イトマン:伊藤良三の経営合理化と自社ブランド「スコープ」の生産
伊藤良三の上場から伊藤寛の「スコープ」へ
1946年〜統制下の商品構成の入れ替えと株式公開
1946年5月、伊藤萬は経営の合理化に踏み切り、二代目社長の伊藤萬助氏は会長へ移った。社長の席は伊藤良三氏が継いだ。新しい体制が受け取ったのは、繊維品の配給が統制されたままの商権である。繊維だけでは収支が合わず、薬品・化粧品・電気機具・食料品を脇の商材として扱い、利益をつないだ。品目を入れ替えて凌ぐやり方は戦中から続き、太平洋戦争期にも内需向けの繊維が細るたびに薬品や食料品、雑貨へ商いを移していた。本町四丁目の本社社屋も駐留軍に押さえられたままで、商権と拠点のどちらも戦前の形には戻らなかった。統制が解けるまでの数年を、繊維以外の商品で食い繋ぐ会社だった。
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [1]1946年5月に経営合理化を行い、伊藤萬助は会長に就任した
- [3]繊維品が統制下にあり、その取扱のみでは収支が償わないため、薬品・化粧品・電気機具・食料品等の取扱を補助的に行った
- [4]太平洋戦争期に内需用繊維品の取扱が減少し、取扱商品を薬品・食料品・雑貨等に広げて収益の確保に努めた
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [2]1946年に伊藤良三が社長に就任した
- [5]終戦により本町四丁目の社屋が駐留軍に接収された
商品の組み替えと並行して、販売の網を張り直した。支店と出張所は東京・名古屋・福井・神戸・小樽・新潟・松山・福岡・足利などへ置かれた。繊維品の統制は1948年6月以降に解かれ、続いて朝鮮動乱が起きると収益は大きく伸びた。動乱が収まって繊維相場は暴落したが、被った損害は小さかった。取扱いも戦前の織物中心から外れ、棉花や羊毛、穀類、機械といった諸物資にまで及んだ。輸出は1949年の民間貿易再開から伸び、インドネシアとパキスタン向けが量の中心を占め、ニューヨークやバンコクにも出張所を構えた。統制という供給の制約が解けたとき、広げておいた商品と拠点がそのまま収益の受け皿になった。
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [6]戦後に東京・名古屋・福井・神戸・小樽・新潟・松山・福岡・足利等へ支店出張所を開設した
- [7]1948年6月以降の繊維品の統制解除と朝鮮動乱の勃発により高収益をあげた
- [8]朝鮮動乱後の繊維相場暴落による損害は軽微にとどまった
- [10]1949年の民間貿易再開以来、輸出はインドネシア・パキスタン向けが大きな比重を占め、ニューヨーク・バンコックほかに出張所を設けていた
- 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
- [9]戦後は棉花・羊毛・穀類・機械その他の諸物資の取扱いも行うに至った
戦後の収益は資本の性格を変えた。1949年、資本金を5,000万円へ引き上げ、株式を市場へ出した。上場は同じ年の12月だった。1951年1月には公募を併せ、資本金を1億円へ倍にした。本社社屋の接収は1952年9月に解かれ、資本金は1953年6月に3億円へ達した。1955年に名乗った事業は、貿易と繊維品の問屋の二つだった。創業家だけが資本を出す商店から、増資を重ねて外部の資本を迎える公開会社へ、金の出どころが移った。1956年4月には吹田商事を合併し、貿易の部門を厚くした。大正期の羽州洋行以来の輸出の系譜を、自前の育成ではなく他社の取り込みで太らせる選択だった。
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [11]1949年に資本金5,000万円に増資し、株式を公開した
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [12]伊藤萬の株式上場は1949年12月であった
- 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
- [13]1951年1月に資本金を5,000万円から1億円へ増資し、1対1の割当のほかに公募を行った
- [17]1956年4月1日に吹田商事を合併し、貿易部門の強化をはかった
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [14]1952年9月に進駐軍に接収されていた本社社屋が返還された
- [15]資本金は累増し、1953年6月に3億円となった
- [16]1955年時点の事業は貿易および繊維品問屋で、本社は大阪市東区本町4の46にあった
参考文献[1]-[17]
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [1]1946年5月に経営合理化を行い、伊藤萬助は会長に就任した
- [3]繊維品が統制下にあり、その取扱のみでは収支が償わないため、薬品・化粧品・電気機具・食料品等の取扱を補助的に行った
- [4]太平洋戦争期に内需用繊維品の取扱が減少し、取扱商品を薬品・食料品・雑貨等に広げて収益の確保に努めた
- [6]戦後に東京・名古屋・福井・神戸・小樽・新潟・松山・福岡・足利等へ支店出張所を開設した
- [7]1948年6月以降の繊維品の統制解除と朝鮮動乱の勃発により高収益をあげた
- [8]朝鮮動乱後の繊維相場暴落による損害は軽微にとどまった
- [10]1949年の民間貿易再開以来、輸出はインドネシア・パキスタン向けが大きな比重を占め、ニューヨーク・バンコックほかに出張所を設けていた
- [14]1952年9月に進駐軍に接収されていた本社社屋が返還された
- [15]資本金は累増し、1953年6月に3億円となった
- [16]1955年時点の事業は貿易および繊維品問屋で、本社は大阪市東区本町4の46にあった
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [2]1946年に伊藤良三が社長に就任した
- [5]終戦により本町四丁目の社屋が駐留軍に接収された
- [11]1949年に資本金5,000万円に増資し、株式を公開した
- 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
- [9]戦後は棉花・羊毛・穀類・機械その他の諸物資の取扱いも行うに至った
- [13]1951年1月に資本金を5,000万円から1億円へ増資し、1対1の割当のほかに公募を行った
- [17]1956年4月1日に吹田商事を合併し、貿易部門の強化をはかった
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [12]伊藤萬の株式上場は1949年12月であった
1957年〜加工問屋機能の掘り下げと自社ブランドの内製
1957年12月、伊藤寛氏が四代目の社長に就いた。就任にあたって定めた基本方針は、総合化へ走るのではなく、繊維の加工を担う問屋として専門商社の働きを深める一点に置かれた。原料から糸、織物、加工、製品までを繋ぐ役回りを、規模ではなく機能の深さで守る構えだった。決算は5月と11月の年2回で、1963年11月期の業績は創業以来で最も良かった。翌1964年5月期も前の期並みの見通しで、増資を経ても年1割の配当は保てるとみられた。同じ年の取扱内訳は繊維製品84%・繊維原料8%・非繊維8%、在籍人員は1,473名だった。伊藤家が四代続けて経営を担う同族会社でもあった。
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [18]1957年12月に伊藤寛が四代目社長に就任した
- [19]伊藤寛は近代経営を目指す基本方針を制定し、国内・輸出を通じて繊維加工問屋的機能をもった専門商社としての機能の掘下げに全力を集中した
- 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
- [20]決算期は5月31日と11月30日で、1963年11月期は創業以来の好成績であった
- [21]1964年5月期の業績はほぼ前期並みで、増資後も1割配当は安泰と見られていた
- [22]1964年版の事業内容は繊維製品84%・繊維原料8%・非繊維8%、在籍人員は1,473名であった
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [23]伊藤萬は創業以来四代続いた同族経営の商社であった
掘り下げは、物流と生産を自ら抱える形で現れた。1961年、日本通運と共同で出資し、伊藤萬運輸を設けた。都心の交通が詰まることを前提に、商品の保管と配送を一社へ集約する狙いだった。同じ年の10月には労働組合も結成された。1963年にはスコープとスコープ編織という直営の工場を二つ構え、自社ブランド「スコープ」の品をここで作った。仕入れた品を回すだけの問屋から、縫製の工程を抱える側へ踏み出したことになる。1964年の時点で、縫製を担う系列会社の工場は、販売と加工の系列を固める投資に数えられた。全国に張った販売の網と、企画から加工までを自ら担う力量が、当時の評価を支えた。
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [24]1961年に都心部の交通難を見越し、商品管理の合理化のため日本通運との共同投資により伊藤萬運輸を設立した
- [25]伊藤萬運輸の設立目的は都心部の交通難を見越した商品管理の合理化であった
- [27]1963年にスコープおよびスコープ編織の直営二工場を設立し、「スコープ」ブランドの特選商品の生産を行った
- 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
- [26]労働組合は1961年10月に単組として結成された
- [28]系列の縫製専門会社「スコープ」の工場建設など、販売・加工系列の強化に力を注いでいた
- [29]繊維製品の強固な全国的販売網と企画・加工の優秀性を誇る商社と評された
素材と意匠の側にも手が伸びた。デザイン部を広げ、1964年には開発加工部を新たに置いた。素材メーカーと組み、素材そのものの開発から加工の技術まで、工程をまたいで一つの政策として扱った。写真の柄を布へ移す技術は1965年、大日本印刷と手を組んで作り上げ、市販に移した。貿易でもオーストラリア、アメリカ、西独に現地法人を置いた。投資を支えたのは増資で、1964年4月に資本金を12億円から24億円へ倍にした。株主には大正海上火災保険・住友銀行・東洋信託銀行が並び、日清紡績・東洋紡績・帝人という取引先の紡績と化繊の各社も上位に入った。取引銀行は住友、三菱、富士以下の十六行に及んだ。
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [30]デザイン部の拡充強化とともに、1964年に開発加工部を新設した
- [31]素材メーカーとタイアップし、素材開発から加工技術の向上まで一貫した加工政策を展開した
- [32]1965年に大日本印刷との技術提携による写真プリントの開発に成功し、市販を開始した
- [33]オーストラリア・アメリカ・西独などに現地法人を設立し、貿易部門の拡大をはかった
- 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
- [34]1964年4月に資本金を12億円から24億円へ1対1の割当で増資した
- [35]1964年1月末現在の大株主は大正海上火災保険・住友銀行・東洋信託銀行・日清紡績・東洋紡績・帝人などであった
- [36]取引銀行は住友・三菱・富士・第一・東銀・勧銀ほか十六行であった
参考文献[18]-[36]
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [18]1957年12月に伊藤寛が四代目社長に就任した
- [19]伊藤寛は近代経営を目指す基本方針を制定し、国内・輸出を通じて繊維加工問屋的機能をもった専門商社としての機能の掘下げに全力を集中した
- [24]1961年に都心部の交通難を見越し、商品管理の合理化のため日本通運との共同投資により伊藤萬運輸を設立した
- [25]伊藤萬運輸の設立目的は都心部の交通難を見越した商品管理の合理化であった
- [27]1963年にスコープおよびスコープ編織の直営二工場を設立し、「スコープ」ブランドの特選商品の生産を行った
- [30]デザイン部の拡充強化とともに、1964年に開発加工部を新設した
- [31]素材メーカーとタイアップし、素材開発から加工技術の向上まで一貫した加工政策を展開した
- [32]1965年に大日本印刷との技術提携による写真プリントの開発に成功し、市販を開始した
- [33]オーストラリア・アメリカ・西独などに現地法人を設立し、貿易部門の拡大をはかった
- 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
- [20]決算期は5月31日と11月30日で、1963年11月期は創業以来の好成績であった
- [21]1964年5月期の業績はほぼ前期並みで、増資後も1割配当は安泰と見られていた
- [22]1964年版の事業内容は繊維製品84%・繊維原料8%・非繊維8%、在籍人員は1,473名であった
- [26]労働組合は1961年10月に単組として結成された
- [28]系列の縫製専門会社「スコープ」の工場建設など、販売・加工系列の強化に力を注いでいた
- [29]繊維製品の強固な全国的販売網と企画・加工の優秀性を誇る商社と評された
- [34]1964年4月に資本金を12億円から24億円へ1対1の割当で増資した
- [35]1964年1月末現在の大株主は大正海上火災保険・住友銀行・東洋信託銀行・日清紡績・東洋紡績・帝人などであった
- [36]取引銀行は住友・三菱・富士・第一・東銀・勧銀ほか十六行であった
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [23]伊藤萬は創業以来四代続いた同族経営の商社であった
1962年〜非繊維への多角化と石油ショックによる無配転落
1962年からは繊維以外の部門が広げられ、繊維原料や化成品、食肉へ資源が向かった。1968年の資本金は24億円、従業員は1,600名、年間の売上高は約900億円に達した。内訳は繊維製品80%・繊維原料10%・非繊維10%だった。扱いが伸びたのは輸入の食肉、林業、建築機械である。食肉では海外に牧場を持ち、牛肉と豚肉を自ら開発して輸入する段階まで進んだ。1969年11月期は増収が11%にとどまる一方、利益は69%増えた。売上の内訳は繊維製品74%・繊維原料7%・非繊維19%へ移り、経営刷新の3か年計画が走っていた。繊維の商社が、繊維以外で稼ぐ割合をわずか数年で倍近くへ引き上げたことになる。
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [37]1962年以降から非繊維部門の拡充強化を図り、繊維原料・化成品・食肉部門にも力を入れた
- [41]食品部門では海外の牧場経営による牛肉および豚肉の開発輸入を推進していた
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [38]1968年時点の資本金は24億円、従業員は1,600名、年間売上高は約900億円であった
- [39]1968年時点の売上内訳は繊維製品80%・繊維原料10%・非繊維10%であった
- [40]非繊維部門において輸入食肉・林業・建築機械などの特殊分野で着実に拡大しつつあった
- 日本企業要覧 1970年版「イトマン」
- [42]1969年11月期は11%の増収ながら体質改善の効果が表面化し69%の大幅増益となった
- [43]1970年版の事業内容は繊維製品74%・繊維原料7%・非繊維19%で、経営刷新3ケ年計画を推進中であった
多角化は繊維の外へ出る速度を上げた。1970年5月期は春夏物が中心で商品1点あたりの単価が低く、業績は落ちた。売上高は480億円、純利益は1億1,000万円の見込みで、配当は年6分のまま据え置かれた。1971年には不動産へ参入したが、投じた額は30億円前後にとどまった。1972年度から決算の期を9月の年1回へ改め、機械や化成品、食糧、インテリア、不動産まで手を伸ばして総合商社への脱皮を掲げた。頂点は1973年9月期だった。期の変更で10か月の変則決算ながら、売上高は約1,794億円、税引後の利益は6億5,000万円に届いた。創業90周年として、年1割の普通配当に記念の2分を上乗せした。経常利益は21億900万円だった。
- 日本企業要覧 1970年版「イトマン」
- [44]1970年5月期は単価の低い春夏物のため業績が低下する見通しであった
- [45]1970年5月期は売上高480億円・純利益1億1,000万円見当で、配当年6分は据え置きの見通しであった
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [46]1971年から始めた不動産部門の投資は30億円前後にとどまった
- [51]1973年9月期の経常利益は21億900万円で、これが業績のピークであった
- 日本企業要覧 1974年版「イトマン」
- [47]1972年度より決算期を9月(年1回)に変更した
- [48]機械・化成品・食糧・インテリアおよび不動産部門など多角化をめざし、総合商社への脱皮をはかった
- [49]1973年9月期(10ヶ月決算)の売上高は約1,794億円、税引後利益は6億5,000万円であった
- [50]1973年9月期の配当は普通年1割に記念2分を付けたものであった
1973年の石油ショックが起きると、続くインフレと不況のなかで繊維の市況は崩れた。物価が急騰する局面で、繊維の製品を買い込み、精肉を輸入しすぎ、不動産では土地を買い集めた。中堅の商社の体力では、その反動を吸収しきれなかった。売上の7割近くはなお繊維で、その不振がそのまま全体を押し下げた。1974年9月期の経常利益は3億5,700万円へ落ちた。翌期の繊維部門は在庫の整理に手を取られて15%近い減収となり、処分の損は48億円に達した。有価証券と名古屋支店の処分益21億5,000万円を営業外に立てても、経常は44億7,300万円の欠損だった。最終の損益は約45億円の赤字に沈み、配当は8分から無配へ転じた。1949年12月の上場から数えて初めての無配だった。
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [52]1973年の石油ショック後のインフレと不況により繊維市況が悪化した
- [55]事業の7割近くを占める本業の繊維が不振に陥り、立て直しがきかなくなった
- [56]1974年9月期の経常利益は3億5,700万円であった
- [57]1975年9月期は繊維部門が在庫調整に追われて15%近い減収となり、繊維の処分損は48億円にのぼった
- [58]1975年9月期は有価証券と名古屋支店の処分益21億5,000万円を営業外に計上した上で経常44億7,300万円の欠損となった
- [59]1975年9月期は約45億円の赤字を計上した
- [61]1949年12月の上場以来初の無配転落であった
- マネジメント 1978年 勝田健
- [53]1973年の石油ショック時の狂乱物価のあおりで繊維製品の過剰仕入れ・精肉の過剰輸入・不動産部門の土地買いに走った
- [54]中堅商社であったため、過剰仕入れと過剰輸入の反動をもろに受けた
- [60]1975年9月に、それまでの8分配当から無配に転落した
参考文献[37]-[61]
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [37]1962年以降から非繊維部門の拡充強化を図り、繊維原料・化成品・食肉部門にも力を入れた
- [41]食品部門では海外の牧場経営による牛肉および豚肉の開発輸入を推進していた
- [46]1971年から始めた不動産部門の投資は30億円前後にとどまった
- [51]1973年9月期の経常利益は21億900万円で、これが業績のピークであった
- [52]1973年の石油ショック後のインフレと不況により繊維市況が悪化した
- [55]事業の7割近くを占める本業の繊維が不振に陥り、立て直しがきかなくなった
- [56]1974年9月期の経常利益は3億5,700万円であった
- [57]1975年9月期は繊維部門が在庫調整に追われて15%近い減収となり、繊維の処分損は48億円にのぼった
- [58]1975年9月期は有価証券と名古屋支店の処分益21億5,000万円を営業外に計上した上で経常44億7,300万円の欠損となった
- [59]1975年9月期は約45億円の赤字を計上した
- [61]1949年12月の上場以来初の無配転落であった
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [38]1968年時点の資本金は24億円、従業員は1,600名、年間売上高は約900億円であった
- [39]1968年時点の売上内訳は繊維製品80%・繊維原料10%・非繊維10%であった
- [40]非繊維部門において輸入食肉・林業・建築機械などの特殊分野で着実に拡大しつつあった
- 日本企業要覧 1970年版「イトマン」
- [42]1969年11月期は11%の増収ながら体質改善の効果が表面化し69%の大幅増益となった
- [43]1970年版の事業内容は繊維製品74%・繊維原料7%・非繊維19%で、経営刷新3ケ年計画を推進中であった
- [44]1970年5月期は単価の低い春夏物のため業績が低下する見通しであった
- [45]1970年5月期は売上高480億円・純利益1億1,000万円見当で、配当年6分は据え置きの見通しであった
- 日本企業要覧 1974年版「イトマン」
- [47]1972年度より決算期を9月(年1回)に変更した
- [48]機械・化成品・食糧・インテリアおよび不動産部門など多角化をめざし、総合商社への脱皮をはかった
- [49]1973年9月期(10ヶ月決算)の売上高は約1,794億円、税引後利益は6億5,000万円であった
- [50]1973年9月期の配当は普通年1割に記念2分を付けたものであった
- マネジメント 1978年 勝田健
- [53]1973年の石油ショック時の狂乱物価のあおりで繊維製品の過剰仕入れ・精肉の過剰輸入・不動産部門の土地買いに走った
- [54]中堅商社であったため、過剰仕入れと過剰輸入の反動をもろに受けた
- [60]1975年9月に、それまでの8分配当から無配に転落した
1946年〜1974年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年11月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年11月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年11月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 153 | n/a | 1 | n/a | 0 | 0.1% | n/a |
| 1953年11月期 | 単体 | 151 | ▲1.7% | 2 | n/a | 0 | 0.5% | n/a |
| 1954年11月期 | 単体 | 207 | +37.0% | 2 | n/a | 0 | 0.3% | n/a |
| 1955年11月期 | 単体 | 235 | +13.6% | 3 | n/a | 0 | 0.4% | n/a |
| 1956年11月期 | 単体 | 342 | +45.2% | n/a | 1 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年11月期 | 単体 | 430 | +25.7% | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年11月期 | 単体 | 371 | ▲13.5% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年11月期 | 単体 | 471 | +26.9% | n/a | 1 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年11月期 | 単体 | 548 | +16.3% | 5 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年11月期 | 単体 | 530 | ▲3.4% | 6 | 3 | 1 | 0.4% | n/a |
| 1962年11月期 | 単体 | 525 | ▲0.9% | 7 | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1963年11月期 | 単体 | 601 | +14.5% | n/a | n/a | 3 | 0.5% | n/a |
| 1964年11月期 | 単体 | 648 | +7.8% | n/a | n/a | 2 | 0.4% | n/a |
| 1965年11月期 | 単体 | 673 | +3.8% | n/a | n/a | 1 | 0.2% | n/a |
| 1966年11月期 | 単体 | 775 | +15.2% | n/a | n/a | 1 | 0.3% | n/a |
| 1967年11月期 | 単体 | 886 | +14.4% | n/a | n/a | 2 | 0.2% | n/a |
| 1968年11月期 | 単体 | 869 | ▲2.0% | n/a | n/a | 0 | 0.1% | n/a |
| 1969年11月期 | 単体 | 920 | +5.9% | n/a | 0 | 2 | 0.2% | n/a |
| 1970年11月期 | 単体 | 997 | +8.4% | n/a | 3 | 2 | 0.2% | n/a |
| 1971年11月期 | 単体 | 1,076 | +8.0% | n/a | 2 | 1 | 0.2% | n/a |
| 1972年09月期 | 単体 | 980 | ▲8.9% | 13 | 2 | 2 | 0.2% | n/a |
| 1973年09月期 | 単体 | 1,789 | +82.4% | 35 | 21 | 6 | 0.4% | n/a |
| 1974年09月期 | 単体 | 2,137 | +19.5% | n/a | 3 | 1 | 0.1% | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956年版)変則8ヶ月決算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、上場会社総覧(1961年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1967年版、1971年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)変則10ヶ月決算、会社年鑑
出典・参考
7件
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- 日本企業要覧 1964年版「イトマン」
- 日本企業要覧 1970年版「イトマン」
- 日本企業要覧 1974年版「イトマン」
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- マネジメント 1978年 勝田健