三洋証券:土屋鋭太郎商店の開業と土屋證券への改組
1906年〜小網町の現物商久星土屋商店と、資本金100万円の土屋証券
土屋鋭太郎氏は1894年7月に東京株式取引所の仲買人である伴田六之助商店へ移り、場立として売買の実務を身につけた。独立は1910年(明治43年)1月、日本橋区小網町4丁目の自宅を間口2間の店舗に改造しての開業。扱ったのは株式と公社債の現物で、屋号を久星土屋商店とした。1955年刊の会社史は開業を明治39年(1906年)としており、資料の間で年に4年の差が残る。店の陣容は番頭1人と電話1本で、東株仲買人加登実蔵商店の看板を借りて市場に出入りし、直取引の注文をつないだ。取引所の資格を持たない現物商は、仲買人の名義を借りなければ市場で売買できなかったとみられる。
- 日東証券『激流に生きる 日東証券六十年の歩み』(1970年)
- [1]土屋鋭太郎は明治27年7月に東株仲買人伴田六之助商店へ移り場立として修業、明治43年1月に日本橋区小網町4丁目の自宅を間口2間の店舗とし公債株式の現物商を開業、番頭1人と電話1本で加登実蔵商店の看板を借りて直取引をした
- [2]土屋鋭太郎は明治27年7月に東株仲買人伴田六之助商店へ移り場立として修業、明治43年1月に日本橋区小網町4丁目の自宅を間口2間の店舗とし公債株式の現物商を開業、番頭1人と電話1本で加登実蔵商店の看板を借りて直取引をした
- [5]土屋鋭太郎は明治27年7月に東株仲買人伴田六之助商店へ移り場立として修業、明治43年1月に日本橋区小網町4丁目の自宅を間口2間の店舗とし公債株式の現物商を開業、番頭1人と電話1本で加登実蔵商店の看板を借りて直取引をした
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日東証券」
- [3]明治43年、土屋鋭太郎が公社債現物商の久星土屋商店を開業した
- 会社銀行八十年史(1955年)「日東証券」
- [4]明治39年、土屋鋭太郎が株式現物商を開業した
土屋商店は1922年(大正11年)に東京株式取引所の取引員の資格を得た。資格の種類は現物の受渡しを扱う実物取引員で、1924年には短期取引員の免許も受けた。当時の有力な店の多くは、長期・短期の清算取引と実物取引の3つを兼ねる一般取引員だった。1939年4月には土屋陽三郎氏が月2回の小冊子「証券と投資」を創刊し、清算取引の投機筋とは別に、実株を保有する一般投資家の開拓に着手した。翌1940年5月15日、短期取引員制度の廃止に伴い、短期取引員は全員が一般取引員へ昇格。土屋商店も一般取引員として有価証券業を営むようになった。現物商として出発した店は、清算取引に加わる資格を30年近くかけて段階的に積み上げたと推察される。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日東証券」
- [6]大正11年、東京株式取引所取引員となった
- 日東証券『激流に生きる 日東証券六十年の歩み』(1970年)
- [7]土屋商店は大正11年に実物取引員、同13年に短期取引員の免許を受けた。昭和14年4月に土屋陽三郎が「証券と投資」を月2回発刊し実株を買う一般投資家層の開拓を狙った。昭和15年5月15日の短期取引員制度廃止で短期取引員は全部一般取引員に昇格した。当時一流の店は長期清算・短期清算・実物の三つを兼ねた一般取引員に多かった
- [8]土屋商店は大正11年に実物取引員、同13年に短期取引員の免許を受けた。昭和14年4月に土屋陽三郎が「証券と投資」を月2回発刊し実株を買う一般投資家層の開拓を狙った。昭和15年5月15日の短期取引員制度廃止で短期取引員は全部一般取引員に昇格した。当時一流の店は長期清算・短期清算・実物の三つを兼ねた一般取引員に多かった
- [9]土屋商店は大正11年に実物取引員、同13年に短期取引員の免許を受けた。昭和14年4月に土屋陽三郎が「証券と投資」を月2回発刊し実株を買う一般投資家層の開拓を狙った。昭和15年5月15日の短期取引員制度廃止で短期取引員は全部一般取引員に昇格した。当時一流の店は長期清算・短期清算・実物の三つを兼ねた一般取引員に多かった
- [10]土屋商店は大正11年に実物取引員、同13年に短期取引員の免許を受けた。昭和14年4月に土屋陽三郎が「証券と投資」を月2回発刊し実株を買う一般投資家層の開拓を狙った。昭和15年5月15日の短期取引員制度廃止で短期取引員は全部一般取引員に昇格した。当時一流の店は長期清算・短期清算・実物の三つを兼ねた一般取引員に多かった
- 会社銀行八十年史(1955年)「日東証券」
- [11]東京株式取引所一般取引員となって有価証券業を営んだ
土屋鋭太郎氏は1940年10月に店の経営を息子の土屋陽三郎氏へ一任した。1943年3月公布の日本証券取引所法により、同年6月に東京株式取引所は解散し、日本証券取引所へ改組された。取引員の個人商店は継承が認められず、資本金100万円の株式会社を新たに設ける必要が生じた。同じ1943年3月、土屋陽三郎氏は東株ビル内の鈴木商店から営業権を5万円で譲り受け、外務員15、16人を迎えた。土屋鋭太郎氏は1943年7月26日、『店については存続するも廃業するも自由に裁量しろ』との遺言を残して71歳で死去。土屋陽三郎氏は同年9月に店を株式組織へ改め、資本金100万円の土屋証券として再発足させて社長に就任した。株式会社へ改めたことで、翌年以降の他社との統合に応じる素地が整ったのだろう。
- 日東証券『激流に生きる 日東証券六十年の歩み』(1970年)
- [12]鋭太郎は昭和15年10月に経営を陽三郎に一任。18年3月公布の日本証券取引所法で同年6月に東京株式取引所が解散し個人商店の継承が認められず資本金100万円の株式会社設立が必要になった。18年3月に鈴木商店の営業権を5万円で譲り受け外務員15、16人が入店。鋭太郎は18年7月26日に71歳で死去
- [13]鋭太郎は昭和15年10月に経営を陽三郎に一任。18年3月公布の日本証券取引所法で同年6月に東京株式取引所が解散し個人商店の継承が認められず資本金100万円の株式会社設立が必要になった。18年3月に鈴木商店の営業権を5万円で譲り受け外務員15、16人が入店。鋭太郎は18年7月26日に71歳で死去
- [14]鋭太郎は昭和15年10月に経営を陽三郎に一任。18年3月公布の日本証券取引所法で同年6月に東京株式取引所が解散し個人商店の継承が認められず資本金100万円の株式会社設立が必要になった。18年3月に鈴木商店の営業権を5万円で譲り受け外務員15、16人が入店。鋭太郎は18年7月26日に71歳で死去
- [15]鋭太郎は昭和15年10月に経営を陽三郎に一任。18年3月公布の日本証券取引所法で同年6月に東京株式取引所が解散し個人商店の継承が認められず資本金100万円の株式会社設立が必要になった。18年3月に鈴木商店の営業権を5万円で譲り受け外務員15、16人が入店。鋭太郎は18年7月26日に71歳で死去
- [16]鋭太郎は昭和15年10月に経営を陽三郎に一任。18年3月公布の日本証券取引所法で同年6月に東京株式取引所が解散し個人商店の継承が認められず資本金100万円の株式会社設立が必要になった。18年3月に鈴木商店の営業権を5万円で譲り受け外務員15、16人が入店。鋭太郎は18年7月26日に71歳で死去
- 会社銀行八十年史(1955年)「日東証券」
- [17]先代逝去に伴い土屋陽三郎が継ぎ、昭和18年9月に株式組織に改組、資本金100万円の土屋証券として再発足した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日東証券」
- [18]昭和18年、資本金100万円の土屋証券㈱に組織変更し、土屋陽三郎が社長に就任した
参考文献[1]-[18]
- 日東証券『激流に生きる 日東証券六十年の歩み』(1970年)
- [1]土屋鋭太郎は明治27年7月に東株仲買人伴田六之助商店へ移り場立として修業、明治43年1月に日本橋区小網町4丁目の自宅を間口2間の店舗とし公債株式の現物商を開業、番頭1人と電話1本で加登実蔵商店の看板を借りて直取引をした
- [2]土屋鋭太郎は明治27年7月に東株仲買人伴田六之助商店へ移り場立として修業、明治43年1月に日本橋区小網町4丁目の自宅を間口2間の店舗とし公債株式の現物商を開業、番頭1人と電話1本で加登実蔵商店の看板を借りて直取引をした
- [5]土屋鋭太郎は明治27年7月に東株仲買人伴田六之助商店へ移り場立として修業、明治43年1月に日本橋区小網町4丁目の自宅を間口2間の店舗とし公債株式の現物商を開業、番頭1人と電話1本で加登実蔵商店の看板を借りて直取引をした
- [7]土屋商店は大正11年に実物取引員、同13年に短期取引員の免許を受けた。昭和14年4月に土屋陽三郎が「証券と投資」を月2回発刊し実株を買う一般投資家層の開拓を狙った。昭和15年5月15日の短期取引員制度廃止で短期取引員は全部一般取引員に昇格した。当時一流の店は長期清算・短期清算・実物の三つを兼ねた一般取引員に多かった
- [8]土屋商店は大正11年に実物取引員、同13年に短期取引員の免許を受けた。昭和14年4月に土屋陽三郎が「証券と投資」を月2回発刊し実株を買う一般投資家層の開拓を狙った。昭和15年5月15日の短期取引員制度廃止で短期取引員は全部一般取引員に昇格した。当時一流の店は長期清算・短期清算・実物の三つを兼ねた一般取引員に多かった
- [9]土屋商店は大正11年に実物取引員、同13年に短期取引員の免許を受けた。昭和14年4月に土屋陽三郎が「証券と投資」を月2回発刊し実株を買う一般投資家層の開拓を狙った。昭和15年5月15日の短期取引員制度廃止で短期取引員は全部一般取引員に昇格した。当時一流の店は長期清算・短期清算・実物の三つを兼ねた一般取引員に多かった
- [10]土屋商店は大正11年に実物取引員、同13年に短期取引員の免許を受けた。昭和14年4月に土屋陽三郎が「証券と投資」を月2回発刊し実株を買う一般投資家層の開拓を狙った。昭和15年5月15日の短期取引員制度廃止で短期取引員は全部一般取引員に昇格した。当時一流の店は長期清算・短期清算・実物の三つを兼ねた一般取引員に多かった
- [12]鋭太郎は昭和15年10月に経営を陽三郎に一任。18年3月公布の日本証券取引所法で同年6月に東京株式取引所が解散し個人商店の継承が認められず資本金100万円の株式会社設立が必要になった。18年3月に鈴木商店の営業権を5万円で譲り受け外務員15、16人が入店。鋭太郎は18年7月26日に71歳で死去
- [13]鋭太郎は昭和15年10月に経営を陽三郎に一任。18年3月公布の日本証券取引所法で同年6月に東京株式取引所が解散し個人商店の継承が認められず資本金100万円の株式会社設立が必要になった。18年3月に鈴木商店の営業権を5万円で譲り受け外務員15、16人が入店。鋭太郎は18年7月26日に71歳で死去
- [14]鋭太郎は昭和15年10月に経営を陽三郎に一任。18年3月公布の日本証券取引所法で同年6月に東京株式取引所が解散し個人商店の継承が認められず資本金100万円の株式会社設立が必要になった。18年3月に鈴木商店の営業権を5万円で譲り受け外務員15、16人が入店。鋭太郎は18年7月26日に71歳で死去
- [15]鋭太郎は昭和15年10月に経営を陽三郎に一任。18年3月公布の日本証券取引所法で同年6月に東京株式取引所が解散し個人商店の継承が認められず資本金100万円の株式会社設立が必要になった。18年3月に鈴木商店の営業権を5万円で譲り受け外務員15、16人が入店。鋭太郎は18年7月26日に71歳で死去
- [16]鋭太郎は昭和15年10月に経営を陽三郎に一任。18年3月公布の日本証券取引所法で同年6月に東京株式取引所が解散し個人商店の継承が認められず資本金100万円の株式会社設立が必要になった。18年3月に鈴木商店の営業権を5万円で譲り受け外務員15、16人が入店。鋭太郎は18年7月26日に71歳で死去
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日東証券」
- [3]明治43年、土屋鋭太郎が公社債現物商の久星土屋商店を開業した
- [6]大正11年、東京株式取引所取引員となった
- [18]昭和18年、資本金100万円の土屋証券㈱に組織変更し、土屋陽三郎が社長に就任した
- 会社銀行八十年史(1955年)「日東証券」
- [4]明治39年、土屋鋭太郎が株式現物商を開業した
- [11]東京株式取引所一般取引員となって有価証券業を営んだ
- [17]先代逝去に伴い土屋陽三郎が継ぎ、昭和18年9月に株式組織に改組、資本金100万円の土屋証券として再発足した
出典・参考
3件
- 日東証券『激流に生きる 日東証券六十年の歩み』(1970年)
- 会社銀行八十年史(1955年)「日東証券」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日東証券」