富士銀行:株式会社への改組と安田系11行の大合同
1906年〜株式会社へ移りながら株主を一門に閉じた改組
日露戦争後の企業勃興を受けて、安田銀行は1908年12月に資本金を200万円から500万円へ増やし、さらに1912年1月、1,000万円への増資と同時に合名会社から株式会社へ改組した。監督の安田善三郎氏は総会で、増資分は積み立ててきた利益を資本に引き直したもので、体が自然に大きくなったにすぎないと説明している『…累年顧問の御指導と諸君の御尽力によつて得たる利益を積立て置いたその金額を、資本金に引直したもので、つまり自然に体が大きくなつたものと見て宜しいので御座います』。手順は入り組んでいた。前年8月に資本金100万円の株式会社安田銀行を設立しておき、1912年1月1日にそこへ合名会社を合併させ、合名側の資本金500万円と積立金400万円で増資して全額払込済の1,000万円とした。当時の普通銀行は8割以上が株式会社であり、対外的な信頼を保つには会社形態を揃える必要があった。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [1]安田銀行は1908年12月に資本金を200万円から500万円へ増資し、1912年1月に1,000万円へ増資すると同時に株式会社へ改組した
- [3]改組は1911年8月に資本金100万円の株式会社安田銀行を設立し、1912年1月1日にこれへ合名会社安田銀行を合併させ、合名側の資本金500万円と積立金400万円で増資して1,000万円全額払込済とする手順で行なわれた
- [4]当時のわが国普通銀行の8割以上が株式会社であり、対外的な信頼性を保持するために株式会社への改組が必要であった
- 『安田銀行行報』1912年2月号/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [2]安田善三郎監督は1912年1月の総会で、増資は累年の利益の積立金を資本に引き直したものであり、自然に体が大きくなったものだと説明した
改組の理由として挙げられたのは二つである。株式組織は法律や命令による干渉が合名や合資よりも厳しく、世間の目にもさらされるため、自然と身を慎むようになると考えられた。これが第二の理由、社会の監督である『株式組織になりますと大資本を吸収し得る計りではなく、法律命令等の干渉が合名や合資に比べて厳重であると同時に、社会の注意を惹くことが多い、社会の注目が厳重であるから自然自らも気を附けるやうになり、社会からも監督さるゝやうになるから結局益々進行して行くに好都合であります』。第一の理由は関係銀行との統一で、すべて株式会社である関係銀行と、事務の扱い方から内部の組織までをそろえる狙いがあった。しかし形の上では大きな資本を受け入れる下地を整えながら、実際の株主は安田一門の21名だけで、外から資本が入ることはなかった。三井・三菱・住友と異なり、安田は銀行を中心に据えて他の事業へ広がらず、産業とのつながりは浅野財閥を介して持った。会社の形は世間並みに整えつつ、中身は同族のまま残したわけである。
- 『安田銀行行報』1912年2月号/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [5]第二の理由は、株式組織のほうが法律命令の干渉が厳重で社会の注目も受けるため、自らも気をつけるようになるという点にあった
- [6]株式会社への改組の理由の第一は、すべて株式会社であった関係銀行と事務の取扱いや内部組織を統一することにあった
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [7]株式会社化により形式上は大資本吸収の素地が作られたが、実際の株主は安田一門21名に限られ外部資本の参加はなかった
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [8]安田銀行は三井、三菱、住友と異なり他事業に興味を持たず銀行中心の経営を続け、産業への接近は浅野財閥を通じてなされた
安田・第三の両行を含む関係銀行と会社は、それまで初代ひとりの采配と人柄でまとめられていた。1921年9月28日にその安田善次郎氏が刺殺されると、保善社は翌29日に社員総会を開いて長男の善之助氏を総長とし、11月11日には二代目善次郎の名を継がせた。安田銀行の頭取を務めていたのは三男の善五郎氏、第三銀行は四男の善雄氏であり、指導者を急に欠いた保善社は外から人を招くと決めている。前総長の一挙一動がそのまま規則として通用していた以上、これからは制度・組織・規則に沿って業務を整然と運ぶ必要がある、というのが二代目善次郎氏の見方だった『前総長の一言一動は直ちに規則となって実行力があった。故に制度も規則も必要を認めなかったが、斯かる人を失った以上、制度、組織及び規則等によって秩序的に業務を遂行しなければならない。しかし制度、規則などは第二の問題で、第一には人である』。当主が亡くなった途端、制度も規則もなしに回っていた体制は拠りどころを失った。
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- [9]1921年9月28日、安田善次郎は凶刃に倒れた
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [10]保善社は1921年9月29日に社員総会を開き長男の善之助を総長に選任し、11月11日に善之助が二代目善次郎を襲名した
- [11]当時の安田銀行頭取は三男の善五郎、第三銀行頭取は四男の善雄であった
- [12]初代善次郎という指導者を突然失った保善社は、外部から人材を迎えることを決議した
- 『大阪時事新報』1922年2月15日/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [13]二代目善次郎は、前総長の一言一動がそのまま規則として実行力を持っていた以上、今後は制度、組織、規則によって秩序的に業務を遂行しなければならないと述べた
参考文献[1]-[13]
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [1]安田銀行は1908年12月に資本金を200万円から500万円へ増資し、1912年1月に1,000万円へ増資すると同時に株式会社へ改組した
- [3]改組は1911年8月に資本金100万円の株式会社安田銀行を設立し、1912年1月1日にこれへ合名会社安田銀行を合併させ、合名側の資本金500万円と積立金400万円で増資して1,000万円全額払込済とする手順で行なわれた
- [4]当時のわが国普通銀行の8割以上が株式会社であり、対外的な信頼性を保持するために株式会社への改組が必要であった
- [7]株式会社化により形式上は大資本吸収の素地が作られたが、実際の株主は安田一門21名に限られ外部資本の参加はなかった
- [10]保善社は1921年9月29日に社員総会を開き長男の善之助を総長に選任し、11月11日に善之助が二代目善次郎を襲名した
- [11]当時の安田銀行頭取は三男の善五郎、第三銀行頭取は四男の善雄であった
- [12]初代善次郎という指導者を突然失った保善社は、外部から人材を迎えることを決議した
- 『安田銀行行報』1912年2月号/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [2]安田善三郎監督は1912年1月の総会で、増資は累年の利益の積立金を資本に引き直したものであり、自然に体が大きくなったものだと説明した
- [5]第二の理由は、株式組織のほうが法律命令の干渉が厳重で社会の注目も受けるため、自らも気をつけるようになるという点にあった
- [6]株式会社への改組の理由の第一は、すべて株式会社であった関係銀行と事務の取扱いや内部組織を統一することにあった
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [8]安田銀行は三井、三菱、住友と異なり他事業に興味を持たず銀行中心の経営を続け、産業への接近は浅野財閥を通じてなされた
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- [9]1921年9月28日、安田善次郎は凶刃に倒れた
- 『大阪時事新報』1922年2月15日/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [13]二代目善次郎は、前総長の一言一動がそのまま規則として実行力を持っていた以上、今後は制度、組織、規則によって秩序的に業務を遂行しなければならないと述べた
1921年〜外から招いた副頭取が入れ替えた規則と人
人選は、初代と生前から親交のあった大蔵大臣の高橋是清氏に託された。高橋氏が日本銀行総裁の井上準之助氏と相談した結果、同行理事で大阪支店長の結城豊太郎氏が推され、1921年12月13日に保善社専務理事、17日に安田銀行副頭取へ就任した。結城氏は1904年に日本銀行へ入り、1920年の反動恐慌では大阪の銀行団の結束を固めて増田ビルブローカー銀行への救済融資を行ない、破綻に瀕した綿糸商を整理して恐慌の蔓延を防いだ人物である。迎えたとき44歳だった。保善社は定款を改め、社員から選ぶのが原則だった理事を社員外からも選べるようにし、安田銀行も定款を改正して副頭取制を設けた。日本銀行から迎えたこの副頭取のもとで、組織の近代化が進むことになる。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [14]保善社は、初代善次郎と生前から親交のあった当時の大蔵大臣高橋是清に人物の推薦を依頼した
- [15]高橋是清が井上準之助日本銀行総裁と相談した結果、日本銀行理事で大阪支店長の結城豊太郎が推挙され、1921年12月13日に保善社専務理事、12月17日に安田銀行副頭取に就任した
- [16]結城豊太郎は1904年に日本銀行に入行し、1920年の反動恐慌に際して大阪の銀行団の結束を固め増田ビルブローカー銀行への救済融資を行ない、破綻に瀕した綿糸商の整理により恐慌の蔓延を防いだ
- [17]結城豊太郎が安田に迎えられたときの年齢は44歳であった
- [18]保善社は理事を社員外からも選挙しうるよう定款を改正し、安田銀行も定款を改正して副頭取制を設けた
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- [19]安田銀行は日本銀行から結城豊太郎を副頭取に迎え、その組織近代化をはかった
1922年3月、保善社と安田銀行の組織改革が同時に行なわれた。保善社は6課制から秘書、庶務、理財、銀行、会社、調査の6部制へ変わり、それまで4、5名で関係事業の監督と調査を担っていた監査部調査課の機能は、新設の銀行部と会社部へ移して書面審査と実地検査の両面で強化された。同じ年から大学と専門学校の卒業生を組織的に採り始め、1922年に約30名、1923年に約50名、1924年には180名を関係行社へ配属している。初代は実務に重きを置いて実業教育出身者を多く採っていたから、これは採用の基準そのものの入れ替えだった。1922年11月には海外視察員制度が始まり、安田と第三の両行から3名が派遣された。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [20]1922年3月、保善社と安田銀行の組織改革が同時に行なわれた
- [22]保善社は1922年から大学、専門学校卒業生の組織的な採用を始め、1922年に約30名、1923年に約50名、1924年に180名を採用して関係行社に配属した
- [24]1922年11月、海外視察員制度の第一回として安田銀行と第三銀行から3名が海外に派遣された
- 『安田保善社とその関係事業史』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [21]保善社は6課制から秘書部、庶務部、理財部、銀行部、会社部、調査部の6部制に変更され、従来4、5名で関係事業の監督と調査を行なっていた監査部調査課の機能は新設の銀行部と会社部へ移されて書面審査と実地検査の両面で強化された
- [23]初代善次郎は実務面に重きを置く考えであったため、実業教育出身者の採用が多かった
第一次大戦後の反動は、事業界より先に銀行の内部を露わにした。1922年2月、大阪の投機師が破綻して機関銀行の役割を果たしていた高知商業銀行が休業すると銀行界に動揺が広がり、同年10月から11月にかけて京都と熊本の銀行が休業して重役の不正行為が明らかになり、12月以降は全国的な取付へ発展した。1922年3月から翌年5月までに休業した銀行は25行を数える。結城副頭取のもとで、土佐銀行への救援融資と、浅野昼夜銀行および帝国商業銀行の経営引受が行なわれた。浅野昼夜銀行は1922年8月に安田系列へ入って日本昼夜銀行と改称し、帝国商業銀行は翌1923年に系列下へ入った。
- 日本銀行調査局「世界戦争終了後ニ於ケル本邦財界動揺史」(『日本金融史資料』明治大正編第22巻)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [25]1920年の恐慌が一般経済界の恐慌に銀行が巻き込まれたものであったのに対し、1922年末を中心とする銀行恐慌は動揺の端を銀行自体に発したものであった
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [26]1922年2月に大阪の投機師石井定七が破綻し機関銀行であった高知商業銀行が休業、同年10月から11月に京都と熊本の銀行が休業して重役の不正行為が明らかとなり、12月以降全国的に銀行への取付が生じた
- [27]1922年3月から1923年5月にかけて計25行が休業した
- [28]結城副頭取を中心に、土佐銀行への救援融資と浅野昼夜銀行、帝国商業銀行の経営引受が行なわれた
- 『安田保善社とその関係事業史』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [29]浅野昼夜銀行は1922年8月に安田系列下に入り日本昼夜銀行と改称し、帝国商業銀行は1923年に安田系列下に入った
参考文献[14]-[29]
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [14]保善社は、初代善次郎と生前から親交のあった当時の大蔵大臣高橋是清に人物の推薦を依頼した
- [15]高橋是清が井上準之助日本銀行総裁と相談した結果、日本銀行理事で大阪支店長の結城豊太郎が推挙され、1921年12月13日に保善社専務理事、12月17日に安田銀行副頭取に就任した
- [16]結城豊太郎は1904年に日本銀行に入行し、1920年の反動恐慌に際して大阪の銀行団の結束を固め増田ビルブローカー銀行への救済融資を行ない、破綻に瀕した綿糸商の整理により恐慌の蔓延を防いだ
- [17]結城豊太郎が安田に迎えられたときの年齢は44歳であった
- [18]保善社は理事を社員外からも選挙しうるよう定款を改正し、安田銀行も定款を改正して副頭取制を設けた
- [20]1922年3月、保善社と安田銀行の組織改革が同時に行なわれた
- [22]保善社は1922年から大学、専門学校卒業生の組織的な採用を始め、1922年に約30名、1923年に約50名、1924年に180名を採用して関係行社に配属した
- [24]1922年11月、海外視察員制度の第一回として安田銀行と第三銀行から3名が海外に派遣された
- [26]1922年2月に大阪の投機師石井定七が破綻し機関銀行であった高知商業銀行が休業、同年10月から11月に京都と熊本の銀行が休業して重役の不正行為が明らかとなり、12月以降全国的に銀行への取付が生じた
- [27]1922年3月から1923年5月にかけて計25行が休業した
- [28]結城副頭取を中心に、土佐銀行への救援融資と浅野昼夜銀行、帝国商業銀行の経営引受が行なわれた
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- [19]安田銀行は日本銀行から結城豊太郎を副頭取に迎え、その組織近代化をはかった
- 『安田保善社とその関係事業史』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [21]保善社は6課制から秘書部、庶務部、理財部、銀行部、会社部、調査部の6部制に変更され、従来4、5名で関係事業の監督と調査を行なっていた監査部調査課の機能は新設の銀行部と会社部へ移されて書面審査と実地検査の両面で強化された
- [23]初代善次郎は実務面に重きを置く考えであったため、実業教育出身者の採用が多かった
- [29]浅野昼夜銀行は1922年8月に安田系列下に入り日本昼夜銀行と改称し、帝国商業銀行は1923年に安田系列下に入った
- 日本銀行調査局「世界戦争終了後ニ於ケル本邦財界動揺史」(『日本金融史資料』明治大正編第22巻)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [25]1920年の恐慌が一般経済界の恐慌に銀行が巻き込まれたものであったのに対し、1922年末を中心とする銀行恐慌は動揺の端を銀行自体に発したものであった
1923年〜十一行を一つにして立った預金第一位
1923年6月末、安田の関係銀行は22行、公称資本金1億8,600万円、預金残高8億1,200万円に達していた。一挙に合同するには規模が大きすぎたため、営業店舗の地区別分布などを勘案して11行での発足と決まる。設立理由書は、11行が営業成績も資産内容も歴史も異なるため、いずれか1行へ合併させれば計算その他で一致しない点が出ると述べている『今回合同セントスル十一行ハ営業ノ成績及資産ノ内容相等シカラサルノミナラス各其歴史ヲ異ニスルヲ以テ今直ニ之レヲ何レカノ一行ニ合併セントスルトキハ計算其ノ他各種ノ点ニ於テ一致シ難キ所アリ』。そこで新たに保善銀行を設立し、11行が対等無条件でこれに合併して資産と負債の全部を記帳価格のまま引き継ぎ、同時に新銀行の商号を安田銀行へ改める手順が採られた。資本金は1億5,000万円。参加した11行のうち、第三と旧安田、明治商業を除く各行は、経営困難に陥って安田の支援で立ち直った銀行だった。
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [30]1923年6月末現在、安田銀行の関係銀行は22行、公称資本金1億8,600万円、預金残高8億1,200万円、貸金残高7億8,600万円であった
- [31]一挙に合同するには規模が膨大すぎたため、営業店舗の地区別分布状況などを勘案して11行の合同で発足することになった
- [35]大合同に参加した11行のうち第三銀行、旧安田銀行、明治商業銀行を除く各行は、経営困難に陥り安田銀行の支援によって立ち直った銀行であった
- 株式会社保善銀行「銀行設立ノ理由書」(1923年4月)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [32]銀行設立ノ理由書は、合同する11行が営業成績と資産内容が等しくないうえ各々歴史を異にするため、直ちにいずれか1行へ合併させれば計算その他各種の点で一致し難いと述べた
- [33]新たに保善銀行を設立し、11行が対等無条件でこれに合併して資産負債の全部を記帳価格で引き継ぎ解散すると同時に、新銀行の称号を株式会社安田銀行と改める計画が採られた
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [34]11行の合同により資本金は1億5,000万円となった
合同を1カ月後に控えた1923年9月1日、関東地方を大地震が襲った。安田関係銀行では、京浜地区の本支店22カ店のうち16カ店が倒壊または焼失している。それでも11月1日に発足した新安田銀行は、払込資本金も預金も貸出も他の五大銀行を上回り、店舗は210を数えた。規模は守りにはならなかった。1927年4月21日の金融恐慌では、東京市内21カ店で前日残高1億4,500万円の28%にあたる4,100万円が1日で払い出された。前日に重役席から出た通達は、定期の中途解約を申し込まれてもその事情を尋ねず快く応じよ、というものだった。大阪市内の17支店では前日残高8,500万円の5%にあたる400万円強にとどまり、打撃は東京に集中している。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [36]大合同を1カ月後に控えた1923年9月1日、関東地方を大地震が襲った
- [37]関東大震災により安田関係銀行では京浜地区の本支店22カ店のうち16カ店が倒壊または焼失した
- [39]1927年4月21日、安田銀行の東京市内支店21カ店では前日預金残高1億4,500万円の28%にあたる4,100万円が1日で払い出された
- [40]1927年4月20日付の重役席通達は、定期の中途解約や特別当座の解約を申し込まれた場合にその事情をたずねず快く応ずるよう指示した
- [41]1927年4月21日、安田銀行の大阪市内17支店では前日残高8,500万円の5%にあたる400万円強が払い出された
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [38]1923年11月1日に発足した新安田銀行は資本金1億5,000万円、預金5億4,000万円、店舗数210で、払込資本金、預金、貸出のいずれでも五大銀行中の首位に立った
配当率は1929年上期に年9分だったが、1930年上期には年8分、1931年上期には年7分へと下がった。平時には経費の重荷となる店舗網の広さが響いており、上位行のうちで払込資本金が最大だったため配当率を揃えても支払う配当金は他行より多く、店舗数も行員数も他行を上回るうえ、その多くを地方の都市に置いていた。1931年3月には本店営業部得意先係が行内誌『愛行』を創刊した。同じ年の1月に大阪統轄店へ設けられた企劃部の機関誌と並び、東と西から行員の士気を高める役を担った。全行員を巻き込んだこの愛行運動によって、預金の減少と大口貸出の固定化に苦しんだ時期を切り抜けた。金融恐慌を境に預金は信用のある銀行へ集まり、1926年末に20.5%だった五大銀行の預金比率は1931年半ばに38.3%まで高まっていた。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [42]安田銀行の配当率は1929年上期に年9分、1930年上期に年8分、1931年上期に年7分へ引き下げられた
- [43]安田銀行は払込資本金が上位銀行のなかで最も大きく、配当率が同一でも配当金支払負担が相対的に大きかったうえ、店舗網と行員数も他行に比べ多く地方都市に展開する割合が大きかった
- [44]1931年3月に本店営業部得意先係が行内誌『愛行』を刊行し、同年1月に大阪統轄店へ設けられた企劃部の機関誌『企劃通信』と東西呼応して行内の志気を鼓舞した
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- [45]昭和初年の金融恐慌に続く不況期に安田銀行は預金減少と大口貸出の固定化で苦境に陥ったが、全行員一丸となった愛行運動によって難関を切り抜けた
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [46]普通銀行の預金残高に占める五大銀行の比率は1926年末の20.5%から1931年半ばに38.3%へ上昇した
反転させたのは戦時の統合だった。1942年12月28日に第一と三井、三菱と第百の合併が発表されると、安田銀行は12月31日の重役会で同系の日本昼夜銀行との合併を決め、翌1943年4月1日に実行する。資本金は1,000万円増えて1億6,000万円となった。第二次の合併では残る同系の第三銀行のほか昭和銀行と十五銀行が焦点となり、帝国銀行の旧首脳も同じ計画を進めていたため、1944年4月に大蔵省の裁定で昭和と第三は安田へ、十五は帝国へと割り振られた。この交渉で安田一会長は、場合によっては新立でもかまわず安田の名を捨てるのも辞さないと、日本銀行総裁となっていた結城氏へ伝えている『安田銀行の成り立ちは、他の銀行と異つて安田の初代が御自分の事業のために造られたものではなく、何処までも大衆相手に発展した銀行である点特異性がある。その意味に於てはピーブルス・バンクである。日本語で言えば国民銀行ですかね』。1945年6月末、預金は100億円を超えて業界第一位に立った。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [47]1942年12月28日に第一銀行と三井銀行、三菱銀行と第百銀行の合併が発表され、安田銀行は12月31日の重役会で日本昼夜銀行との合併を決定し、1943年4月1日に実行した
- [48]日本昼夜銀行との合併にあたり安田銀行は1,000万円増資し、増資後の資本金は1億6,000万円となった
- [51]安田銀行は1945年6月末に預金100億円を突破し、預金第一位となった
- 『安田保善社とその関係事業史』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [49]第二次合併では第三銀行のほか昭和銀行と十五銀行が対象となったが帝国銀行の旧首脳も同じ計画を進めており、1944年4月に大蔵省の裁定で昭和銀行と第三銀行は安田へ、十五銀行は帝国へ合併することになった
- [50]安田一会長は、事と次第によっては新立でもかまわず安田の名を捨てるのも辞さない旨を日本銀行総裁の結城豊太郎に話した
参考文献[30]-[51]
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [30]1923年6月末現在、安田銀行の関係銀行は22行、公称資本金1億8,600万円、預金残高8億1,200万円、貸金残高7億8,600万円であった
- [31]一挙に合同するには規模が膨大すぎたため、営業店舗の地区別分布状況などを勘案して11行の合同で発足することになった
- [35]大合同に参加した11行のうち第三銀行、旧安田銀行、明治商業銀行を除く各行は、経営困難に陥り安田銀行の支援によって立ち直った銀行であった
- [38]1923年11月1日に発足した新安田銀行は資本金1億5,000万円、預金5億4,000万円、店舗数210で、払込資本金、預金、貸出のいずれでも五大銀行中の首位に立った
- [46]普通銀行の預金残高に占める五大銀行の比率は1926年末の20.5%から1931年半ばに38.3%へ上昇した
- 株式会社保善銀行「銀行設立ノ理由書」(1923年4月)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [32]銀行設立ノ理由書は、合同する11行が営業成績と資産内容が等しくないうえ各々歴史を異にするため、直ちにいずれか1行へ合併させれば計算その他各種の点で一致し難いと述べた
- [33]新たに保善銀行を設立し、11行が対等無条件でこれに合併して資産負債の全部を記帳価格で引き継ぎ解散すると同時に、新銀行の称号を株式会社安田銀行と改める計画が採られた
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [34]11行の合同により資本金は1億5,000万円となった
- [36]大合同を1カ月後に控えた1923年9月1日、関東地方を大地震が襲った
- [37]関東大震災により安田関係銀行では京浜地区の本支店22カ店のうち16カ店が倒壊または焼失した
- [39]1927年4月21日、安田銀行の東京市内支店21カ店では前日預金残高1億4,500万円の28%にあたる4,100万円が1日で払い出された
- [40]1927年4月20日付の重役席通達は、定期の中途解約や特別当座の解約を申し込まれた場合にその事情をたずねず快く応ずるよう指示した
- [41]1927年4月21日、安田銀行の大阪市内17支店では前日残高8,500万円の5%にあたる400万円強が払い出された
- [42]安田銀行の配当率は1929年上期に年9分、1930年上期に年8分、1931年上期に年7分へ引き下げられた
- [43]安田銀行は払込資本金が上位銀行のなかで最も大きく、配当率が同一でも配当金支払負担が相対的に大きかったうえ、店舗網と行員数も他行に比べ多く地方都市に展開する割合が大きかった
- [44]1931年3月に本店営業部得意先係が行内誌『愛行』を刊行し、同年1月に大阪統轄店へ設けられた企劃部の機関誌『企劃通信』と東西呼応して行内の志気を鼓舞した
- [47]1942年12月28日に第一銀行と三井銀行、三菱銀行と第百銀行の合併が発表され、安田銀行は12月31日の重役会で日本昼夜銀行との合併を決定し、1943年4月1日に実行した
- [48]日本昼夜銀行との合併にあたり安田銀行は1,000万円増資し、増資後の資本金は1億6,000万円となった
- [51]安田銀行は1945年6月末に預金100億円を突破し、預金第一位となった
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- [45]昭和初年の金融恐慌に続く不況期に安田銀行は預金減少と大口貸出の固定化で苦境に陥ったが、全行員一丸となった愛行運動によって難関を切り抜けた
- 『安田保善社とその関係事業史』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [49]第二次合併では第三銀行のほか昭和銀行と十五銀行が対象となったが帝国銀行の旧首脳も同じ計画を進めており、1944年4月に大蔵省の裁定で昭和銀行と第三銀行は安田へ、十五銀行は帝国へ合併することになった
- [50]安田一会長は、事と次第によっては新立でもかまわず安田の名を捨てるのも辞さない旨を日本銀行総裁の結城豊太郎に話した
筆者考察
1912年の株式会社化は、資本を外へ開くための改組ではなかった。監督の安田善三郎氏は、株式組織なら法律の干渉が厳重になり社会の注目も受けるから自らも気をつけるようになると説明したが、1,000万円の株式を持ったのは安田一門21名だけである。会社の形だけを世間の標準に合わせ、中身は同族に閉じた。三井や三菱が事業会社を抱えたのに対し、安田は他事業へ手を伸ばさず銀行だけを重ねている。1921年、初代善次郎氏が凶刃に倒れる。一言一動がそのまま規則として通用していた統率者が消え、銀行に規則が無いことが露わになった。高橋是清氏に人選を頼んで日本銀行から結城豊太郎氏を副頭取に迎えたのは、近代化という前向きの動機よりも、失われた規則を埋める必要からだった。
結城氏が持ち込んだのは、人と規則を入れ替える手順である。保善社を6部制へ組み替え、1922年から3年で約260名の学卒者を採り、1924年には支店長52名と副長19名を一斉に動かして旧11行の色を混ぜた。1923年の大合同そのものも、既存のどれかへ寄せるのではなく、営業を持たない保善銀行を新設して11行を対等無条件で流し込む方式を採っている。合併される側の歴史を残さないための手続きだった。もっとも集めた210店は平時には経費に変わり、配当率は年9分から7分へ下がる。安田銀行が店舗の多さを強みに変えられたのは、1945年6月に預金100億円で首位へ立った戦時末の一度きりだった。
- 1923年は安田系11行の大合同、1943年は日本昼夜銀行の合併、1944年は昭和銀行の合併による増資。出所は富士銀行百年史(1982年)。
出典・参考
8件
- 『安田銀行行報』1912年2月号/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- 『大阪時事新報』1922年2月15日/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- 株式会社保善銀行「銀行設立ノ理由書」(1923年4月)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- 『安田保善社とその関係事業史』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- 日本銀行調査局「世界戦争終了後ニ於ケル本邦財界動揺史」(『日本金融史資料』明治大正編第22巻)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」