第2章 年〜年

アシックス:神戸ポートアイランド本社とスポーツ工学研究所の新設

1978年〜三社合併の後の総合スポーツ用品化と、鬼塚喜八郎社長の郷里の鳥取アシックス工業

1977年の三社合併の翌1978年、鬼塚喜八郎社長は総合スポーツ用品メーカーとしての商品開発と販売の方針を示した。合併時点のアシックスは資本金26億2900万円、売上高400億円、従業員1200人の規模だった。鬼塚喜八郎氏は低成長下の対応策に、減量経営・労使一体・本物志向の新商品・販売戦略・小回りの利く生産体制の5点を挙げた。商品開発は競技人口の上位3〜5%の選手向けに機能を詰め、派生品を中間層へ下ろす「頂上作戦」を採った。鬼塚喜八郎氏は、専門メーカー3社の合併を『弱者の戦略から強者の戦略』への転換と位置づけた。資金面では1978年にロンドンで転換社債を発行し、低い自己資本比率の引き上げを図った。

  • 科学と工業 1978年「不況下におけるマーケティング戦略」(鬼塚喜八郎)
    • [1]1978年5月の講演で鬼塚喜八郎社長が総合スポーツ用品メーカー・アシックスとしての商品開発とマーケティングの方針を説明
    • [3]オイルショック後の対応策として減量・労使一体の運命共同体・本物志向の新商品開発・マーケティング戦略・小回りの利く生産体制の5点を挙げる
    • [4]スポーツ人口の上位3-5%のトップクラスを狙って商品を開発し、準ずる企画品を中間層へ下ろす「頂上作戦」
    • [5]専門企業3社のトータル化を「弱者の戦略から強者の戦略」への転換と述べる
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • [2]合併時の資本金26億2900万円、売り上げ400億円、従業員1200人
    • [6]昭和53年ロンドンで転換社債(外債1500万ドル)を発行、低い自己資本比率の改善が狙い

1980年10月、アシックスはスポーツシューズの生産工場として鳥取アシックス工業を設立した。鬼塚喜八郎社長は1978年時点で、多様化に小回りが効くよう工場をすべて分立させ、国内11社の別会社にしていた。鳥取県は鬼塚喜八郎氏の郷里で、旧制鳥取一中を卒業した土地でもあった。鳥取アシックス工業はのちに山陰アシックス工業と改称し、野球やサッカーのスパイクシューズを製造した。1985年のわかとり国体では昭和天皇が同工場を視察し、県内の関係会社の工場は鳥取市と境港の2か所にあった。郷里との縁が、生産子会社の立地の選定に作用したと推察される。

  • アシックス 有価証券報告書 第72期(2025年12月期)【沿革】
    • [7]1980年10月、スポーツシューズの生産工場として鳥取アシックス工業株式会社(のちの山陰アシックス工業)を設立
  • 科学と工業 1978年「不況下におけるマーケティング戦略」(鬼塚喜八郎)
    • [8]工場は多様化の小回りが効くように一切分立して別会社とし、国内に11、台湾と西独に1ずつ
  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
    • [9]鬼塚喜八郎氏は大正7年鳥取県生まれ、昭和11年旧制鳥取第一中学校卒業
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • [10]山陰アシックス工業で野球・サッカーのスパイクシューズの製造現場を昭和天皇に案内
    • [11]昭和60年10月のわかとり国体の折に昭和天皇が山陰アシックス工業を視察
    • [12]県内には鳥取市と境港に関係会社の二工場

1981年7月、アシックスは米国の販売会社を改め、新拠点としてアシックスタイガーコーポレーションを設立した。鬼塚喜八郎氏は東京五輪の後、国内ブランドのままでは輸入品に市場を奪われるとみて、欧米市場で海外メーカーと競う方針を採った。米国では1963年からブルーリボンスポーツ社に販売を任せたが、ブルーリボンスポーツ社は他社製品の仕入れに切り替えた。サブブランドの使用権をめぐる訴訟の和解金は、弁護士費用を含め1億数千万円に上った。鬼塚喜八郎氏はこの販売店育成の失敗を機に、先進国でのマーケティング戦略を本格化した。代理店に任せず、自社の販売会社で米国市場に当たる体制への切り替えだったとみられる。

  • アシックス 有価証券報告書 第72期(2025年12月期)【沿革】
    • [13]1981年7月、アシックススポーツオブアメリカINC.を廃し、米国市場開拓の新拠点としてアシックスタイガーコーポレーションを設立
  • 月刊監査役 1980年11月号「不透明・変革時代を生き抜く私の企業経営の勘どころ」(鬼塚喜八郎)
    • [14]東京五輪後、国内ブランドのままでは舶来品に食われるとみて、欧米市場で海外メーカーの商品と戦える商品にする方針で海外へ進出
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • [15]東京五輪の1年前にフィリップ・ナイト氏に米国での販売を任せ、7年後にブルーリボンスポーツ社は日本の商社の勧誘で他メーカーからの仕入れに切り替え
    • [16]サブブランドの使用権をめぐる訴訟の和解金は弁護士費用を含め1億数千万円
    • [17]米国での販売店育成の失敗を発奮材料に先進国でのマーケティング戦略を本格化
参考文献[1]-[17]
  • 科学と工業 1978年「不況下におけるマーケティング戦略」(鬼塚喜八郎)
    • [1]1978年5月の講演で鬼塚喜八郎社長が総合スポーツ用品メーカー・アシックスとしての商品開発とマーケティングの方針を説明
    • [3]オイルショック後の対応策として減量・労使一体の運命共同体・本物志向の新商品開発・マーケティング戦略・小回りの利く生産体制の5点を挙げる
    • [4]スポーツ人口の上位3-5%のトップクラスを狙って商品を開発し、準ずる企画品を中間層へ下ろす「頂上作戦」
    • [5]専門企業3社のトータル化を「弱者の戦略から強者の戦略」への転換と述べる
    • [8]工場は多様化の小回りが効くように一切分立して別会社とし、国内に11、台湾と西独に1ずつ
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • [2]合併時の資本金26億2900万円、売り上げ400億円、従業員1200人
    • [6]昭和53年ロンドンで転換社債(外債1500万ドル)を発行、低い自己資本比率の改善が狙い
    • [10]山陰アシックス工業で野球・サッカーのスパイクシューズの製造現場を昭和天皇に案内
    • [11]昭和60年10月のわかとり国体の折に昭和天皇が山陰アシックス工業を視察
    • [12]県内には鳥取市と境港に関係会社の二工場
    • [15]東京五輪の1年前にフィリップ・ナイト氏に米国での販売を任せ、7年後にブルーリボンスポーツ社は日本の商社の勧誘で他メーカーからの仕入れに切り替え
    • [16]サブブランドの使用権をめぐる訴訟の和解金は弁護士費用を含め1億数千万円
    • [17]米国での販売店育成の失敗を発奮材料に先進国でのマーケティング戦略を本格化
  • アシックス 有価証券報告書 第72期(2025年12月期)【沿革】
    • [7]1980年10月、スポーツシューズの生産工場として鳥取アシックス工業株式会社(のちの山陰アシックス工業)を設立
    • [13]1981年7月、アシックススポーツオブアメリカINC.を廃し、米国市場開拓の新拠点としてアシックスタイガーコーポレーションを設立
  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
    • [9]鬼塚喜八郎氏は大正7年鳥取県生まれ、昭和11年旧制鳥取第一中学校卒業
  • 月刊監査役 1980年11月号「不透明・変革時代を生き抜く私の企業経営の勘どころ」(鬼塚喜八郎)
    • [14]東京五輪後、国内ブランドのままでは舶来品に食われるとみて、欧米市場で海外メーカーの商品と戦える商品にする方針で海外へ進出

1982年〜脱同族を掲げた鬼塚喜八郎社長と、ポートアイランド本社・スポーツ工学研究所

1985年8月、鬼塚喜八郎社長は創業家に経営を継がせない方針を改めて示した。当時アシックスには、鬼塚喜八郎氏の長女の婿と、副社長の寺西光治氏の長男・二男、臼井一馬氏の長男の4人が在籍していた。長女の婿はまだ係長級で、35〜36歳で役員にすることはないと鬼塚喜八郎氏は明言した。根にあったのは、戦後に『幸せの世襲があってたまるか』と感じた経験だった。1977年の三社合併でも、子を後継者として特別扱いしないことが最終合意の条件だった。1979年の政経人によれば、鬼塚喜八郎氏は1964年の上場時に持株比率を10%前後に下げ、管理職の登用に試験制を採っていた。

  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
    • [18]鬼塚喜八郎社長が脱同族経営を方針に掲げ、世襲を否定する考えを語る
    • [19]鬼塚の長女の婿、寺西の長男・二男、臼井の長男の4人がアシックスに在籍(いずれも30代)
    • [20]娘婿はまだ係長クラスで、35-36歳で役員にするようなことは絶対にしないと鬼塚が述べる
    • [21]戦後「幸せの世襲があってたまるか」と強く感じたという
    • [22]三社合併で鬼塚が求めた条件は「同族企業からの脱皮」、最終合意で子供を後継者として特別扱いしないと申し合わせ
  • 政経人 1979年「関西経営者評伝(19) アシックス社長鬼塚喜八郎」
    • [23]社員持株制度で昭和39年4月の大証二部上場時に鬼塚の保有持株は10%前後、管理職の登用に試験制を採用

1985年7月、アシックスは神戸ポートアイランドの新本社に本店を移し、同年11月にスポーツ工学研究所を設置した。合併後に置いた大阪・吹田の本社が手狭になり、鬼塚喜八郎氏は神戸市の企業誘致に応じて用地を取得した。新本社の建設費は60億円で、借入をせずに建てた。研究所の設置目的は、科学的な基礎研究の体制強化であった。鬼塚喜八郎氏は1978年時点で、運動力学と人体工学に基づく素材の基礎研究を商品開発の根底に置いていた。本社と研究所を同じ年に神戸で整え、機能で競う製品の開発拠点を一か所に集めたことになる。

  • アシックス 有価証券報告書 第72期(2025年12月期)【沿革】
    • [24]1985年7月神戸ポートアイランドに新本社社屋を建設し本店移転、同年11月スポーツ工学研究所を設置
    • [28]スポーツ工学研究所の設置は科学的基礎研究体制強化のため
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • [25]合併時の本社はジィティオの大阪・吹田の社屋としたがすぐ手狭になり新本社用地を探した
    • [26]神戸市の企業誘致に応じポートアイランドのファッションタウンの一角に用地を購入、昭和60年7月完成
  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
    • [27]新本社ビルは60億円を投じ無借金で建設
  • 科学と工業 1978年「不況下におけるマーケティング戦略」(鬼塚喜八郎)
    • [29]運動力学・人体工学を考えながらマテリアルの基礎研究を進め、大学教授とチームを組んで商品開発

1986年7月、アシックスはオーストラリア市場開拓のため、販売会社アシックスタイガーオセアニアを設立した。オーストラリアは、オニツカタイガーの競技用シューズが1956年のメルボルン大会で初めて五輪選手に採用された国だった。鬼塚喜八郎氏は1985年時点で、世界市場での競争相手に、規模でアシックスの4倍の西独アディダスを挙げていた。1978年の講演では、米国と西独の販売会社を両翼に置き、総合化した品目で海外戦略に入る方針を示していた。オセアニアに続き、アシックスは1990年から1992年にかけてフランス・オランダ・イタリア・英国に販売会社を設立した。北半球と季節が逆の市場で、年間の販売の偏りを均す狙いもあったのだろう。

  • アシックス 有価証券報告書 第72期(2025年12月期)【沿革】
    • [30]1986年7月、オーストラリア市場開拓のためアシックスタイガーオセアニアPTY.LTD.を設立
    • [34]欧州の販売強化のため1990年3月フランス、1991年5月オランダ、同6月イタリア、1992年3月英国に販売会社を設立
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • [31]オニツカタイガーの競技用シューズの五輪選手への正式採用は昭和31年のメルボルン大会から
  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
    • [32]世界市場では自社より4倍大きい西独アディダスが強敵
  • 科学と工業 1978年「不況下におけるマーケティング戦略」(鬼塚喜八郎)
    • [33]販売会社が米国ロサンゼルスと西独デュッセルドルフにあり、両翼に拠点を持ちトータルした線で海外戦略に入る
参考文献[18]-[34]
  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
    • [18]鬼塚喜八郎社長が脱同族経営を方針に掲げ、世襲を否定する考えを語る
    • [19]鬼塚の長女の婿、寺西の長男・二男、臼井の長男の4人がアシックスに在籍(いずれも30代)
    • [20]娘婿はまだ係長クラスで、35-36歳で役員にするようなことは絶対にしないと鬼塚が述べる
    • [21]戦後「幸せの世襲があってたまるか」と強く感じたという
    • [22]三社合併で鬼塚が求めた条件は「同族企業からの脱皮」、最終合意で子供を後継者として特別扱いしないと申し合わせ
    • [27]新本社ビルは60億円を投じ無借金で建設
    • [32]世界市場では自社より4倍大きい西独アディダスが強敵
  • 政経人 1979年「関西経営者評伝(19) アシックス社長鬼塚喜八郎」
    • [23]社員持株制度で昭和39年4月の大証二部上場時に鬼塚の保有持株は10%前後、管理職の登用に試験制を採用
  • アシックス 有価証券報告書 第72期(2025年12月期)【沿革】
    • [24]1985年7月神戸ポートアイランドに新本社社屋を建設し本店移転、同年11月スポーツ工学研究所を設置
    • [28]スポーツ工学研究所の設置は科学的基礎研究体制強化のため
    • [30]1986年7月、オーストラリア市場開拓のためアシックスタイガーオセアニアPTY.LTD.を設立
    • [34]欧州の販売強化のため1990年3月フランス、1991年5月オランダ、同6月イタリア、1992年3月英国に販売会社を設立
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • [25]合併時の本社はジィティオの大阪・吹田の社屋としたがすぐ手狭になり新本社用地を探した
    • [26]神戸市の企業誘致に応じポートアイランドのファッションタウンの一角に用地を購入、昭和60年7月完成
    • [31]オニツカタイガーの競技用シューズの五輪選手への正式採用は昭和31年のメルボルン大会から
  • 科学と工業 1978年「不況下におけるマーケティング戦略」(鬼塚喜八郎)
    • [29]運動力学・人体工学を考えながらマテリアルの基礎研究を進め、大学教授とチームを組んで商品開発
    • [33]販売会社が米国ロサンゼルスと西独デュッセルドルフにあり、両翼に拠点を持ちトータルした線で海外戦略に入る

1987年〜アシックス商事への資本参加と、会社は公器と語った鬼塚喜八郎会長

アシックスは1983年、靴資材と靴製品の商社である弘吉商事に資本参加し、関係会社とした。弘吉商事は1955年に田嶋弘吉氏が法人化し、オニツカにナイロンを販売した繊維資材の商社だった。1977年に靴製品の販売へ広げ、1984年からアシックスタイゴンを扱った。1987年、弘吉商事はアシックスに第三者割当増資を行い、社名をアシックス商事に改めた。田嶋弘吉社長は参画の理由に、長年の取引と、企業を私物化しない鬼塚喜八郎社長の経営姿勢への共鳴を挙げた。1991年2月時点でアシックスとの取引は商事の売上の約30%を占め、主力商品の仕入先は台湾と韓国だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1991年2月(田嶋弘吉)
    • [35]昭和58年アシックスから資本参加を受け同社の関係会社に参画
    • [36]昭和30年に法人化した弘吉商事はシューズメーカーへ繊維資材を販売する商社で、ナイロンをオニツカに販売したのがアシックスとのつながりの始まり
    • [37]昭和52年に靴の製品販売を開始し、59年にアシックスタイゴンの販売を開始
    • [38]昭和62年アシックスに対する第三者割当増資を契機に社名をアシックス商事に変更
    • [39]創業以来の緊密な取引関係と鬼塚社長の経営姿勢への共鳴からグループに参画
    • [41]アシックスとの取引は総売上の約30%・総仕入の約10%、主力商品の仕入先は台湾・韓国
  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
    • [40]鬼塚は企業を私物化しない姿勢を取り、創業10周年に一族の所有株式の70%を従業員に分与

1990年4月、アシックスは研究開発と人材育成の拠点として、スポーツ工学研究所・人財開発センターを竣工させた。施設は神戸市の西神ニュータウンにあり、350メートルのトラックや大型体育館、分析用の機器を備えた。研究所では選手の練習成果を分析し、大学や企業と新しいスポーツ用品や健康商品を開発する計画だった。鬼塚喜八郎氏は1985年時点で、流通業界も対象とする人材育成センターの建設を5年以内の目標に挙げていた。合併から14年で社内に守りの姿勢が生じたとみて、鬼塚喜八郎氏は創業の原点に立ち返る方針を示した。1991年の自伝では、アシックスが総合スポーツ用品メーカーから総合健康企業へ踏み出したと記した。

  • アシックス 有価証券報告書 第72期(2025年12月期)【沿革】
    • [42]1990年4月、研究開発・人材育成の新たな拠点としてアシックススポーツ工学研究所・人財開発センター(神戸市)竣工
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • [43]西神ニュータウンのスポーツ工学研究所は350メートルトラック、大型体育館、検査・分析用ハイテク機器を備える
    • [44]内外の一流選手の練習成果の分析、大学や一般企業の研究者と連携した新しいスポーツ用品や健康商品の研究開発
    • [46]合併して14年、守りの姿勢になっており創業の原点に立ち返ることが有効と記す
    • [47]アシックスは総合スポーツ用品メーカーから総合健康企業へと一歩踏み出したところと記す
  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
    • [45]向こう5年以内に流通業界も対象とする人材育成センターを作りたいと鬼塚が語る

1992年4月、鬼塚喜八郎氏は代表取締役会長に就任し、1949年の鬼塚商会創業から43年目に社長を退任した。会長就任の3カ月後、鬼塚喜八郎氏は『会社は経営者の私物じゃない、公器だ』と語った。創業7年目に結核で余命1〜2年と告げられ、後継者を育ててから死のうと決めた経験が根にあった。1991年の自伝では、実力ある者を公平に後継者へ登用する方針と、後継者づくりの仕上げを掲げていた。1985年にも、能力と徳を備えた人間が自分の後に続くことが必要だと語っていた。創業家の外へ経営を委ねたこの交代が、欧米とオセアニアの販売網を次の経営陣が引き継ぐ前提になった。

  • アシックス 有価証券報告書 第52期(2006年3月期)【役員の状況】
    • [48]鬼塚喜八郎 平成4年4月 当社代表取締役会長
  • 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「鬼塚喜八郎 アシックス」
    • [49]1949年鬼塚商会を設立、1992年4月会長に就任
  • 日経ビジネス(1992年7月20日)
    • [50]「会社は経営者の私物じゃない、公器だ」を命拾いして教えられた戒めと語る
    • [51]創業7年目の2回目の結核で余命1-2年と宣告され、後継者を育ててから死のうと決心
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • [52]実力ある者を公平に幹部・後継者に登用する考え、後継者づくりの仕上げをしたいと記す
  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
    • [53]人をリードできる能力と徳を備えた人間が私の後も続いて行くことが必要と語る
参考文献[35]-[53]
  • 証券アナリストジャーナル 1991年2月(田嶋弘吉)
    • [35]昭和58年アシックスから資本参加を受け同社の関係会社に参画
    • [36]昭和30年に法人化した弘吉商事はシューズメーカーへ繊維資材を販売する商社で、ナイロンをオニツカに販売したのがアシックスとのつながりの始まり
    • [37]昭和52年に靴の製品販売を開始し、59年にアシックスタイゴンの販売を開始
    • [38]昭和62年アシックスに対する第三者割当増資を契機に社名をアシックス商事に変更
    • [39]創業以来の緊密な取引関係と鬼塚社長の経営姿勢への共鳴からグループに参画
    • [41]アシックスとの取引は総売上の約30%・総仕入の約10%、主力商品の仕入先は台湾・韓国
  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
    • [40]鬼塚は企業を私物化しない姿勢を取り、創業10周年に一族の所有株式の70%を従業員に分与
    • [45]向こう5年以内に流通業界も対象とする人材育成センターを作りたいと鬼塚が語る
    • [53]人をリードできる能力と徳を備えた人間が私の後も続いて行くことが必要と語る
  • アシックス 有価証券報告書 第72期(2025年12月期)【沿革】
    • [42]1990年4月、研究開発・人材育成の新たな拠点としてアシックススポーツ工学研究所・人財開発センター(神戸市)竣工
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • [43]西神ニュータウンのスポーツ工学研究所は350メートルトラック、大型体育館、検査・分析用ハイテク機器を備える
    • [44]内外の一流選手の練習成果の分析、大学や一般企業の研究者と連携した新しいスポーツ用品や健康商品の研究開発
    • [46]合併して14年、守りの姿勢になっており創業の原点に立ち返ることが有効と記す
    • [47]アシックスは総合スポーツ用品メーカーから総合健康企業へと一歩踏み出したところと記す
    • [52]実力ある者を公平に幹部・後継者に登用する考え、後継者づくりの仕上げをしたいと記す
  • アシックス 有価証券報告書 第52期(2006年3月期)【役員の状況】
    • [48]鬼塚喜八郎 平成4年4月 当社代表取締役会長
  • 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「鬼塚喜八郎 アシックス」
    • [49]1949年鬼塚商会を設立、1992年4月会長に就任
  • 日経ビジネス(1992年7月20日)
    • [50]「会社は経営者の私物じゃない、公器だ」を命拾いして教えられた戒めと語る
    • [51]創業7年目の2回目の結核で余命1-2年と宣告され、後継者を育ててから死のうと決心

1978年〜1993年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1978年01月期 単体 295 n/a 18 6.1% 9 n/a
1979年01月期 単体 432 +46.4% 20 4.6% 10 n/a
1980年01月期 単体 495 +14.6% 22 4.4% 11 n/a
1981年01月期 単体 611 +23.4% 28 4.6% 12 n/a
1982年01月期 単体 728 +19.1% 62 8.5% 25 n/a
1983年01月期 単体 810 +11.3% 64 7.9% 30 n/a
1984年01月期 単体 865 +6.8% 66 7.6% 32 n/a
1985年01月期 単体 957 +10.6% 62 6.5% 30 n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1993年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

10件
出典・参考
  • アシックス 有価証券報告書 第52期(2006年3月期)【役員の状況】
  • アシックス 有価証券報告書 第72期(2025年12月期)【沿革】
  • 月刊監査役 1980年11月号「不透明・変革時代を生き抜く私の企業経営の勘どころ」(鬼塚喜八郎)
  • 日経ビジネス(1985年8月19日)
  • 証券アナリストジャーナル 1991年2月(田嶋弘吉)
  • 日経ビジネス(1992年7月20日)
  • 鬼塚喜八郎『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
  • 科学と工業 1978年「不況下におけるマーケティング戦略」(鬼塚喜八郎)
  • 政経人 1979年「関西経営者評伝(19) アシックス社長鬼塚喜八郎」
  • 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「鬼塚喜八郎 アシックス」

免責事項およびポリシー