第2章 年〜年

スルガ銀行:静岡実業銀行など3行と駿河貯蓄銀行の合併

1921年〜静岡実業銀行の合併と、関東大震災のさなかに続けた預金の払い戻し

岡野喜太郎氏は、景気の山で資本を積み増し、反動の局面に備える順序で駿河銀行の規模を広げた。1912年に資本金を270万円へ引き上げたことで、第一次世界大戦の開戦時の不況を越え、1920年の反動恐慌でも経営は揺らがなかった。大戦景気の1918年には、それまで預金を大きく上回っていた貸出が預金とほぼ同額にとどまった。1923年7月には静岡実業銀行を合併し、資本金は320万円となった。翌1924年にほぼ倍額の増資を行い、資本金を600万円とした。1912年から1930年にかけては、吉浜、御殿場、伊東、大磯などの地元の小銀行を買収し、店舗網に組み込んだ。資本を先に厚くしておいたことが、昭和の恐慌期に小銀行を合併する立場を得る前提になったとみられる。

  • 東邦経済 1978年5月号「恐慌を越えた駿河銀行と頭取岡野喜太郎(昭和経済史譚 その二)」
    • [1]1912年に資本金270万円へ増資し大戦時の不況と1920年の反動恐慌を乗り切る。1912〜14年に預金を大きく上回った貸出が1918年にはほぼ同額。1923年に静岡実業銀行を合併し資本金320万円、1924年に600万円。1912〜1930年に吉浜・御殿場・伊東・大磯銀行などを買収
    • [2]1912年に資本金270万円へ増資し大戦時の不況と1920年の反動恐慌を乗り切る。1912〜14年に預金を大きく上回った貸出が1918年にはほぼ同額。1923年に静岡実業銀行を合併し資本金320万円、1924年に600万円。1912〜1930年に吉浜・御殿場・伊東・大磯銀行などを買収
    • [3]1912年に資本金270万円へ増資し大戦時の不況と1920年の反動恐慌を乗り切る。1912〜14年に預金を大きく上回った貸出が1918年にはほぼ同額。1923年に静岡実業銀行を合併し資本金320万円、1924年に600万円。1912〜1930年に吉浜・御殿場・伊東・大磯銀行などを買収
    • [5]1912年に資本金270万円へ増資し大戦時の不況と1920年の反動恐慌を乗り切る。1912〜14年に預金を大きく上回った貸出が1918年にはほぼ同額。1923年に静岡実業銀行を合併し資本金320万円、1924年に600万円。1912〜1930年に吉浜・御殿場・伊東・大磯銀行などを買収
    • [7]1912年に資本金270万円へ増資し大戦時の不況と1920年の反動恐慌を乗り切る。1912〜14年に預金を大きく上回った貸出が1918年にはほぼ同額。1923年に静岡実業銀行を合併し資本金320万円、1924年に600万円。1912〜1930年に吉浜・御殿場・伊東・大磯銀行などを買収
  • スルガ銀行 有価証券報告書 第215期(2026年6月17日)【沿革】
    • [4]1923年7月 静岡実業銀行を合併
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [6]昭和2年の金融恐慌の時点で駿河銀行の資本金は600万円に増額されていた

1923年9月1日の関東大震災で、駿河銀行は神奈川県下の店舗のうち6店を焼失し、3店が倒壊した。岡野喜太郎氏はこの震災で妻と三女を失ったが、9月3日には若手行員で3班の調査隊を組み、各支店の被害と必要な資金を本店へ報告させた。最大の預け先だった東京の古河銀行の預金は、9月7日に出た支払猶予令で引き出せなくなった。一方で静岡県は猶予令を間もなく解き、駿河銀行は払い戻しに応じ続ける立場に置かれた。取締役を日本銀行名古屋支店へ送って担保を差し入れ、150万円を調達して平塚支店へ運び込んだ。平塚支店は1人100円までの払い戻しを掲げたが、現金を積んで支払う店頭にはかえって預け入れの客が集まった。

  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [8]関東大震災で神奈川県下の店舗は焼失6・倒壊3。妻と三女を失う。9月3日に3班の被害調査隊を組織。古河銀行の預金は9月7日の支払猶予令で引き出せず、静岡県は猶予令を間もなく解除。日銀名古屋支店で150万円を調達し平塚支店へ送る
    • [9]関東大震災で神奈川県下の店舗は焼失6・倒壊3。妻と三女を失う。9月3日に3班の被害調査隊を組織。古河銀行の預金は9月7日の支払猶予令で引き出せず、静岡県は猶予令を間もなく解除。日銀名古屋支店で150万円を調達し平塚支店へ送る
    • [10]関東大震災で神奈川県下の店舗は焼失6・倒壊3。妻と三女を失う。9月3日に3班の被害調査隊を組織。古河銀行の預金は9月7日の支払猶予令で引き出せず、静岡県は猶予令を間もなく解除。日銀名古屋支店で150万円を調達し平塚支店へ送る
    • [11]関東大震災で神奈川県下の店舗は焼失6・倒壊3。妻と三女を失う。9月3日に3班の被害調査隊を組織。古河銀行の預金は9月7日の支払猶予令で引き出せず、静岡県は猶予令を間もなく解除。日銀名古屋支店で150万円を調達し平塚支店へ送る
    • [12]関東大震災で神奈川県下の店舗は焼失6・倒壊3。妻と三女を失う。9月3日に3班の被害調査隊を組織。古河銀行の預金は9月7日の支払猶予令で引き出せず、静岡県は猶予令を間もなく解除。日銀名古屋支店で150万円を調達し平塚支店へ送る
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [13]神奈川県下で焼失店舗6・倒壊3。日本銀行から現金を調達し、平塚支店で一人百円まで支払うと張り出したところ、逆に預けにくる客が多かった

駿河銀行はまもなく払い戻しの上限を外し、店舗の再建や旅館の建築、箱根の道路の補修に復興資金を貸し出した。払い戻しを控える同業から苦情を受けた岡野喜太郎氏は、『非常時にも平常のように営業するのが銀行の使命である』と答えた。払い戻しを続けられた裏には、震災前から敷いていた事務の仕組みがあった。各支店と出張所はその日の取引を日報にまとめ、手形や貸付証書の副本とともに毎日本店へ送っていた。鎌倉と小田原幸町の2支店は帳簿と証書をすべて焼失したが、本店に残る日報と副本から帳簿を作り直し、債権を確かめた。この方式は評判を呼び、他行の行員が見学に訪れた。平時から写しを本店に集める手間を負担していたことが、預金者の信認と被災地の取引先を同時に保つ条件になったと推察される。

  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [14]支払猶予令にかかわらず全額支払いを掲げ、箱根道路の補修・店舗再建・旅館建築に積極融資。他行の苦情に対し非常時にも平常のように営業するのが銀行の使命と応じた。日報と副本により帳簿・証書を再製。中信銀行・土浦五十銀行などが見学に来た
    • [15]支払猶予令にかかわらず全額支払いを掲げ、箱根道路の補修・店舗再建・旅館建築に積極融資。他行の苦情に対し非常時にも平常のように営業するのが銀行の使命と応じた。日報と副本により帳簿・証書を再製。中信銀行・土浦五十銀行などが見学に来た
    • [16]支払猶予令にかかわらず全額支払いを掲げ、箱根道路の補修・店舗再建・旅館建築に積極融資。他行の苦情に対し非常時にも平常のように営業するのが銀行の使命と応じた。日報と副本により帳簿・証書を再製。中信銀行・土浦五十銀行などが見学に来た
    • [19]支払猶予令にかかわらず全額支払いを掲げ、箱根道路の補修・店舗再建・旅館建築に積極融資。他行の苦情に対し非常時にも平常のように営業するのが銀行の使命と応じた。日報と副本により帳簿・証書を再製。中信銀行・土浦五十銀行などが見学に来た
  • 東邦経済 1978年5月号「恐慌を越えた駿河銀行と頭取岡野喜太郎(昭和経済史譚 その二)」
    • [17]支店・出張所はその日の取引を日報とし、手形貸付証書など重要書類の副本を本店に提出。鎌倉・小田原幸町の2支店は帳簿・証書をすべて焼失したが影響なし。他行から見学に来るほどの評判
    • [18]支店・出張所はその日の取引を日報とし、手形貸付証書など重要書類の副本を本店に提出。鎌倉・小田原幸町の2支店は帳簿・証書をすべて焼失したが影響なし。他行から見学に来るほどの評判

1927年〜金融恐慌のさなかの小銀行の吸収と、静岡銀行との合併の拒否

1927年の金融恐慌から昭和恐慌にかけて、全国の普通銀行は1926年末の1,420行から1935年末の466行まで減った。1928年1月に施行された銀行法は最低資本金を定め、施行時の1,283行のうち616行が基準を満たしていなかった。駿河銀行は1927年3月に松田銀行を合併し、資本金を640万円とした。同じ年に駿南銀行を買収し、1928年4月には富士銀行との合併に進んだ。1930年2月までの買収先は、駿州、岡部、加島の各銀行と駿豆肥料の銀行部である。相手はいずれも資本金10万円規模の小銀行だった。合併の相手を県東部の小銀行に限ったのは、店舗網を厚くしつつ、恐慌で傷んだ資産を大きく抱えないためだったのだろう。

  • 東邦経済 1978年5月号「恐慌を越えた駿河銀行と頭取岡野喜太郎(昭和経済史譚 その二)」
    • [20]普通銀行は1926年末1,420行から1935年末466行へ。銀行法施行時1,283行のうち無資格616行。金融恐慌年の4月から昭和5年2月にかけて駿州・駿南・岡部・加島(各資本金10万円)と駿豆肥料銀行部を買収、富士銀行(10万円)を合併
    • [21]普通銀行は1926年末1,420行から1935年末466行へ。銀行法施行時1,283行のうち無資格616行。金融恐慌年の4月から昭和5年2月にかけて駿州・駿南・岡部・加島(各資本金10万円)と駿豆肥料銀行部を買収、富士銀行(10万円)を合併
    • [23]普通銀行は1926年末1,420行から1935年末466行へ。銀行法施行時1,283行のうち無資格616行。金融恐慌年の4月から昭和5年2月にかけて駿州・駿南・岡部・加島(各資本金10万円)と駿豆肥料銀行部を買収、富士銀行(10万円)を合併
    • [25]普通銀行は1926年末1,420行から1935年末466行へ。銀行法施行時1,283行のうち無資格616行。金融恐慌年の4月から昭和5年2月にかけて駿州・駿南・岡部・加島(各資本金10万円)と駿豆肥料銀行部を買収、富士銀行(10万円)を合併
    • [26]普通銀行は1926年末1,420行から1935年末466行へ。銀行法施行時1,283行のうち無資格616行。金融恐慌年の4月から昭和5年2月にかけて駿州・駿南・岡部・加島(各資本金10万円)と駿豆肥料銀行部を買収、富士銀行(10万円)を合併
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [22]昭和2年3月に松田銀行(資本金40万円)を合併、駿南銀行を買収、3年に富士銀行を合併、岡部・加島の両銀行を買収
  • スルガ銀行 有価証券報告書 第215期(2026年6月17日)【沿革】
    • [24]1927年3月 松田銀行を合併、1928年4月 富士銀行(旧片浜銀行)を合併

岡野喜太郎氏は駿河銀行とは別に、1899年に資本金3万円で設けた貯蓄銀行を経営し続けた。のちの駿河貯蓄銀行は大正期に1割から1割2分の配当を続けたが、関東大震災で手持ちの有価証券が値下がりし、欠損を出した。貯蓄銀行は資金の運用を厳しく制限されて利鞘が薄く、全国で約600行あった数は震災のころには140行あまりに減っていた。駿河貯蓄銀行は駿河銀行の支店を代理店とし、50店の窓口で貯蓄預金を受け入れた。1943年10月19日の株主総会で合併を決議し、12月1日に駿河銀行が駿河貯蓄銀行を吸収した。合併で預金は3億円に増加。収益の薄い貯蓄銀行を44年にわたって維持したのは、零細な預金を集める実務を行員に担わせる狙いがあったのだろう。

  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [27]明治32年に資本金3万円で設立。駿河貯蓄銀行と改称後、大正12年ごろまで1割〜1割2分配当。震災で有価証券暴落により欠損。貯蓄銀行は大正10年の600行から震災のころ140数行へ
    • [28]明治32年に資本金3万円で設立。駿河貯蓄銀行と改称後、大正12年ごろまで1割〜1割2分配当。震災で有価証券暴落により欠損。貯蓄銀行は大正10年の600行から震災のころ140数行へ
    • [29]明治32年に資本金3万円で設立。駿河貯蓄銀行と改称後、大正12年ごろまで1割〜1割2分配当。震災で有価証券暴落により欠損。貯蓄銀行は大正10年の600行から震災のころ140数行へ
  • 駿河銀行七十年史(1970)
    • [30]駿河貯蓄銀行は駿河銀行支店50店を代理店として貯蓄業務を営んだ。昭和18年10月19日の総会で合併を決議し、12月1日に合併、預金は3億円に達した
    • [31]駿河貯蓄銀行は駿河銀行支店50店を代理店として貯蓄業務を営んだ。昭和18年10月19日の総会で合併を決議し、12月1日に合併、預金は3億円に達した
    • [32]駿河貯蓄銀行は駿河銀行支店50店を代理店として貯蓄業務を営んだ。昭和18年10月19日の総会で合併を決議し、12月1日に合併、預金は3億円に達した

1942年5月の金融事業整備令の後、政府は地方銀行を1県1行にまとめる方針で合併を進めた。静岡県では駿河銀行と伊豆銀行の合併交渉がほぼ整っていたが、大蔵省の銀行課長は岡野喜太郎氏を呼び出し、静岡銀行との合併を求めた。岡野喜太郎氏は伊豆銀行との交渉の経過を示して断り、『静岡銀行との合併は絶対に承服できません。それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します』と迫った。課長は伊豆銀行を相手とする合併案の再提出を求めたが、再提出した案も大蔵省は通さず、岡野喜太郎氏は伊豆銀行との合併も取り下げた。伊豆銀行は静岡銀行に合流し、県内の普通銀行は駿河、静岡、清水の3行となった。静岡銀行の預金は合併時に駿河銀行の4〜5倍あったが、1957年には2倍まで差が縮まったという。

  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [33]昭和17年5月の金融業整備令で一県一行が政府方針に。伊豆銀行との合併交渉中に大蔵省銀行課長から静岡銀行との合併を求められ拒否し、解散も辞さないと述べた。伊豆銀行との合併案も大蔵省が難癖をつけ断って引き揚げた。合併時の静岡銀行の預金は4〜5倍、執筆時(1957年)は2倍
    • [35]昭和17年5月の金融業整備令で一県一行が政府方針に。伊豆銀行との合併交渉中に大蔵省銀行課長から静岡銀行との合併を求められ拒否し、解散も辞さないと述べた。伊豆銀行との合併案も大蔵省が難癖をつけ断って引き揚げた。合併時の静岡銀行の預金は4〜5倍、執筆時(1957年)は2倍
    • [36]昭和17年5月の金融業整備令で一県一行が政府方針に。伊豆銀行との合併交渉中に大蔵省銀行課長から静岡銀行との合併を求められ拒否し、解散も辞さないと述べた。伊豆銀行との合併案も大蔵省が難癖をつけ断って引き揚げた。合併時の静岡銀行の預金は4〜5倍、執筆時(1957年)は2倍
    • [38]昭和17年5月の金融業整備令で一県一行が政府方針に。伊豆銀行との合併交渉中に大蔵省銀行課長から静岡銀行との合併を求められ拒否し、解散も辞さないと述べた。伊豆銀行との合併案も大蔵省が難癖をつけ断って引き揚げた。合併時の静岡銀行の預金は4〜5倍、執筆時(1957年)は2倍
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [34]昭和17年、伊豆銀行との合併談が進行中に大蔵省の課長から静岡銀行との合併を求められた。伊豆銀行は静岡銀行と合併し、県下には駿河・静岡・清水の3行が残った
    • [37]昭和17年、伊豆銀行との合併談が進行中に大蔵省の課長から静岡銀行との合併を求められた。伊豆銀行は静岡銀行と合併し、県下には駿河・静岡・清水の3行が残った

1945年〜資本金の9割を切り捨てた再建整備と、半世紀ぶりの東京支店

1945年の空襲で、駿河銀行は沼津の本支店9店と静岡、清水の8店、あわせて17店舗を失った。同じ年の10月19日には、創立50周年の記念式典を挙行した。戦後は軍需補償の打ち切りで生じた損失を、資本金と預金で負担する再建整備を迫られた。駿河銀行の最終処理案は資本金を90%切り捨てて71万円とし、第二封鎖預金を44%切り捨てる内容だった。案は1948年3月31日に大蔵大臣へ提出し、5月29日に認可された。預金者と株主の損失の一部は、1953年から1954年にかけて返済した。勤倹貯蓄を掲げて預金を集めてきた銀行にとって、預金の切り捨ては信用の根幹に触れる処置だったと思われる。

  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [39]昭和20年の空襲で沼津の本支店9店舗、静岡・清水の8店舗、計17店舗が焼失。10月19日に50周年記念祝典。28〜29年に再建整備法に基づく預金者・株主の損失の一部を返済
    • [40]昭和20年の空襲で沼津の本支店9店舗、静岡・清水の8店舗、計17店舗が焼失。10月19日に50周年記念祝典。28〜29年に再建整備法に基づく預金者・株主の損失の一部を返済
    • [44]昭和20年の空襲で沼津の本支店9店舗、静岡・清水の8店舗、計17店舗が焼失。10月19日に50周年記念祝典。28〜29年に再建整備法に基づく預金者・株主の損失の一部を返済
  • 駿河銀行七十年史(1970)
    • [41]最終処理案は資本金を90%切捨て(71万円)、第二封鎖預金を44%切捨て。昭和23年3月31日に大蔵大臣へ提出、5月29日認可
    • [42]最終処理案は資本金を90%切捨て(71万円)、第二封鎖預金を44%切捨て。昭和23年3月31日に大蔵大臣へ提出、5月29日認可
    • [43]最終処理案は資本金を90%切捨て(71万円)、第二封鎖預金を44%切捨て。昭和23年3月31日に大蔵大臣へ提出、5月29日認可

再建計画では、総資産から国債や現金などを除いた資産の1割を適正な資本とする大蔵省の目安に沿い、駿河銀行の健全資本金は1億690万円と算定された。1948年11月の新株募集は応募が予想を上回り、資本金は目標を超える1億2,000万円に達した。1951年には資本金を2億5,000万円へ引き上げた。預金は1945年9月末の9億900万円から、1948年9月末に24億6,500万円、1949年9月末に44億5,600万円へ増えた。1955年9月末の残高は277億円である。資本の9割を失った銀行が3年のうちに目標を超える増資を集めたことは、地元の株主と預金者の信認がなお保たれていたことを示すとみられる。

  • 駿河銀行七十年史(1970)
    • [45]大蔵省はリスクアセットの10%を適正資本の目標とし、当行の健全資本金は1億690万円。昭和23年11月に新株募集が盛況で1億2,000万円に増資。昭和26年に資本金2億5,000万円に増資
    • [46]大蔵省はリスクアセットの10%を適正資本の目標とし、当行の健全資本金は1億690万円。昭和23年11月に新株募集が盛況で1億2,000万円に増資。昭和26年に資本金2億5,000万円に増資
    • [47]大蔵省はリスクアセットの10%を適正資本の目標とし、当行の健全資本金は1億690万円。昭和23年11月に新株募集が盛況で1億2,000万円に増資。昭和26年に資本金2億5,000万円に増資
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [48]預金は終戦直後の9月末9億900万円、23年9月末24億6,500万円、24年9月末44億5,600万円、30年9月末277億円
    • [49]預金は終戦直後の9月末9億900万円、23年9月末24億6,500万円、24年9月末44億5,600万円、30年9月末277億円

駿河銀行は1901年に東京支店を閉じて以来、東京に店舗を持たなかった。静岡県に61店、神奈川県に24店を構える駿河銀行にとって、両県の産品の主な消費地は東京だったが、東京の手形交換所に加わっていないため、手形の決済の確定に3〜4日を要した。資本金1億円以上の地方銀行で東京支店を持たないのは、駿河銀行だけとなっていた。1951年8月20日に東京支店の復活を求める陳情書を大蔵省銀行局へ出し、1952年7月2日に設置の認可を得た。同年10月に開いた東京支店は、開設当日に15億円あまりの預金を集めた。1955年には東京支店の手形割引が12億円となり、全店の94億円の1割を超えた。

  • 駿河銀行七十年史(1970)
    • [50]明治34年に東京支店を閉鎖して以来東京に支店なし。静岡61店・神奈川24店、両県産品の主な消費地は東京。東京交換に未加盟で渡・不渡の確定に3〜4日。資本金1億円以上の地方銀行で東京支店のないのは当行のみ。昭和26年8月20日に陳情書、27年7月2日に認可。30年の東京支店の割手は12億円で全店94億円の1割以上
    • [51]明治34年に東京支店を閉鎖して以来東京に支店なし。静岡61店・神奈川24店、両県産品の主な消費地は東京。東京交換に未加盟で渡・不渡の確定に3〜4日。資本金1億円以上の地方銀行で東京支店のないのは当行のみ。昭和26年8月20日に陳情書、27年7月2日に認可。30年の東京支店の割手は12億円で全店94億円の1割以上
    • [52]明治34年に東京支店を閉鎖して以来東京に支店なし。静岡61店・神奈川24店、両県産品の主な消費地は東京。東京交換に未加盟で渡・不渡の確定に3〜4日。資本金1億円以上の地方銀行で東京支店のないのは当行のみ。昭和26年8月20日に陳情書、27年7月2日に認可。30年の東京支店の割手は12億円で全店94億円の1割以上
    • [53]明治34年に東京支店を閉鎖して以来東京に支店なし。静岡61店・神奈川24店、両県産品の主な消費地は東京。東京交換に未加盟で渡・不渡の確定に3〜4日。資本金1億円以上の地方銀行で東京支店のないのは当行のみ。昭和26年8月20日に陳情書、27年7月2日に認可。30年の東京支店の割手は12億円で全店94億円の1割以上
    • [55]明治34年に東京支店を閉鎖して以来東京に支店なし。静岡61店・神奈川24店、両県産品の主な消費地は東京。東京交換に未加盟で渡・不渡の確定に3〜4日。資本金1億円以上の地方銀行で東京支店のないのは当行のみ。昭和26年8月20日に陳情書、27年7月2日に認可。30年の東京支店の割手は12億円で全店94億円の1割以上
  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [54]昭和27年10月に東京支店を開設、当日の預金が15億円余
出典・参考
  • [1]スルガ銀行 有価証券報告書 第215期(2026年6月17日)【沿革】
  • [2]駿河銀行七十年史(1970)
  • [3]企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
  • [4]私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
  • [5]東邦経済 1978年5月号「恐慌を越えた駿河銀行と頭取岡野喜太郎(昭和経済史譚 その二)」

免責事項およびポリシー