岡野喜太郎
経歴1887〜1957年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1887年主要役職の状況(推定含む目安)1957年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間企業 | |||||
| 民間企業 | スルガ銀行(旧・根方銀行) | 1895 | 創業 頭取 | ||
| 1896 | 頭取 | ||||
| 1912 | 頭取 | ||||
| 1957 | 取締役会長 | ||||
| 1957 | 退任 | ||||
| その他 | |||||
| その他 | 貯蓄組合 共同社(のち資蓄会) | 1887 | 創立 | ||
| 1891 | 共同社を資蓄会に改組 | ||||
社長就任までの出自
出自
1864年、駿河国駿東郡愛鷹村の青野で、代々名主を務めた岡野家の長男として生まれた。沼津中学を経て韮山の豆陽学校師範科に進んだが、1884年9月の暴風雨で青野の稲が全滅し、翌年に村が飢饉に陥った。1885年秋に自ら退学を願い出て郷里の田畑に戻り、青年農夫として働いた。村人の多くは岡野家の小作人で、村の困窮はそのまま岡野家の危機に直結していた。銀行や商家に勤めた経歴は持たず、村の貯蓄組合から金融の世界に入った。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1895年3月、当局は共同社の後身である資蓄会の業務を銀行類似の営業とみなし、銀行への改組を求めた。岡野喜太郎氏は会員総会を開いて銀行の新設を諮り、承認を得た。同年10月19日に積立金1万円を資本金とする根方銀行を創立し、頭取に就任した。店舗は岡野家の茶部屋の1室を改造して充て、本職の行員は1人だけで、年俸70円の頭取が出納から雑務までを受け持った。外から経営者を迎えず、組合を率いてきた本人がそのまま銀行の頭取を務めた。
創業ストーリー
創業ストーリー
岡野喜太郎氏が貯蓄の組合を思い立った背景には、松方財政のデフレと凶作が重なった1880年代の駿東の農村がある。1884年秋には米が1俵2円ないし1円50銭まで下がり、同じ年の9月の暴風雨で浮島沼一帯の稲は潮をかぶって枯れた。翌1885年には農民が愛鷹山で樫の実を拾って食いつなぎ、借金の棒引きと無尽のかけ倒れが広がって、富岡村の御宿では数百人が御厨銀行を襲った。岡野喜太郎氏は「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」と書き残している。
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
- [17]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
- [18]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
- [19]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
- [20]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
組合は1887年1月、岡野家の縁者12人で始まった。月10銭の掛金では1年積んでも1円20銭で、預け先の駅逓局の利率も年3分にとどまったため、掛金を月50銭に上げた。積立金は田地を担保に村内へ年1割8分で貸し付け、借手の無いときだけ第三十五国立銀行に預けた。組合員自身は借手にも保証人にもなれない決まりで、1891年に資蓄会へ改組したころには加入が100口に増加していた。1895年に銀行へ改めた根方銀行は、約2カ月半の第1期で純益149円77銭8厘を計上し、年1割の配当を出した。
- 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
- [21]岡野家の縁者ばかり12人で明治20年1月、共同社を創立。月10銭は男の日雇賃金に相当し1年で1円20銭。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口
- [23]岡野家の縁者ばかり12人で明治20年1月、共同社を創立。月10銭は男の日雇賃金に相当し1年で1円20銭。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口
- [25]岡野家の縁者ばかり12人で明治20年1月、共同社を創立。月10銭は男の日雇賃金に相当し1年で1円20銭。組合員は借手・保証人になれない。1891年2月満期解散、資蓄会と改称し参加者100口
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
- [22]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
- [24]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
- [26]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
銀行になってからの打ち手は、増資で資本の規模を先に広げ、そのあとで支店を出す順に並ぶ。1896年4月の3万円への増資に続いて6万円とし、本店を沼津町へ移して駿東実業銀行と改めた。1898年に吉原、1899年に三島、1900年に御殿場と東京日本橋へ支店を出したが、東京支店は集まった預金の多くが融資目当ての見せ金で、閉鎖に追い込まれた。1899年には別に資本金3万円の貯蓄銀行を設け、駿河貯蓄銀行として1943年12月に駿河銀行へ合併するまで持ち続けた。支店と出張所にはその日の取引を日報にまとめさせ、手形や貸付証書の副本とともに本店へ送らせた。1923年の関東大震災で鎌倉と小田原幸町の2支店が帳簿と証書を失った際も、本店に残る副本から債権を確かめ直した。
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
- [27]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
- [29]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
- 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
- [28]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店、1899年三島支店、1900年御殿場支店と東京日本橋支店。東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出され閉鎖。明治32年に資本金3万円で貯蓄銀行を設立(のち駿河貯蓄銀行)。昭和17年、伊豆銀行は静岡銀行と合併し、県下には駿河・静岡・清水の3行が残った
- [30]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店、1899年三島支店、1900年御殿場支店と東京日本橋支店。東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出され閉鎖。明治32年に資本金3万円で貯蓄銀行を設立(のち駿河貯蓄銀行)。昭和17年、伊豆銀行は静岡銀行と合併し、県下には駿河・静岡・清水の3行が残った
- [31]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店、1899年三島支店、1900年御殿場支店と東京日本橋支店。東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出され閉鎖。明治32年に資本金3万円で貯蓄銀行を設立(のち駿河貯蓄銀行)。昭和17年、伊豆銀行は静岡銀行と合併し、県下には駿河・静岡・清水の3行が残った
- [32]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店、1899年三島支店、1900年御殿場支店と東京日本橋支店。東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出され閉鎖。明治32年に資本金3万円で貯蓄銀行を設立(のち駿河貯蓄銀行)。昭和17年、伊豆銀行は静岡銀行と合併し、県下には駿河・静岡・清水の3行が残った
- 駿河銀行七十年史(1970)
- [33]駿河貯蓄銀行は昭和18年10月19日の総会で合併を決議し12月1日に合併。最終処理案は資本金を90%切捨て(71万円)、昭和23年3月31日に大蔵大臣へ提出し5月29日認可。昭和23年11月の新株募集で1億2,000万円に増資
- 東邦経済 1978年5月号「恐慌を越えた駿河銀行と頭取岡野喜太郎(昭和経済史譚 その二)」
- [34]支店・出張所はその日の取引を日報とし、手形貸付証書など重要書類の副本を本店に提出。関東大震災で鎌倉・小田原幸町の2支店は帳簿・証書をすべて焼失したが影響なし
- [35]支店・出張所はその日の取引を日報とし、手形貸付証書など重要書類の副本を本店に提出。関東大震災で鎌倉・小田原幸町の2支店は帳簿・証書をすべて焼失したが影響なし
会社の形を決めたのは、政府の銀行統合の方針と向き合った場面である。1942年の金融事業整備令のあと、大蔵省の銀行課長が静岡銀行との合併を求めると、岡野喜太郎氏は「私は駿河銀行を解散します」とまで言って拒んだ。伊豆銀行は静岡銀行に合流し、県内の普通銀行は駿河、静岡、清水の3行に整理された。戦後は資本金の90%を切り捨てる再建整備の処理案を1948年5月に認可され、同年11月の新株募集で資本金を1億2,000万円に引き上げた。1952年10月には半世紀ぶりに東京支店を開設し、その日のうちに15億円あまりの預金を集めた。
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
- [36]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
- [37]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
- [40]明治14年に深川で11円20銭の米が松方デフレで暴落し、明治17年秋の暴風のころには1俵2円ないし1円50銭。9月15日の暴風雨で根方一帯・浮島沼の水田が潮風で枯れた。明治18年には農民が愛鷹山で樫の実を拾い、借金は棒引き・無尽はかけ倒れ、御宿では数百人の暴徒が御厨銀行を襲撃。「平素から貯えをしておいて、万一の場合に備えるよりほかはない」。月10銭では1年で1円20銭、駅逓局の利率は3分、月50銭に。貸付は田地担保・年1割8分、借手がない場合のみ第三十五国立銀行に預金。根方銀行第1期(10月19日〜年末)純益149円77銭8厘、年1割配当。明治29年4月に3万円、さらに6万円に増資して沼津町に進出し駿東実業銀行と改称。昭和17年の金融業整備令後、大蔵省銀行課長に静岡銀行との合併を求められ「それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」と拒否。昭和27年10月の東京支店開設当日の預金は15億円余
- 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
- [38]増資とともに駿東実業銀行と改め沼津町六軒町に本店移転。1898年吉原支店、1899年三島支店、1900年御殿場支店と東京日本橋支店。東京支店の預金10万円は融資目当ての見せ金で引き出され閉鎖。明治32年に資本金3万円で貯蓄銀行を設立(のち駿河貯蓄銀行)。昭和17年、伊豆銀行は静岡銀行と合併し、県下には駿河・静岡・清水の3行が残った
- 駿河銀行七十年史(1970)
- [39]駿河貯蓄銀行は昭和18年10月19日の総会で合併を決議し12月1日に合併。最終処理案は資本金を90%切捨て(71万円)、昭和23年3月31日に大蔵大臣へ提出し5月29日認可。昭和23年11月の新株募集で1億2,000万円に増資
1957年10月、駿河銀行は定款を改めて取締役会長の職を新設し、11月に93歳の岡野喜太郎氏が会長に退任し、長男で副頭取の岡野豪夫氏が第2代頭取に就任した。根方銀行の創立から62年間、頭取は岡野喜太郎氏が1人で務めていた。1963年11月に株式を東京証券取引所市場第二部へ上場し、1964年8月に岡野豪夫氏が急逝すると、孫の岡野喜一郎氏が第3代頭取に選ばれた。岡野喜太郎氏は1965年6月6日に101歳で死去した。
- するが90年の歩み(1985)
- [41]昭和32年10月に定款を変更し取締役会長を置き、11月の取締役会で満93歳の岡野喜太郎初代頭取を会長に、副頭取岡野豪夫を第2代頭取に選任。豪夫は喜太郎の長男。39年8月22日に岡野豪夫が74歳で急逝、23日の取締役会で専務岡野喜一郎を新頭取に選任(第3代頭取)。40年6月6日に会長岡野喜太郎が101歳の天寿を全う
- [42]昭和32年10月に定款を変更し取締役会長を置き、11月の取締役会で満93歳の岡野喜太郎初代頭取を会長に、副頭取岡野豪夫を第2代頭取に選任。豪夫は喜太郎の長男。39年8月22日に岡野豪夫が74歳で急逝、23日の取締役会で専務岡野喜一郎を新頭取に選任(第3代頭取)。40年6月6日に会長岡野喜太郎が101歳の天寿を全う
- [44]昭和32年10月に定款を変更し取締役会長を置き、11月の取締役会で満93歳の岡野喜太郎初代頭取を会長に、副頭取岡野豪夫を第2代頭取に選任。豪夫は喜太郎の長男。39年8月22日に岡野豪夫が74歳で急逝、23日の取締役会で専務岡野喜一郎を新頭取に選任(第3代頭取)。40年6月6日に会長岡野喜太郎が101歳の天寿を全う
- [45]昭和32年10月に定款を変更し取締役会長を置き、11月の取締役会で満93歳の岡野喜太郎初代頭取を会長に、副頭取岡野豪夫を第2代頭取に選任。豪夫は喜太郎の長男。39年8月22日に岡野豪夫が74歳で急逝、23日の取締役会で専務岡野喜一郎を新頭取に選任(第3代頭取)。40年6月6日に会長岡野喜太郎が101歳の天寿を全う
- スルガ銀行 有価証券報告書 第215期(2026年6月17日)【沿革】
- [43]1963年11月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場
在任中の主な施策
岡野喜太郎氏:在任中の施策
1901年3月に主要取引先の沼津乾燥会社が破綻すると、岡野家伝来の田畑を担保に第三銀行から資金を引き出して取付けを防ぎ、1902年下半期を無配として損失を一度で償却した。1912年7月には行名を駿東実業銀行から駿河銀行へ改めた。1923年7月に静岡実業銀行を合併し、1927年の金融恐慌から1930年にかけては松田銀行や富士銀行など県東部の小銀行を合併・買収した。戦時中には、各行に分散していた為替資金を1か所で決済する案を地方銀行の幹部に働きかけ、日本銀行による為替集中決済制度の発足につなげた。
参考文献4件
参考文献
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)「岡野喜太郎(駿河銀行頭取)」
- 企業の現代史47(1969)「しあわせをそだてて70年(駿河銀行)」
- するが90年の歩み(1985)
- 国立国会図書館サーチ 書誌「岡野喜太郎の追想」(著者の読み「オカノ,キタロウ」)
事実根拠:出所(スルガ銀行)