プレス工業:プレッス作業所の創業と自動車部分品への参入
1925年〜品川の合資会社プレッス作業所と、400トンプレスブレーキで請けた初の自動車フレーム
1925年2月16日、合資会社プレッス作業所が東京府荏原郡大井町(現在の品川区南大井)に誕生した。大阪の鋼鉄商である山本藤助商店が資本を出し、東京の服部商店のプレス技術と設備を引き継いでの発足。服部商店はトロッコ車輪の量産を狙って米国製600トンプレスを導入したものの、製品の評判が振るわず工場を閉じていた。山本藤助商店はその工場を月300円の賃料で借り入れ、営業課長の毛利繁三氏を無限責任社員として送り込んだ。資本面の代表者は山本藤助氏、資本金は5,000円である。国内で最も早いプレス加工の専門工場とされる。大型プレスの注文は乏しく、開業から約1年は600トンプレスがほぼ遊休にとどまった。品川という立地は需要から選んだものではなく、行き場を失った大型設備を引き取ったことから決まったとみられる。
- プレス工業五十年史(1975)
- [1]1925年2月16日 合資会社プレッス作業所が大井町南浜川町で創立。服部商店の工場を山本汽船が取得し、山本藤助商店が月300円で借り入れ、毛利繁三(無限責任社員)を派遣。600トンプレスは開業後約1年遊休
- [3]1925年2月16日 合資会社プレッス作業所が大井町南浜川町で創立。服部商店の工場を山本汽船が取得し、山本藤助商店が月300円で借り入れ、毛利繁三(無限責任社員)を派遣。600トンプレスは開業後約1年遊休
- [4]1925年2月16日 合資会社プレッス作業所が大井町南浜川町で創立。服部商店の工場を山本汽船が取得し、山本藤助商店が月300円で借り入れ、毛利繁三(無限責任社員)を派遣。600トンプレスは開業後約1年遊休
- [7]1925年2月16日 合資会社プレッス作業所が大井町南浜川町で創立。服部商店の工場を山本汽船が取得し、山本藤助商店が月300円で借り入れ、毛利繁三(無限責任社員)を派遣。600トンプレスは開業後約1年遊休
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [2]プレス作業所は服部商店のプレス技術・設備と山本藤助商店の資本の結合で設立。資本金5,000円。山本藤助は資本面の代表者
- [5]プレス作業所は服部商店のプレス技術・設備と山本藤助商店の資本の結合で設立。資本金5,000円。山本藤助は資本面の代表者
- 会社銀行八十年史(1955)「プレス工業」
- [6]大正14年2月 山本鋼業の事業として東京大井に(資)プレス作業所を設立。わが国最古のプレス作業専門工場
プレッス作業所は1929年5月に自動車部分品の部門へ進出した。発注元は石川島自動車製作所と東京瓦斯電気工業の2社である。その足場は、1927年1月に試作を始めた鉄道省のボギー客車用の鋼板製の支柱類にある。誤差0.4ミリ以内を求める規格に対し、600トンプレスで3回送り押しする工程では曲りと不良が続いた。そこで1927年10月に米国ジョージ・エ・オール社製の400トンプレスブレーキを購入し、折曲げを1工程にまとめた。自動車ではシャシフレームとディスクホイール、サイドフレームとクロスメンバを請け、直線部をプレスブレーキで曲げた。鉄道車両の長い支柱で身につけた折曲げの精度が、フレームの受注にそのまま生きたのだろう。
- プレス工業 有価証券報告書【沿革】
- [8]1929年5月 自動車部分品部門に進出
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [9]1929年 石川島自動車製作所・東京瓦斯電気工業から自動車部品を初受注。1927年10月 米ジョージ・エ・オール社製400トンプレスブレーキを購入、1工程で折曲げ
- [12]1929年 石川島自動車製作所・東京瓦斯電気工業から自動車部品を初受注。1927年10月 米ジョージ・エ・オール社製400トンプレスブレーキを購入、1工程で折曲げ
- プレス工業五十年史(1975)
- [10]1927年1月 鉄道省ボギー客車用柱類を試作。精度±0.4ミリ、600トンプレスで3回送り押しし曲り・不良が続出。石川島からシャシフレーム・ディスクホイール、瓦斯電からサイドフレーム・クロスメンバ。直線部は400トンプレスブレーキで曲げ
- [11]1927年1月 鉄道省ボギー客車用柱類を試作。精度±0.4ミリ、600トンプレスで3回送り押しし曲り・不良が続出。石川島からシャシフレーム・ディスクホイール、瓦斯電からサイドフレーム・クロスメンバ。直線部は400トンプレスブレーキで曲げ
- [13]1927年1月 鉄道省ボギー客車用柱類を試作。精度±0.4ミリ、600トンプレスで3回送り押しし曲り・不良が続出。石川島からシャシフレーム・ディスクホイール、瓦斯電からサイドフレーム・クロスメンバ。直線部は400トンプレスブレーキで曲げ
1930年前後から建材部門に競合会社が増え、原価すれすれの価格で受注を争うまでになり、採算は極度に悪化した。売上高は1928年12月〜1929年11月期の330,030円から、1930年12月〜1931年11月期には171,438円へ減少。プレッス作業所は建材を縮小し、1931年に三菱造船大井製作所から戦車用転輪を受注した。1932年1月には約1,000坪の大井分工場を稼働させ、当時のプレス業界で例の少ないアーク溶接機を備えた。自動車部品の生産比率は1932年に50パーセントへ達し、フレームの生産は月産50〜60台となった。建材の値崩れが、事業を自動車と軍需の部品へ寄せる契機になったと推察される。
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [14]昭和4年頃から建材の同業者が増え売価が低落、採算が極度に悪化し建材を縮小。昭和6年 三菱造船大井製作所から戦車用転輪を受注
- [16]昭和4年頃から建材の同業者が増え売価が低落、採算が極度に悪化し建材を縮小。昭和6年 三菱造船大井製作所から戦車用転輪を受注
- プレス工業五十年史(1975)
- [15]売上高 昭和3年12月〜4年11月期 330,030円、5年12月〜6年11月期 171,438円。昭和7年1月 大井分工場(約1,000坪)稼動、アーク溶接機を設置。自動車部品比率は昭和7年に50%、フレーム月産50〜60台
- [17]売上高 昭和3年12月〜4年11月期 330,030円、5年12月〜6年11月期 171,438円。昭和7年1月 大井分工場(約1,000坪)稼動、アーク溶接機を設置。自動車部品比率は昭和7年に50%、フレーム月産50〜60台
- [18]売上高 昭和3年12月〜4年11月期 330,030円、5年12月〜6年11月期 171,438円。昭和7年1月 大井分工場(約1,000坪)稼動、アーク溶接機を設置。自動車部品比率は昭和7年に50%、フレーム月産50〜60台
参考文献[1]-[18]
- プレス工業五十年史(1975)
- [1]1925年2月16日 合資会社プレッス作業所が大井町南浜川町で創立。服部商店の工場を山本汽船が取得し、山本藤助商店が月300円で借り入れ、毛利繁三(無限責任社員)を派遣。600トンプレスは開業後約1年遊休
- [3]1925年2月16日 合資会社プレッス作業所が大井町南浜川町で創立。服部商店の工場を山本汽船が取得し、山本藤助商店が月300円で借り入れ、毛利繁三(無限責任社員)を派遣。600トンプレスは開業後約1年遊休
- [4]1925年2月16日 合資会社プレッス作業所が大井町南浜川町で創立。服部商店の工場を山本汽船が取得し、山本藤助商店が月300円で借り入れ、毛利繁三(無限責任社員)を派遣。600トンプレスは開業後約1年遊休
- [7]1925年2月16日 合資会社プレッス作業所が大井町南浜川町で創立。服部商店の工場を山本汽船が取得し、山本藤助商店が月300円で借り入れ、毛利繁三(無限責任社員)を派遣。600トンプレスは開業後約1年遊休
- [10]1927年1月 鉄道省ボギー客車用柱類を試作。精度±0.4ミリ、600トンプレスで3回送り押しし曲り・不良が続出。石川島からシャシフレーム・ディスクホイール、瓦斯電からサイドフレーム・クロスメンバ。直線部は400トンプレスブレーキで曲げ
- [11]1927年1月 鉄道省ボギー客車用柱類を試作。精度±0.4ミリ、600トンプレスで3回送り押しし曲り・不良が続出。石川島からシャシフレーム・ディスクホイール、瓦斯電からサイドフレーム・クロスメンバ。直線部は400トンプレスブレーキで曲げ
- [13]1927年1月 鉄道省ボギー客車用柱類を試作。精度±0.4ミリ、600トンプレスで3回送り押しし曲り・不良が続出。石川島からシャシフレーム・ディスクホイール、瓦斯電からサイドフレーム・クロスメンバ。直線部は400トンプレスブレーキで曲げ
- [15]売上高 昭和3年12月〜4年11月期 330,030円、5年12月〜6年11月期 171,438円。昭和7年1月 大井分工場(約1,000坪)稼動、アーク溶接機を設置。自動車部品比率は昭和7年に50%、フレーム月産50〜60台
- [17]売上高 昭和3年12月〜4年11月期 330,030円、5年12月〜6年11月期 171,438円。昭和7年1月 大井分工場(約1,000坪)稼動、アーク溶接機を設置。自動車部品比率は昭和7年に50%、フレーム月産50〜60台
- [18]売上高 昭和3年12月〜4年11月期 330,030円、5年12月〜6年11月期 171,438円。昭和7年1月 大井分工場(約1,000坪)稼動、アーク溶接機を設置。自動車部品比率は昭和7年に50%、フレーム月産50〜60台
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [2]プレス作業所は服部商店のプレス技術・設備と山本藤助商店の資本の結合で設立。資本金5,000円。山本藤助は資本面の代表者
- [5]プレス作業所は服部商店のプレス技術・設備と山本藤助商店の資本の結合で設立。資本金5,000円。山本藤助は資本面の代表者
- [9]1929年 石川島自動車製作所・東京瓦斯電気工業から自動車部品を初受注。1927年10月 米ジョージ・エ・オール社製400トンプレスブレーキを購入、1工程で折曲げ
- [12]1929年 石川島自動車製作所・東京瓦斯電気工業から自動車部品を初受注。1927年10月 米ジョージ・エ・オール社製400トンプレスブレーキを購入、1工程で折曲げ
- [14]昭和4年頃から建材の同業者が増え売価が低落、採算が極度に悪化し建材を縮小。昭和6年 三菱造船大井製作所から戦車用転輪を受注
- [16]昭和4年頃から建材の同業者が増え売価が低落、採算が極度に悪化し建材を縮小。昭和6年 三菱造船大井製作所から戦車用転輪を受注
- 会社銀行八十年史(1955)「プレス工業」
- [6]大正14年2月 山本鋼業の事業として東京大井に(資)プレス作業所を設立。わが国最古のプレス作業専門工場
- プレス工業 有価証券報告書【沿革】
- [8]1929年5月 自動車部分品部門に進出
1934年〜株式会社プレス工業への改組と、川崎工場で担った陸海軍の軍需
1934年6月29日、プレッス作業所は株式会社に改組し、社名をプレス工業とした。資本金は50万円、社長は山本藤助氏、専務取締役は毛利繁三氏である。発足時点で自動車部品は売上の首位にあり、1932年6月の関税引上げで輸入車の価格が上がり、国産車メーカーに巻き返しの機会が生まれた。満州事変後の準戦時体制で軍需品の受注も増え、生産設備の拡充が急務となった。改組に合わせ、創業以来山本汽船から借りていた機械設備をすべて取得した。合資会社の枠では資本と組織の両面で拡大に備えられず、改組の狙いは経営の安定にある。借り物の設備から自前の設備へ移したことが、その後の増資と設備拡張の前提になったと考えられる。
- プレス工業 有価証券報告書【沿革】
- [19]1934年6月 株式会社に改め「プレス工業株式会社」と改称
- 会社銀行八十年史(1955)「プレス工業」
- [20]昭和9年6月 株式会社に改組、資本金50万円のプレス工業として発足、社長に山本藤助が就任
- プレス工業五十年史(1975)
- [21]昭和9年6月29日 創立総会、プレス工業株式会社設立。資本金50万円、社長山本藤助・専務毛利繁三。自動車部品が首位、昭和7年6月関税引上げ、準戦時体制で軍需増。山本汽船から借りていた機械設備を全部買収
- [22]昭和9年6月29日 創立総会、プレス工業株式会社設立。資本金50万円、社長山本藤助・専務毛利繁三。自動車部品が首位、昭和7年6月関税引上げ、準戦時体制で軍需増。山本汽船から借りていた機械設備を全部買収
- [23]昭和9年6月29日 創立総会、プレス工業株式会社設立。資本金50万円、社長山本藤助・専務毛利繁三。自動車部品が首位、昭和7年6月関税引上げ、準戦時体制で軍需増。山本汽船から借りていた機械設備を全部買収
- [24]昭和9年6月29日 創立総会、プレス工業株式会社設立。資本金50万円、社長山本藤助・専務毛利繁三。自動車部品が首位、昭和7年6月関税引上げ、準戦時体制で軍需増。山本汽船から借りていた機械設備を全部買収
1937年12月、プレス工業は本社と工場を川崎市塩浜町へ移した。第1の理由は、主要得意先の東京自動車工業が川崎市大師河原に建てていた新工場との連携を密にすることである。同社は兵器車両の需要が膨らみ、大森と鶴見の製造所だけでは注文をこなせず、試作と部品の発注を相次いで出していた。品川の本社工場と分工場はどちらも敷地が狭く、設備を増やす余地がなかった。用地は4,812坪を21,420円で取得し、移転に先立つ1937年7月には資本金を100万円へ増資している。新工場には1,500トンの油圧プレスを据え、フレームの専門加工が可能になった。得意先の隣へ工場を寄せたことで、のちのいすゞ自動車との取引の土台が築かれた可能性が高い。
- プレス工業 有価証券報告書【沿革】
- [25]1937年12月 本社・工場とも川崎市に移転
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [26]移転理由は東京自動車工業川崎製造所(現いすゞ)との業務緊密化。同社は軍需増で大森・鶴見では足りず大師河原に新工場建設中、試作・部品発注が相次ぐ。1,500トン油圧フレームプレス新設
- [27]移転理由は東京自動車工業川崎製造所(現いすゞ)との業務緊密化。同社は軍需増で大森・鶴見では足りず大師河原に新工場建設中、試作・部品発注が相次ぐ。1,500トン油圧フレームプレス新設
- [30]移転理由は東京自動車工業川崎製造所(現いすゞ)との業務緊密化。同社は軍需増で大森・鶴見では足りず大師河原に新工場建設中、試作・部品発注が相次ぐ。1,500トン油圧フレームプレス新設
- プレス工業五十年史(1975)
- [28]昭和12年12月 川崎市塩浜町へ移転完了。本社工場・分工場とも敷地狭小。用地4,812坪を2万1,420円で取得。昭和12年7月26日 資本金100万円に増資
- [29]昭和12年12月 川崎市塩浜町へ移転完了。本社工場・分工場とも敷地狭小。用地4,812坪を2万1,420円で取得。昭和12年7月26日 資本金100万円に増資
1944年4月25日、プレス工業は軍需会社に指定され、生産だけでなく経営そのものが国の管理下に入った。5月1日には軍需会社法にもとづき、専務取締役の毛利繁三氏が生産責任者に選任された。これに先立つ1940年4月には陸軍兵器本部の監督工場となっており、製品の97パーセントは軍需品である。1941年6月にはドイツのワインガルテン社製1,500トンプレスを76万円で導入し、牽引車のフレームを昼夜兼行で生産した。1945年4月21日には分散疎開の通牒を受け、長野県北佐久郡南大井村に半地下式工場を建てた。約250万円を投じた疎開工場の操業開始の予定日は8月15日で、終戦の当日にあたる。軍需の拡大は設備を大型化させた一方、経営の裁量を国に委ねる結果を招いたと読み取れる。
- プレス工業五十年史(1975)
- [31]昭和15年4月 陸軍兵器本部監督工場、製品の97%が軍需品。昭和16年6月 ワインガルテン社製1,500トンプレス(76万円)。昭和19年4月25日 軍需会社指定。昭和20年4月21日 分散疎開通牒、長野県北佐久郡南大井村に半地下式工場
- [33]昭和15年4月 陸軍兵器本部監督工場、製品の97%が軍需品。昭和16年6月 ワインガルテン社製1,500トンプレス(76万円)。昭和19年4月25日 軍需会社指定。昭和20年4月21日 分散疎開通牒、長野県北佐久郡南大井村に半地下式工場
- [34]昭和15年4月 陸軍兵器本部監督工場、製品の97%が軍需品。昭和16年6月 ワインガルテン社製1,500トンプレス(76万円)。昭和19年4月25日 軍需会社指定。昭和20年4月21日 分散疎開通牒、長野県北佐久郡南大井村に半地下式工場
- [35]昭和15年4月 陸軍兵器本部監督工場、製品の97%が軍需品。昭和16年6月 ワインガルテン社製1,500トンプレス(76万円)。昭和19年4月25日 軍需会社指定。昭和20年4月21日 分散疎開通牒、長野県北佐久郡南大井村に半地下式工場
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [32]昭和19年4月25日 軍需会社指定、専務取締役毛利繁三を生産責任者に選任。疎開費用250万円、8月15日に運転開始予定
- [36]昭和19年4月25日 軍需会社指定、専務取締役毛利繁三を生産責任者に選任。疎開費用250万円、8月15日に運転開始予定
参考文献[19]-[36]
- プレス工業 有価証券報告書【沿革】
- [19]1934年6月 株式会社に改め「プレス工業株式会社」と改称
- [25]1937年12月 本社・工場とも川崎市に移転
- 会社銀行八十年史(1955)「プレス工業」
- [20]昭和9年6月 株式会社に改組、資本金50万円のプレス工業として発足、社長に山本藤助が就任
- プレス工業五十年史(1975)
- [21]昭和9年6月29日 創立総会、プレス工業株式会社設立。資本金50万円、社長山本藤助・専務毛利繁三。自動車部品が首位、昭和7年6月関税引上げ、準戦時体制で軍需増。山本汽船から借りていた機械設備を全部買収
- [22]昭和9年6月29日 創立総会、プレス工業株式会社設立。資本金50万円、社長山本藤助・専務毛利繁三。自動車部品が首位、昭和7年6月関税引上げ、準戦時体制で軍需増。山本汽船から借りていた機械設備を全部買収
- [23]昭和9年6月29日 創立総会、プレス工業株式会社設立。資本金50万円、社長山本藤助・専務毛利繁三。自動車部品が首位、昭和7年6月関税引上げ、準戦時体制で軍需増。山本汽船から借りていた機械設備を全部買収
- [24]昭和9年6月29日 創立総会、プレス工業株式会社設立。資本金50万円、社長山本藤助・専務毛利繁三。自動車部品が首位、昭和7年6月関税引上げ、準戦時体制で軍需増。山本汽船から借りていた機械設備を全部買収
- [28]昭和12年12月 川崎市塩浜町へ移転完了。本社工場・分工場とも敷地狭小。用地4,812坪を2万1,420円で取得。昭和12年7月26日 資本金100万円に増資
- [29]昭和12年12月 川崎市塩浜町へ移転完了。本社工場・分工場とも敷地狭小。用地4,812坪を2万1,420円で取得。昭和12年7月26日 資本金100万円に増資
- [31]昭和15年4月 陸軍兵器本部監督工場、製品の97%が軍需品。昭和16年6月 ワインガルテン社製1,500トンプレス(76万円)。昭和19年4月25日 軍需会社指定。昭和20年4月21日 分散疎開通牒、長野県北佐久郡南大井村に半地下式工場
- [33]昭和15年4月 陸軍兵器本部監督工場、製品の97%が軍需品。昭和16年6月 ワインガルテン社製1,500トンプレス(76万円)。昭和19年4月25日 軍需会社指定。昭和20年4月21日 分散疎開通牒、長野県北佐久郡南大井村に半地下式工場
- [34]昭和15年4月 陸軍兵器本部監督工場、製品の97%が軍需品。昭和16年6月 ワインガルテン社製1,500トンプレス(76万円)。昭和19年4月25日 軍需会社指定。昭和20年4月21日 分散疎開通牒、長野県北佐久郡南大井村に半地下式工場
- [35]昭和15年4月 陸軍兵器本部監督工場、製品の97%が軍需品。昭和16年6月 ワインガルテン社製1,500トンプレス(76万円)。昭和19年4月25日 軍需会社指定。昭和20年4月21日 分散疎開通牒、長野県北佐久郡南大井村に半地下式工場
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [26]移転理由は東京自動車工業川崎製造所(現いすゞ)との業務緊密化。同社は軍需増で大森・鶴見では足りず大師河原に新工場建設中、試作・部品発注が相次ぐ。1,500トン油圧フレームプレス新設
- [27]移転理由は東京自動車工業川崎製造所(現いすゞ)との業務緊密化。同社は軍需増で大森・鶴見では足りず大師河原に新工場建設中、試作・部品発注が相次ぐ。1,500トン油圧フレームプレス新設
- [30]移転理由は東京自動車工業川崎製造所(現いすゞ)との業務緊密化。同社は軍需増で大森・鶴見では足りず大師河原に新工場建設中、試作・部品発注が相次ぐ。1,500トン油圧フレームプレス新設
- [32]昭和19年4月25日 軍需会社指定、専務取締役毛利繁三を生産責任者に選任。疎開費用250万円、8月15日に運転開始予定
- [36]昭和19年4月25日 軍需会社指定、専務取締役毛利繁三を生産責任者に選任。疎開費用250万円、8月15日に運転開始予定
1945年〜企業再建整備で締めた昭和25年3月の決算と、朝鮮特需で戻ったいすゞ向けフレーム
敗戦でプレス工業は目標を失い、1945年8月17日に一応の解散の手続きをとって全機械を止めた。約1,000人いた従業員に退職手当を払い、工場に残る意思を示した47人に再入社してもらった。自動車メーカーの生産再開が遅れて大型プレスは動かず、最初の仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具である。1945年10月に長野の疎開設備を川崎へ引き揚げ、11月に生産を再開した。同年12月には東京都目黒区に自動車整備の目黒工場を新設し、民需の仕事を確保している。1945年度の主要品目は農機具と自転車部品で、比率は6対4である。大型設備が遊んだ時期を小物の民需でつないだことが、技能者を失わずに済んだ理由と推測される。
- プレス工業五十年史(1975)
- [37]昭和20年8月17日 一応解散、全機械停止。従業員約1,000人、47人が署名して再入社。戦後初仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具。昭和20年12月 目黒工場で自動車整備を開始。20年度の主要品目は農機具6・自転車部品4
- [38]昭和20年8月17日 一応解散、全機械停止。従業員約1,000人、47人が署名して再入社。戦後初仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具。昭和20年12月 目黒工場で自動車整備を開始。20年度の主要品目は農機具6・自転車部品4
- [39]昭和20年8月17日 一応解散、全機械停止。従業員約1,000人、47人が署名して再入社。戦後初仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具。昭和20年12月 目黒工場で自動車整備を開始。20年度の主要品目は農機具6・自転車部品4
- [41]昭和20年8月17日 一応解散、全機械停止。従業員約1,000人、47人が署名して再入社。戦後初仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具。昭和20年12月 目黒工場で自動車整備を開始。20年度の主要品目は農機具6・自転車部品4
- [42]昭和20年8月17日 一応解散、全機械停止。従業員約1,000人、47人が署名して再入社。戦後初仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具。昭和20年12月 目黒工場で自動車整備を開始。20年度の主要品目は農機具6・自転車部品4
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [40]昭和20年10月 長野の疎開機械を川崎へ引揚げ、昭和20年11月に生産を再開。解散後の残留者47名
1946年10月の戦時補償特別措置法で、国に対する戦時補償の請求権は全額が税として没収された。これに先立つ8月11日には、プレス工業が会社経理応急措置法の特別経理会社に指定されている。軍需補償の打切りによる損失を約150万円と見込み、毛利繁三氏と住友銀行、ヂーゼル自動車工業の3者を特別管理人に選んだ。資産と負債は新旧の2勘定に分けて管理し、1948年5月30日に特別経理会社の指定解除を受けた。企業再建整備法の許可を得て両勘定を合わせ、1950年3月に確定決算を終えた。特別損失189万455円19銭に対し、利益金は206万3,704円。積立金と利益金で特別損失を埋め、株主と債権者に負担を求めずに済んだ。軍需会社でありながら損失を自力で吸収できたことが、戦後の増資を進めやすくしたと思われる。
- プレス工業五十年史(1975)
- [43]昭和21年10月18日 戦時補償特別措置法、補償請求権を全額没収。昭和21年8月11日 特別経理会社に指定、損失約150万円と見積り、特別管理人は毛利繁三・住友銀行・ヂーゼル自動車工業
- [44]昭和21年10月18日 戦時補償特別措置法、補償請求権を全額没収。昭和21年8月11日 特別経理会社に指定、損失約150万円と見積り、特別管理人は毛利繁三・住友銀行・ヂーゼル自動車工業
- [45]昭和21年10月18日 戦時補償特別措置法、補償請求権を全額没収。昭和21年8月11日 特別経理会社に指定、損失約150万円と見積り、特別管理人は毛利繁三・住友銀行・ヂーゼル自動車工業
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [46]昭和23年5月30日 特別経理会社の指定解除。企業再建整備の許可を得て新旧両勘定を合併、昭和25年3月確定決算。特別損失189万455円19銭、利益金206万3,704円
- [47]昭和23年5月30日 特別経理会社の指定解除。企業再建整備の許可を得て新旧両勘定を合併、昭和25年3月確定決算。特別損失189万455円19銭、利益金206万3,704円
- [48]昭和23年5月30日 特別経理会社の指定解除。企業再建整備の許可を得て新旧両勘定を合併、昭和25年3月確定決算。特別損失189万455円19銭、利益金206万3,704円
- 会社銀行八十年史(1955)「プレス工業」
- [49]積立金と利益金で特別損失を埋め、債権・資本に影響なく企業再建整備計画を完了
1950年6月の朝鮮動乱で特需が生まれ、プレス工業は日産自動車からジープ用フレーム、いすゞ自動車から大型トラック用部品を受注した。その前年のドッジ・ラインで需要は激減し、いすゞ自動車は1949年10月に1,271人の人員整理を発表していた。プレス工業は人員整理に追い込まれず、国鉄向けのギヤケースとスチールドアで1950年代前半の経営を支えた。米軍が1950年7月にトヨタ、日産、いすゞの3社へ発注した自動車は、7,131台、43億円にのぼる。資本金は1951年6月に再評価積立金を組み入れて4,000万円、同年12月に5,000万円となった。1952年にはいすゞ自動車が大型トラック用リヤアクスルケースのプレス化を打診してきた。鉄道部品で不況を持ちこたえ特需でフレームの取引を戻したことが、次の大型部品の受注を呼んだとみてよい。
- プレス工業五十年史(1975)
- [50]昭和25年6月 朝鮮動乱、日産からジープ用フレーム・いすゞから大型トラック用部品を受注。昭和24年 ドッジラインで需要激減、いすゞは10月10日に1,271人の人員整理。当社は人員整理に至らず鉄道車両用部品(ギヤケース・スチールドア)で支えた。昭和27年 いすゞが大型トラック用リヤアクスルケースのプレス化を打診
- [51]昭和25年6月 朝鮮動乱、日産からジープ用フレーム・いすゞから大型トラック用部品を受注。昭和24年 ドッジラインで需要激減、いすゞは10月10日に1,271人の人員整理。当社は人員整理に至らず鉄道車両用部品(ギヤケース・スチールドア)で支えた。昭和27年 いすゞが大型トラック用リヤアクスルケースのプレス化を打診
- [52]昭和25年6月 朝鮮動乱、日産からジープ用フレーム・いすゞから大型トラック用部品を受注。昭和24年 ドッジラインで需要激減、いすゞは10月10日に1,271人の人員整理。当社は人員整理に至らず鉄道車両用部品(ギヤケース・スチールドア)で支えた。昭和27年 いすゞが大型トラック用リヤアクスルケースのプレス化を打診
- [55]昭和25年6月 朝鮮動乱、日産からジープ用フレーム・いすゞから大型トラック用部品を受注。昭和24年 ドッジラインで需要激減、いすゞは10月10日に1,271人の人員整理。当社は人員整理に至らず鉄道車両用部品(ギヤケース・スチールドア)で支えた。昭和27年 いすゞが大型トラック用リヤアクスルケースのプレス化を打診
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [53]昭和25年7月 第8軍調達部がトヨタ・日産・いすゞに7,131台43億円を正式発注
- 会社銀行八十年史(1955)「プレス工業」
- [54]資本金 二十六年六月 再評価積立金を組み入れて4,000万円、同年12月5,000万円
参考文献[37]-[55]
- プレス工業五十年史(1975)
- [37]昭和20年8月17日 一応解散、全機械停止。従業員約1,000人、47人が署名して再入社。戦後初仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具。昭和20年12月 目黒工場で自動車整備を開始。20年度の主要品目は農機具6・自転車部品4
- [38]昭和20年8月17日 一応解散、全機械停止。従業員約1,000人、47人が署名して再入社。戦後初仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具。昭和20年12月 目黒工場で自動車整備を開始。20年度の主要品目は農機具6・自転車部品4
- [39]昭和20年8月17日 一応解散、全機械停止。従業員約1,000人、47人が署名して再入社。戦後初仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具。昭和20年12月 目黒工場で自動車整備を開始。20年度の主要品目は農機具6・自転車部品4
- [41]昭和20年8月17日 一応解散、全機械停止。従業員約1,000人、47人が署名して再入社。戦後初仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具。昭和20年12月 目黒工場で自動車整備を開始。20年度の主要品目は農機具6・自転車部品4
- [42]昭和20年8月17日 一応解散、全機械停止。従業員約1,000人、47人が署名して再入社。戦後初仕事は宮田製作所の自転車部品と農機具。昭和20年12月 目黒工場で自動車整備を開始。20年度の主要品目は農機具6・自転車部品4
- [43]昭和21年10月18日 戦時補償特別措置法、補償請求権を全額没収。昭和21年8月11日 特別経理会社に指定、損失約150万円と見積り、特別管理人は毛利繁三・住友銀行・ヂーゼル自動車工業
- [44]昭和21年10月18日 戦時補償特別措置法、補償請求権を全額没収。昭和21年8月11日 特別経理会社に指定、損失約150万円と見積り、特別管理人は毛利繁三・住友銀行・ヂーゼル自動車工業
- [45]昭和21年10月18日 戦時補償特別措置法、補償請求権を全額没収。昭和21年8月11日 特別経理会社に指定、損失約150万円と見積り、特別管理人は毛利繁三・住友銀行・ヂーゼル自動車工業
- [50]昭和25年6月 朝鮮動乱、日産からジープ用フレーム・いすゞから大型トラック用部品を受注。昭和24年 ドッジラインで需要激減、いすゞは10月10日に1,271人の人員整理。当社は人員整理に至らず鉄道車両用部品(ギヤケース・スチールドア)で支えた。昭和27年 いすゞが大型トラック用リヤアクスルケースのプレス化を打診
- [51]昭和25年6月 朝鮮動乱、日産からジープ用フレーム・いすゞから大型トラック用部品を受注。昭和24年 ドッジラインで需要激減、いすゞは10月10日に1,271人の人員整理。当社は人員整理に至らず鉄道車両用部品(ギヤケース・スチールドア)で支えた。昭和27年 いすゞが大型トラック用リヤアクスルケースのプレス化を打診
- [52]昭和25年6月 朝鮮動乱、日産からジープ用フレーム・いすゞから大型トラック用部品を受注。昭和24年 ドッジラインで需要激減、いすゞは10月10日に1,271人の人員整理。当社は人員整理に至らず鉄道車両用部品(ギヤケース・スチールドア)で支えた。昭和27年 いすゞが大型トラック用リヤアクスルケースのプレス化を打診
- [55]昭和25年6月 朝鮮動乱、日産からジープ用フレーム・いすゞから大型トラック用部品を受注。昭和24年 ドッジラインで需要激減、いすゞは10月10日に1,271人の人員整理。当社は人員整理に至らず鉄道車両用部品(ギヤケース・スチールドア)で支えた。昭和27年 いすゞが大型トラック用リヤアクスルケースのプレス化を打診
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- [40]昭和20年10月 長野の疎開機械を川崎へ引揚げ、昭和20年11月に生産を再開。解散後の残留者47名
- [46]昭和23年5月30日 特別経理会社の指定解除。企業再建整備の許可を得て新旧両勘定を合併、昭和25年3月確定決算。特別損失189万455円19銭、利益金206万3,704円
- [47]昭和23年5月30日 特別経理会社の指定解除。企業再建整備の許可を得て新旧両勘定を合併、昭和25年3月確定決算。特別損失189万455円19銭、利益金206万3,704円
- [48]昭和23年5月30日 特別経理会社の指定解除。企業再建整備の許可を得て新旧両勘定を合併、昭和25年3月確定決算。特別損失189万455円19銭、利益金206万3,704円
- [53]昭和25年7月 第8軍調達部がトヨタ・日産・いすゞに7,131台43億円を正式発注
- 会社銀行八十年史(1955)「プレス工業」
- [49]積立金と利益金で特別損失を埋め、債権・資本に影響なく企業再建整備計画を完了
- [54]資本金 二十六年六月 再評価積立金を組み入れて4,000万円、同年12月5,000万円
出典・参考
4件
- プレス工業 有価証券報告書【沿革】
- プレス工業株式会社40年史(1965)
- プレス工業五十年史(1975)
- 会社銀行八十年史(1955)「プレス工業」