テーオーシー:旧星製薬と星製薬の設立
1911年〜日本で最初にモルヒネを造った星一氏の星製薬と、阿片事件・払下げ権の風説
星製薬の起点は、米国から帰国した星一氏が始めた製薬事業である。星一氏は製薬・金物・履物の3業種を比べ、相応の資本を要する金物と履物を外して製薬を選んだ。最初の元手は3カ月払いで借りた400円で、星一氏は利益を上げて完済したのち、5,000円を借り受けて工場を建てた。最初の製品はイヒチオールで、事業はのちに2万5,000円の匿名組合に改まり、1年余りで成績を上げた。1911年11月、星一氏は事業を資本金50万円の株式組織に改めた。有価証券報告書の沿革は、この会社を旧星製薬として1926年設立の星製薬と分けて記載する。少額の元手で始められる業種を選んだ判断が、のちの拡大の起点になったとみられる。
- 植民 4(6) 1925年「製藥王星一傳」
- [1]星一氏は帰国後、製薬・金物・履物を比べ資本を要する後二者を外して製薬を選び、400円を3カ月払いで借りて始め、のち5,000円で工場を建て、2万5,000円の匿名組合を経て1年余で50万円の星製薬株式会社に改めた
- [2]星一氏は帰国後、製薬・金物・履物を比べ資本を要する後二者を外して製薬を選び、400円を3カ月払いで借りて始め、のち5,000円で工場を建て、2万5,000円の匿名組合を経て1年余で50万円の星製薬株式会社に改めた
- [3]星一氏は帰国後、製薬・金物・履物を比べ資本を要する後二者を外して製薬を選び、400円を3カ月払いで借りて始め、のち5,000円で工場を建て、2万5,000円の匿名組合を経て1年余で50万円の星製薬株式会社に改めた
- [5]星一氏は帰国後、製薬・金物・履物を比べ資本を要する後二者を外して製薬を選び、400円を3カ月払いで借りて始め、のち5,000円で工場を建て、2万5,000円の匿名組合を経て1年余で50万円の星製薬株式会社に改めた
- 実業の世界 26(9) 1929年
- [4]星一氏は米国から帰国後イヒチオール製造に従事し、それが明治44年11月に50万円の株式組織となった
- [6]星一氏は米国から帰国後イヒチオール製造に従事し、それが明治44年11月に50万円の株式組織となった
- 有価証券報告書【沿革】
- [7]1911年11月に旧星製薬㈱設立
1915年、星製薬が日本で最初のモルヒネを製造。続いてコカインの製造にも広げ、キニーネでは世界で2番目の製造所と評された。資本金は50万円から100万円、200万円、500万円と増えた。増資は星一氏の進めた合併を通じたもので、1923年には資本金5,000万円(4分の1払込)に達した。同じ時期の配当は1割5分から3割を続けた。1926年の時点で、キニーネなどの製品はニューヨークとロンドンの市場へ年額100万円以上輸出された。1984年にテーオーシー社長の大谷米一氏は、戦前の星製薬を麻薬アルカロイド製品を製造する大手薬品会社と説明した。モルヒネの国産で得た収益が、合併による資本の拡大を支えたと推察される。
- 実業の世界 26(9) 1929年
- [8]大正4年に日本最初のモルヒネを創製、コカイン製造、キニーネは世界第二の製造所。合併方法で発展し大正12年に資本金5,000万円(4分の1払込)、配当1割5分〜3割
- [9]大正4年に日本最初のモルヒネを創製、コカイン製造、キニーネは世界第二の製造所。合併方法で発展し大正12年に資本金5,000万円(4分の1払込)、配当1割5分〜3割
- [11]大正4年に日本最初のモルヒネを創製、コカイン製造、キニーネは世界第二の製造所。合併方法で発展し大正12年に資本金5,000万円(4分の1払込)、配当1割5分〜3割
- [13]大正4年に日本最初のモルヒネを創製、コカイン製造、キニーネは世界第二の製造所。合併方法で発展し大正12年に資本金5,000万円(4分の1払込)、配当1割5分〜3割
- 植民 4(6) 1925年「製藥王星一傳」
- [10]資本金は50万円から100万円、200万円、500万円を経て5,000万円の大会社となった
- [12]資本金は50万円から100万円、200万円、500万円を経て5,000万円の大会社となった
- 実業の世界 23(10) 1926年
- [14]星製薬の製品は紐育・倫敦の市場に年額100万円以上の輸出をした(1926年の社員従業員の広告)
- 証券アナリストジャーナル 22(2) 1984年 大谷米一
- [15]形式上の存続会社・星製薬は戦前、日本最初のモルヒネ・コカイン等麻薬アルカロイド製品を製造する大手薬品会社だった
1926年、星製薬は台湾の阿片事件と、関係会社の資金流用事件に直面した。阿片事件は伊沢多喜男氏の台湾在任中に起き、流用事件は同氏の東京市長就任後に検事局へ送られた。阿片事件は同年9月14日、台北の高等法院で無罪の判決を受けた。同じ年には、星製薬が持つ台湾総督府の粗製モルヒネ払下権(年額200万円)を三共が狙っているとの風説も伝えられた。有価証券報告書の沿革は、1926年4月に医薬品の製造販売を目的として星製薬を設立したと記す。1984年の証券誌が示すテーオーシーの形式上の設立年月日も、1926年4月3日である。一方で1929年の雑誌記事は、1911年の株式組織から続く1社として星製薬を描いた。1926年の設立が事業の移し替えか登記上の手続きかは、これらの資料からは判別できないと思われる。
- 実業の世界 23(10) 1926年
- [16]伊沢多喜男氏の台湾在任中に阿片事件、東京市長就任後に関係会社資金流用事件が検事局送致。阿片事件は9月14日台北高等法院で無罪。粗製モルヒネ払下権(年額200万円)を三共が狙うと伝えられた
- [17]伊沢多喜男氏の台湾在任中に阿片事件、東京市長就任後に関係会社資金流用事件が検事局送致。阿片事件は9月14日台北高等法院で無罪。粗製モルヒネ払下権(年額200万円)を三共が狙うと伝えられた
- [18]伊沢多喜男氏の台湾在任中に阿片事件、東京市長就任後に関係会社資金流用事件が検事局送致。阿片事件は9月14日台北高等法院で無罪。粗製モルヒネ払下権(年額200万円)を三共が狙うと伝えられた
- [19]伊沢多喜男氏の台湾在任中に阿片事件、東京市長就任後に関係会社資金流用事件が検事局送致。阿片事件は9月14日台北高等法院で無罪。粗製モルヒネ払下権(年額200万円)を三共が狙うと伝えられた
- 有価証券報告書【沿革】
- [20]1926年4月に医薬品の製造販売を目的として星製薬㈱を設立
- 証券 36(1) 1984年 新規上場会社紹介
- [21]設立年月日 昭和42年7月25日(形式上大正15年4月3日)
- 実業の世界 26(9) 1929年
- [22]星製薬は明治44年11月に50万円の株式組織となり、以後合併で発展した会社として記述
参考文献[1]-[22]
- 植民 4(6) 1925年「製藥王星一傳」
- [1]星一氏は帰国後、製薬・金物・履物を比べ資本を要する後二者を外して製薬を選び、400円を3カ月払いで借りて始め、のち5,000円で工場を建て、2万5,000円の匿名組合を経て1年余で50万円の星製薬株式会社に改めた
- [2]星一氏は帰国後、製薬・金物・履物を比べ資本を要する後二者を外して製薬を選び、400円を3カ月払いで借りて始め、のち5,000円で工場を建て、2万5,000円の匿名組合を経て1年余で50万円の星製薬株式会社に改めた
- [3]星一氏は帰国後、製薬・金物・履物を比べ資本を要する後二者を外して製薬を選び、400円を3カ月払いで借りて始め、のち5,000円で工場を建て、2万5,000円の匿名組合を経て1年余で50万円の星製薬株式会社に改めた
- [5]星一氏は帰国後、製薬・金物・履物を比べ資本を要する後二者を外して製薬を選び、400円を3カ月払いで借りて始め、のち5,000円で工場を建て、2万5,000円の匿名組合を経て1年余で50万円の星製薬株式会社に改めた
- [10]資本金は50万円から100万円、200万円、500万円を経て5,000万円の大会社となった
- [12]資本金は50万円から100万円、200万円、500万円を経て5,000万円の大会社となった
- 実業の世界 26(9) 1929年
- [4]星一氏は米国から帰国後イヒチオール製造に従事し、それが明治44年11月に50万円の株式組織となった
- [6]星一氏は米国から帰国後イヒチオール製造に従事し、それが明治44年11月に50万円の株式組織となった
- [8]大正4年に日本最初のモルヒネを創製、コカイン製造、キニーネは世界第二の製造所。合併方法で発展し大正12年に資本金5,000万円(4分の1払込)、配当1割5分〜3割
- [9]大正4年に日本最初のモルヒネを創製、コカイン製造、キニーネは世界第二の製造所。合併方法で発展し大正12年に資本金5,000万円(4分の1払込)、配当1割5分〜3割
- [11]大正4年に日本最初のモルヒネを創製、コカイン製造、キニーネは世界第二の製造所。合併方法で発展し大正12年に資本金5,000万円(4分の1払込)、配当1割5分〜3割
- [13]大正4年に日本最初のモルヒネを創製、コカイン製造、キニーネは世界第二の製造所。合併方法で発展し大正12年に資本金5,000万円(4分の1払込)、配当1割5分〜3割
- [22]星製薬は明治44年11月に50万円の株式組織となり、以後合併で発展した会社として記述
- 有価証券報告書【沿革】
- [7]1911年11月に旧星製薬㈱設立
- [20]1926年4月に医薬品の製造販売を目的として星製薬㈱を設立
- 実業の世界 23(10) 1926年
- [14]星製薬の製品は紐育・倫敦の市場に年額100万円以上の輸出をした(1926年の社員従業員の広告)
- [16]伊沢多喜男氏の台湾在任中に阿片事件、東京市長就任後に関係会社資金流用事件が検事局送致。阿片事件は9月14日台北高等法院で無罪。粗製モルヒネ払下権(年額200万円)を三共が狙うと伝えられた
- [17]伊沢多喜男氏の台湾在任中に阿片事件、東京市長就任後に関係会社資金流用事件が検事局送致。阿片事件は9月14日台北高等法院で無罪。粗製モルヒネ払下権(年額200万円)を三共が狙うと伝えられた
- [18]伊沢多喜男氏の台湾在任中に阿片事件、東京市長就任後に関係会社資金流用事件が検事局送致。阿片事件は9月14日台北高等法院で無罪。粗製モルヒネ払下権(年額200万円)を三共が狙うと伝えられた
- [19]伊沢多喜男氏の台湾在任中に阿片事件、東京市長就任後に関係会社資金流用事件が検事局送致。阿片事件は9月14日台北高等法院で無罪。粗製モルヒネ払下権(年額200万円)を三共が狙うと伝えられた
- 証券アナリストジャーナル 22(2) 1984年 大谷米一
- [15]形式上の存続会社・星製薬は戦前、日本最初のモルヒネ・コカイン等麻薬アルカロイド製品を製造する大手薬品会社だった
- 証券 36(1) 1984年 新規上場会社紹介
- [21]設立年月日 昭和42年7月25日(形式上大正15年4月3日)
1926年〜問屋を省いたチェーンストアと、2度の和議で残った星製薬
星製薬は1926年8月に直販のチェーンストア制度を始め、問屋と小売店の間の中間手数料を省こうとした。チェーンストアとは、本社が商品を供給する連鎖販売店のことである。星一氏は、販売機関を持たない製造家は立ち行かないという考えを掲げた。1928年1月には製造家販売人連盟を設け、加盟者は1929年までに118人に達した。1926年9月の時点の社員と職工は約1,050名。1929年3月に和議が成立し、星製薬は破産を免れた。一時5,000万円に達した社債と繰越損失は、同年上半期の決算で約1,900万円となった。問屋を通さない販売網が、債権者の同意を得るうえでの支えになったのだろう。
- 実業の世界 26(9) 1929年
- [23]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [24]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [25]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [26]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [28]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [29]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- 実業の世界 23(10) 1926年
- [27]1926年9月の新聞広告によれば星製薬の社員職工は約1,050名
1929年の和議から3年後の1932年4月25日、星製薬は破産宣告を受けた。発端は1930年4月ごろ、高利貸が当時の取締役と共謀し、社内に争議を起こさせた件だった。高利貸は委任状を偽造してホシ胃腸薬の商標を横領し、星一氏個人と会社の破産を申し立てた。星一氏はアルカロイド製品で内務省から特殊の権益を得ており、国内唯一の麻酔薬の製造が止まる損害を官庁に陳情した。会社の擁護に結束したのも、3万5,000のチェーンストアと星製薬商業学校の出身者6,500人である。1933年9月12日、強制和議の認可が決定。条件は債権2,256万5,250円の2割を3年据え置き後の10年で年賦返済し、8割を免除するものだった。債権者2万410名の9割5分の同意は、販売網と卒業生の結束に支えられたと考えられる。
- 実業の世界 30(10) 1933年
- [30]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [32]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [33]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [34]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [35]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [36]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [37]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- 実業の世界 26(9) 1929年
- [31]昭和4年3月に和議が成立した
戦後の星製薬は海外からの原料の供給を断たれ、業績が極めて不振に陥った。戦前の星製薬は台湾に6カ所の薬草園を持ち、キニーネの原料となる規那樹を栽培した。1933年の時点で星一氏は牛久の食料品工場と静岡の製茶工場も持ち、原料を自給できる事業と評された。1925年の時点では南米ペルーに32万町歩の土地を取得し、コカインなどの薬草の栽培を進めた。1949年5月、星製薬は東京証券取引所の再開に合わせて上場した。東京・五反田の工場を厚木へ移し、跡地にビルを計画したのは、のちに再建のため社長に就任した大谷米太郎氏である。海外の原料拠点を失ったことで、戦前の製薬事業の基盤が損なわれたと推測される。
- 証券アナリストジャーナル 22(2) 1984年 大谷米一
- [38]戦後は海外からの原料供給が断たれるなど悪条件が重なり業績は極めて不振。再建のため社長に就任した大谷米太郎氏が五反田工場を厚木に移し跡地にビルを計画
- [43]戦後は海外からの原料供給が断たれるなど悪条件が重なり業績は極めて不振。再建のため社長に就任した大谷米太郎氏が五反田工場を厚木に移し跡地にビルを計画
- 実業の世界 30(10) 1933年
- [39]星一氏は台湾に6カ所の薬草園を持ち規那樹を栽培、牛久の食料品工場・静岡の製茶工場もあり原料を自給自足し得る事業とされた
- [40]星一氏は台湾に6カ所の薬草園を持ち規那樹を栽培、牛久の食料品工場・静岡の製茶工場もあり原料を自給自足し得る事業とされた
- 植民 4(6) 1925年「製藥王星一傳」
- [41]南米ペルーに32万町歩の地所を購入し、コカインその他の薬草を栽培中
- 有価証券報告書【沿革】
- [42]1949年5月 東京証券取引所再開により上場
参考文献[23]-[43]
- 実業の世界 26(9) 1929年
- [23]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [24]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [25]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [26]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [28]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [29]大正15年8月に問屋・小売の中間手数料を省くためチェーンストア制度を実行、昭和3年1月に製造家販売人連盟を確立し加盟118人。昭和4年3月の和議成立で破産を免れ、社債・繰越損失は上半期決算で約1,900万円
- [31]昭和4年3月に和議が成立した
- 実業の世界 23(10) 1926年
- [27]1926年9月の新聞広告によれば星製薬の社員職工は約1,050名
- 実業の世界 30(10) 1933年
- [30]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [32]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [33]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [34]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [35]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [36]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [37]昭和7年4月25日破産宣告、昭和8年9月12日強制和議認可。債権者2万410名・債権額2,256万5,250円、3年据置後10年で2割を年賦弁済し8割免除。昭和5年4月頃高利貸が取締役と共謀し争議・商標横領・破産申請。内務省の特殊権益、唯一の麻酔薬、チェーンストア3万5,000と商業学校出身者6,500人が結束。債権者の9割5分が同意
- [39]星一氏は台湾に6カ所の薬草園を持ち規那樹を栽培、牛久の食料品工場・静岡の製茶工場もあり原料を自給自足し得る事業とされた
- [40]星一氏は台湾に6カ所の薬草園を持ち規那樹を栽培、牛久の食料品工場・静岡の製茶工場もあり原料を自給自足し得る事業とされた
- 証券アナリストジャーナル 22(2) 1984年 大谷米一
- [38]戦後は海外からの原料供給が断たれるなど悪条件が重なり業績は極めて不振。再建のため社長に就任した大谷米太郎氏が五反田工場を厚木に移し跡地にビルを計画
- [43]戦後は海外からの原料供給が断たれるなど悪条件が重なり業績は極めて不振。再建のため社長に就任した大谷米太郎氏が五反田工場を厚木に移し跡地にビルを計画
- 植民 4(6) 1925年「製藥王星一傳」
- [41]南米ペルーに32万町歩の地所を購入し、コカインその他の薬草を栽培中
- 有価証券報告書【沿革】
- [42]1949年5月 東京証券取引所再開により上場
出典・参考
7件
- 有価証券報告書【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 22(2) 1984年 大谷米一
- 植民 4(6) 1925年「製藥王星一傳」
- 実業の世界 23(10) 1926年
- 実業の世界 26(9) 1929年
- 実業の世界 30(10) 1933年
- 証券 36(1) 1984年 新規上場会社紹介