第1章 年〜年

スルガ銀行:岡野喜太郎の貯蓄組合「共同社」と駿河銀行への改称

1887年〜飢饉の青野村で月50銭を積み立てた「共同社」と、年1割8分の貸付

岡野喜太郎氏は1885年秋、自ら願い出て師範学校を退き、郷里の駿東郡愛鷹村青野で農作業に戻った。在籍先は韮山の豆陽学校の師範科。発端は1884年9月に駿河湾から上陸した大暴風雨で、青野の稲は収穫が皆無となり、翌春に村は飢饉に陥った。紙幣整理による物価の下落も重なり、米は1俵5円から1884年秋には2円ないし1円50銭に下がった。村人の多くは岡野家の小作人で、村の窮乏を救うことは岡野家の危機を乗り切ることに直結する。岡野喜太郎氏は、人並みの働きでは村は立ち直れないと考え、肥桶を担いで山の畑を男衆より多く往復した。代々名主を務めた家の長男として、村の再建を自分の務めと受け止めたとみられる。

  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [1]1885年秋に師範学校を退学して家業の農作業に就いた。1884年秋の米価は1俵2円〜1円50銭。村人の多数は岡野家の小作人。人並み以上に働き節約しなければ村は立ち直れないと考えた
    • [4]1885年秋に師範学校を退学して家業の農作業に就いた。1884年秋の米価は1俵2円〜1円50銭。村人の多数は岡野家の小作人。人並み以上に働き節約しなければ村は立ち直れないと考えた
    • [5]1885年秋に師範学校を退学して家業の農作業に就いた。1884年秋の米価は1俵2円〜1円50銭。村人の多数は岡野家の小作人。人並み以上に働き節約しなければ村は立ち直れないと考えた
    • [6]1885年秋に師範学校を退学して家業の農作業に就いた。1884年秋の米価は1俵2円〜1円50銭。村人の多数は岡野家の小作人。人並み以上に働き節約しなければ村は立ち直れないと考えた
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [2]1884年9月の大暴風雨で青野の稲作は収穫皆無、翌春飢饉。韮山の豆陽学校師範科に在籍。代々名主の家に生まれ学業を廃して帰村
    • [3]1884年9月の大暴風雨で青野の稲作は収穫皆無、翌春飢饉。韮山の豆陽学校師範科に在籍。代々名主の家に生まれ学業を廃して帰村

岡野喜太郎氏は1887年1月、岡野家の縁者を中心とする12人で貯蓄組合「共同社」を創立した。規約は、無駄な出費を抑え倹約で浮いた金を積み立てることを目的に掲げた。出発点は月10銭の掛金の案で、1886年6月に村の家長たちの賛成を得た。月10銭は男の日雇賃金1日分にあたり、1年積んでも1円20銭にとどまる。預け先の原町駅逓局の利率は年3分にすぎず、年2割が通り相場だった当時の金利に遠く及ばなかった。そこで掛金を月50銭に引き上げると、岡野家への義理で応じていた村人は加わらず、親類など縁の深い者に限られた。掛金を上げて人数を絞った決断は、村全体の参加よりも積立を利殖に回せる規模を優先したものだったのだろう。

  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [7]1887年1月、岡野家の縁者12人で共同社貯蓄組合を創立。月10銭は男の日雇賃金に相当し1年で1円20銭。規約の目的は冗費を省き節倹で得た金銭を蓄積すること
    • [8]1887年1月、岡野家の縁者12人で共同社貯蓄組合を創立。月10銭は男の日雇賃金に相当し1年で1円20銭。規約の目的は冗費を省き節倹で得た金銭を蓄積すること
    • [10]1887年1月、岡野家の縁者12人で共同社貯蓄組合を創立。月10銭は男の日雇賃金に相当し1年で1円20銭。規約の目的は冗費を省き節倹で得た金銭を蓄積すること
  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [9]1886年6月に月10銭の掛金で村人の賛成を得た。駅逓局の利率は年3分、当時の金利は年2割が普通。月50銭に上げると賛成者は親類など縁故者のみとなり、父と本人を含め12人
    • [11]1886年6月に月10銭の掛金で村人の賛成を得た。駅逓局の利率は年3分、当時の金利は年2割が普通。月50銭に上げると賛成者は親類など縁故者のみとなり、父と本人を含め12人
    • [12]1886年6月に月10銭の掛金で村人の賛成を得た。駅逓局の利率は年3分、当時の金利は年2割が普通。月50銭に上げると賛成者は親類など縁故者のみとなり、父と本人を含め12人

共同社は積立金を村内の産業資金として貸し付けることを本筋とし、借手のないときだけ第三十五国立銀行に預けた。貸付の担保は田地に限り、地価で貸金の2倍以上を求めた。利率は年1割8分を原則とし、年2割が普通だった当時の相場より低く抑えた。米1俵を借りれば秋に1俵1斗を返す当時の慣行と比べても、低い水準の貸出にあたる。規約では組合員を借手からも保証人からも外した。共同社は1891年2月に満期を迎えて解散し、3月に資蓄会へ改組され、加入は100口に増えた。創立当初、青野の田地52町歩の過半は他村の者の所有。1937年になると、他村民の所有は11町歩まで減った。組合員を貸付の相手から外したのは、出資した村人同士のもたれ合いで回収が滞る事態を避けるためと推察される。

  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [13]積立金は産業資金の貸付を本位とし、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。担保は田地に限り地価で貸金の2倍以上。米1俵借りて秋に1俵1斗返す慣行
    • [14]積立金は産業資金の貸付を本位とし、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。担保は田地に限り地価で貸金の2倍以上。米1俵借りて秋に1俵1斗返す慣行
    • [16]積立金は産業資金の貸付を本位とし、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。担保は田地に限り地価で貸金の2倍以上。米1俵借りて秋に1俵1斗返す慣行
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [15]利率は年1割8分(当時は2割が普通)。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口。創立当初は青野の田地52町歩の過半が他村民の所有、1937年には11町歩に減少
    • [17]利率は年1割8分(当時は2割が普通)。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口。創立当初は青野の田地52町歩の過半が他村民の所有、1937年には11町歩に減少
    • [18]利率は年1割8分(当時は2割が普通)。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口。創立当初は青野の田地52町歩の過半が他村民の所有、1937年には11町歩に減少
    • [19]利率は年1割8分(当時は2割が普通)。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口。創立当初は青野の田地52町歩の過半が他村民の所有、1937年には11町歩に減少
    • [20]利率は年1割8分(当時は2割が普通)。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口。創立当初は青野の田地52町歩の過半が他村民の所有、1937年には11町歩に減少
参考文献[1]-[20]
  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [1]1885年秋に師範学校を退学して家業の農作業に就いた。1884年秋の米価は1俵2円〜1円50銭。村人の多数は岡野家の小作人。人並み以上に働き節約しなければ村は立ち直れないと考えた
    • [4]1885年秋に師範学校を退学して家業の農作業に就いた。1884年秋の米価は1俵2円〜1円50銭。村人の多数は岡野家の小作人。人並み以上に働き節約しなければ村は立ち直れないと考えた
    • [5]1885年秋に師範学校を退学して家業の農作業に就いた。1884年秋の米価は1俵2円〜1円50銭。村人の多数は岡野家の小作人。人並み以上に働き節約しなければ村は立ち直れないと考えた
    • [6]1885年秋に師範学校を退学して家業の農作業に就いた。1884年秋の米価は1俵2円〜1円50銭。村人の多数は岡野家の小作人。人並み以上に働き節約しなければ村は立ち直れないと考えた
    • [9]1886年6月に月10銭の掛金で村人の賛成を得た。駅逓局の利率は年3分、当時の金利は年2割が普通。月50銭に上げると賛成者は親類など縁故者のみとなり、父と本人を含め12人
    • [11]1886年6月に月10銭の掛金で村人の賛成を得た。駅逓局の利率は年3分、当時の金利は年2割が普通。月50銭に上げると賛成者は親類など縁故者のみとなり、父と本人を含め12人
    • [12]1886年6月に月10銭の掛金で村人の賛成を得た。駅逓局の利率は年3分、当時の金利は年2割が普通。月50銭に上げると賛成者は親類など縁故者のみとなり、父と本人を含め12人
    • [13]積立金は産業資金の貸付を本位とし、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。担保は田地に限り地価で貸金の2倍以上。米1俵借りて秋に1俵1斗返す慣行
    • [14]積立金は産業資金の貸付を本位とし、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。担保は田地に限り地価で貸金の2倍以上。米1俵借りて秋に1俵1斗返す慣行
    • [16]積立金は産業資金の貸付を本位とし、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。担保は田地に限り地価で貸金の2倍以上。米1俵借りて秋に1俵1斗返す慣行
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [2]1884年9月の大暴風雨で青野の稲作は収穫皆無、翌春飢饉。韮山の豆陽学校師範科に在籍。代々名主の家に生まれ学業を廃して帰村
    • [3]1884年9月の大暴風雨で青野の稲作は収穫皆無、翌春飢饉。韮山の豆陽学校師範科に在籍。代々名主の家に生まれ学業を廃して帰村
    • [7]1887年1月、岡野家の縁者12人で共同社貯蓄組合を創立。月10銭は男の日雇賃金に相当し1年で1円20銭。規約の目的は冗費を省き節倹で得た金銭を蓄積すること
    • [8]1887年1月、岡野家の縁者12人で共同社貯蓄組合を創立。月10銭は男の日雇賃金に相当し1年で1円20銭。規約の目的は冗費を省き節倹で得た金銭を蓄積すること
    • [10]1887年1月、岡野家の縁者12人で共同社貯蓄組合を創立。月10銭は男の日雇賃金に相当し1年で1円20銭。規約の目的は冗費を省き節倹で得た金銭を蓄積すること
    • [15]利率は年1割8分(当時は2割が普通)。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口。創立当初は青野の田地52町歩の過半が他村民の所有、1937年には11町歩に減少
    • [17]利率は年1割8分(当時は2割が普通)。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口。創立当初は青野の田地52町歩の過半が他村民の所有、1937年には11町歩に減少
    • [18]利率は年1割8分(当時は2割が普通)。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口。創立当初は青野の田地52町歩の過半が他村民の所有、1937年には11町歩に減少
    • [19]利率は年1割8分(当時は2割が普通)。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口。創立当初は青野の田地52町歩の過半が他村民の所有、1937年には11町歩に減少
    • [20]利率は年1割8分(当時は2割が普通)。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口。創立当初は青野の田地52町歩の過半が他村民の所有、1937年には11町歩に減少

1895年〜茶部屋で開いた根方銀行と、駿東実業銀行の東京日本橋支店

1895年3月、当局は資蓄会の業務を銀行に類するものとみなし、銀行へ改めるよう求めた。岡野喜太郎氏は同年10月19日、貯蓄金1万円を資本金に根方銀行を創立し、頭取に就任した。店舗には岡野家で製茶に使っていた茶部屋の1室を改造して充てた。1895年の全国の銀行は817行で、1行あたりの払込資本金は平均6万円弱である。本職の行員は1人だけで、年俸70円の頭取が出納から小使の仕事まで兼ねる。第1期は約2カ月半の営業で純益149円77銭8厘を計上し、年1割の配当を出した。資蓄会はその後、青野貯蓄組合と名を改め、貯蓄金を銀行に預け入れる組合として存続。資本金1万円の根方銀行は、当時の全国の銀行のなかで最小の部類から出発した。

  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [21]1895年3月に当局から資蓄会は銀行類似業務なので銀行に改めよと要請。10月19日に根方銀行創立、店舗は岡野家の茶部屋。全国817行・1行平均払込資本金6万円弱。第1期純益149円77銭8厘、年1割配当。資蓄会は後に青野貯蓄組合と改称し、貯蓄金は銀行に預け入れ
    • [23]1895年3月に当局から資蓄会は銀行類似業務なので銀行に改めよと要請。10月19日に根方銀行創立、店舗は岡野家の茶部屋。全国817行・1行平均払込資本金6万円弱。第1期純益149円77銭8厘、年1割配当。資蓄会は後に青野貯蓄組合と改称し、貯蓄金は銀行に預け入れ
    • [24]1895年3月に当局から資蓄会は銀行類似業務なので銀行に改めよと要請。10月19日に根方銀行創立、店舗は岡野家の茶部屋。全国817行・1行平均払込資本金6万円弱。第1期純益149円77銭8厘、年1割配当。資蓄会は後に青野貯蓄組合と改称し、貯蓄金は銀行に預け入れ
    • [26]1895年3月に当局から資蓄会は銀行類似業務なので銀行に改めよと要請。10月19日に根方銀行創立、店舗は岡野家の茶部屋。全国817行・1行平均払込資本金6万円弱。第1期純益149円77銭8厘、年1割配当。資蓄会は後に青野貯蓄組合と改称し、貯蓄金は銀行に預け入れ
    • [27]1895年3月に当局から資蓄会は銀行類似業務なので銀行に改めよと要請。10月19日に根方銀行創立、店舗は岡野家の茶部屋。全国817行・1行平均払込資本金6万円弱。第1期純益149円77銭8厘、年1割配当。資蓄会は後に青野貯蓄組合と改称し、貯蓄金は銀行に預け入れ
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [22]1895年10月19日に貯蓄金1万円を資本金に根方銀行へ発展。頭取は岡野喜太郎、年俸70円、本職の行員1人。全国817行中おそらく最少の資本金
    • [25]1895年10月19日に貯蓄金1万円を資本金に根方銀行へ発展。頭取は岡野喜太郎、年俸70円、本職の行員1人。全国817行中おそらく最少の資本金
    • [28]1895年10月19日に貯蓄金1万円を資本金に根方銀行へ発展。頭取は岡野喜太郎、年俸70円、本職の行員1人。全国817行中おそらく最少の資本金

根方銀行には日清戦争後の好景気で取引の申込みが相次ぎ、資本金1万円では応じきれなくなった。1896年4月に3万円へ増資し、さらに倍額の6万円に増資すると同時に、商号を駿東実業銀行に改めた。本店は駿東郡の中心地である沼津町の六軒町に移した。沼津ではすでに御厨銀行と沼津銀行、静岡第三十五国立銀行の沼津支店の3行が、地元の資産家と結んで預金と貸出を押さえていた。駿東実業銀行は1898年に吉原、1899年に三島へ支店を設け、資本金を20万円へ引き上げた。1900年には本店を通横町に移し、資本金を60万円とし、御殿場に加えて東京日本橋にも支店を開設した。郡名を掲げて沼津と東京に出た背景には、青野の預金だけでは好景気の資金需要に追いつかないという判断があったと思われる。

  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [29]日清戦争後の好景気で取引希望が殺到。1896年4月に3万円へ増資、さらに6万円へ倍額増資し沼津町へ進出、駿東実業銀行と改称。沼津には沼津銀行・第三十五国立銀行沼津支店・御厨銀行の3行
    • [30]日清戦争後の好景気で取引希望が殺到。1896年4月に3万円へ増資、さらに6万円へ倍額増資し沼津町へ進出、駿東実業銀行と改称。沼津には沼津銀行・第三十五国立銀行沼津支店・御厨銀行の3行
    • [32]日清戦争後の好景気で取引希望が殺到。1896年4月に3万円へ増資、さらに6万円へ倍額増資し沼津町へ進出、駿東実業銀行と改称。沼津には沼津銀行・第三十五国立銀行沼津支店・御厨銀行の3行
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [31]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店・資本金20万円、1899年三島支店。1900年本店を通横町へ移転、資本金60万円、御殿場支店と東京日本橋支店を設置
    • [33]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店・資本金20万円、1899年三島支店。1900年本店を通横町へ移転、資本金60万円、御殿場支店と東京日本橋支店を設置
    • [34]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店・資本金20万円、1899年三島支店。1900年本店を通横町へ移転、資本金60万円、御殿場支店と東京日本橋支店を設置

東京支店は開設直後に10万円の預金を集めたものの、その多くは融資を引き出すための見せ金である。望むだけの融資が受けられないと分かると、預金者はすぐに引き出した。岡野喜太郎氏は『これ以上存続しては、人件費倒れになる』と判断し、東京支店を閉じた。日清戦後の反動で三島実業、横浜蚕糸、東京明治などの銀行が相次いで休業し、取付けは静岡県下にも広がった。1901年3月には、2万余円を貸していた主要取引先の沼津乾燥会社の経営が破綻した。重役のなかには損失を長期で少しずつ処理する案を推す声もあった。岡野喜太郎氏はこれを退け、1902年下半期の配当を見送って損失を償却し、不足は積立金で埋めた。翌期には年9分の配当を復活させた。

  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [35]東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出された。人件費倒れになると判断し東京支店を閉鎖。東京明治・横浜蚕糸・三島実業などが休業し取付けが静岡に波及。損失2万円を1期で償却し無配、翌期に年9分配当を復活
    • [36]東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出された。人件費倒れになると判断し東京支店を閉鎖。東京明治・横浜蚕糸・三島実業などが休業し取付けが静岡に波及。損失2万円を1期で償却し無配、翌期に年9分配当を復活
    • [37]東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出された。人件費倒れになると判断し東京支店を閉鎖。東京明治・横浜蚕糸・三島実業などが休業し取付けが静岡に波及。損失2万円を1期で償却し無配、翌期に年9分配当を復活
    • [38]東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出された。人件費倒れになると判断し東京支店を閉鎖。東京明治・横浜蚕糸・三島実業などが休業し取付けが静岡に波及。損失2万円を1期で償却し無配、翌期に年9分配当を復活
    • [42]東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出された。人件費倒れになると判断し東京支店を閉鎖。東京明治・横浜蚕糸・三島実業などが休業し取付けが静岡に波及。損失2万円を1期で償却し無配、翌期に年9分配当を復活
  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [39]1901年3月に重要取引先の沼津乾燥会社が破綻、貸付金2万余円。重役の一部は長期のなしくずし償却を主張。1902年下半期を無配として損失を償却し、不足は積立金で補填
    • [40]1901年3月に重要取引先の沼津乾燥会社が破綻、貸付金2万余円。重役の一部は長期のなしくずし償却を主張。1902年下半期を無配として損失を償却し、不足は積立金で補填
    • [41]1901年3月に重要取引先の沼津乾燥会社が破綻、貸付金2万余円。重役の一部は長期のなしくずし償却を主張。1902年下半期を無配として損失を償却し、不足は積立金で補填
参考文献[21]-[42]
  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [21]1895年3月に当局から資蓄会は銀行類似業務なので銀行に改めよと要請。10月19日に根方銀行創立、店舗は岡野家の茶部屋。全国817行・1行平均払込資本金6万円弱。第1期純益149円77銭8厘、年1割配当。資蓄会は後に青野貯蓄組合と改称し、貯蓄金は銀行に預け入れ
    • [23]1895年3月に当局から資蓄会は銀行類似業務なので銀行に改めよと要請。10月19日に根方銀行創立、店舗は岡野家の茶部屋。全国817行・1行平均払込資本金6万円弱。第1期純益149円77銭8厘、年1割配当。資蓄会は後に青野貯蓄組合と改称し、貯蓄金は銀行に預け入れ
    • [24]1895年3月に当局から資蓄会は銀行類似業務なので銀行に改めよと要請。10月19日に根方銀行創立、店舗は岡野家の茶部屋。全国817行・1行平均払込資本金6万円弱。第1期純益149円77銭8厘、年1割配当。資蓄会は後に青野貯蓄組合と改称し、貯蓄金は銀行に預け入れ
    • [26]1895年3月に当局から資蓄会は銀行類似業務なので銀行に改めよと要請。10月19日に根方銀行創立、店舗は岡野家の茶部屋。全国817行・1行平均払込資本金6万円弱。第1期純益149円77銭8厘、年1割配当。資蓄会は後に青野貯蓄組合と改称し、貯蓄金は銀行に預け入れ
    • [27]1895年3月に当局から資蓄会は銀行類似業務なので銀行に改めよと要請。10月19日に根方銀行創立、店舗は岡野家の茶部屋。全国817行・1行平均払込資本金6万円弱。第1期純益149円77銭8厘、年1割配当。資蓄会は後に青野貯蓄組合と改称し、貯蓄金は銀行に預け入れ
    • [29]日清戦争後の好景気で取引希望が殺到。1896年4月に3万円へ増資、さらに6万円へ倍額増資し沼津町へ進出、駿東実業銀行と改称。沼津には沼津銀行・第三十五国立銀行沼津支店・御厨銀行の3行
    • [30]日清戦争後の好景気で取引希望が殺到。1896年4月に3万円へ増資、さらに6万円へ倍額増資し沼津町へ進出、駿東実業銀行と改称。沼津には沼津銀行・第三十五国立銀行沼津支店・御厨銀行の3行
    • [32]日清戦争後の好景気で取引希望が殺到。1896年4月に3万円へ増資、さらに6万円へ倍額増資し沼津町へ進出、駿東実業銀行と改称。沼津には沼津銀行・第三十五国立銀行沼津支店・御厨銀行の3行
    • [39]1901年3月に重要取引先の沼津乾燥会社が破綻、貸付金2万余円。重役の一部は長期のなしくずし償却を主張。1902年下半期を無配として損失を償却し、不足は積立金で補填
    • [40]1901年3月に重要取引先の沼津乾燥会社が破綻、貸付金2万余円。重役の一部は長期のなしくずし償却を主張。1902年下半期を無配として損失を償却し、不足は積立金で補填
    • [41]1901年3月に重要取引先の沼津乾燥会社が破綻、貸付金2万余円。重役の一部は長期のなしくずし償却を主張。1902年下半期を無配として損失を償却し、不足は積立金で補填
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [22]1895年10月19日に貯蓄金1万円を資本金に根方銀行へ発展。頭取は岡野喜太郎、年俸70円、本職の行員1人。全国817行中おそらく最少の資本金
    • [25]1895年10月19日に貯蓄金1万円を資本金に根方銀行へ発展。頭取は岡野喜太郎、年俸70円、本職の行員1人。全国817行中おそらく最少の資本金
    • [28]1895年10月19日に貯蓄金1万円を資本金に根方銀行へ発展。頭取は岡野喜太郎、年俸70円、本職の行員1人。全国817行中おそらく最少の資本金
    • [31]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店・資本金20万円、1899年三島支店。1900年本店を通横町へ移転、資本金60万円、御殿場支店と東京日本橋支店を設置
    • [33]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店・資本金20万円、1899年三島支店。1900年本店を通横町へ移転、資本金60万円、御殿場支店と東京日本橋支店を設置
    • [34]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店・資本金20万円、1899年三島支店。1900年本店を通横町へ移転、資本金60万円、御殿場支店と東京日本橋支店を設置
    • [35]東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出された。人件費倒れになると判断し東京支店を閉鎖。東京明治・横浜蚕糸・三島実業などが休業し取付けが静岡に波及。損失2万円を1期で償却し無配、翌期に年9分配当を復活
    • [36]東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出された。人件費倒れになると判断し東京支店を閉鎖。東京明治・横浜蚕糸・三島実業などが休業し取付けが静岡に波及。損失2万円を1期で償却し無配、翌期に年9分配当を復活
    • [37]東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出された。人件費倒れになると判断し東京支店を閉鎖。東京明治・横浜蚕糸・三島実業などが休業し取付けが静岡に波及。損失2万円を1期で償却し無配、翌期に年9分配当を復活
    • [38]東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出された。人件費倒れになると判断し東京支店を閉鎖。東京明治・横浜蚕糸・三島実業などが休業し取付けが静岡に波及。損失2万円を1期で償却し無配、翌期に年9分配当を復活
    • [42]東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出された。人件費倒れになると判断し東京支店を閉鎖。東京明治・横浜蚕糸・三島実業などが休業し取付けが静岡に波及。損失2万円を1期で償却し無配、翌期に年9分配当を復活

1901年〜伝来の田畑を担保に差し出した頭取と、駿東郡から駿河へ改めた行名

沼津乾燥会社の破綻が外に知られれば取付けを招き、株主や預金者、駿東の取引先に累が及ぶおそれがあった。岡野喜太郎氏は父の岡野彌平太氏に経営の不手際をわび、先祖から受け継いだ岡野家の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示した。岡野彌平太氏は『お前の信ずるようにやりなさい。田畑はなくしても、また買うこともできる。人様には絶対迷惑をかけてはならない』と応じ、田畑の提供を認めた。第三銀行が実際に渡したのは大阪市築港公債で、駿東実業銀行はその公債を差し入れて日本銀行から資金を借り入れた。借入先は2カ所にのぼり、利息は二重払いとなる。事情を知るのは数名の幹部行員だけで、頭取は危機のあいだ常に500円を懐に入れて動いた。私財を差し出した裏付けで、銀行は取付けを受けずに危機を越えた。

  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [43]破綻が知られれば取付けとなり株主・預金者・駿東財界に迷惑が及ぶと判断。父彌平太に詫び、伝来の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示し了承された。実際は大阪市築港公債を受け日銀から借入、利息が二重。事情を知るのは数名の幹部行員のみ
    • [44]破綻が知られれば取付けとなり株主・預金者・駿東財界に迷惑が及ぶと判断。父彌平太に詫び、伝来の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示し了承された。実際は大阪市築港公債を受け日銀から借入、利息が二重。事情を知るのは数名の幹部行員のみ
    • [45]破綻が知られれば取付けとなり株主・預金者・駿東財界に迷惑が及ぶと判断。父彌平太に詫び、伝来の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示し了承された。実際は大阪市築港公債を受け日銀から借入、利息が二重。事情を知るのは数名の幹部行員のみ
    • [46]破綻が知られれば取付けとなり株主・預金者・駿東財界に迷惑が及ぶと判断。父彌平太に詫び、伝来の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示し了承された。実際は大阪市築港公債を受け日銀から借入、利息が二重。事情を知るのは数名の幹部行員のみ
    • [47]破綻が知られれば取付けとなり株主・預金者・駿東財界に迷惑が及ぶと判断。父彌平太に詫び、伝来の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示し了承された。実際は大阪市築港公債を受け日銀から借入、利息が二重。事情を知るのは数名の幹部行員のみ
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [48]父弥平太の激励と第三銀行の融資で辛うじて危機を逃れた。頭取は常に500円を懐中していた
    • [49]父弥平太の激励と第三銀行の融資で辛うじて危機を逃れた。頭取は常に500円を懐中していた

駿東実業銀行は1901年の危機の後、支店に加えて代理店を積極的に設け、静岡、神奈川の両県に預金を受け入れる網を張った。1908年には日露戦後の反動で1府18県の40行に取付けが起き、静岡県下でも第百三十八銀行が倒れた。駿東実業銀行はこの反動で預金を減らさず、かえって増やした。岡野喜太郎氏は1912年7月19日、駿東実業銀行の名は地方色が強すぎるとして、行名を駿河銀行に改めた。同じ1912年に資本金を270万円とし、支店は吉原、御殿場、伊東、厚木など両県にまたがる15店を数える。行名を郡から旧国の名へ広げたことで、県東部と神奈川の銀行を合わせる次の段階への足場が整ったと考えられる。

  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [50]1901年の危機後、代理店を積極的に設置し静岡・神奈川両県に資金吸収網を整備。1908年の反動で1府18県40行に取付け、静岡県下で第百三十八銀行倒産。駿東実業銀行は影響を受けず預金増加
    • [51]1901年の危機後、代理店を積極的に設置し静岡・神奈川両県に資金吸収網を整備。1908年の反動で1府18県40行に取付け、静岡県下で第百三十八銀行倒産。駿東実業銀行は影響を受けず預金増加
    • [52]1901年の危機後、代理店を積極的に設置し静岡・神奈川両県に資金吸収網を整備。1908年の反動で1府18県40行に取付け、静岡県下で第百三十八銀行倒産。駿東実業銀行は影響を受けず預金増加
    • [54]1912年に資本金270万円、行名を駿河銀行と改め、厚木・伊東・御殿場・吉原など静岡・神奈川両県下に15支店
  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [53]駿東実業銀行の名はあまり地方的なので、1912年7月19日に駿河銀行と改称
参考文献[43]-[54]
  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
    • [43]破綻が知られれば取付けとなり株主・預金者・駿東財界に迷惑が及ぶと判断。父彌平太に詫び、伝来の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示し了承された。実際は大阪市築港公債を受け日銀から借入、利息が二重。事情を知るのは数名の幹部行員のみ
    • [44]破綻が知られれば取付けとなり株主・預金者・駿東財界に迷惑が及ぶと判断。父彌平太に詫び、伝来の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示し了承された。実際は大阪市築港公債を受け日銀から借入、利息が二重。事情を知るのは数名の幹部行員のみ
    • [45]破綻が知られれば取付けとなり株主・預金者・駿東財界に迷惑が及ぶと判断。父彌平太に詫び、伝来の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示し了承された。実際は大阪市築港公債を受け日銀から借入、利息が二重。事情を知るのは数名の幹部行員のみ
    • [46]破綻が知られれば取付けとなり株主・預金者・駿東財界に迷惑が及ぶと判断。父彌平太に詫び、伝来の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示し了承された。実際は大阪市築港公債を受け日銀から借入、利息が二重。事情を知るのは数名の幹部行員のみ
    • [47]破綻が知られれば取付けとなり株主・預金者・駿東財界に迷惑が及ぶと判断。父彌平太に詫び、伝来の田畑を担保に第三銀行から3万円を借りる案を示し了承された。実際は大阪市築港公債を受け日銀から借入、利息が二重。事情を知るのは数名の幹部行員のみ
    • [53]駿東実業銀行の名はあまり地方的なので、1912年7月19日に駿河銀行と改称
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
    • [48]父弥平太の激励と第三銀行の融資で辛うじて危機を逃れた。頭取は常に500円を懐中していた
    • [49]父弥平太の激励と第三銀行の融資で辛うじて危機を逃れた。頭取は常に500円を懐中していた
    • [50]1901年の危機後、代理店を積極的に設置し静岡・神奈川両県に資金吸収網を整備。1908年の反動で1府18県40行に取付け、静岡県下で第百三十八銀行倒産。駿東実業銀行は影響を受けず預金増加
    • [51]1901年の危機後、代理店を積極的に設置し静岡・神奈川両県に資金吸収網を整備。1908年の反動で1府18県40行に取付け、静岡県下で第百三十八銀行倒産。駿東実業銀行は影響を受けず預金増加
    • [52]1901年の危機後、代理店を積極的に設置し静岡・神奈川両県に資金吸収網を整備。1908年の反動で1府18県40行に取付け、静岡県下で第百三十八銀行倒産。駿東実業銀行は影響を受けず預金増加
    • [54]1912年に資本金270万円、行名を駿河銀行と改め、厚木・伊東・御殿場・吉原など静岡・神奈川両県下に15支店

出典・参考

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出典・参考
  • 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
  • 私の履歴書 経済人2(1980)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」

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