ノーリツ鋼機:ミニラボ世界シェア首位と東証一部上場
1986年〜国内九割・世界八割の占有率と、株式を公開しない中堅メーカー
1983年度のカラー写真処理機の国内占有率は9割を超え、ミニラボは世界市場の8割に達した。売上高は1980年度の70億円から1985年度の260億円へ、輸出比率は40%から80%へ動いている。それでいて従業員は910人、資本金は4,800万円にとどまった。西本氏は株式の公開にも増資にも踏み切らず、写真業界を知らない株主が重要な投資に口を挟めばワンマン経営ができなくなる、上場に意味は見いだせないと述べている。1985年8月には和歌山市梅原に本社工場を竣工させ、67万平方メートルの敷地へ工場と事務所棟、研修棟を並べている。売上規模に比して資本金が極端に小さいのは、意思決定を一人に集めておくための構えであった。
- 石垣 1986年2月号「世界市場を席巻する写真業界の小さな巨人 ノーリツ鋼機株式会社」(日本商工会議所)
- [1]1983年度のカラー写真処理機器の国内シェアは90%を超え、ミニラボは世界市場の80%を占めた。
- [2]売上高は1980年度70億円・輸出比率40%から、1985年度260億円・輸出比率80%へ推移した。
- [3]1986年時点の従業員数は910人、資本金は4,800万円であった。
- [4]西本貫一は、写真業界や機械を知らない者が株主として重要な投資に口を出せばワンマン経営ができなくなるとして資本金を増やさず、株式上場の利点も認めなかった。
- ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」
- [5]1985年8月に和歌山市梅原の本社工場が竣工した。総面積67万平方メートルの敷地に工場・事務所棟・研修棟のほかゲストルームとヘリポートを備えている。
1993年の時点でも、同社は世界のミニラボ市場の約六割を押さえていた。自ら一社で切り開いた市場だったが、規模が広がると後を追う会社が現れ、1980年代後半には同じ種類の製品を出すメーカーが複数に及んでいた。そのなかでシェアを保てたのは、新製品で先を行くことと保守の仕組みの二つによる。前者の例がQSS-12型で、1988年に開発されたこの機種は、印画紙を露光するレンズにズームレンズを業界で最初に採用した。後者では、納めた機械の一台ごとに納入の時期と故障の履歴を記したカルテを作っており、1970年代後半にはそれをデータベースに移している。外からは見えにくいこの蓄積が、競合の参入を阻む壁になった。
- 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
- [6]1993年時点で同社は世界のミニラボ市場の約60%を確保していた。
- [7]1980年代後半には複数のメーカーが同様のミニラボ製品を開発し市場に投入した。
- [8]1988年に開発したQSS-12型は、印画紙に露光するレンズを業界で初めてズームレンズにした。
- 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
- [9]販売した機械一台ごとに納入時期や故障歴を盛り込んだカルテを作成し、当初の手書き処理を1970年代後半にデータベース化した。
西本氏は販売を商社に任せることを避けた。間に業者が入れば最初こそ大量の注文が来るが、止まったときに客の反応が分からないという理由で、国内でも海外でも自社の販売網を持つべきだと語っている。営業担当者には機械を売り込むのではなく、その店が発展する方法を考えて情報を提供せよと指示した。1993年3月期の売上高は約450億円で、内訳はミニラボが8割、大型ラボが1割、部品が1割である。1990年には写真業界最高の栄誉とされるPMA HALL OF FAMEに選ばれ、翌1991年には日本人として初めて米ロチェスター大学の法学博士号を受けた。
- 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
- [10]西本貫一は、商社を通すと注文が止まったときに顧客の生の声がわからないとして、国内でも海外でも独自の販売網を持つことが重要だと述べた。
- [11]西本貫一は営業担当者に対し、機械を売り込もうとするのではなく顧客である店が発展する方法を真剣に考えて情報を提供せよと指示していた。
- [13]西本貫一は1990年に写真業界最高の栄誉とされるPMA HALL OF FAMEに選出され、1991年に日本人として初めて米国ロチェスター大学の法学博士号を授与された。
- 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
- [12]1993年3月期の売上高は約450億円で、内訳は大型ラボ1割・ミニラボ8割・パーツ関係1割であった。
参考文献[1]-[13]
- 石垣 1986年2月号「世界市場を席巻する写真業界の小さな巨人 ノーリツ鋼機株式会社」(日本商工会議所)
- [1]1983年度のカラー写真処理機器の国内シェアは90%を超え、ミニラボは世界市場の80%を占めた。
- [2]売上高は1980年度70億円・輸出比率40%から、1985年度260億円・輸出比率80%へ推移した。
- [3]1986年時点の従業員数は910人、資本金は4,800万円であった。
- [4]西本貫一は、写真業界や機械を知らない者が株主として重要な投資に口を出せばワンマン経営ができなくなるとして資本金を増やさず、株式上場の利点も認めなかった。
- ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」
- [5]1985年8月に和歌山市梅原の本社工場が竣工した。総面積67万平方メートルの敷地に工場・事務所棟・研修棟のほかゲストルームとヘリポートを備えている。
- 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
- [6]1993年時点で同社は世界のミニラボ市場の約60%を確保していた。
- [7]1980年代後半には複数のメーカーが同様のミニラボ製品を開発し市場に投入した。
- [8]1988年に開発したQSS-12型は、印画紙に露光するレンズを業界で初めてズームレンズにした。
- [12]1993年3月期の売上高は約450億円で、内訳は大型ラボ1割・ミニラボ8割・パーツ関係1割であった。
- 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
- [9]販売した機械一台ごとに納入時期や故障歴を盛り込んだカルテを作成し、当初の手書き処理を1970年代後半にデータベース化した。
- 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
- [10]西本貫一は、商社を通すと注文が止まったときに顧客の生の声がわからないとして、国内でも海外でも独自の販売網を持つことが重要だと述べた。
- [11]西本貫一は営業担当者に対し、機械を売り込もうとするのではなく顧客である店が発展する方法を真剣に考えて情報を提供せよと指示していた。
- [13]西本貫一は1990年に写真業界最高の栄誉とされるPMA HALL OF FAMEに選出され、1991年に日本人として初めて米国ロチェスター大学の法学博士号を授与された。
1994年〜大証二部への上場と、株式売出しによる非同族会社化
1996年2月14日、ノーリツ鋼機は大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。十年前に上場の利点を認めなかった会社が、創業から数えて53年目に公開市場へ出たことになる。上場時点のミニラボ市場占有率は国内47.5%、日本を除く海外50.2%で、販売子会社16社・駐在員事務所6か所・支店1か所の販売網を自前で持っていた。同社は研究開発から製造・販売・保守までを自社で抱える一貫体制を強みとし、顧客の要望を新製品へ短期間で反映できることを差別化の根拠に置いている。機械は富士写真フイルム・コニカ・三菱製紙・コダックのいずれの感光材料にも対応させ、顧客が機器と感材を別々に選べる状態を保った。参入障壁は機械の性能ではなく、機械を売ったあとに続く関係の側にあった。
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
- [14]1996年2月14日、大阪証券取引所市場第二部に株式を上場した。
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [15]1996年時点のミニラボ市場シェアは国内47.5%、日本を除く海外50.2%で、全世界に支店1・駐在員事務所6・販売子会社16による販売サービスネットワークを持っていた。
- [16]同社は研究開発から製造・販売・サービスまでの一貫体制を確立し、顧客の多様な要望を新製品の開発や改善へ素早く反映できることを差別化の根拠としていた。
- [17]同社の製品は国内の富士写真フイルム・コニカ・三菱製紙、海外のコダックなどすべての感光材料メーカーの材料に対応し、顧客は機器の選択と感光材料の選択を別々に行えた。
1996年2月1日、感光材料・フィルム・カメラの各メーカーが新写真システムを発表し、四月から市場へ出た。フィルムの規格が三十五ミリから変わるため対応する処理機が要る。ノーリツ鋼機は発表に先んじて1996年1月から対応機器の販売を始め、大型現像所から小規模なミニラボ店まで四つの階層すべてに機種を用意した。1995年10月のロンドンと1996年2月のラスベガスの展示会に出展し、規格が動く前にインフラを置きにいっている。感光材料メーカーが規格を決める産業で、処理機メーカーが採れる手は、決まった規格へ最も早く機械を合わせることだけであった。
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [18]1996年2月1日に各感光材料メーカー・フィルムメーカー・カメラメーカーが新写真システム(アドバンストフォトシステム)を発表し、4月22日から発売された。
- [19]同社は1996年1月から新写真システム対応機器の販売を始め、大型現像所・大手ミニラボ店・中堅ミニラボ店・小規模ミニラボ店の四区分すべてに対応する機種を用意した。
- [20]1995年10月のロンドンおよび1996年2月のラスベガスの写真関連機器展示会に新写真システム対応機器を出展した。
1997年9月に大阪証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、同年11月7日には東京証券取引所市場第一部へ上場した。同年7月、西本氏らが保有株の売出しを実施して同社は非同族会社となり、留保金課税が外れている。七月14日の百株への括り直しと月末の230万株の売出しによって株主数は大きく増え、翌年3月末の株主に対して優待制度を設けた。1997年9月中間期の売上高は312億87百万円で前年同期比1.1%増、株主資本比率は78.4%に達している。1998年3月期は売上高585億円、経常利益110億円を見込み、二期続けての最高益を計画した。創業者が一人で握っていた資本は、二年のうちに市場へ開かれた。
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
- [21]1997年9月1日に大阪証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、同年11月7日に東京証券取引所市場第一部へ上場した。
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [22]1997年7月に西本貫一らの株式売出しを実施したことにより非同族会社となり、留保金課税がなくなった。
- [23]1997年7月14日の100株括り直しと7月末の230万株売出しにより株主数が増加し、1998年3月末の株主を対象に株主優待制度を実施することとした。
- [24]1997年9月中間期の売上高は31,287百万円で前年同期比1.1%増、株主資本比率は78.4%であった。
- [25]1998年3月期は売上高585億円・経常利益110億円を計画し、前年に続く過去最高の増収増益を見込んでいた。
参考文献[14]-[25]
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
- [14]1996年2月14日、大阪証券取引所市場第二部に株式を上場した。
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [15]1996年時点のミニラボ市場シェアは国内47.5%、日本を除く海外50.2%で、全世界に支店1・駐在員事務所6・販売子会社16による販売サービスネットワークを持っていた。
- [16]同社は研究開発から製造・販売・サービスまでの一貫体制を確立し、顧客の多様な要望を新製品の開発や改善へ素早く反映できることを差別化の根拠としていた。
- [17]同社の製品は国内の富士写真フイルム・コニカ・三菱製紙、海外のコダックなどすべての感光材料メーカーの材料に対応し、顧客は機器の選択と感光材料の選択を別々に行えた。
- [18]1996年2月1日に各感光材料メーカー・フィルムメーカー・カメラメーカーが新写真システム(アドバンストフォトシステム)を発表し、4月22日から発売された。
- [19]同社は1996年1月から新写真システム対応機器の販売を始め、大型現像所・大手ミニラボ店・中堅ミニラボ店・小規模ミニラボ店の四区分すべてに対応する機種を用意した。
- [20]1995年10月のロンドンおよび1996年2月のラスベガスの写真関連機器展示会に新写真システム対応機器を出展した。
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
- [21]1997年9月1日に大阪証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、同年11月7日に東京証券取引所市場第一部へ上場した。
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [22]1997年7月に西本貫一らの株式売出しを実施したことにより非同族会社となり、留保金課税がなくなった。
- [23]1997年7月14日の100株括り直しと7月末の230万株売出しにより株主数が増加し、1998年3月末の株主を対象に株主優待制度を実施することとした。
- [24]1997年9月中間期の売上高は31,287百万円で前年同期比1.1%増、株主資本比率は78.4%であった。
- [25]1998年3月期は売上高585億円・経常利益110億円を計画し、前年に続く過去最高の増収増益を見込んでいた。
1998年〜収益源の海外への移動と、フルデジタル化への備え
上場と前後して、収益を支える地域が入れ替わった。1997年9月中間期の地域別売上は国内40.4%、南北アメリカ18.6%、欧州18.4%、アジア・オセアニア17.7%であったが、1999年9月中間期には国内が30.8%へ落ち、南北アメリカが38.1%へ上がっている。1997年のアジア通貨危機ではタイ・マレーシア・インドネシアの通貨切り下げで販売が苦しくなり、日本と北米の強化でこれを補った。米国での占有率は1998年12月時点で57.2%に達し、現地にミニラボメーカーが存在しなかったことがその背景にある。従来は手を出さなかったドラッグストアなどのチェーン店へ営業方針を転じたことも効いた。
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号/1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [26]1997年9月中間期の地域別売上高比率は国内40.4%・欧州18.4%・南北アメリカ18.6%・アジアオセアニア17.7%であったが、1999年9月中間期には国内30.8%・南北アメリカ38.1%となった。
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [27]1997年にタイ・マレーシア・インドネシアが通貨を切り下げアジア向け販売が苦しくなったため、日本と北米で販売を強化して補う方針を採った。
- 証券アナリストジャーナル 1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [28]1998年12月時点の米国市場における同社シェアは57.2%で、米国内に現地のミニラボメーカーがなかったことが要因とされた。
- [29]従来はリスクが高いとしてチェーン展開する店舗への営業を控えていたが、ドラッグストアの増加を受けて方針を改め、大手ドラッグストア向けの実績が伸びた。
1997年10月のロンドンの展示会では、テーマにデジタルが掲げられた。デジタルカメラで撮った画像も、安く効率よく出すなら従来の銀塩印画紙へ出力するほうがよいという方向が示され、デジタル処理に対応したQSS-23型の需要が伸びている。翌1998年10月には新機種QSS-2611を投入した。研究開発費は1996年度の31億7,400万円から1999年度の52億9,400万円へ膨らみ、普通の写真からハイブリッド、さらにフルデジタルへと同時に開発を求められる状態になった。規格が動くたびに機械を作り直す産業では、開発費は売上より速く増える。
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [30]1997年10月にロンドンで開かれたPMAの展示会はデジタルをテーマに掲げた。
- [31]デジタルカメラで撮った写真をきれいに安く効率よく出力するには銀塩ペーパーへ出力するほうがよいとされ、デジタル処理に対応したQSS-23型の需要が大きかった。
- 証券アナリストジャーナル 1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [32]1998年10月に新機種QSS-2611を投入し、1999年9月中間期には機種別構成の35.5%を占めた。
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号/1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [33]研究開発費は1996年度3,174百万円から1999年度5,294百万円へ増加し、普通の写真からハイブリッド、さらにフルデジタルへと幅広い開発を要求されていた。
同社はデジタルカメラの普及を脅威とは見ていなかった。フィルムが要らなければ消費者は撮影枚数を増やすので、紙に出す総量はむしろ増える。一般の消費者は手間をかけられないから、どこかに頼んで出力するようになるというのが1999年時点の読みである。世界で稼働するミニラボは1998年12月時点で14万3,886台、国内占有率は1999年8月で50.5%に達していた。2000年3月期は売上高539億円を計画している。読みのうち出力先が銀塩に残るという部分は当たったが、出力を請け負う街の写真店そのものが消えるという筋書きは、この時点の見立てに入っていなかった。
- 証券アナリストジャーナル 1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [34]同社はデジタルカメラの普及について、フィルムが不要になり撮影枚数が増えるためプリント総量は増え、一般消費者は手間をかけられないためミニラボでの出力が定着するとみていた。
- [35]1998年12月時点で世界で稼働するミニラボは14万3,886台、1999年8月の同社の国内シェアは50.5%であった。
- [36]2000年3月期の通期予想は売上高539億円(前期比4.9%増)であった。
参考文献[26]-[36]
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号/1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [26]1997年9月中間期の地域別売上高比率は国内40.4%・欧州18.4%・南北アメリカ18.6%・アジアオセアニア17.7%であったが、1999年9月中間期には国内30.8%・南北アメリカ38.1%となった。
- [33]研究開発費は1996年度3,174百万円から1999年度5,294百万円へ増加し、普通の写真からハイブリッド、さらにフルデジタルへと幅広い開発を要求されていた。
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [27]1997年にタイ・マレーシア・インドネシアが通貨を切り下げアジア向け販売が苦しくなったため、日本と北米で販売を強化して補う方針を採った。
- [30]1997年10月にロンドンで開かれたPMAの展示会はデジタルをテーマに掲げた。
- [31]デジタルカメラで撮った写真をきれいに安く効率よく出力するには銀塩ペーパーへ出力するほうがよいとされ、デジタル処理に対応したQSS-23型の需要が大きかった。
- 証券アナリストジャーナル 1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- [28]1998年12月時点の米国市場における同社シェアは57.2%で、米国内に現地のミニラボメーカーがなかったことが要因とされた。
- [29]従来はリスクが高いとしてチェーン展開する店舗への営業を控えていたが、ドラッグストアの増加を受けて方針を改め、大手ドラッグストア向けの実績が伸びた。
- [32]1998年10月に新機種QSS-2611を投入し、1999年9月中間期には機種別構成の35.5%を占めた。
- [34]同社はデジタルカメラの普及について、フィルムが不要になり撮影枚数が増えるためプリント総量は増え、一般消費者は手間をかけられないためミニラボでの出力が定着するとみていた。
- [35]1998年12月時点で世界で稼働するミニラボは14万3,886台、1999年8月の同社の国内シェアは50.5%であった。
- [36]2000年3月期の通期予想は売上高539億円(前期比4.9%増)であった。
筆者考察
1986年のノーリツ鋼機は、ミニラボ世界市場の8割を握りながら資本金4,800万円の非上場会社だった。西本貫一にとって株式の公開とは、写真を知らない者に投資の判断を渡すことでしかない。その構えを十年で覆させたのは、市場が広がったことではなく、規格を決めるのが自分たちではないという条件だろう。処理の処方は感光材料メーカーが指定し、フィルムの規格が変われば機械は作り直しになる。1996年の新写真システムがまさにそれで、対応機は規格の発表前から用意しなければ間に合わない。先行投資を続ける体力は、一人の資本では支えきれない。
市場占有率という数字は、需要そのものが続くことを前提にしたときだけ意味を持つ。1999年のノーリツ鋼機は国内50.5%、米国57.2%を握り、世界では14万台を超えるミニラボが動いていた。デジタルカメラが普及しても撮影枚数は増えるため紙への出力は減らない、という同社の読みは、出力が銀塩に残るかぎり正しい。誤っていたのは、その出力を誰が請け負うかという部分である。街の写真店とDPE店が受け皿として存在し続けることを、同社も業界も疑わなかった。機械を置く場所が消えるとき、占有率は何も守らない。
出典・参考
11件
- ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
- 石垣 1986年2月号「世界市場を席巻する写真業界の小さな巨人 ノーリツ鋼機株式会社」(日本商工会議所)
- 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
- 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
- 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- 証券アナリストジャーナル 1997年12月号/1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
- 証券アナリストジャーナル 1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)