第1章 年〜年

内田洋行:翠苔号の創立と東京・大阪の内田洋行設立

1910年〜大連で満鉄に測量器械を納めた翠苔号と、旅順・青島へ広げた支店

内田小太郎氏は1910年2月、大連に測量製図器械と事務用品を扱う満鉄御用商の翠苔号を創立した。内田小太郎氏は1907年に満鉄へ入社し、大連の本社勤務。在職中に見た満鉄への納入では賄賂が常態化し、満鉄は割高な品を買わされていた。内田小太郎氏は使い慣れた測量・製図の品を日本から直接仕入れれば、良品を安く納められると考えた。八百屋や豆腐屋と違い、測量機械や事務機は文化の向上につれて需要が広がるという見立ても持っていた。退社直後の出入りは満鉄に遠慮があったため、大連の店は義兄の清水善次氏に任せ、自身は大阪で仕入部を率いた。満鉄の内側で調達の割高さを見た経験が、御用達専業という出発点を決めたとみられる。

  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1910年2月
    • [1]1910年2月、旧満州大連市に測量製図器械・事務用品の満鉄御用商翠苔号を創立
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第1節「創業の前後」
    • [2]内田小太郎は1907年(明治40年)に満鉄社員となり大連本社勤務。満鉄納入に賄賂が横行し高値で買わされる実情を見て、日本から直接仕入れ良品を廉価で納める測量機械・製図用品・事務用品の販売に着眼
    • [3]内田小太郎は1907年(明治40年)に満鉄社員となり大連本社勤務。満鉄納入に賄賂が横行し高値で買わされる実情を見て、日本から直接仕入れ良品を廉価で納める測量機械・製図用品・事務用品の販売に着眼
    • [4]内田小太郎は1907年(明治40年)に満鉄社員となり大連本社勤務。満鉄納入に賄賂が横行し高値で買わされる実情を見て、日本から直接仕入れ良品を廉価で納める測量機械・製図用品・事務用品の販売に着眼
    • [6]満鉄退社直後の御用商出入りは憚りがあるとして、大連の営業を義兄清水善次に一任し、自らは大阪に仕入部を設けた。翠苔号は大連市常陸町で明治43年春に開業
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [5]内田小太郎は、八百屋・豆腐屋では盛大になっても限りがあるとし、営業品目の将来性を語っていた

翠苔号は創業2年目の1911年6月、最初の支店を旅順市乃木町に置いた。旅順は満鉄の終着駅で、関東州庁・関東軍司令部・工科大学を抱え、大連に次ぐ主要な町である。大連と旅順のどちらが中心地になるかは当時まだ見通せず、内田小太郎氏は旅順にも市場を開いておく判断を下した。責任者には夫人の姉婿で、金沢で石油ランプ商を営んでいた山田喜一郎氏を据えた。親族を近くに呼び寄せ、互いに支え合えるようにする私的な狙いも重なっていた。のちに会長となる久田忠守氏は後年、縁故者の起用は結束の核にも内紛の芽にもなるとして、事業本位の運営を説いた。店を増やす局面で人の確保を縁戚に依存したことが、草創期の展開の速さを支えたと思われる。

  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第1節〈旅順市〉〈縁故者への人事私見〉
    • [7]1911年6月(明治44年)旅順市乃木町に翠苔号支店第1号を設置。旅順は満鉄終着駅・関東州庁・関東軍司令部・工科大学の所在地で、将来の中心が見通せないため市場を開く判断と、親戚を近くに呼ぶ私的なもくろみ。責任者は夫人の姉婿山田喜一郎(金沢のランプ・石油商)
    • [8]1911年6月(明治44年)旅順市乃木町に翠苔号支店第1号を設置。旅順は満鉄終着駅・関東州庁・関東軍司令部・工科大学の所在地で、将来の中心が見通せないため市場を開く判断と、親戚を近くに呼ぶ私的なもくろみ。責任者は夫人の姉婿山田喜一郎(金沢のランプ・石油商)
    • [9]1911年6月(明治44年)旅順市乃木町に翠苔号支店第1号を設置。旅順は満鉄終着駅・関東州庁・関東軍司令部・工科大学の所在地で、将来の中心が見通せないため市場を開く判断と、親戚を近くに呼ぶ私的なもくろみ。責任者は夫人の姉婿山田喜一郎(金沢のランプ・石油商)
    • [10]1911年6月(明治44年)旅順市乃木町に翠苔号支店第1号を設置。旅順は満鉄終着駅・関東州庁・関東軍司令部・工科大学の所在地で、将来の中心が見通せないため市場を開く判断と、親戚を近くに呼ぶ私的なもくろみ。責任者は夫人の姉婿山田喜一郎(金沢のランプ・石油商)
    • [11]1911年6月(明治44年)旅順市乃木町に翠苔号支店第1号を設置。旅順は満鉄終着駅・関東州庁・関東軍司令部・工科大学の所在地で、将来の中心が見通せないため市場を開く判断と、親戚を近くに呼ぶ私的なもくろみ。責任者は夫人の姉婿山田喜一郎(金沢のランプ・石油商)
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [12]久田忠守は、縁故者の親愛感は協力の中心となる一方で内訌や独善を生む惧れがあり、人材登用と事業本位の運営が要ると記した

内田小太郎氏は1914年末の青島陥落の報とともに渡航し、1915年1月初旬に青島支店を開設した。日本は1914年8月にドイツへ宣戦し、ドイツの租借地だった膠州湾の青島は日本の占領下に入った。内田小太郎氏は青島のドイツ軍の降伏を時間の問題と読み、大連で商品や生活用品を積み込んで待機。民間向けの船便はまだ無く、上陸は軍用船への便乗による。支店は夫人の弟で22歳の清水兵治氏が担い、測量・製図用品や事務機のほか、洋紙・雑貨も扱って印刷工場を兼営した。店舗は当初ドイツ人の住宅を使い、まもなく中野町の大きな建物へ移った。青島の店は、内田の名を掲げた最初の店にあたる。戦局を新しい市場の誕生と読み、陥落と同時に動いた判断が、満洲の外に出た最初の拠点を生んだのだろう。

  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [13]1914年(大正3年)暮の青島陥落を見て渡航し、軍用船に便乗、1915年1月初旬に青島支店開設。青島で初めて内田を標榜し「洋行」の称呼を用いた
    • [16]1914年(大正3年)暮の青島陥落を見て渡航し、軍用船に便乗、1915年1月初旬に青島支店開設。青島で初めて内田を標榜し「洋行」の称呼を用いた
    • [19]1914年(大正3年)暮の青島陥落を見て渡航し、軍用船に便乗、1915年1月初旬に青島支店開設。青島で初めて内田を標榜し「洋行」の称呼を用いた
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第1節〈第一次世界大戦〉〈青島市〉
    • [14]日本は1914年8月ドイツに宣戦し膠州湾(青島)を占領。宗主は降伏を時間の問題とみて大連で準備・待機。担当は清水兵治(当時22歳、夫人の弟)で、測量製図用品・事務機・文房具のほか洋紙・雑貨を扱い印刷工場を兼営。店舗は黄島町のドイツ人住宅から間もなく中野町の大きな店舗へ移転
    • [15]日本は1914年8月ドイツに宣戦し膠州湾(青島)を占領。宗主は降伏を時間の問題とみて大連で準備・待機。担当は清水兵治(当時22歳、夫人の弟)で、測量製図用品・事務機・文房具のほか洋紙・雑貨を扱い印刷工場を兼営。店舗は黄島町のドイツ人住宅から間もなく中野町の大きな店舗へ移転
    • [17]日本は1914年8月ドイツに宣戦し膠州湾(青島)を占領。宗主は降伏を時間の問題とみて大連で準備・待機。担当は清水兵治(当時22歳、夫人の弟)で、測量製図用品・事務機・文房具のほか洋紙・雑貨を扱い印刷工場を兼営。店舗は黄島町のドイツ人住宅から間もなく中野町の大きな店舗へ移転
    • [18]日本は1914年8月ドイツに宣戦し膠州湾(青島)を占領。宗主は降伏を時間の問題とみて大連で準備・待機。担当は清水兵治(当時22歳、夫人の弟)で、測量製図用品・事務機・文房具のほか洋紙・雑貨を扱い印刷工場を兼営。店舗は黄島町のドイツ人住宅から間もなく中野町の大きな店舗へ移転
参考文献[1]-[19]
  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1910年2月
    • [1]1910年2月、旧満州大連市に測量製図器械・事務用品の満鉄御用商翠苔号を創立
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第1節「創業の前後」
    • [2]内田小太郎は1907年(明治40年)に満鉄社員となり大連本社勤務。満鉄納入に賄賂が横行し高値で買わされる実情を見て、日本から直接仕入れ良品を廉価で納める測量機械・製図用品・事務用品の販売に着眼
    • [3]内田小太郎は1907年(明治40年)に満鉄社員となり大連本社勤務。満鉄納入に賄賂が横行し高値で買わされる実情を見て、日本から直接仕入れ良品を廉価で納める測量機械・製図用品・事務用品の販売に着眼
    • [4]内田小太郎は1907年(明治40年)に満鉄社員となり大連本社勤務。満鉄納入に賄賂が横行し高値で買わされる実情を見て、日本から直接仕入れ良品を廉価で納める測量機械・製図用品・事務用品の販売に着眼
    • [6]満鉄退社直後の御用商出入りは憚りがあるとして、大連の営業を義兄清水善次に一任し、自らは大阪に仕入部を設けた。翠苔号は大連市常陸町で明治43年春に開業
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [5]内田小太郎は、八百屋・豆腐屋では盛大になっても限りがあるとし、営業品目の将来性を語っていた
    • [12]久田忠守は、縁故者の親愛感は協力の中心となる一方で内訌や独善を生む惧れがあり、人材登用と事業本位の運営が要ると記した
    • [13]1914年(大正3年)暮の青島陥落を見て渡航し、軍用船に便乗、1915年1月初旬に青島支店開設。青島で初めて内田を標榜し「洋行」の称呼を用いた
    • [16]1914年(大正3年)暮の青島陥落を見て渡航し、軍用船に便乗、1915年1月初旬に青島支店開設。青島で初めて内田を標榜し「洋行」の称呼を用いた
    • [19]1914年(大正3年)暮の青島陥落を見て渡航し、軍用船に便乗、1915年1月初旬に青島支店開設。青島で初めて内田を標榜し「洋行」の称呼を用いた
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第1節〈旅順市〉〈縁故者への人事私見〉
    • [7]1911年6月(明治44年)旅順市乃木町に翠苔号支店第1号を設置。旅順は満鉄終着駅・関東州庁・関東軍司令部・工科大学の所在地で、将来の中心が見通せないため市場を開く判断と、親戚を近くに呼ぶ私的なもくろみ。責任者は夫人の姉婿山田喜一郎(金沢のランプ・石油商)
    • [8]1911年6月(明治44年)旅順市乃木町に翠苔号支店第1号を設置。旅順は満鉄終着駅・関東州庁・関東軍司令部・工科大学の所在地で、将来の中心が見通せないため市場を開く判断と、親戚を近くに呼ぶ私的なもくろみ。責任者は夫人の姉婿山田喜一郎(金沢のランプ・石油商)
    • [9]1911年6月(明治44年)旅順市乃木町に翠苔号支店第1号を設置。旅順は満鉄終着駅・関東州庁・関東軍司令部・工科大学の所在地で、将来の中心が見通せないため市場を開く判断と、親戚を近くに呼ぶ私的なもくろみ。責任者は夫人の姉婿山田喜一郎(金沢のランプ・石油商)
    • [10]1911年6月(明治44年)旅順市乃木町に翠苔号支店第1号を設置。旅順は満鉄終着駅・関東州庁・関東軍司令部・工科大学の所在地で、将来の中心が見通せないため市場を開く判断と、親戚を近くに呼ぶ私的なもくろみ。責任者は夫人の姉婿山田喜一郎(金沢のランプ・石油商)
    • [11]1911年6月(明治44年)旅順市乃木町に翠苔号支店第1号を設置。旅順は満鉄終着駅・関東州庁・関東軍司令部・工科大学の所在地で、将来の中心が見通せないため市場を開く判断と、親戚を近くに呼ぶ私的なもくろみ。責任者は夫人の姉婿山田喜一郎(金沢のランプ・石油商)
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第1節〈第一次世界大戦〉〈青島市〉
    • [14]日本は1914年8月ドイツに宣戦し膠州湾(青島)を占領。宗主は降伏を時間の問題とみて大連で準備・待機。担当は清水兵治(当時22歳、夫人の弟)で、測量製図用品・事務機・文房具のほか洋紙・雑貨を扱い印刷工場を兼営。店舗は黄島町のドイツ人住宅から間もなく中野町の大きな店舗へ移転
    • [15]日本は1914年8月ドイツに宣戦し膠州湾(青島)を占領。宗主は降伏を時間の問題とみて大連で準備・待機。担当は清水兵治(当時22歳、夫人の弟)で、測量製図用品・事務機・文房具のほか洋紙・雑貨を扱い印刷工場を兼営。店舗は黄島町のドイツ人住宅から間もなく中野町の大きな店舗へ移転
    • [17]日本は1914年8月ドイツに宣戦し膠州湾(青島)を占領。宗主は降伏を時間の問題とみて大連で準備・待機。担当は清水兵治(当時22歳、夫人の弟)で、測量製図用品・事務機・文房具のほか洋紙・雑貨を扱い印刷工場を兼営。店舗は黄島町のドイツ人住宅から間もなく中野町の大きな店舗へ移転
    • [18]日本は1914年8月ドイツに宣戦し膠州湾(青島)を占領。宗主は降伏を時間の問題とみて大連で準備・待機。担当は清水兵治(当時22歳、夫人の弟)で、測量製図用品・事務機・文房具のほか洋紙・雑貨を扱い印刷工場を兼営。店舗は黄島町のドイツ人住宅から間もなく中野町の大きな店舗へ移転

1917年〜久田忠守氏が大阪に開いた卸部と、大阪を本店にした株式会社内田洋行

1917年、19歳の店員だった久田忠守氏は内田小太郎氏に申し出て、大阪に卸部を設けてその専任となった。第一次世界大戦で欧州からの輸入が途絶え、事務機と事務用品は品不足で値上がりした。ドイツ製のピン針の値上がりは1ポンド37銭から8円へ、20倍に及ぶ。外地の店へ品を送るだけの仕入部は値上がりの利益を得られず、卸の開設と自家製品の増産が残る手立てである。仕入部の内部にも、働きの成果が外地支店の成績にしかならないという不満があった。久田忠守氏は支店依存から抜け出し、卸の収益で仕入業務を賄うことを第一の目標とした。有報の沿革は国内の卸の開始を1917年10月とし、販路は大阪市内から神戸、1918年7月には九州へ広がった。

  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第2節「事業発展の基礎を築く」
    • [20]1917年(大正6年)久田忠守(19歳)が宗主に申し出て卸部を開設し専任となる。大戦で欧州からの輸入が途絶し事務機・事務用品が欠乏・高騰(独製ピン針1ポンド37銭→8円)。仕入部は値上り利益を得られず、卸部設置と自家生産強化が残る道。仕入部内に自立の欲求。大阪市内→神戸、1918年7月九州開拓
    • [21]1917年(大正6年)久田忠守(19歳)が宗主に申し出て卸部を開設し専任となる。大戦で欧州からの輸入が途絶し事務機・事務用品が欠乏・高騰(独製ピン針1ポンド37銭→8円)。仕入部は値上り利益を得られず、卸部設置と自家生産強化が残る道。仕入部内に自立の欲求。大阪市内→神戸、1918年7月九州開拓
    • [22]1917年(大正6年)久田忠守(19歳)が宗主に申し出て卸部を開設し専任となる。大戦で欧州からの輸入が途絶し事務機・事務用品が欠乏・高騰(独製ピン針1ポンド37銭→8円)。仕入部は値上り利益を得られず、卸部設置と自家生産強化が残る道。仕入部内に自立の欲求。大阪市内→神戸、1918年7月九州開拓
    • [23]1917年(大正6年)久田忠守(19歳)が宗主に申し出て卸部を開設し専任となる。大戦で欧州からの輸入が途絶し事務機・事務用品が欠乏・高騰(独製ピン針1ポンド37銭→8円)。仕入部は値上り利益を得られず、卸部設置と自家生産強化が残る道。仕入部内に自立の欲求。大阪市内→神戸、1918年7月九州開拓
    • [24]1917年(大正6年)久田忠守(19歳)が宗主に申し出て卸部を開設し専任となる。大戦で欧州からの輸入が途絶し事務機・事務用品が欠乏・高騰(独製ピン針1ポンド37銭→8円)。仕入部は値上り利益を得られず、卸部設置と自家生産強化が残る道。仕入部内に自立の欲求。大阪市内→神戸、1918年7月九州開拓
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [25]久田忠守は卸担当の第一目標を、支店依存から脱却し卸部の収益で仕入業務を賄うことに置いた
  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1917年10月
    • [26]1917年10月、国内で卸を開始

翠苔号は1917年3月、商号を内田洋行に統一した。大阪の店は内田洋行本店となり、大連・旅順・青島の店はそれぞれ第一・第二・第三支店と呼ばれた。翠苔号という中国風の屋号は、当初は内田の名を出すのを避けるために付けたものである。大阪では満洲向けの仕入に翠苔号仕入部、自家製品と卸に内田製作所、官庁・企業への直納に内田商店と、取引ごとに名を使い分けていた。内田洋行の名は青島支店で初めて掲げられ、洋行は中国人が外国商社を呼ぶ称呼である。大連の店も1915年8月に目抜き通りの浪速町2丁目へ移り、商号の浸透と安定した収入を狙って小売を兼ねた。卸を始めて内地の取引先が増える年に名を一本化したのは、外地と内地の店を一つの商社として示す必要が生じたためと推察される。

  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1917年3月
    • [27]1917年3月、内田洋行に商号を統一
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第2節「内田洋行に商号を統一」
    • [28]翠苔号は内田の名を出すのをはばかった屋号。大阪仕入部は翠苔号仕入部・内田製作所(自家生産と卸)・内田商店(直納)を営業上使い分け。大正6年に内田洋行へ統一し大阪を本店、大連を第一支店、旅順を第二支店、青島を第三支店と称した。大連店は1915年8月浪速町2丁目へ移転し、商号の浸透と堅実な収入を動機に小売を兼ねた
    • [29]翠苔号は内田の名を出すのをはばかった屋号。大阪仕入部は翠苔号仕入部・内田製作所(自家生産と卸)・内田商店(直納)を営業上使い分け。大正6年に内田洋行へ統一し大阪を本店、大連を第一支店、旅順を第二支店、青島を第三支店と称した。大連店は1915年8月浪速町2丁目へ移転し、商号の浸透と堅実な収入を動機に小売を兼ねた
    • [30]翠苔号は内田の名を出すのをはばかった屋号。大阪仕入部は翠苔号仕入部・内田製作所(自家生産と卸)・内田商店(直納)を営業上使い分け。大正6年に内田洋行へ統一し大阪を本店、大連を第一支店、旅順を第二支店、青島を第三支店と称した。大連店は1915年8月浪速町2丁目へ移転し、商号の浸透と堅実な収入を動機に小売を兼ねた
    • [32]翠苔号は内田の名を出すのをはばかった屋号。大阪仕入部は翠苔号仕入部・内田製作所(自家生産と卸)・内田商店(直納)を営業上使い分け。大正6年に内田洋行へ統一し大阪を本店、大連を第一支店、旅順を第二支店、青島を第三支店と称した。大連店は1915年8月浪速町2丁目へ移転し、商号の浸透と堅実な収入を動機に小売を兼ねた
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [31]青島において初めて内田を標榜し、中国人が外国商社に付ける「洋行」の称呼を用いて内田洋行第三支店と称した

内田洋行は1926年12月19日に株式会社へ改組し、本店を大阪、支店を東京と大連に置いた。資本金は30万円で、21歳の内田憲民氏が代表取締役に就任した。改組のきっかけは、1924年10月3日の内田小太郎氏の狭心症による急死。創業者を失った店では組織の点検と立て直しが最大の課題となり、義兄の清水善次氏が株式会社化を結論とした。1942年の大阪内田洋行の経歴書も、組織変更の事由を創業者の死去としている。東京支店は1924年に、本店支配人の久田忠守氏の提案で開いたばかりだった。改組から1966年までの40年間、内田洋行は社長の内田憲民氏と専務の久田忠守氏の2人で運営された。

  • 内田洋行70年史(1980) 第2章第1節「法人組織に改組」
    • [33]宗主の死後、清水善次が組織の点検・立直しに取組み株式会社への改組を決定。1926年(大正15年)12月19日株式会社内田洋行誕生。本店大阪、支店東京・大連、資本金30万円、代表取締役内田憲民(21歳)。改組以来1966年まで内田社長・久田専務のコンビで運営
    • [34]宗主の死後、清水善次が組織の点検・立直しに取組み株式会社への改組を決定。1926年(大正15年)12月19日株式会社内田洋行誕生。本店大阪、支店東京・大連、資本金30万円、代表取締役内田憲民(21歳)。改組以来1966年まで内田社長・久田専務のコンビで運営
    • [36]宗主の死後、清水善次が組織の点検・立直しに取組み株式会社への改組を決定。1926年(大正15年)12月19日株式会社内田洋行誕生。本店大阪、支店東京・大連、資本金30万円、代表取締役内田憲民(21歳)。改組以来1966年まで内田社長・久田専務のコンビで運営
    • [39]宗主の死後、清水善次が組織の点検・立直しに取組み株式会社への改組を決定。1926年(大正15年)12月19日株式会社内田洋行誕生。本店大阪、支店東京・大連、資本金30万円、代表取締役内田憲民(21歳)。改組以来1966年まで内田社長・久田専務のコンビで運営
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第2節
    • [35]宗主内田小太郎は1924年(大正13年)10月3日に狭心症で急死。同年、久田忠守本店支配人の提案で東京支店を開設
    • [38]宗主内田小太郎は1924年(大正13年)10月3日に狭心症で急死。同年、久田忠守本店支配人の提案で東京支店を開設
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [37]1942年10月の大阪内田洋行経歴書は、組織変更を「大正十三年創業者死去ニヨリ」とし、大正15年12月に株式会社内田洋行の本店に組織変更と記載
参考文献[20]-[39]
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第2節「事業発展の基礎を築く」
    • [20]1917年(大正6年)久田忠守(19歳)が宗主に申し出て卸部を開設し専任となる。大戦で欧州からの輸入が途絶し事務機・事務用品が欠乏・高騰(独製ピン針1ポンド37銭→8円)。仕入部は値上り利益を得られず、卸部設置と自家生産強化が残る道。仕入部内に自立の欲求。大阪市内→神戸、1918年7月九州開拓
    • [21]1917年(大正6年)久田忠守(19歳)が宗主に申し出て卸部を開設し専任となる。大戦で欧州からの輸入が途絶し事務機・事務用品が欠乏・高騰(独製ピン針1ポンド37銭→8円)。仕入部は値上り利益を得られず、卸部設置と自家生産強化が残る道。仕入部内に自立の欲求。大阪市内→神戸、1918年7月九州開拓
    • [22]1917年(大正6年)久田忠守(19歳)が宗主に申し出て卸部を開設し専任となる。大戦で欧州からの輸入が途絶し事務機・事務用品が欠乏・高騰(独製ピン針1ポンド37銭→8円)。仕入部は値上り利益を得られず、卸部設置と自家生産強化が残る道。仕入部内に自立の欲求。大阪市内→神戸、1918年7月九州開拓
    • [23]1917年(大正6年)久田忠守(19歳)が宗主に申し出て卸部を開設し専任となる。大戦で欧州からの輸入が途絶し事務機・事務用品が欠乏・高騰(独製ピン針1ポンド37銭→8円)。仕入部は値上り利益を得られず、卸部設置と自家生産強化が残る道。仕入部内に自立の欲求。大阪市内→神戸、1918年7月九州開拓
    • [24]1917年(大正6年)久田忠守(19歳)が宗主に申し出て卸部を開設し専任となる。大戦で欧州からの輸入が途絶し事務機・事務用品が欠乏・高騰(独製ピン針1ポンド37銭→8円)。仕入部は値上り利益を得られず、卸部設置と自家生産強化が残る道。仕入部内に自立の欲求。大阪市内→神戸、1918年7月九州開拓
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [25]久田忠守は卸担当の第一目標を、支店依存から脱却し卸部の収益で仕入業務を賄うことに置いた
    • [31]青島において初めて内田を標榜し、中国人が外国商社に付ける「洋行」の称呼を用いて内田洋行第三支店と称した
    • [37]1942年10月の大阪内田洋行経歴書は、組織変更を「大正十三年創業者死去ニヨリ」とし、大正15年12月に株式会社内田洋行の本店に組織変更と記載
  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1917年10月
    • [26]1917年10月、国内で卸を開始
  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1917年3月
    • [27]1917年3月、内田洋行に商号を統一
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第2節「内田洋行に商号を統一」
    • [28]翠苔号は内田の名を出すのをはばかった屋号。大阪仕入部は翠苔号仕入部・内田製作所(自家生産と卸)・内田商店(直納)を営業上使い分け。大正6年に内田洋行へ統一し大阪を本店、大連を第一支店、旅順を第二支店、青島を第三支店と称した。大連店は1915年8月浪速町2丁目へ移転し、商号の浸透と堅実な収入を動機に小売を兼ねた
    • [29]翠苔号は内田の名を出すのをはばかった屋号。大阪仕入部は翠苔号仕入部・内田製作所(自家生産と卸)・内田商店(直納)を営業上使い分け。大正6年に内田洋行へ統一し大阪を本店、大連を第一支店、旅順を第二支店、青島を第三支店と称した。大連店は1915年8月浪速町2丁目へ移転し、商号の浸透と堅実な収入を動機に小売を兼ねた
    • [30]翠苔号は内田の名を出すのをはばかった屋号。大阪仕入部は翠苔号仕入部・内田製作所(自家生産と卸)・内田商店(直納)を営業上使い分け。大正6年に内田洋行へ統一し大阪を本店、大連を第一支店、旅順を第二支店、青島を第三支店と称した。大連店は1915年8月浪速町2丁目へ移転し、商号の浸透と堅実な収入を動機に小売を兼ねた
    • [32]翠苔号は内田の名を出すのをはばかった屋号。大阪仕入部は翠苔号仕入部・内田製作所(自家生産と卸)・内田商店(直納)を営業上使い分け。大正6年に内田洋行へ統一し大阪を本店、大連を第一支店、旅順を第二支店、青島を第三支店と称した。大連店は1915年8月浪速町2丁目へ移転し、商号の浸透と堅実な収入を動機に小売を兼ねた
  • 内田洋行70年史(1980) 第2章第1節「法人組織に改組」
    • [33]宗主の死後、清水善次が組織の点検・立直しに取組み株式会社への改組を決定。1926年(大正15年)12月19日株式会社内田洋行誕生。本店大阪、支店東京・大連、資本金30万円、代表取締役内田憲民(21歳)。改組以来1966年まで内田社長・久田専務のコンビで運営
    • [34]宗主の死後、清水善次が組織の点検・立直しに取組み株式会社への改組を決定。1926年(大正15年)12月19日株式会社内田洋行誕生。本店大阪、支店東京・大連、資本金30万円、代表取締役内田憲民(21歳)。改組以来1966年まで内田社長・久田専務のコンビで運営
    • [36]宗主の死後、清水善次が組織の点検・立直しに取組み株式会社への改組を決定。1926年(大正15年)12月19日株式会社内田洋行誕生。本店大阪、支店東京・大連、資本金30万円、代表取締役内田憲民(21歳)。改組以来1966年まで内田社長・久田専務のコンビで運営
    • [39]宗主の死後、清水善次が組織の点検・立直しに取組み株式会社への改組を決定。1926年(大正15年)12月19日株式会社内田洋行誕生。本店大阪、支店東京・大連、資本金30万円、代表取締役内田憲民(21歳)。改組以来1966年まで内田社長・久田専務のコンビで運営
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第2節
    • [35]宗主内田小太郎は1924年(大正13年)10月3日に狭心症で急死。同年、久田忠守本店支配人の提案で東京支店を開設
    • [38]宗主内田小太郎は1924年(大正13年)10月3日に狭心症で急死。同年、久田忠守本店支配人の提案で東京支店を開設

1927年〜日本橋に置いた輸出部と、統制下で東京・大阪の内田洋行など10社に分けた社業

内田洋行は1939年9月、東京の日本橋区室町1丁目に輸出部を設けた。同じ月には大阪に東亜部を置き、同年1月には蒙古地区の張家口に支店を開設していた。輸出部の新設は、東京・大阪の営業店の仕入と、海外支店向けの仕入を切り分ける措置である。東京には事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機の扱いが多く、大阪は文房具と紙製品が中心だった。1939年9月18日に価格停止令が出ると、統制の緩い外地へ商品が流れ、輸出部には人と荷が押し寄せた。株式会社内田洋行の本店は、すでに1937年1月に大阪から奉天へ移っていた。本店が外地に移ったあと、東京の輸出部は内地の品を外地へ送る仕入の拠点を担ったと考えられる。

  • 内田洋行70年史(1980) 第2章第2節「戦時下の対応と終戦」
    • [40]1939年1月張家口支店設置、同年9月大阪に東亜部、東京日本橋区室町1丁目2に輸出部を設置。営業店の仕入と海外支店関係の仕入の分離・独立。東京は事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機、大阪は文房具・紙製品等。9月18日価格停止令で商品が統制の緩い外地へ流出
    • [41]1939年1月張家口支店設置、同年9月大阪に東亜部、東京日本橋区室町1丁目2に輸出部を設置。営業店の仕入と海外支店関係の仕入の分離・独立。東京は事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機、大阪は文房具・紙製品等。9月18日価格停止令で商品が統制の緩い外地へ流出
    • [42]1939年1月張家口支店設置、同年9月大阪に東亜部、東京日本橋区室町1丁目2に輸出部を設置。営業店の仕入と海外支店関係の仕入の分離・独立。東京は事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機、大阪は文房具・紙製品等。9月18日価格停止令で商品が統制の緩い外地へ流出
    • [43]1939年1月張家口支店設置、同年9月大阪に東亜部、東京日本橋区室町1丁目2に輸出部を設置。営業店の仕入と海外支店関係の仕入の分離・独立。東京は事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機、大阪は文房具・紙製品等。9月18日価格停止令で商品が統制の緩い外地へ流出
    • [44]1939年1月張家口支店設置、同年9月大阪に東亜部、東京日本橋区室町1丁目2に輸出部を設置。営業店の仕入と海外支店関係の仕入の分離・独立。東京は事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機、大阪は文房具・紙製品等。9月18日価格停止令で商品が統制の緩い外地へ流出
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [45]大阪内田洋行経歴書:昭和12年1月に本店を奉天に移転し大阪は支店となる。年表:昭和14年9月東京店輸出部を日本橋区室町に設置

内田洋行は1941年5月、社業を地域と業態ごとに分け、東京と大阪にそれぞれ内田洋行を設立した。同じ年には貿易統制令や株式価格統制令が施行され、統制経済が本格化していた。内地・満洲・北支・中支と法令の異なる地域に本支店を抱えたため、送品や送金の手続きは煩雑になった。輸出入・卸・小売を1社で兼ねる営業も認められず、同一法人の本支店である利点は失われた。東京の内田洋行は室町に本社を置き、資本金18万円で輸出部を含む卸と輸出を担った。大阪の内田洋行は1941年5月16日に資本金18万円で設立され、内田憲民氏が社長に就任した。社業分離で生まれた会社は10社・営業所21ヵ所に及び、1943年1月の社憲で一体の運営を保った。内地に独立した2社を残した改組が、外地を失ったあとの再出発の土台になったと推測される。

  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1941年5月
    • [46]1941年5月、組織整備により東京及び大阪に内田洋行を設立し、現在の当社の母体となる
  • 内田洋行70年史(1980) 第2章第2節「情勢の変化と社業分離」
    • [47]1941年は生活必需物資統制令・貿易統制令・株式価格統制令等が施行。法令の異なる地域に本支店があり送品送金が煩瑣、同一法人の利点が消え、輸出入・卸・小売の兼業も不可に。国別・地域別に分離。東京室町の株式会社内田洋行(資本金18万円、輸出部、卸並びに輸出)が現内田洋行の母体。10社・営業所21ヵ所。社憲は1943年1月完成
    • [48]1941年は生活必需物資統制令・貿易統制令・株式価格統制令等が施行。法令の異なる地域に本支店があり送品送金が煩瑣、同一法人の利点が消え、輸出入・卸・小売の兼業も不可に。国別・地域別に分離。東京室町の株式会社内田洋行(資本金18万円、輸出部、卸並びに輸出)が現内田洋行の母体。10社・営業所21ヵ所。社憲は1943年1月完成
    • [49]1941年は生活必需物資統制令・貿易統制令・株式価格統制令等が施行。法令の異なる地域に本支店があり送品送金が煩瑣、同一法人の利点が消え、輸出入・卸・小売の兼業も不可に。国別・地域別に分離。東京室町の株式会社内田洋行(資本金18万円、輸出部、卸並びに輸出)が現内田洋行の母体。10社・営業所21ヵ所。社憲は1943年1月完成
    • [50]1941年は生活必需物資統制令・貿易統制令・株式価格統制令等が施行。法令の異なる地域に本支店があり送品送金が煩瑣、同一法人の利点が消え、輸出入・卸・小売の兼業も不可に。国別・地域別に分離。東京室町の株式会社内田洋行(資本金18万円、輸出部、卸並びに輸出)が現内田洋行の母体。10社・営業所21ヵ所。社憲は1943年1月完成
    • [52]1941年は生活必需物資統制令・貿易統制令・株式価格統制令等が施行。法令の異なる地域に本支店があり送品送金が煩瑣、同一法人の利点が消え、輸出入・卸・小売の兼業も不可に。国別・地域別に分離。東京室町の株式会社内田洋行(資本金18万円、輸出部、卸並びに輸出)が現内田洋行の母体。10社・営業所21ヵ所。社憲は1943年1月完成
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [51]大阪内田洋行経歴書:本社大阪市東区備後町、取締役社長内田憲民、資本金18万円、設立昭和16年5月16日。社業分立の告示で東京の株式会社内田洋行は輸出部を含むと記載
参考文献[40]-[52]
  • 内田洋行70年史(1980) 第2章第2節「戦時下の対応と終戦」
    • [40]1939年1月張家口支店設置、同年9月大阪に東亜部、東京日本橋区室町1丁目2に輸出部を設置。営業店の仕入と海外支店関係の仕入の分離・独立。東京は事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機、大阪は文房具・紙製品等。9月18日価格停止令で商品が統制の緩い外地へ流出
    • [41]1939年1月張家口支店設置、同年9月大阪に東亜部、東京日本橋区室町1丁目2に輸出部を設置。営業店の仕入と海外支店関係の仕入の分離・独立。東京は事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機、大阪は文房具・紙製品等。9月18日価格停止令で商品が統制の緩い外地へ流出
    • [42]1939年1月張家口支店設置、同年9月大阪に東亜部、東京日本橋区室町1丁目2に輸出部を設置。営業店の仕入と海外支店関係の仕入の分離・独立。東京は事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機、大阪は文房具・紙製品等。9月18日価格停止令で商品が統制の緩い外地へ流出
    • [43]1939年1月張家口支店設置、同年9月大阪に東亜部、東京日本橋区室町1丁目2に輸出部を設置。営業店の仕入と海外支店関係の仕入の分離・独立。東京は事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機、大阪は文房具・紙製品等。9月18日価格停止令で商品が統制の緩い外地へ流出
    • [44]1939年1月張家口支店設置、同年9月大阪に東亜部、東京日本橋区室町1丁目2に輸出部を設置。営業店の仕入と海外支店関係の仕入の分離・独立。東京は事務用器・製図用具・測量気象機械・理化学機、大阪は文房具・紙製品等。9月18日価格停止令で商品が統制の緩い外地へ流出
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)
    • [45]大阪内田洋行経歴書:昭和12年1月に本店を奉天に移転し大阪は支店となる。年表:昭和14年9月東京店輸出部を日本橋区室町に設置
    • [51]大阪内田洋行経歴書:本社大阪市東区備後町、取締役社長内田憲民、資本金18万円、設立昭和16年5月16日。社業分立の告示で東京の株式会社内田洋行は輸出部を含むと記載
  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1941年5月
    • [46]1941年5月、組織整備により東京及び大阪に内田洋行を設立し、現在の当社の母体となる
  • 内田洋行70年史(1980) 第2章第2節「情勢の変化と社業分離」
    • [47]1941年は生活必需物資統制令・貿易統制令・株式価格統制令等が施行。法令の異なる地域に本支店があり送品送金が煩瑣、同一法人の利点が消え、輸出入・卸・小売の兼業も不可に。国別・地域別に分離。東京室町の株式会社内田洋行(資本金18万円、輸出部、卸並びに輸出)が現内田洋行の母体。10社・営業所21ヵ所。社憲は1943年1月完成
    • [48]1941年は生活必需物資統制令・貿易統制令・株式価格統制令等が施行。法令の異なる地域に本支店があり送品送金が煩瑣、同一法人の利点が消え、輸出入・卸・小売の兼業も不可に。国別・地域別に分離。東京室町の株式会社内田洋行(資本金18万円、輸出部、卸並びに輸出)が現内田洋行の母体。10社・営業所21ヵ所。社憲は1943年1月完成
    • [49]1941年は生活必需物資統制令・貿易統制令・株式価格統制令等が施行。法令の異なる地域に本支店があり送品送金が煩瑣、同一法人の利点が消え、輸出入・卸・小売の兼業も不可に。国別・地域別に分離。東京室町の株式会社内田洋行(資本金18万円、輸出部、卸並びに輸出)が現内田洋行の母体。10社・営業所21ヵ所。社憲は1943年1月完成
    • [50]1941年は生活必需物資統制令・貿易統制令・株式価格統制令等が施行。法令の異なる地域に本支店があり送品送金が煩瑣、同一法人の利点が消え、輸出入・卸・小売の兼業も不可に。国別・地域別に分離。東京室町の株式会社内田洋行(資本金18万円、輸出部、卸並びに輸出)が現内田洋行の母体。10社・営業所21ヵ所。社憲は1943年1月完成
    • [52]1941年は生活必需物資統制令・貿易統制令・株式価格統制令等が施行。法令の異なる地域に本支店があり送品送金が煩瑣、同一法人の利点が消え、輸出入・卸・小売の兼業も不可に。国別・地域別に分離。東京室町の株式会社内田洋行(資本金18万円、輸出部、卸並びに輸出)が現内田洋行の母体。10社・営業所21ヵ所。社憲は1943年1月完成

出典・参考

14件
出典・参考
  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1910年2月
  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1917年10月
  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1917年3月
  • 内田洋行 有価証券報告書【沿革】 1941年5月
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第1節「創業の前後」
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第1節〈旅順市〉〈縁故者への人事私見〉
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第1節〈第一次世界大戦〉〈青島市〉
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第2節「事業発展の基礎を築く」
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第2節「内田洋行に商号を統一」
  • 内田洋行70年史(1980) 第2章第1節「法人組織に改組」
  • 内田洋行70年史(1980) 第1章第2節
  • 内田洋行70年史(1980) 第2章第2節「戦時下の対応と終戦」
  • 内田洋行70年史(1980) 第2章第2節「情勢の変化と社業分離」
  • 内田洋行と共に 社業の回顧・上巻(1970)

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