第1章 年〜年

ノーリツ鋼機:報国写真館から写真印画自動水洗機とQSS-2型ミニラボへ

1943年〜戦時下の報国写真館と、停電のなかで動く写真印画自動水洗機

1943年4月、西本貫一氏は和歌山市で報国写真館を開業した。中国戦線で左手に貫通銃創を負って傷痍軍人として帰国し、右手だけでも続けられる仕事として写真技師の道を選んでいる。開業してまもなく軍の撮影を引き受けるようになったが、出征前の召集兵は一度に数百人を撮らねばならない。西本氏はカメラの位置を固定したうえで全身・七分身・半身の構図ごとにあらかじめピントを合わせておき、兵が立った位置でそのまま切る段取りに改めた。出納と撮影番号の記録には助手を雇い、撮影から切り離している。戦死者の遺影の引き伸ばしも、十日かかると答える同業が並ぶなかで一時間で返した。速さは設備ではなく段取りから出ていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [1]1943年4月、西本貫一が個人で報国写真館を和歌山市に開き、これを創業としている。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [2]西本貫一は1939年に中国戦線で左手貫通骨折を負い傷痍軍人として帰国し、右手だけでできる仕事として写真技師を志した。
  • ノーリツ鋼機株式会社編『ノーリツ鋼機のあゆみ 創立四十三周年記念誌』(1993年)第一部立志
    • [3]報国写真館は軍の召集兵撮影で、カメラ位置を固定し全身・七分身・半身の構図ごとに事前にピントを合わせる方法を採った。
    • [4]金銭の出納や撮影番号の記録といった周辺業務は助手を雇うことで分担させ、撮影の速度を上げた。
    • [5]戦死者の遺影の引き伸ばしを、他店が十日を要すると答えるなかで一時間で仕上げた。

1945年4月、和歌山市で第一回の強制疎開が行われ、元寺町の報国写真館も対象となって立ち退いた。西本氏は空襲の被害を抑えるため、あらかじめ写真材料を知人宅や複数の倉庫へ分散させており、市街が焼けたあとも材料を手元に残していた。終戦後は焼け残った空き家を見つけて営業を再開し、和歌山に駐留した米軍の兵士を相手にポートレートを撮っている。いつ移動するか分からない兵士は数日も待てない。西本氏は一般の十倍の料金を取るかわりに二日で焼き上げ、一日平均五十枚を撮って1945年8月からの約半年を不眠不休で働いた。同じく米兵相手に店を開いた他の写真店は、ほどなく材料不足に陥っている。差は疎開させるという判断ひとつで付いた。

  • ノーリツ鋼機株式会社編『ノーリツ鋼機のあゆみ 創立四十三周年記念誌』(1993年)第一部立志
    • [6]1945年4月の和歌山市第一回強制疎開で、元寺町の報国写真館が対象となり立ち退いた。
    • [7]西本貫一は空襲の被害を軽減するため、写真材料を知り合いや倉庫へ分散して保管していた。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [8]終戦後、焼け残った空き家で写真館を再開し、和歌山に駐留した米軍兵士の撮影を始めた。
    • [9]米兵のポートレートを一般の十倍の料金で撮って二日で仕上げ、一日平均五十枚を撮影し、1945年8月から約半年間を不眠不休で働いた。
    • [10]同様に米軍兵士相手の商売を始めた他の写真店は、まもなく材料不足に陥った。

水洗の工程はモーターでドラムを回す方式だったが、電気の供給が安定せずたびたび停電し、途中で止まると印画紙が変色した。撮り直しのできない写真が変わり果てるこの不具合は、全国の写真館に共通していた。西本氏が考えたのは、電気に頼らず水そのものの重さで動き、必要な時間だけ水洗を続ける機械である。その写真印画紙自動水洗機を作って売り出したのが1951年3月で、一台5万円で約1万台が売れ、売上は5億円に及んだ。特許の取得を足場に、1956年6月には和歌山市関戸で資本金100万円の有限会社ノーリツ光機製作所を興した。自身の作業場で感じた不便を製品に仕立て、写真館の主人は機械メーカーへ転じたのである。

  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [11]1951年当時、写真印画紙の水洗工程はモーターでドラムを回しており、電力供給が不安定で停電がしばしば起こった。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [12]停電や断水で水洗が完全にできず写真が変色する問題に対し、西本貫一は水力を応用して水車の原理で自動的に必要な時間の水洗ができる機械を開発した。
    • [14]自動水洗機は一台5万円で約1万台、5億円を売り上げた。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [13]1951年3月、写真印画紙自動水洗機の製作販売により創業した。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
    • [15]1956年6月、和歌山市関戸に資本金100万円の有限会社ノーリツ光機製作所を設立した。
参考文献[1]-[15]
  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [1]1943年4月、西本貫一が個人で報国写真館を和歌山市に開き、これを創業としている。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [2]西本貫一は1939年に中国戦線で左手貫通骨折を負い傷痍軍人として帰国し、右手だけでできる仕事として写真技師を志した。
    • [8]終戦後、焼け残った空き家で写真館を再開し、和歌山に駐留した米軍兵士の撮影を始めた。
    • [9]米兵のポートレートを一般の十倍の料金で撮って二日で仕上げ、一日平均五十枚を撮影し、1945年8月から約半年間を不眠不休で働いた。
    • [10]同様に米軍兵士相手の商売を始めた他の写真店は、まもなく材料不足に陥った。
    • [12]停電や断水で水洗が完全にできず写真が変色する問題に対し、西本貫一は水力を応用して水車の原理で自動的に必要な時間の水洗ができる機械を開発した。
    • [14]自動水洗機は一台5万円で約1万台、5億円を売り上げた。
  • ノーリツ鋼機株式会社編『ノーリツ鋼機のあゆみ 創立四十三周年記念誌』(1993年)第一部立志
    • [3]報国写真館は軍の召集兵撮影で、カメラ位置を固定し全身・七分身・半身の構図ごとに事前にピントを合わせる方法を採った。
    • [4]金銭の出納や撮影番号の記録といった周辺業務は助手を雇うことで分担させ、撮影の速度を上げた。
    • [5]戦死者の遺影の引き伸ばしを、他店が十日を要すると答えるなかで一時間で仕上げた。
    • [6]1945年4月の和歌山市第一回強制疎開で、元寺町の報国写真館が対象となり立ち退いた。
    • [7]西本貫一は空襲の被害を軽減するため、写真材料を知り合いや倉庫へ分散して保管していた。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [11]1951年当時、写真印画紙の水洗工程はモーターでドラムを回しており、電力供給が不安定で停電がしばしば起こった。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [13]1951年3月、写真印画紙自動水洗機の製作販売により創業した。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
    • [15]1956年6月、和歌山市関戸に資本金100万円の有限会社ノーリツ光機製作所を設立した。

1961年〜耐久性で高いシェアを占めた大型ラボ市場と、全国に敷いたサービスセンター網

1961年11月、ノーリツ光機製作所は株式会社へ組織を変更してノーリツ鋼機となり、西本氏が代表取締役に就いた。同月、基幹現像所向けの白黒フィルム自動現像機RF-20Eを売り出している。写真処理機の市場は規模が小さく大企業の参入が起こりにくいため、国内の主要メーカーは戦前からの先発企業を含めて三社にとどまっていた。そのなかで訴求点に選んだのは耐久性である。現像液や定着液に触れる部分に他社が塩化ビニルを使っていたのに対し、モリブデンを含むステンレスとチタンを採り、表面研磨や製造方法から研究し直した。処理時間や薬品の処方は感光材料メーカーが指定するため、機械の側で差を付けられるのは腐食への強さだけだという読みである。

  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
    • [16]1961年11月に株式会社組織へ変更して社名をノーリツ鋼機株式会社とし、代表取締役に西本貫一が就任した。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [17]1961年11月、基幹現像所用の白黒フィルム自動現像機RF-20Eの販売を開始した。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)
    • [18]写真処理機器の市場規模は大きくないため他企業の参入がなく、1976年時点でも主要メーカーは三社にとどまっていた。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [19]他メーカーの写真処理機に塩ビが多く使われていたのに対し、西本貫一はモリブデンを含んだステンレスやチタンを採用し、表面研磨や製造方法から研究開発を進めた。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [20]処理時間は感光材料メーカーが指定するため、薬品による腐食への強さが差別化の切り口になると同社は位置づけた。

1964年7月のカラーフィルム自動現像機RF-C1と、翌年のカラーペーパー自動現像機CS-300で、ノーリツ鋼機はカラー化に機械を合わせた。販路は富士写真フイルムのチェーンラボを通す形を取り、売上高は1967年に約2億8千万円、1968年に4億5千万円、1969年に6億5千万円と伸びている。やがてサクラ・三菱・コダック系の現像所へも納め、国内の大型ラボ市場で8割を超える占有率を得た。もっとも8割といっても実体は感光材料メーカーへの供給に近く、このままでは下請けに甘んじるという危機感が西本氏にはあった。機械は他社の販売網に乗って売れており、買い手と直に向き合う関係にはなっていなかった。

  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [21]1964年7月に基幹現像所用カラーフィルム自動現像機RF-C1、1965年にカラーペーパー自動現像機CS-300を発売した。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)
    • [22]1965年に富士写真フイルムを通じそのチェーンラボへ販売する体制をつくり、売上高は1967年約2億8千万円、1968年4億5千万円、1969年6億5千万円と増加した。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [23]富士写真フイルムに加えサクラ・三菱・コダック系のラボへも納入し、1960年代後半には大型ラボ市場の80%以上を占めた。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [24]国内シェアは8割に達していたが形としては大手感光材料メーカーのOEMであり、独自の販売網を持たなければ下請けに甘んじるという危機感を西本貫一は抱いた。

機械の販売を支えたのは、売ったあとの体制だった。1964年3月の東京を皮切りに、1966年に福岡、1967年に名古屋と札幌、1970年に広島、1971年に仙台、1973年に大阪へサービスセンターを置いている。カラーの自動現像機は止まれば現像所の作業そのものが止まるため、故障への即応が購入の条件になった。一方、和歌山市には機械工業の関連産業が乏しく外注先に恵まれなかったことから、旋盤・プレス・溶接・塗装まで自前で抱える一貫生産の体制になっている。工業所有権は1975年までに特許50件・実用新案30件を数え、開発には24人の専従組織を置いた。1975年の売上高は約30億円、従業員は267名である。

  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
    • [25]1964年3月に東京、1966年9月に福岡、1967年に名古屋と札幌、1970年10月に広島、1971年2月に仙台、1973年2月に大阪へサービスセンターを開設した。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)
    • [26]カラー写真フィルムの自動処理機器は自動機械であるため故障への機敏な修理サービスが要請され、同社は全国のサービス網を確立した。
    • [27]和歌山市は機械工業が発達しておらず利用できる関連産業が乏しかったため、各種の工作機械・金属加工機・溶接機・塗装機を自ら設備して一貫生産の体制を確立した。
    • [28]工業所有権の保有件数は特許50件・実用新案30件に達し、製品開発には24人で構成する専門の組織体制を置いていた。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)会社の概要
    • [29]1975年の売上高は30億円を超すとされ、従業員数は267名、資本金は4,800万円であった。
参考文献[16]-[29]
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
    • [16]1961年11月に株式会社組織へ変更して社名をノーリツ鋼機株式会社とし、代表取締役に西本貫一が就任した。
    • [25]1964年3月に東京、1966年9月に福岡、1967年に名古屋と札幌、1970年10月に広島、1971年2月に仙台、1973年2月に大阪へサービスセンターを開設した。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [17]1961年11月、基幹現像所用の白黒フィルム自動現像機RF-20Eの販売を開始した。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)
    • [18]写真処理機器の市場規模は大きくないため他企業の参入がなく、1976年時点でも主要メーカーは三社にとどまっていた。
    • [22]1965年に富士写真フイルムを通じそのチェーンラボへ販売する体制をつくり、売上高は1967年約2億8千万円、1968年4億5千万円、1969年6億5千万円と増加した。
    • [26]カラー写真フィルムの自動処理機器は自動機械であるため故障への機敏な修理サービスが要請され、同社は全国のサービス網を確立した。
    • [27]和歌山市は機械工業が発達しておらず利用できる関連産業が乏しかったため、各種の工作機械・金属加工機・溶接機・塗装機を自ら設備して一貫生産の体制を確立した。
    • [28]工業所有権の保有件数は特許50件・実用新案30件に達し、製品開発には24人で構成する専門の組織体制を置いていた。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [19]他メーカーの写真処理機に塩ビが多く使われていたのに対し、西本貫一はモリブデンを含んだステンレスやチタンを採用し、表面研磨や製造方法から研究開発を進めた。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [20]処理時間は感光材料メーカーが指定するため、薬品による腐食への強さが差別化の切り口になると同社は位置づけた。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [21]1964年7月に基幹現像所用カラーフィルム自動現像機RF-C1、1965年にカラーペーパー自動現像機CS-300を発売した。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [23]富士写真フイルムに加えサクラ・三菱・コダック系のラボへも納入し、1960年代後半には大型ラボ市場の80%以上を占めた。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [24]国内シェアは8割に達していたが形としては大手感光材料メーカーのOEMであり、独自の販売網を持たなければ下請けに甘んじるという危機感を西本貫一は抱いた。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)会社の概要
    • [29]1975年の売上高は30億円を超すとされ、従業員数は267名、資本金は4,800万円であった。

1976年〜店頭で四十五分に仕上げるQSSと、米国から広がったミニラボ市場

1973年の石油ショックで受注が落ち込み、大型ラボに偏った顧客構成の限界が表れた。消費者がDPE店へ預けたフィルムは仕上がりまで二、三日を要していたが、現像と焼き付けにかかる時間そのものは二時間ほどで、残りは現像所へ運ぶ時間と処理量がまとまるまでの待ち時間だった。米国やカナダのように国土の広い国では、写真店から現像所へ航空便で送るため三日から七日を要している。この流通経路を外して店頭で処理すれば待ち時間は消える。西本氏は客が待てる限界を一時間と見積もり、1976年6月に四十五分で仕上げるQSS-1型を完成させた。ところが印画紙を送るローラー・トランスポート方式で紙詰まりと傷が生じ、四、50台で製造を打ち切っている。

  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [30]1973年の第一次石油ショックの影響で受注量が減少し、その打開手段としてQSSの開発に着手した。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [31]DPE店に持ち込まれたフィルムの仕上がりまで二、三日を要していたが、現像処理自体は二時間程度で、残りはラボとDPEを結ぶ流通経路に費やされていた。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [32]アメリカ・カナダ・オーストラリアなど国土の広い国では写真店から現像所へ航空便で送るため、処理に三日から七日を要していた。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [33]西本貫一は客が待てる時間を一時間と見積もり、1976年にQSS-1型を完成させた。仕上がり時間は45分であった。
  • 近代中小企業 1985年2月号/戦略経営者 1993年11月号
    • [34]QSS-1型はローラー・トランスポート方式のため紙詰まりと印画紙の傷が生じ、四、50台の生産で中止となった。

1979年3月、ノーリツ鋼機はQSS-2型を発表した。印画紙を屋根の樋のように湾曲させて腰を持たせ、わずかな力で自走させるセルフ・サポート・ドライブ方式を独自に編み出して、紙詰まりを解いている。同時にコンピュータを載せ、薬液の温度調節と補充を自動で制御した。ただし国内では、店頭処理機が従来の得意先である大型現像所と正面から競合する。西本氏は国内で思うように売れないと見て、生き残りを賭けて自ら米国へ渡った。車社会を前提にすれば、大型スーパーで買い物をしている間に仕上げれば客は次の週まで待たずに済む。前年の1978年12月には、カリフォルニア州に販売子会社NACを設けている。

  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」
    • [35]1979年3月にコンピュータを搭載したQSS-2型が完成し、同月アメリカで開かれた写真ショーで発表された。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [36]印画紙を樋のように湾曲させて腰をつくり、わずかな力で前進させるセルフ・サポート・ドライブ方式を独自に編み出し、QSS-2型に採用した。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [37]QSSは内蔵マイコンにより処理時間を制御し、薬液の温度調節や補充も自動でコントロールした。
  • 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [38]45分で処理するQSSを開発したものの、しがらみにより国内では思うように売れず、生き残りを賭けて西本貫一自身がアメリカへ渡った。
    • [39]米国は車社会で週に一度大型スーパーでまとめ買いをするため、買い物をしている間に写真を仕上げれば次の週まで待たずに済むと西本貫一は考えた。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」会社の沿革
    • [40]1978年12月、米国カリフォルニア州に販売会社NAC(Noritsu America Corp.)を設立した。

米国市場を開いたのは一台の機械だった。カナダ総代理店ジャパン・カメラがナイアガラの滝の近くで営むDPE店にQSSを置いたところ、撮ったばかりの写真がその場で見られると評判になり、ニューヨーク・タイムズが報じて注文が殺到した。1980年1月に英国、1982年1月に西ドイツ、1984年7月に香港へ販売子会社を置き、商社を介さず自社の網で売っている。1982年度の経常利益は69億3,200万円と前年度の3.6倍に達し、紀陽銀行を抜いて和歌山県の法人所得で首位に立った。西本氏は利益が出過ぎることを嫌い、翌1983年に設計開発のノーリツ研究センターと輸出入の西本貿易を分離している。1985年には年商250億円の8割が輸出で、QSSは85カ国へ出ていた。

  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [41]カナダ総代理店ジャパン・カメラがナイアガラの滝近くで経営するDPE店にQSSを置いたところ評判となり、ニューヨーク・タイムズに取り上げられて注文が殺到した。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [42]1980年1月に英国へNORITSU (UK) LIMITED、1982年1月に西ドイツへNDG、1984年7月に香港へNORITSU (FAR EAST) LIMITEDを設立した。同社は商社を通さず独自の販売網を持つ方針を採った。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [43]1981年度の経常利益18億9,900万円に対し1982年度は69億3,200万円と3.6倍になり、紀陽銀行を抜いて和歌山県の法人所得ランキング首位となった。
    • [44]利益が出過ぎることを弊害とみた西本貫一は1982年度の決算後に会社を分割し、設計開発のノーリツ研究センターと輸出入の西本貿易を設けた。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [45]1985年時点で年間売上高250億円の80%を輸出が占め、QSSの輸出国は85カ国に及んだ。
参考文献[30]-[45]
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [30]1973年の第一次石油ショックの影響で受注量が減少し、その打開手段としてQSSの開発に着手した。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [31]DPE店に持ち込まれたフィルムの仕上がりまで二、三日を要していたが、現像処理自体は二時間程度で、残りはラボとDPEを結ぶ流通経路に費やされていた。
    • [36]印画紙を樋のように湾曲させて腰をつくり、わずかな力で前進させるセルフ・サポート・ドライブ方式を独自に編み出し、QSS-2型に採用した。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [32]アメリカ・カナダ・オーストラリアなど国土の広い国では写真店から現像所へ航空便で送るため、処理に三日から七日を要していた。
    • [37]QSSは内蔵マイコンにより処理時間を制御し、薬液の温度調節や補充も自動でコントロールした。
    • [45]1985年時点で年間売上高250億円の80%を輸出が占め、QSSの輸出国は85カ国に及んだ。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [33]西本貫一は客が待てる時間を一時間と見積もり、1976年にQSS-1型を完成させた。仕上がり時間は45分であった。
    • [43]1981年度の経常利益18億9,900万円に対し1982年度は69億3,200万円と3.6倍になり、紀陽銀行を抜いて和歌山県の法人所得ランキング首位となった。
    • [44]利益が出過ぎることを弊害とみた西本貫一は1982年度の決算後に会社を分割し、設計開発のノーリツ研究センターと輸出入の西本貿易を設けた。
  • 近代中小企業 1985年2月号/戦略経営者 1993年11月号
    • [34]QSS-1型はローラー・トランスポート方式のため紙詰まりと印画紙の傷が生じ、四、50台の生産で中止となった。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」
    • [35]1979年3月にコンピュータを搭載したQSS-2型が完成し、同月アメリカで開かれた写真ショーで発表された。
  • 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [38]45分で処理するQSSを開発したものの、しがらみにより国内では思うように売れず、生き残りを賭けて西本貫一自身がアメリカへ渡った。
    • [39]米国は車社会で週に一度大型スーパーでまとめ買いをするため、買い物をしている間に写真を仕上げれば次の週まで待たずに済むと西本貫一は考えた。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」会社の沿革
    • [40]1978年12月、米国カリフォルニア州に販売会社NAC(Noritsu America Corp.)を設立した。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [41]カナダ総代理店ジャパン・カメラがナイアガラの滝近くで経営するDPE店にQSSを置いたところ評判となり、ニューヨーク・タイムズに取り上げられて注文が殺到した。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [42]1980年1月に英国へNORITSU (UK) LIMITED、1982年1月に西ドイツへNDG、1984年7月に香港へNORITSU (FAR EAST) LIMITEDを設立した。同社は商社を通さず独自の販売網を持つ方針を採った。

筆者考察

西本貫一が売ったのは写真の機械ではなく、待ち時間の短縮である。報国写真館で戦死者の遺影を一時間で返したときも、米兵のポートレートを二日で焼き上げたときも、十倍の料金が付いたのは仕上がりの出来ではなく速さだった。停電で止まる水洗工程を水の重さで動かした自動水洗機は、その速さを人の段取りから機械の側へ移した最初の製品にあたる。大型現像所向けの自動現像機で国内の8割を占めたあとに、四十五分で仕上げるQSSへ向かったのも同じ線上にある。写真店の店主として、客が何に金を払っているかを取り違えなかった。

ただし待ち時間を売る商売は、自分の得意先とぶつかる。四十五分で仕上がる機械が店頭に置かれれば、フィルムを集めて一括処理する大型現像所は存在の理由を失う。1976年のQSS-1型が国内で売れなかったのは性能の問題ではなく、売れば既存の取引を壊すという構造の問題だった。西本が自ら米国へ渡ったのは、その構造を持たない市場がそこにしかなかったからである。広い国土と車社会は、待ち時間の価値が最も高い場所でもあった。1985年に年商250億円の8割が輸出だったのは、外を選んだ結果というより、内で売れなかった帰結である。

ノーリツ鋼機の売上高 1967年から1985年まで(単体)(百万円)

280 67年 650 69年 1,240 71年 2,000 74年 25,000 85年
  • 出所は中小企業金融公庫月報 1976年1月号(1967年から1974年)と発明 1985年2月号(1985年)。

出典・参考

17件
出典・参考
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」会社の沿革
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書
  • ノーリツ鋼機株式会社編『ノーリツ鋼機のあゆみ 創立四十三周年記念誌』(1993年)第一部立志
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)会社の概要
  • 近代中小企業 1985年2月号
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
  • 近代中小企業 1985年2月号/戦略経営者 1993年11月号
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
  • 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)

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