イトマン:経常損失66億円と河村良彦社長の下での繊維外への多角化
河村良彦の課別損益管理と繊維での収益回復
1975年〜無配転落と住友銀行からの経営者派遣
伊藤萬が1975年9月期に計上した赤字は約45億円に達し、1949年12月の上場以来はじめての無配へ転落した。1973年9月期には創業90周年を記念して年13%の配当を実施し、最終利益も6億5,200万円を計上していた。同じ期に21億900万円あった経常利益は翌期に3億5,700万円へ落ち、二期で欠損へ振れた。原因は本業にあり、繊維の処分損は48億円、経常は44億7,300万円の欠損となった。事業の7割近くを繊維が占めていたため、第1次石油ショック後の市況悪化と高値で買い付けた在庫が、そのまま全社の損益を決めた。売上高は1,800億円まで落ち込み、同じ期の自己資本はマイナス8億3,900万円の欠損に沈んだ。
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [1]伊藤萬は1975年9月期決算で約45億円の赤字を計上し、1949年12月の上場以来初の無配に転落した
- [2]1973年9月期は最終利益6億5,200万円、90周年記念で年13%配当と業績のピークだった
- [3]経常利益は1973年9月期の21億900万円をピークに、1974年9月期は3億5,700万円へ減少した
- [4]1975年9月期は繊維の処分損が48億円にのぼり、経常では44億7,300万円の欠損となった
- [5]事業の7割近くを占める本業の繊維が不振に陥り、高値契約で買い付けた在庫が欠損につながった
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [6]第1次石油ショック当時の売上高は1,800億円程度まで落ち込んでいた
- 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [7]自己資本は1975年9月期にマイナス8億3,900万円まで落ち込んだ
創業家による経営は、この決算をもって終わった。創業以来4代続いた伊藤寛社長は責任をとり、代表権のない会長へ退いた。後任には、同年5月に住友銀行常務から副社長として入っていた河村良彦氏が昇格した。河村氏は1924年生まれ、1942年に住友銀行へ入り、社長に就いた1975年の時点で51歳だった。栄町・渋谷・銀座の各支店長を経て1973年に取締役、1975年に常務へ上がった営業畑の人物である。河村氏自身も、みずからの着任を銀行が送り込んだ立て直し役と捉えていた。伊藤前社長は、紡績メーカーと銀行の支援で再建計画が動き出したのを見届けて責任をとったと説明した。住友銀行の堀田庄三会長は『伊藤萬が立ち直れば、すぐにも伊藤家に経営は返しますよ』と述べ、経営権の返還を前提にした派遣であることを明らかにした。
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [8]創業以来4代続いた同族の伊藤寛社長は無配転落の責任をとり、代表権のない会長に退いた
- [9]後任には1975年5月に住友銀行常務から転出して副社長となっていた河村良彦が昇格した
- [10]河村良彦は大正13年生まれで昭和17年に住友銀行へ入行し、社長就任時は51歳だった
- [11]河村良彦は栄町・渋谷・銀座の各支店長を経て昭和48年に取締役、昭和50年に常務となり、住友銀行内でも営業畑に強いと評されていた
- [13]伊藤寛前社長は、河村良彦が入社後約半年で社内状況を掌握し、再建計画が紡績メーカーと銀行の支援で順調に進んでいるため無配転落の責任をとることにしたと述べた
- [14]住友銀行の堀田庄三会長は1975年10月26日の朝日新聞で、伊藤萬が立ち直れば経営はすぐにも伊藤家へ返すとコメントした
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [12]河村良彦は、第1次石油ショックで苦境に陥った同社の経営テコ入れのため銀行から入り社長を引き受けたと述べている
再建策の柱は、人員整理と、審査体制を強めた機構改革、そして子会社の整理統合の三つだった。1975年4月に示した155人の整理案は組合との交渉が進まず女子20名ほどが応じたにとどまり、あらためて男子100人の希望退職を募った。国内に32社あった繊維系の子会社は統廃合にかけ、グループ全体で商品企画を担う形へ寄せる方向が探られた。一方、繊維以外の商品への進出は緩めず、総合商社化の方針そのものは保たれた。河村氏は社長内定の記者会見で、デザイン力と商品企画力は伊藤萬の財産であるとしたうえで、『そして昔の加工問屋に戻れば再建は出来ると思う』と語った。1976年9月期に経常5億円の黒字、翌期の復配を掲げたこの計画は、3カ年で欠損を解消して復配体制へ入る形で実現した。
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [15]繊維部門を中心とした再建策として、人員整理・審査体制強化を中心とした機構改革・子会社の整理統合が掲げられた
- [16]1975年4月に発表した155人の人員整理案は組合との話し合いが進まず女子20名ほどが応じただけで、その後あらためて男子100人の希望退職を募集した
- [17]繊維関連の国内子会社32社を整理統合し、グループ全体としての商品企画機能を高める方針がとられた
- [18]無配転落後も非繊維部門への進出には依然積極的で、総合商社として確固たるものにしていく決意が示されていた
- [19]河村良彦は社長内定の記者会見で、伊藤萬の持つデザイン力と商品企画力を財産として挙げた
- [20]1976年9月期に経常5億円の黒字とし、1977年9月期に復配する計画が示された
- 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [21]昭和50年の苦境に対し3カ年計画で赤字を解消し、復配体制に入った
参考文献[1]-[21]
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [1]伊藤萬は1975年9月期決算で約45億円の赤字を計上し、1949年12月の上場以来初の無配に転落した
- [2]1973年9月期は最終利益6億5,200万円、90周年記念で年13%配当と業績のピークだった
- [3]経常利益は1973年9月期の21億900万円をピークに、1974年9月期は3億5,700万円へ減少した
- [4]1975年9月期は繊維の処分損が48億円にのぼり、経常では44億7,300万円の欠損となった
- [5]事業の7割近くを占める本業の繊維が不振に陥り、高値契約で買い付けた在庫が欠損につながった
- [8]創業以来4代続いた同族の伊藤寛社長は無配転落の責任をとり、代表権のない会長に退いた
- [9]後任には1975年5月に住友銀行常務から転出して副社長となっていた河村良彦が昇格した
- [10]河村良彦は大正13年生まれで昭和17年に住友銀行へ入行し、社長就任時は51歳だった
- [11]河村良彦は栄町・渋谷・銀座の各支店長を経て昭和48年に取締役、昭和50年に常務となり、住友銀行内でも営業畑に強いと評されていた
- [13]伊藤寛前社長は、河村良彦が入社後約半年で社内状況を掌握し、再建計画が紡績メーカーと銀行の支援で順調に進んでいるため無配転落の責任をとることにしたと述べた
- [14]住友銀行の堀田庄三会長は1975年10月26日の朝日新聞で、伊藤萬が立ち直れば経営はすぐにも伊藤家へ返すとコメントした
- [15]繊維部門を中心とした再建策として、人員整理・審査体制強化を中心とした機構改革・子会社の整理統合が掲げられた
- [16]1975年4月に発表した155人の人員整理案は組合との話し合いが進まず女子20名ほどが応じただけで、その後あらためて男子100人の希望退職を募集した
- [17]繊維関連の国内子会社32社を整理統合し、グループ全体としての商品企画機能を高める方針がとられた
- [18]無配転落後も非繊維部門への進出には依然積極的で、総合商社として確固たるものにしていく決意が示されていた
- [19]河村良彦は社長内定の記者会見で、伊藤萬の持つデザイン力と商品企画力を財産として挙げた
- [20]1976年9月期に経常5億円の黒字とし、1977年9月期に復配する計画が示された
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [6]第1次石油ショック当時の売上高は1,800億円程度まで落ち込んでいた
- [12]河村良彦は、第1次石油ショックで苦境に陥った同社の経営テコ入れのため銀行から入り社長を引き受けたと述べている
- 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [7]自己資本は1975年9月期にマイナス8億3,900万円まで落ち込んだ
- 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [21]昭和50年の苦境に対し3カ年計画で赤字を解消し、復配体制に入った
1979年〜脱繊維を採らず課を最小の損益単位に割る
第1次石油ショックのあと、商社はほとんどが脱繊維へ向かったが、河村氏はその流れに乗らなかった。再建は本業で競争優位を取り戻すほかないと見て、繊維をなお付加価値を積める産業として捉え直した。判断の根拠は、繊維産業の売上と付加価値がどの段階に集まるかにあった。日本の繊維産業の総売上高は、輸出入を含めて約53兆円に達していた。その内訳は川上の糸と綿が約5%、川中の織物が15%、川下の二次製品が約80%で、付加価値は16倍に開いていた。川上の紡績・合繊メーカーは従業員を半分から3分の1へ減らす減量で収益を保っていた。世間が繊維を斜陽と呼び脱繊維を唱えるあいだも、伊藤萬はそれを採らずに通した。取扱商品に占める繊維の比率は1982年の時点でなお約6割を保っていた。
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [22]第1次石油ショック後、商社はほとんどが脱繊維指向に入った
- [23]河村良彦は再建のためには本業で勝ち抜くほかないと考え、繊維を収益のあがる成長産業だと結論づけた
- [24]日本の繊維の総売上高は輸出入を含めて約53兆円に達していた
- [25]繊維の総売上高の内訳は川上(糸と綿)が約5%、川中(織物)が15%、川下(二次製品)が約80%と川下偏重で、付加価値は16倍あった
- [26]川上の紡績・合繊メーカーは石油ショック後の減量経営で従業員を半分、ひどいところでは3分の1に減らし、かろうじて収益を維持していた
- [28]1982年時点で取扱商品に占める繊維の比率は約6割だった
- 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [27]主力取扱商品の繊維が世間で斜陽といわれ脱繊維が唱えられたが、伊藤萬はそれをやらずにきた
川下の店舗を持たずに川下の需要を取る方法として選ばれたのが、機能の提供だった。伊藤萬が力を入れたのは、縫製を担う中小メーカーへ織物を流す経路だった。取引先には資金を貸し、販路を紹介し、デザインを持ち込んだ。子会社のイトマンデザインクリエイターズには、デザイナーが約200人いた。自前でデザイナーを採用できない中小アパレルへその機能を代替して提供し、見返りに素材を売り込む経路を作った。河村氏は商社の役割を、消費者の需要を調べ、デザインを専門家に起こさせ、紡織・染色・縫製を手配する取りまとめ役と定義していた。生地は本体が扱い、製品の売上はすべて子会社が立てる分業も敷かれた。1979年には安宅産業の繊維部門を、社員約200人と約1,000億円の商権ごと引き受けた。
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [29]織物を二次製品のアパレル・メーカーに売り込むことへ重点を置き、二次製品メーカーに対して資金援助・販売あっせん・デザインの協力を進めた
- [31]デザイナーの採用が難しい中小アパレル・メーカーへ代わってデザイナー機能を提供することで、素材を売り込むことができた
- [33]伊藤萬本体の取扱いは全部が生地で製品はなく、製品はすべて子会社の売上となっていた
- [34]1979年に安宅産業の繊維部門(社員200人程度と約1,000億円に及ぶ商権)を引き受けた
- 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [30]子会社イトマンデザインクリエイターズは約200人のデザイナーを擁していた
- [32]河村良彦は、商社が消費者のニーズを調べ、デザインを専門家にやらせ、紡織・染色・縫製をアレンジするオルガナイザーの機能を発揮する体制を目指すとした
収益の回復を支えたのは、損益を数える単位の作り替えだった。就任時に1,500人近くいた従業員は1982年に約1,300人へ減ったが、売上高は1,800億円から約4,500億円へ伸びた。コンピュータの導入で管理は一カ所へ集まり、営業は自ら資料を作らなくなっていた。河村氏は、そのために季節ごとに動く繊維の商いへ数字が追いつかなくなったと見ていた。そこで管理を本部へ集める方式を改め、管理部門と営業部門の比率を40対60から25対75へ移し、営業の各課に毎日バランスシートを作らせた。100を超える営業の課には売上高ではなく純損益の目標を与え、1課5人前後、10人前後になれば課を分けた。この課別の損益集団は最小戦闘集団と称され、人を増やさず1人当たりの生産性で利益を上げる方針を支えた。
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [35]従業員は社長就任当時の1,500人近くから1982年には約1,300人へ減ったが、売上高は1,800億円程度から約4,500億円へ増えた
- [36]コンピューターの導入により管理部門が1カ所に集中し、営業が自分で資料をつくらなくなっていた
- [37]そのためテンポの速い繊維の商売でシーズンごとの商いについていけない状態に陥っていた
- [38]集中管理を分散管理に置き換え、管理の仕事を営業部門へ移して営業の各課が毎日バランス・シートをつくるようにした
- [39]管理部門と営業部門の比率は7年前の40対60から25対75へ変わった
- [40]営業の課は100以上あり、損益単位を課別に置き換えて売上高ではなく純損益の目標を与え、1つの課は5人前後、10人前後になれば課を分けた
- [41]課別の損益集団は社内で最小戦闘集団と呼ばれた
- 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [42]1983年9月期も従業員数は約1,300人で昭和50年ごろとほとんど変わらず、人を増やさず1人当たりの生産性を高めて利益を上げる方針がとられた
参考文献[22]-[42]
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [22]第1次石油ショック後、商社はほとんどが脱繊維指向に入った
- [23]河村良彦は再建のためには本業で勝ち抜くほかないと考え、繊維を収益のあがる成長産業だと結論づけた
- [24]日本の繊維の総売上高は輸出入を含めて約53兆円に達していた
- [25]繊維の総売上高の内訳は川上(糸と綿)が約5%、川中(織物)が15%、川下(二次製品)が約80%と川下偏重で、付加価値は16倍あった
- [26]川上の紡績・合繊メーカーは石油ショック後の減量経営で従業員を半分、ひどいところでは3分の1に減らし、かろうじて収益を維持していた
- [28]1982年時点で取扱商品に占める繊維の比率は約6割だった
- [29]織物を二次製品のアパレル・メーカーに売り込むことへ重点を置き、二次製品メーカーに対して資金援助・販売あっせん・デザインの協力を進めた
- [31]デザイナーの採用が難しい中小アパレル・メーカーへ代わってデザイナー機能を提供することで、素材を売り込むことができた
- [33]伊藤萬本体の取扱いは全部が生地で製品はなく、製品はすべて子会社の売上となっていた
- [34]1979年に安宅産業の繊維部門(社員200人程度と約1,000億円に及ぶ商権)を引き受けた
- [35]従業員は社長就任当時の1,500人近くから1982年には約1,300人へ減ったが、売上高は1,800億円程度から約4,500億円へ増えた
- [36]コンピューターの導入により管理部門が1カ所に集中し、営業が自分で資料をつくらなくなっていた
- [37]そのためテンポの速い繊維の商売でシーズンごとの商いについていけない状態に陥っていた
- [38]集中管理を分散管理に置き換え、管理の仕事を営業部門へ移して営業の各課が毎日バランス・シートをつくるようにした
- [39]管理部門と営業部門の比率は7年前の40対60から25対75へ変わった
- [40]営業の課は100以上あり、損益単位を課別に置き換えて売上高ではなく純損益の目標を与え、1つの課は5人前後、10人前後になれば課を分けた
- [41]課別の損益集団は社内で最小戦闘集団と呼ばれた
- 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [27]主力取扱商品の繊維が世間で斜陽といわれ脱繊維が唱えられたが、伊藤萬はそれをやらずにきた
- 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [30]子会社イトマンデザインクリエイターズは約200人のデザイナーを擁していた
- [32]河村良彦は、商社が消費者のニーズを調べ、デザインを専門家にやらせ、紡織・染色・縫製をアレンジするオルガナイザーの機能を発揮する体制を目指すとした
- [42]1983年9月期も従業員数は約1,300人で昭和50年ごろとほとんど変わらず、人を増やさず1人当たりの生産性を高めて利益を上げる方針がとられた
1983年〜相場の禁止から財務戦略へ傾く経営
相場を張ることは、社内で一切認められなかった。河村氏は相場で損益を作る手法を商社の機能そのものを損なうものと見て、取引をすべてヘッジの形で持たせた。背景には、大阪船場で名を成した五綿八社のうち、八木商店ひとつを残して八社が退出したのは三品相場のためだ、という見方があった。仲間取引も、伝票は膨らむが口銭が薄く一度きりで終わる商いが多いとして、同じく禁じられた。販売先は大手だけでなく中小の小口を重んじ、総合商社が普通は扱わない1枚10万円、5万円の伝票も受けた。社内へ向けては『売ってから買え。これが鉄則だ』という言い方で、在庫を先に抱えない商いが徹底された。この方針は当初、鉄鋼や機械を扱う部門から強い反対を受けた。
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [43]河村良彦は相場で損益をつくり出すやり方が商社機能の喪失につながると考え、社内で相場をいっさい御法度とし、全部ヘッジという形でやらせた
- [44]大阪の船場で戦後に隆盛を極めた五綿八社のうち八社が八木商店のみを残すに至ったのは、三品相場を張ったのが原因だった
- [45]仲間取引は売上高が増えてもマージンの取れない一過性のものが多く安定収益につながらないため、いっさいやらせなかった
- [46]総合商社では1枚100万円以下の伝票を扱わないのが普通だが、伊藤萬は10万円でも5万円でも扱い、中小企業など小口販売先を特に重視した
- 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [47]河村良彦は在庫ゼロの方針を推し進め、社内に対して売ってから買うことを鉄則として示した
- [48]在庫ゼロの方針は当初、素人が何をいうかという反発が強く、特に鉄鋼や機械類を扱う部門から強く反対された
1983年初から、河村氏は課長を直接押さえる方式へ移った。本社の約1,500人は約200の課に分かれており、その課長を毎月ひとりずつ呼び、前月までの数字と当期の着地見込みを直接聴き取った。社内でトップ・ヒアリングと呼ばれたこの場では、部長と本部長は同席こそ許されたが、発言は原則として認められなかった。河村氏は抽象的な話を避けて数字へ絞り込み、在庫と売掛金を残さない姿勢を課長ごとに確かめた。損益は商品ではなく販売先ごとに見るものとされ、大企業なら必ず儲かるという前提も採らなかった。運営の要点は『生きている細胞には目をかけるな。それよりも死にかけた細胞の活性化が大事である』という言葉に置かれ、伸びる課ではなく沈みかけた課へ手をかけることが経営の仕事とされた。
- 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [49]昭和58年初から、本社の約1,500人を約200の課に分け、その課長を毎月個々に呼んで前月の実績・当月の見通し・期中の決算予想を聴取した
- [50]社内でトップ・ヒアリングと呼ばれたこの聴取では、部長・本部長は横にいるだけで発言は原則として一切許されなかった
- [51]トップ・ヒアリングでは抽象的な話を避けて数字に絞り込み、在庫と売掛金は絶対に残さないという経営の基本姿勢を貫いた
- [53]河村良彦は、良い課は放っておいても伸びるため、死にかけた課の活性化こそ大きな仕事だとする方針をとった
- 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [52]河村良彦は商品による損益ではなく販売先別の損益管理を重視し、大企業なら必ずもうかるわけではないとして中小企業との商売にも利益を見た
1984年9月期の売上高は5,628億7,700万円で、前期比18.8%増となった。経常利益は45億5,000万円、当期利益は20億7,800万円である。1975年9月期にマイナス8億3,900万円だった自己資本は、九期の蓄積と増資・転換社債の発行で204億9,200万円まで戻った。河村氏が掲げた『商品によって差がつくものではなく、格差は経営力によってでてくるもの』という経営理念は、繊維から離れずに立て直した九年を説明する言葉だった。もっとも次に据えられた軸は、商いではなく財務だった。河村氏は、企業を測る物差しが規模から収益へ移ると読んでいた。自己資本を厚くして借入を圧縮し、浮いた資金の運用益を稼ぐ財務戦略が、経営の大きな柱に置かれた。非繊維では石油の販売や長谷川工務店と組んだマンション販売も動き、支払利息を受取利息が上回りはじめていた。
- 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [54]昭和59年9月期の売上高は5,628億7,700万円で前期比18.8%増だった
- [55]昭和59年9月期の経常利益は45億5,000万円(前期比13.2%増)、当期利益は20億7,800万円(同34.5%増)だった
- [56]昭和50年9月期にマイナス8億3,900万円だった自己資本は、その後9年間の利益蓄積により昭和59年9月期に204億9,200万円となった
- [57]17年間増資をしなかった過小資本の状態から、思い切った増資や転換社債の発行によって自己資本を積み上げた
- [58]河村良彦は脱繊維を採らなかった理由として、商品ではなく経営力が格差を生むという経営理念を挙げた
- [59]河村良彦は、これからは売上高ではなく収益が企業評価の基準になると述べ、財務戦略がこれからの大きな経営の柱になるとした
- [60]具体策として、自己資本を充実して借入金をできるだけ減らし支払い利息を圧縮するだけでなく、余裕資金を有利に運用して金利収入の増加を図ることが挙げられた
- [62]借入金は多いものの、支払い利息を受け取り利息が上回る状態になってきた
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [61]非繊維部門では石油の販売と、長谷川工務店と組んだマンション販売を手がけていた
参考文献[43]-[62]
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [43]河村良彦は相場で損益をつくり出すやり方が商社機能の喪失につながると考え、社内で相場をいっさい御法度とし、全部ヘッジという形でやらせた
- [44]大阪の船場で戦後に隆盛を極めた五綿八社のうち八社が八木商店のみを残すに至ったのは、三品相場を張ったのが原因だった
- [45]仲間取引は売上高が増えてもマージンの取れない一過性のものが多く安定収益につながらないため、いっさいやらせなかった
- [46]総合商社では1枚100万円以下の伝票を扱わないのが普通だが、伊藤萬は10万円でも5万円でも扱い、中小企業など小口販売先を特に重視した
- [61]非繊維部門では石油の販売と、長谷川工務店と組んだマンション販売を手がけていた
- 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [47]河村良彦は在庫ゼロの方針を推し進め、社内に対して売ってから買うことを鉄則として示した
- [48]在庫ゼロの方針は当初、素人が何をいうかという反発が強く、特に鉄鋼や機械類を扱う部門から強く反対された
- [52]河村良彦は商品による損益ではなく販売先別の損益管理を重視し、大企業なら必ずもうかるわけではないとして中小企業との商売にも利益を見た
- 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- [49]昭和58年初から、本社の約1,500人を約200の課に分け、その課長を毎月個々に呼んで前月の実績・当月の見通し・期中の決算予想を聴取した
- [50]社内でトップ・ヒアリングと呼ばれたこの聴取では、部長・本部長は横にいるだけで発言は原則として一切許されなかった
- [51]トップ・ヒアリングでは抽象的な話を避けて数字に絞り込み、在庫と売掛金は絶対に残さないという経営の基本姿勢を貫いた
- [53]河村良彦は、良い課は放っておいても伸びるため、死にかけた課の活性化こそ大きな仕事だとする方針をとった
- [54]昭和59年9月期の売上高は5,628億7,700万円で前期比18.8%増だった
- [55]昭和59年9月期の経常利益は45億5,000万円(前期比13.2%増)、当期利益は20億7,800万円(同34.5%増)だった
- [56]昭和50年9月期にマイナス8億3,900万円だった自己資本は、その後9年間の利益蓄積により昭和59年9月期に204億9,200万円となった
- [57]17年間増資をしなかった過小資本の状態から、思い切った増資や転換社債の発行によって自己資本を積み上げた
- [58]河村良彦は脱繊維を採らなかった理由として、商品ではなく経営力が格差を生むという経営理念を挙げた
- [59]河村良彦は、これからは売上高ではなく収益が企業評価の基準になると述べ、財務戦略がこれからの大きな経営の柱になるとした
- [60]具体策として、自己資本を充実して借入金をできるだけ減らし支払い利息を圧縮するだけでなく、余裕資金を有利に運用して金利収入の増加を図ることが挙げられた
- [62]借入金は多いものの、支払い利息を受け取り利息が上回る状態になってきた
1975年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1975年09月期 | 単体 | 1,898 | n/a | ▲66 | ▲42 | ▲2.3% | n/a |
| 1976年09月期 | 単体 | 2,071 | +9.1% | 12 | ▲6 | ▲0.3% | n/a |
| 1977年09月期 | 単体 | 2,100 | +1.4% | 13 | 45 | 2.2% | n/a |
| 1978年09月期 | 単体 | 2,515 | +19.7% | 18 | 7 | 0.3% | n/a |
| 1979年09月期 | 単体 | 3,270 | +30.0% | 20 | 9 | 0.3% | n/a |
| 1980年09月期 | 単体 | 3,496 | +6.9% | 21 | 10 | 0.3% | n/a |
| 1981年09月期 | 単体 | 3,813 | +9.1% | 29 | 11 | 0.3% | n/a |
| 1982年09月期 | 単体 | 4,411 | +15.7% | 35 | 13 | 0.3% | n/a |
| 1983年09月期 | 単体 | 4,736 | +7.4% | 40 | 15 | 0.3% | n/a |
| 1984年09月期 | 単体 | 5,628 | +18.8% | 45 | 20 | 0.4% | n/a |
| 1985年09月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年09月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年09月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年09月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年09月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
4件
- 証券アナリストジャーナル 1982年12月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- 証券アナリストジャーナル 1983年10月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- 証券アナリストジャーナル 1985年1月号 河村良彦(日本証券アナリスト協会)
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」