が高輪〜六郷間の路線権を持ち参入できず。川崎住宅地〜八丁畷駅間は培養線的・競願なしで1927年7月認可、6人乗2台・創業費4,500円程度。1929年7月高輪〜六郷土手間認可。湘南の起点黄金町との連絡は当面乗合自動車に代行
- [46]1922年以来京浜間の乗合自動車を出願したが東京乗合自動車が高輪〜六郷間の路線権を持ち参入できず。川崎住宅地〜八丁畷駅間は培養線的・競願なしで1927年7月認可、6人乗2台・創業費4,500円程度。1929年7月高輪〜六郷土手間認可。湘南の起点黄金町との連絡は当面乗合自動車に代行
- [47]1922年以来京浜間の乗合自動車を出願したが東京乗合自動車が高輪〜六郷間の路線権を持ち参入できず。川崎住宅地〜八丁畷駅間は培養線的・競願なしで1927年7月認可、6人乗2台・創業費4,500円程度。1929年7月高輪〜六郷土手間認可。湘南の起点黄金町との連絡は当面乗合自動車に代行
- 京浜急行電鉄「80年の歩み」(1978)
- [42]京浜電気鉄道は後背地として三浦半島に着目し、大正14年に湘南電気鉄道の経営に参画(発起人に青木正太郎・中根虎四郎・半田貢らが加入は八十年史)
- [44]1927年8月27日川崎住宅地内乗合自動車営業開始、1930年7月10日横浜〜黄金町間乗合自動車営業開始
- [49]1927年8月27日川崎住宅地内乗合自動車営業開始、1930年7月10日横浜〜黄金町間乗合自動車営業開始
- ポケット社史「首都圏を舞台に(京浜急行)」(1968)
- [48]湘南電鉄は1930年4月1日に黄金町〜浦賀間などの営業を開始
出典・参考
5件
- 京浜急行電鉄「80年の歩み」(1978)
- 京浜急行八十年史(1980)1章 創業期
- 京浜急行八十年史(1980)2章 形成期
- 京浜急行八十年史(1980)3章 拡張期
- ポケット社史「首都圏を舞台に(京浜急行)」(1968)