富士銀行:安田善次郎の両替店安田屋と合本安田銀行の設立
1864年〜本両替の休業でできた隙間を埋めた包替えと古金引替
安田善次郎氏は、越中富山の半農半商の家に生まれ、1858年に19歳で江戸へ出た。玩具問屋に2年あまり、海苔屋兼両替屋に3年勤めたのち、1864年3月、日本橋人形町に資金25両で安田屋を開業した。小銭の両替を営みながら海苔、鰹節、砂糖を小売する店で、公金や大口の為替を扱う本両替の格には遠かった。1866年4月、善次郎氏は小舟町三丁目に間口2間半、奥行3間半の家を買って店を移し、商号を安田商店と改めて両替専業に転じた。従業員は2名、翌年末でも6名にすぎない。買い取ったのは土蔵付きで広さ約9坪の家であり、1869年5月にはここで質屋、預金、貸金、為替の各業務を兼ねるようになった。江戸の両替商の序列でいえば、この店はまだ底辺に位置していた。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [1]安田善次郎は1838年に越中富山の半農半商の家に生まれ、1858年に19歳で江戸へ出た
- [4]1866年4月に小舟町三丁目へ移転し、商号を安田商店と改めて両替専業となった
- [5]安田商店発足時の従業員は2名、翌1867年末には6名であった
- 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「富士銀行」
- [2]1864年3月、江戸日本橋人形町に資金25両で小銭両替店「安田屋」を開店した
- [6]安田商店は1869年5月に質屋、預金、貸金、為替の各業務を兼営するようになった
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- [3]安田屋は小銭両替商に海苔、鰹節、砂糖の小売を兼ねる店であった
金貨と銀貨は座包みのまま流通し、封を切れば信用ある本両替屋が包み直したものでなければ受け取られなかった。幕末の江戸は治安が崩れ、浪人が富家に押し入って軍用金を求めたので、本両替屋は次々に店を閉めた。本両替が休んだため、包み替えの仕事は銭両替のうち主だった店に回った。善次郎氏も1865年、押し入った強盗に貯えを持ち去られ、妻は刃物で傷を負った。それでも善次郎氏は商売をやめず、やがて本両替屋に代わってその仕事を引き受ける番がきた。奉公の時代に身につけた鑑定の目で正貨をより分け、署名して封をした包みは横浜でも通ったという。包み賃は1包2匁で、多い日には3,000両から5,000両を包み、若い者6人がかりで封をした『其包みは(包み賃が)一箇二匁でありますが、之はナカ〳〵儲かつた。…多い時には日に三千両も五千両も包んで居た。…其方が銭の儲けより多くなつて来た』。
- 安田善次郎『意志の力』(1916年)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [7]幕末の江戸では浪人による押込みが多発し、本両替屋は相次いで休業した
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [8]金銀貨は座包みのまま通用し、開封後は本両替屋の包替えを要したが、その休業により銭両替の主要店が包替えを行なうようになった
- [9]1865年、安田善次郎は強盗に襲われ貯蔵金を奪われ、妻が刃傷を負った
- [10]安田善次郎は強盗被害の痛手にもめげず商売を続け、やがて本両替屋の業務を代行する機会を得た
- [11]安田善次郎が署名して封印した包は信用度が高く、横浜まで通用したといわれる
- 安田善次郎『富の礎』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [12]包替えの包み賃は1包2匁で、多い日には日に3,000両から5,000両を包み、6人ほどの手代が封印にあたった
古金を買い集める仕事で、善次郎氏は依頼者から1匁5分、つまり2銭5厘の手数料を受け取り、これだけで三、四千両を稼いだ。その背景には、1859年から1860年末にかけて集中的に進められた金貨の改鋳があり、旧金を新金に引き替える需要が大量に生まれていた。新しく鋳造された万延小判は、以前の安政小判に比べ重量も総金量もおよそ3分の1だった。これによって金貨の海外への流出は止まった。改鋳もまた、善次郎氏にとっては商機だったのである。のちに自著で、この仕事が身上の基礎をこしらえたと振り返っている『此の古金買入れで私は三四千両も儲かつたが、…いはゞ私は此の仕事で自分の身上の基礎を拵へた訳である』。安田商店の純資産は1866年12月末の659両から、1年後の1867年12月末には1,983両へと3倍に増えた。制度が変わる場所に手数料の源を見つけ、そこへ人手を集中させる。この時期に固まった稼ぎ方は、明治に入ってからの官金と公債の扱いにそのまま引き継がれた。
- 安田善次郎『意志の力』(1916年)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [13]安田善次郎は古金の買集めで依頼者から1匁5分(2銭5厘)の手数料を取り、三、四千両を得た
- [16]安田善次郎は古金引替の仕事で自らの身上の基礎をこしらえたと述べている
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [14]1859年から1860年末にかけて幕府による金貨の改鋳が重点的に行なわれた
- [15]万延小判は安政小判に比べ重量、総金量ともに約3分の1であり、この改鋳により金貨の海外流出が止まった
- [17]安田商店の純資産は1866年12月末に659両、1867年12月末に1,983両であった
参考文献[1]-[17]
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [1]安田善次郎は1838年に越中富山の半農半商の家に生まれ、1858年に19歳で江戸へ出た
- [4]1866年4月に小舟町三丁目へ移転し、商号を安田商店と改めて両替専業となった
- [5]安田商店発足時の従業員は2名、翌1867年末には6名であった
- [8]金銀貨は座包みのまま通用し、開封後は本両替屋の包替えを要したが、その休業により銭両替の主要店が包替えを行なうようになった
- [9]1865年、安田善次郎は強盗に襲われ貯蔵金を奪われ、妻が刃傷を負った
- [10]安田善次郎は強盗被害の痛手にもめげず商売を続け、やがて本両替屋の業務を代行する機会を得た
- [11]安田善次郎が署名して封印した包は信用度が高く、横浜まで通用したといわれる
- [14]1859年から1860年末にかけて幕府による金貨の改鋳が重点的に行なわれた
- [15]万延小判は安政小判に比べ重量、総金量ともに約3分の1であり、この改鋳により金貨の海外流出が止まった
- [17]安田商店の純資産は1866年12月末に659両、1867年12月末に1,983両であった
- 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「富士銀行」
- [2]1864年3月、江戸日本橋人形町に資金25両で小銭両替店「安田屋」を開店した
- [6]安田商店は1869年5月に質屋、預金、貸金、為替の各業務を兼営するようになった
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- [3]安田屋は小銭両替商に海苔、鰹節、砂糖の小売を兼ねる店であった
- 安田善次郎『意志の力』(1916年)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [7]幕末の江戸では浪人による押込みが多発し、本両替屋は相次いで休業した
- [13]安田善次郎は古金の買集めで依頼者から1匁5分(2銭5厘)の手数料を取り、三、四千両を得た
- [16]安田善次郎は古金引替の仕事で自らの身上の基礎をこしらえたと述べている
- 安田善次郎『富の礎』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [12]包替えの包み賃は1包2匁で、多い日には日に3,000両から5,000両を包み、6人ほどの手代が封印にあたった
1868年〜誰も引き取らない政府紙幣を引き受けて得た官金と公債
1868年、新政府は殖産興業の資金と歳出を賄うために太政官札を発行したが、政府への信用が定まらず、紙幣は旧来の貨幣との間に打歩を生じた。参与の由利公正氏は、両替町組の世話方となっていた善次郎氏に流通の促進を求め、無利息50年賦で10万両を貸すから江戸中の両替屋で使えと持ちかけた。会所へ持ち込んでも引き取り手はなく、10万両は8組に分けられ、両替町組が4万両を引き受けた。善次郎氏は自ら真っ先に2,000両を借りている。札は100両が90両、85両、80両と下がり、翌年の4、5月には47両となった『其札を人が厭がりましたものですから、九十両から八十五両になり、八十両になり、…四十七両迄下つた。此時には私も大難であつた』。政府は翌1869年、三度の布告で打歩を厳禁して納税への金札使用を命じ、手許へ還流した2,500万両を藩府県へ配って同額の正金を納入させ、ようやく相場を落ち着かせた。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [18]1868年5月から1869年末にかけて太政官札4,800万両が発行されたが、信用が未確立で旧来の貨幣との間に打歩を生じた
- [19]参与の由利公正は、両替町組の世話方であった安田善次郎に、政府紙幣を無利息50年賦で10万両貸すので江戸中の両替屋で使うよう依頼した
- [23]明治政府は1869年4月から5月にかけて三度の布告で打歩を厳禁し納税への金札使用を命じ、還流した太政官札2,500万両を藩府県に配布して同額の正金を納入させた
- 安田善次郎『富の礎』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [20]10万両は8組に分けられ、両替町組が4万両を引き受けた
- [21]安田善次郎は両替町組の配分のうち自ら2,000両を最初に借り受けた
- [22]太政官札の相場は100両につき90両、85両、80両と下落し、翌年4、5月には47両まで下がった
政府の紙幣を引き受けた見返りは、官金の取扱いとなって返ってきた。為替方に指定された金融機関には、国庫金の収納と支出を扱う見返りとして多額の官金が滞留する。1872年2月に本両替の許可が下り、1874年10月に司法省為替方、翌1875年8月に東京裁判所為替方、同年12月に栃木県為替方の指定を相次いで受ける。前年に規則が厳しくなって預金高の全額に担保を要するようになり、有力な為替方であった小野組と島田組は担保を積めずに廃業していた。公債を厚く持っていた安田商店は、その空席に入った。1876年末の預金は39万1,475円で、1873年末の6万710円の6倍を超えている。うち28万1,934円が官金で、民間預金は10万9,541円にとどまった。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [24]為替方は国庫に収納する金銭の鑑定収入や支出の事務を掌る役割で、指定を受けた金融機関には多額の官金預金が滞留した
- [25]安田商店は1872年2月に本両替の許可を得、1874年10月に司法省為替方、1875年8月に東京裁判所為替方、同年12月に栃木県為替方に指名された
- [26]1874年10月に官金取扱いの規則が厳重になり預金高の全額に担保を要することとなったため、小野組と島田組は1875年12月までに廃業した
- [28]安田商店の預金は1873年12月末6万710円、1876年12月末39万1,475円であった
- [29]1876年12月末の預金39万1,475円のうち官金預金は28万1,934円、民間預金は10万9,541円であった
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [27]安田銀行は創立当初から官金預金の獲得に重点を置き、公金預金に強みを持つ性格はこの時期に形づくられた
担保と運用の両方を、公債が引き受けた。政府は1873年に新旧公債2,339万円と金札引換公債約667万円を、1874年から翌年にかけて秩禄公債1,656万円を発行している。交付を受けた者の多くが換金を急いだため相場は額面を大きく下回り、新公債は100両につき42、43両、旧公債は25両前後、秩禄公債の8分利付でも62、63両にとどまった。善次郎氏はこれを担保に取って貸し、同時に自ら買い持った『私は夫れを抵当に取つて金を貸す。一方からは預かると云ふことを一生懸命に致して居りました』。1876年12月末の安田商店の有高22万9,453円のうち、20万625円までが所有公債である。貴金属や家屋敷と違い、公債は評価も譲渡も簡単で、担保として扱う手間が小さかった。一時に大量の公債が出たことで、担保にも投資先にもなる資産が、初めて金融業者の手元に現れた。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [30]政府は1873年に新旧公債2,339万円と金札引換公債約667万円を、1874年から1875年にかけて秩禄公債1,656万円を発行した
- [33]1876年12月末の安田商店の有高22万9,453円のうち所有公債は20万625円であった
- [34]従来の担保は貴金属や家屋敷、商品であったが、公債の登場により貸出業務が容易になった
- 安田善次郎『富の礎』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [31]公債の交付を受けた者に換金する者が多く、新公債は100両につき42、43両、旧公債は25両前後の相場となった
- [32]安田善次郎は公債を担保に取って貸出を行ない、同時に自ら公債へ投資した
参考文献[18]-[34]
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [18]1868年5月から1869年末にかけて太政官札4,800万両が発行されたが、信用が未確立で旧来の貨幣との間に打歩を生じた
- [19]参与の由利公正は、両替町組の世話方であった安田善次郎に、政府紙幣を無利息50年賦で10万両貸すので江戸中の両替屋で使うよう依頼した
- [23]明治政府は1869年4月から5月にかけて三度の布告で打歩を厳禁し納税への金札使用を命じ、還流した太政官札2,500万両を藩府県に配布して同額の正金を納入させた
- [24]為替方は国庫に収納する金銭の鑑定収入や支出の事務を掌る役割で、指定を受けた金融機関には多額の官金預金が滞留した
- [25]安田商店は1872年2月に本両替の許可を得、1874年10月に司法省為替方、1875年8月に東京裁判所為替方、同年12月に栃木県為替方に指名された
- [26]1874年10月に官金取扱いの規則が厳重になり預金高の全額に担保を要することとなったため、小野組と島田組は1875年12月までに廃業した
- [28]安田商店の預金は1873年12月末6万710円、1876年12月末39万1,475円であった
- [29]1876年12月末の預金39万1,475円のうち官金預金は28万1,934円、民間預金は10万9,541円であった
- [30]政府は1873年に新旧公債2,339万円と金札引換公債約667万円を、1874年から1875年にかけて秩禄公債1,656万円を発行した
- [33]1876年12月末の安田商店の有高22万9,453円のうち所有公債は20万625円であった
- [34]従来の担保は貴金属や家屋敷、商品であったが、公債の登場により貸出業務が容易になった
- 安田善次郎『富の礎』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [20]10万両は8組に分けられ、両替町組が4万両を引き受けた
- [21]安田善次郎は両替町組の配分のうち自ら2,000両を最初に借り受けた
- [22]太政官札の相場は100両につき90両、85両、80両と下落し、翌年4、5月には47両まで下がった
- [31]公債の交付を受けた者に換金する者が多く、新公債は100両につき42、43両、旧公債は25両前後の相場となった
- [32]安田善次郎は公債を担保に取って貸出を行ない、同時に自ら公債へ投資した
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [27]安田銀行は創立当初から官金預金の獲得に重点を置き、公金預金に強みを持つ性格はこの時期に形づくられた
1876年〜銀行への改組と、救済でまとめた関係銀行の集団
善次郎氏が銀行へ移ったのは、兌換の義務が外れてからだった。1872年の国立銀行条例は資本金の4割を正貨で払い込んで兌換準備に充てることを求めており、発行された銀行券は直ちに兌換を要求された。国立銀行券の流通高は1874年6月の135万6,000円から、1876年6月には6万2,000円まで縮んでいる。1876年8月1日、改正条例が正貨兌換を廃し、金禄公債を資本に充てることを認めた。善次郎氏は布告の前日にあたる7月31日に主な出資者と出願の手筈を決め、8月2日には創立願を提出する。東京国立銀行の名は許されず、9月14日に第三国立銀行として決着した。資本金20万円のうち4割強にあたる8万1,000円余は、善次郎氏と父の善悦氏、妹婿の忠兵衛氏の名義で払い込まれている。第三国立銀行は安田銀行の別動隊とされた。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [35]1872年11月公布の国立銀行条例は、資本金の10分の4を正貨で払い込み兌換準備とすることを定めた
- [36]国立銀行券の実際流通高は1874年6月の135万6,000円から1876年6月には6万2,000円に縮小した
- [37]1876年8月1日の改正国立銀行条例は正貨兌換を廃止し、資本金の10分の8の公債供託により銀行券発行を認めた
- [38]安田善次郎は改正条例布告前日の1876年7月31日に出資者と出願の手筈を決め、8月2日に国立銀行創立願を提出した
- [39]東京国立銀行の名称は許可されず、1876年9月14日に第三国立銀行として決定した
- [40]第三国立銀行の資本金20万円のうち40%強にあたる8万1,000円余が安田善次郎、妹婿の忠兵衛、父の善悦の名義で払い込まれた
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [41]1876年設立の第三国立銀行は安田銀行の別動隊としての性格を持った
1879年11月11日、善次郎氏は安田商店の改組を東京府知事に願い出た。銀行条例が布告された以上、銀行の体裁を備えなければ貸借や為替を大規模に行なうことが難しくなったという判断があった『前きに第三銀行を設けた時にも、安田商店は尚一個人の商店として其の儘に今日まで経過せしが、已に銀行条例が発布せられた以上、儼然たる銀行ならでは、貸借為替の諸事を大規模に行ひ難くなつて来た』。翌1880年1月、合本安田銀行が小舟町三丁目で開業する。資本金20万円、店舗3、従業員31名であった。株主は9名で、卯之吉氏、善之助氏、テル氏ら全員が安田姓を名乗り、その責任は無限と定められた。合本の名を掲げながら、集めたのは一族の資本だけだった。銀行は1893年に合資会社、1900年に合名会社へと会社形態を替えたが、資本を一門に閉じる構造はそのまま残った。安田銀行の支店は当初もっぱら東北地方に置かれ、全国へ店を散らした第三国立銀行がその偏りを補った。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [42]安田善次郎は1879年11月11日、安田商店を改組する合本銀行設立願を東京府知事へ提出した
- [46]合本安田銀行の株主は安田卯之吉、安田善之助、安田テルら9名で、いずれも安田姓であり、株主責任は無限とされた
- 矢野文雄『安田善次郎伝』(1925年)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [43]安田善次郎は、銀行条例が発布された以上、銀行の体裁を備えなければ貸借為替の諸事を大規模に行なうことが難しくなったと述べた
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」
- [44]1880年1月、安田商店を改組した合本安田銀行が小舟町三丁目で開業した
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- [45]合本安田銀行は資本金20万円、店舗数3、全従業員31名で発足した
- [47]安田銀行は1893年に合資会社、1900年に合名会社へ改組したが、資本は安田一族で占められていた
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [48]安田銀行の支店は当初もっぱら東北地方に設けられ、全国各地に支店を分散して持つ第三銀行がその欠陥を補った
規模は、増資でも支店の新設でもなく、他行の破綻を引き受けることで増えた。1904年、大阪の百三十銀行が取引先の日本紡織への過大な信用から行き詰まる。同行が同社に対して持つ債権154万7,000円のうち、87万7,000円は無担保だった。京都銀行の整理には7、8年を要し、資本金100万円の全株を安田家が持つに至っている。善次郎氏が生涯に救済した銀行は約70行にのぼり、救済先と、地方の実業家と共同で設立した銀行とが、関係銀行の集団を形づくった『私は殊に十二ばかりの銀行とは殆んど親戚の如く相交はり、…若し又重大なる事件であつたならば、恰かも親類会議の如く、この十二の銀行が一団となつて事に当り、互に相扶けるとか、或は互に相謀るとか、して処理することを常として居る』。1905年1月には保善社に監督部が置かれ、書面審査と実地検査の体制が敷かれた。1897年の時点で、安田を含む五大銀行は普通銀行の預金のおよそ26%、貸出のおよそ23%を占めている。
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [49]1904年4月、百三十銀行は取引先の日本紡織が危地に陥ったとの報道により預金が減少し、資金繰りが困難となった
- [50]百三十銀行の日本紡織に対する債権154万7,000円のうち87万7,000円は無担保貸付であった
- [51]京都銀行の整理には7、8年を要し、資本金100万円の全株式を安田家が保有するに至った
- [53]1905年1月、安田保善社に監督部が設けられ、関係銀行に対する実地監査と書面審査の体制が強化された
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [52]安田善次郎が在世中に救済した銀行は約70行にのぼり、救済先と共同設立行が安田関係銀行の集団を形成した
- [54]1897年当時、安田、第一、三井、三菱、住友の五大銀行が普通銀行に占める比率は預金が26%弱、貸出が23%弱であった
参考文献[35]-[54]
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- [35]1872年11月公布の国立銀行条例は、資本金の10分の4を正貨で払い込み兌換準備とすることを定めた
- [36]国立銀行券の実際流通高は1874年6月の135万6,000円から1876年6月には6万2,000円に縮小した
- [37]1876年8月1日の改正国立銀行条例は正貨兌換を廃止し、資本金の10分の8の公債供託により銀行券発行を認めた
- [38]安田善次郎は改正条例布告前日の1876年7月31日に出資者と出願の手筈を決め、8月2日に国立銀行創立願を提出した
- [39]東京国立銀行の名称は許可されず、1876年9月14日に第三国立銀行として決定した
- [40]第三国立銀行の資本金20万円のうち40%強にあたる8万1,000円余が安田善次郎、妹婿の忠兵衛、父の善悦の名義で払い込まれた
- [42]安田善次郎は1879年11月11日、安田商店を改組する合本銀行設立願を東京府知事へ提出した
- [46]合本安田銀行の株主は安田卯之吉、安田善之助、安田テルら9名で、いずれも安田姓であり、株主責任は無限とされた
- [49]1904年4月、百三十銀行は取引先の日本紡織が危地に陥ったとの報道により預金が減少し、資金繰りが困難となった
- [50]百三十銀行の日本紡織に対する債権154万7,000円のうち87万7,000円は無担保貸付であった
- [51]京都銀行の整理には7、8年を要し、資本金100万円の全株式を安田家が保有するに至った
- [53]1905年1月、安田保善社に監督部が設けられ、関係銀行に対する実地監査と書面審査の体制が強化された
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- [41]1876年設立の第三国立銀行は安田銀行の別動隊としての性格を持った
- [48]安田銀行の支店は当初もっぱら東北地方に設けられ、全国各地に支店を分散して持つ第三銀行がその欠陥を補った
- [52]安田善次郎が在世中に救済した銀行は約70行にのぼり、救済先と共同設立行が安田関係銀行の集団を形成した
- [54]1897年当時、安田、第一、三井、三菱、住友の五大銀行が普通銀行に占める比率は預金が26%弱、貸出が23%弱であった
- 矢野文雄『安田善次郎伝』(1925年)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- [43]安田善次郎は、銀行条例が発布された以上、銀行の体裁を備えなければ貸借為替の諸事を大規模に行なうことが難しくなったと述べた
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」
- [44]1880年1月、安田商店を改組した合本安田銀行が小舟町三丁目で開業した
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- [45]合本安田銀行は資本金20万円、店舗数3、全従業員31名で発足した
- [47]安田銀行は1893年に合資会社、1900年に合名会社へ改組したが、資本は安田一族で占められていた
筆者考察
安田善次郎氏が作ったのは銀行ではなく、銀行を集める仕組みだった。両替商としての出発から一貫していたのは、制度の変わり目に立って手数料を取ったことである。幕末に本両替が店を閉じれば包替えを引き受け、新政府が誰も受け取らない太政官札を配れば真っ先に2,000両を借りた。札が100両につき47両まで下がっても手放さなかった善次郎氏には、司法省と東京裁判所、栃木県の為替方という指定が返ってきた。1876年末の預金39万1,475円のうち28万1,934円までが官金であり、民間預金はその4割に満たない。銀行を名乗る前から、この店の資金は民間ではなく国から来ていた。
規模の作り方でも、安田は他の財閥銀行と逆を行った。三井や三菱が自前の事業へ資金を流す銀行として育ったのに対し、善次郎氏は他人の破綻を引き取ることで店の数を増やした。百三十銀行が取引先への無担保貸付87万7,000円で行き詰まれば整理を引き受け、京都銀行は7、8年かけて資本金100万円の全株を握るまで面倒を見る。在世中に救済した銀行は約70行にのぼった。救済先はたいてい何年も無配が続き、引き受けた株券は寝たまま動かない。整理には数年を要し、その間の危険は安田家が負った。それでも引き受け続けたのは、全国に散った店舗網こそが、官金の次に必要な預金の入口だったからだろう。
- 1871年の新貨条例まで単位は両。1両は1円と等価。出所は富士銀行百年史(1982年)所載の安田商店実際考課状。
出典・参考
8件
- 安田善次郎『意志の力』(1916年)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- 矢野文雄『安田善次郎伝』(1925年)/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- 富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)
- 安田善次郎『富の礎』/富士銀行編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年)所収
- 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「富士銀行」
- 『産業フロンティア物語 銀行〈富士銀行〉』(1965年)
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「富士銀行」
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「富士銀行」