イトマン:洋反物商「羽州屋」の創業と伊藤萬商店の設立
羽州屋の直輸入から伊藤萬商店の生産会社経営へ
1883年〜南本町の洋反物商から舶来品の直輸入へ
1883年1月、のちに初代社長となる伊藤萬助氏が、大阪・南本町の心斎橋筋に店員5人の洋反物商「羽州屋」を開いた。輸入織物を扱う小店であり、これが伊藤萬の起点となった。当時の日本では洋反物を扱う商いが始まって間もなく、舶来の織物は神戸と横浜に構えた外国商館が握り、問屋はそこから買うほかに手が無かった。仕入れの経路を他人に押さえられている以上、問屋の利は仲介の差益に限られ、品揃えも値決めも店の側では動かせない。羽州屋を起点に、伊藤萬では創業から四代にわたり同族の社長が続いた。ただし出発点にあったのは、需要は伸びるのに調達の条件を選べない立場だった。
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [1]1883年1月、初代伊藤萬助が大阪・南本町(心斎橋筋)で店員5人の洋反物商「羽州屋」を開業した
- [4]創業当時は洋反物業界の黎明期で、洋反物問屋は舶来織物を神戸・横浜の外国商館の手を経て輸入していた
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [2]1883年1月に初代伊藤萬助が大阪市南本町で開業した洋反物商「羽州屋」が伊藤萬の起源にあたる
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [3]伊藤萬は1883年に心斎橋で輸入織物を扱う羽州屋伊藤萬商店として創業した繊維中心の老舗商社である
- [5]伊藤萬では創業以来四代にわたり同族の社長が続いた
1889年5月、伊藤萬助氏は本町4丁目へ店舗を新築して移り、神戸と横浜の商館から更紗や洋傘地といった輸入品を直に買い付ける形に改めた。1891年にはロンドンから紅金巾、スレーキ、毛布、ビロードを直輸入し、商館を挟まずに海外の売り手と結んだ。この年に始めた直輸入が、仕入れ値の決定権を店の側へ移す転機となった。翌1892年、伊藤九兵衛氏らと共同出資で大阪毛布製造を興し、のちに伊藤萬助氏がその社長を務めた。毛布は直輸入の品目の一つであり、輸入で扱う品をそのまま国内生産へ移す試みでもあった。舶来品を売る問屋が、同じ品をつくる会社の経営へ踏み出した最初の一手だった。
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [6]1889年5月、本町4丁目に店舗を新築し、神戸・横浜の外国商館から更紗・洋傘地など輸入品の直接取引を行った
- [7]1891年、ロンドンから紅金巾・スレーキ・毛布・ビロードなどの直輸入を開始した
- [9]1892年、伊藤九兵衛らと共同で大阪毛布製造を創立し、のちに伊藤萬助が社長へ就任した
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [8]羽州屋は1891年に直輸入業務を始めた
販路は当初の店頭売りから国内の出張販売へ広がった。1901年以降は全国へ、1908年以後は朝鮮、台湾、満州へと売り先が伸びた。舶来織物の直輸入で握った品揃えを、売り歩く相手の側から広げていった形である。1916年2月には輸出部を創設して羽州洋行と称し、本格的な輸出業務を始めた。仕向け先は中国のほか、ジャワ、シンガポールに及んだ。対中貿易の必要から置いたこの輸出部は中国各地へ店を構え、中国向け輸出の取扱高で当時のわが国業界の首位に立った。開業から三十余年を経て、羽州屋は舶来品を仕入れて国内で売る問屋から、織物を域外の市場へ送り出す輸出商へ商売の中心を移していた。
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [10]当初の店頭売りから国内出張販売へ、さらに朝鮮・満州・台湾へ進出した
- [12]1916年に本格的な輸出業務を開始し、対中貿易の必要から羽州洋行を創設した
- [14]対中貿易の必要から羽州洋行を創設して中国各地へ勢力を伸ばし、中国向け輸出でわが国業界第1位の地歩を築いた
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [11]販路を1901年以降は全国へ、1908年以後は朝鮮・台湾・満州へ拡張した
- [13]1916年2月に創設した輸出部(羽州洋行)は中国・ジャワ・シンガポールなどへ輸出を行った
参考文献[1]-[14]
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [1]1883年1月、初代伊藤萬助が大阪・南本町(心斎橋筋)で店員5人の洋反物商「羽州屋」を開業した
- [4]創業当時は洋反物業界の黎明期で、洋反物問屋は舶来織物を神戸・横浜の外国商館の手を経て輸入していた
- [8]羽州屋は1891年に直輸入業務を始めた
- [10]当初の店頭売りから国内出張販売へ、さらに朝鮮・満州・台湾へ進出した
- [12]1916年に本格的な輸出業務を開始し、対中貿易の必要から羽州洋行を創設した
- [14]対中貿易の必要から羽州洋行を創設して中国各地へ勢力を伸ばし、中国向け輸出でわが国業界第1位の地歩を築いた
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [2]1883年1月に初代伊藤萬助が大阪市南本町で開業した洋反物商「羽州屋」が伊藤萬の起源にあたる
- [6]1889年5月、本町4丁目に店舗を新築し、神戸・横浜の外国商館から更紗・洋傘地など輸入品の直接取引を行った
- [7]1891年、ロンドンから紅金巾・スレーキ・毛布・ビロードなどの直輸入を開始した
- [9]1892年、伊藤九兵衛らと共同で大阪毛布製造を創立し、のちに伊藤萬助が社長へ就任した
- [11]販路を1901年以降は全国へ、1908年以後は朝鮮・台湾・満州へ拡張した
- [13]1916年2月に創設した輸出部(羽州洋行)は中国・ジャワ・シンガポールなどへ輸出を行った
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」
- [3]伊藤萬は1883年に心斎橋で輸入織物を扱う羽州屋伊藤萬商店として創業した繊維中心の老舗商社である
- [5]伊藤萬では創業以来四代にわたり同族の社長が続いた
1918年〜株式会社への改組と創業以来最大の損失
1918年2月、中国向けの高級無地綿布を加工するため、共同出資者の市居氏と合資会社の大阪染工を起こした。輸出先の求める仕上げの工程を、自らの出資先に担わせる構えである。同年5月18日には羽州屋を株式会社へ改め、資本金は300万円、商号は伊藤萬商店とし、伊藤萬助氏が初代社長に就いた。翌1919年1月にはシベリア向けの販売も始めた。しかし同年4月に初代社長が逝去し、二代目の伊藤萬助氏が40歳で跡を継いだ。個人商店の資本と信用では担いきれない規模へ取引が膨らみ、法人への改組と世代の交代がわずか1年の間に重なった。
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [15]1918年2月、中国向け高級無地綿布加工のため市居氏と共同出資で大阪染工(合資)を起こした
- [16]1918年5月18日に羽州屋を株式会社へ改組し、資本金300万円の伊藤萬商店と改称、初代社長に伊藤萬助が就任した
- [18]1919年1月にシベリアへ販路を拡張し、同年4月に初代社長が逝去した
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [17]1918年、資本金300万円で株式会社へ改組し、株式会社伊藤萬商店を創立した
- [19]1919年、初代社長の死去にともない二代目伊藤萬助が40歳の若さで社長に就任した
1920年の大恐慌は、資本金500万円の約半分にのぼる損失を伊藤萬商店にもたらした。創業以来もっとも重い打撃であり、輸出の前線を畳んで同年6月に羽州洋行を閉じた。第一次世界大戦の終結後に訪れた不況で、在外市場の需要も国内の相場も同時に崩れた局面だった。中国向けで業界第1位まで積み上げた輸出の拠点を、創設から4年で手放したことになる。それでも二代目社長以下の全社員が穴埋めに当たり、2年後には損失を埋め戻して1割配当を行うまでに立ち直った。恐慌を切り抜けた経験が、のちに川上へ資本を投じる判断の下地になったのだろう。
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [20]1920年の大恐慌時に資本金500万円の約半分にもおよぶ大損失をこうむった
- [21]1920年の損失は創業以来最大の危急存亡の事態と記された
- [24]社長以下全社員の努力で切り抜け、2年後には損失を埋め合わせて1割配当を行うまで立ち直った
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [22]1920年6月に羽州洋行を閉鎖した
- [23]羽州洋行の閉鎖は欧州大戦後の経済不況によるものであった
二代目社長の伊藤萬助氏は、経営者の務めを店の仕組みを改めることに置いた。大福帳が常であった当時に複式簿記を採り入れ、店則を定め、意匠部を新設し、花形商品だった友禅と着尺の図案を懸賞で広く集めた。社章も社名の頭文字であるMとIを組み合わせた図案で、社員から集まった案の中から選ばれた。損益を数字で把握する仕組みと、売る柄を自ら設計する部門とを、同じ時期に据えたことになる。1924年4月には中国へモスリンの宣伝と販売に赴いて成果を上げ、翌1925年4月に輸出部を再開した。以後の輸出は東南アジア方面に重きを置いた。損失の後に打った手は経費の削減ではなく、商いの作法の置き換えだった。
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [25]二代目社長の伊藤萬助は、絶えざる革新こそ経営者に課せられた最大の使命であるとの経営理念を持っていた
- [26]大福帳時代にあって複式簿記制度の採用、店則の制定、意匠部の新設、友禅・着尺の懸賞図案の大募集を断行した
- [27]社章は社名のイニシャルであるMとIを図案化したもので、社員の応募図案の中から採用された
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [28]1924年4月、中国へモスリンの宣伝および販売に赴いて成果を上げた
- [29]1925年4月に輸出部を再開した
- [30]輸出部の再開後はとくに東南アジア方面へ積極的な輸出を行った
参考文献[15]-[30]
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [15]1918年2月、中国向け高級無地綿布加工のため市居氏と共同出資で大阪染工(合資)を起こした
- [16]1918年5月18日に羽州屋を株式会社へ改組し、資本金300万円の伊藤萬商店と改称、初代社長に伊藤萬助が就任した
- [18]1919年1月にシベリアへ販路を拡張し、同年4月に初代社長が逝去した
- [22]1920年6月に羽州洋行を閉鎖した
- [23]羽州洋行の閉鎖は欧州大戦後の経済不況によるものであった
- [28]1924年4月、中国へモスリンの宣伝および販売に赴いて成果を上げた
- [29]1925年4月に輸出部を再開した
- [30]輸出部の再開後はとくに東南アジア方面へ積極的な輸出を行った
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [17]1918年、資本金300万円で株式会社へ改組し、株式会社伊藤萬商店を創立した
- [19]1919年、初代社長の死去にともない二代目伊藤萬助が40歳の若さで社長に就任した
- [20]1920年の大恐慌時に資本金500万円の約半分にもおよぶ大損失をこうむった
- [21]1920年の損失は創業以来最大の危急存亡の事態と記された
- [24]社長以下全社員の努力で切り抜け、2年後には損失を埋め合わせて1割配当を行うまで立ち直った
- [25]二代目社長の伊藤萬助は、絶えざる革新こそ経営者に課せられた最大の使命であるとの経営理念を持っていた
- [26]大福帳時代にあって複式簿記制度の採用、店則の制定、意匠部の新設、友禅・着尺の懸賞図案の大募集を断行した
- [27]社章は社名のイニシャルであるMとIを図案化したもので、社員の応募図案の中から採用された
1921年〜加工会社の経営から戦時の取扱商品の入れ替えへ
1921年11月、伊勢の宮川に資本金200万円の宮川モスリンを創立した。原料から糸、織物、加工、製品までを一本の方針でつなぐ。二代目社長の伊藤萬助氏は、そこまで揃えれば仕入れる値も売る柄も他社に委ねずに済むと見た。加工問屋が自ら生産会社を持つ形であり、繊維の流通では珍しい構えである。1923年2月には捺染友禅が伸びるのを見て、日本染業を和歌山に置いた。本染めの友禅が機械による捺染へ置き換わるという読みから設けた専属工場で、モスリンの友禅染めが伸びる余地も織り込んでいた。素材の調達から染めまでを内製化し、のちにコンバーターと呼ばれる機能を自前で持った。売り場から退くのではなく、売れる柄を自ら決めるために川上を押さえた。
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [31]1921年11月、伊勢宮川に資本金200万円の宮川モスリン(のちの大日本紡績宮川工場)を創立した
- [34]1923年2月、捺染友禅の台頭に鑑み和歌山に日本染業を設立した
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [32]問屋の地盤強化には原料・糸・織物・加工・製品まで一貫性のある経営方針が必要との判断から宮川モスリンを創設した
- [33]宮川モスリンは加工問屋が経営する生産会社として業界の発展に貢献した
- [35]本染め友禅は機械捺染に圧倒されると判断し、1923年に和歌山へ専属捺染工場を創立した
- [36]モスリン友禅の将来の発展性を洞察したうえで和歌山に専属捺染工場を創立した
- [37]一連の生産会社の経営は、今日でいうコンバーター機能を発揮するものであった
1933年8月、創業50周年にあたり、本町4丁目の角に地上7階地下2階の社屋が竣工した。竣工した社屋について、当時の評は『ガスビルとともに当時の御堂筋の二大近代建築として人々の目を見はらせた』というものだった。移転にあわせ、店は設備と売り方の両方を新しくした。1936年には、天然繊維に代わる素材を得るため、京都帝国大学へ当時の金で30万円を寄付した。織物を仕入れて売る問屋の本業からは遠い支出である。これを基金として、学内へ財団法人日本化学繊維研究所が置かれた。同研究所が生んだ京大合成一号が、のちのビニロンである。織物を売る問屋の関与は、原料の一段手前にある素材の研究まで及んでいた。
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [38]1933年8月、かねて建築中の本町4丁目の社屋が竣工した
- [40]社屋竣工と同時に近代式の設備および販売方法を採用し、経営の革新を図った
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [39]創業50周年にあたる1933年、本町4丁目角に地上7階地下2階の社屋が完成し移転した
- [41]天然繊維に代わる合成繊維の将来を見越し、当時の金で30万円を京都帝国大学へ寄付した
- [42]寄付を基金として1936年に京都帝国大学内へ財団法人日本化学繊維研究所が設立された
- [43]日本化学繊維研究所で発明された京大合成一号が、のちのビニロンである
日華事変の後は扱える品が細り、1939年には国産原料の銘仙を扱い始めた。しかし翌1940年の七・七禁令により、金銀糸を入れた高級絹織物は販売を禁じられた。太平洋戦争に入ると繊維品は配給統制の下に入り、内需向けの取扱は減る一方となった。そこで薬品、食料品、雑貨へ品目を広げて収益を確保し、木材製造と航空機修理の工場を傍系会社として持つに至った。天津、上海、青島、南京など中国各地には支店出張所を置き、天津へは内地から捺染と染色の設備を運んで加工に当たった。商号を伊藤萬と改めたのは、この戦時下の1943年5月である。
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [44]日華事変後の取扱商品減少に伴い、1939年に国産原料による銘仙の取扱を開始した
- [45]1940年の七・七禁令により金銀糸入り高級絹織物の販売が停止され、打撃を受けた
- [46]太平洋戦争に入ると繊維品は完全な配給統制下に置かれ、内需用繊維品の取扱は減少の一途をたどった
- [47]取扱商品を薬品・食料品・雑貨へ広げて収益確保に努め、傍系会社として木材製造・航空機修理工場も経営した
- [48]天津・上海・青島・南京など中国各地に支店出張所を設置・拡張し、天津では内地から捺染・染色設備を移送して加工を営んだ
- [49]1943年5月に商号を伊藤萬へ変更した
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [50]1943年に社名を伊藤萬株式会社へ変更した
参考文献[31]-[50]
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- [31]1921年11月、伊勢宮川に資本金200万円の宮川モスリン(のちの大日本紡績宮川工場)を創立した
- [34]1923年2月、捺染友禅の台頭に鑑み和歌山に日本染業を設立した
- [38]1933年8月、かねて建築中の本町4丁目の社屋が竣工した
- [40]社屋竣工と同時に近代式の設備および販売方法を採用し、経営の革新を図った
- [44]日華事変後の取扱商品減少に伴い、1939年に国産原料による銘仙の取扱を開始した
- [45]1940年の七・七禁令により金銀糸入り高級絹織物の販売が停止され、打撃を受けた
- [46]太平洋戦争に入ると繊維品は完全な配給統制下に置かれ、内需用繊維品の取扱は減少の一途をたどった
- [47]取扱商品を薬品・食料品・雑貨へ広げて収益確保に努め、傍系会社として木材製造・航空機修理工場も経営した
- [48]天津・上海・青島・南京など中国各地に支店出張所を設置・拡張し、天津では内地から捺染・染色設備を移送して加工を営んだ
- [49]1943年5月に商号を伊藤萬へ変更した
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- [32]問屋の地盤強化には原料・糸・織物・加工・製品まで一貫性のある経営方針が必要との判断から宮川モスリンを創設した
- [33]宮川モスリンは加工問屋が経営する生産会社として業界の発展に貢献した
- [35]本染め友禅は機械捺染に圧倒されると判断し、1923年に和歌山へ専属捺染工場を創立した
- [36]モスリン友禅の将来の発展性を洞察したうえで和歌山に専属捺染工場を創立した
- [37]一連の生産会社の経営は、今日でいうコンバーター機能を発揮するものであった
- [39]創業50周年にあたる1933年、本町4丁目角に地上7階地下2階の社屋が完成し移転した
- [41]天然繊維に代わる合成繊維の将来を見越し、当時の金で30万円を京都帝国大学へ寄付した
- [42]寄付を基金として1936年に京都帝国大学内へ財団法人日本化学繊維研究所が設立された
- [43]日本化学繊維研究所で発明された京大合成一号が、のちのビニロンである
- [50]1943年に社名を伊藤萬株式会社へ変更した
出典・参考
3件
- 『会社銀行八十年史』1955年「伊藤萬」(2篇 日本会社史)
- 『企業の歴史 : 明治百年』1968年「伊藤萬」(3編 企業の歴史)
- 銀行時評 1976年「河村住友銀元常務を社長に据えた伊藤萬の再建針路」