横浜フィナンシャルグループ:破綻銀行の整理による横浜興信銀行の設立と県内合同
1920年〜茂木合名の破綻で止まった七十四銀行と、資本金100万円で引受先となった横浜興信銀行
1920年5月24日、横浜で最大規模の普通銀行だった七十四銀行が休業を発表。七十四銀行は第七十四国立銀行を起源とし、有数の商社だった茂木合名の機関銀行として反動恐慌の中で破綻した。休業時の預金口座は横浜貯蓄銀行と合わせて約5万5,000口あり、その7割以上を1口2,500円以下の小口預金が占めた。神奈川県知事の井上孝哉氏の招集を受け、第二銀行頭取の原富太郎氏ら4名が両行の整理相談役に推された。8月24日に公表された整理案は、市内有志が資本金100万円の新銀行を設立し、両行の整理事務を一括して引き受ける内容である。破産の適用を避けるため、整理相談役は約5万5,000人の預金者と400人の債権者全員から承諾書を集め、12月23日に徴集を終えた。
- 横浜銀行六十年史(1980) 第1章第5節「七十四銀行の休業とその影響」
- [1]横浜の七十四銀行が大正9年5月24日に休業。茂木合名の機関銀行で横浜最大の普通銀行。休業時の預金口座約5万5,000口のうち1口2,500円以下が約4万口。県知事井上孝哉の協議で原富太郎ら4名が整理相談役に推挙
- [2]横浜の七十四銀行が大正9年5月24日に休業。茂木合名の機関銀行で横浜最大の普通銀行。休業時の預金口座約5万5,000口のうち1口2,500円以下が約4万口。県知事井上孝哉の協議で原富太郎ら4名が整理相談役に推挙
- [4]横浜の七十四銀行が大正9年5月24日に休業。茂木合名の機関銀行で横浜最大の普通銀行。休業時の預金口座約5万5,000口のうち1口2,500円以下が約4万口。県知事井上孝哉の協議で原富太郎ら4名が整理相談役に推挙
- [5]横浜の七十四銀行が大正9年5月24日に休業。茂木合名の機関銀行で横浜最大の普通銀行。休業時の預金口座約5万5,000口のうち1口2,500円以下が約4万口。県知事井上孝哉の協議で原富太郎ら4名が整理相談役に推挙
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [3]前身は明治11年設立の第七十四国立銀行。大正9年の反動恐慌で破綻
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第1節「設立への努力」
- [6]大正9年8月24日発表の整理案:市内有志で資本金100万円の新銀行を設立し両行の整理事務一切を引受。預金者約5万5,000人と債権者400人の承諾書が必要で、同年12月23日に徴集完了。破産適用を免れるための手段
- [7]大正9年8月24日発表の整理案:市内有志で資本金100万円の新銀行を設立し両行の整理事務一切を引受。預金者約5万5,000人と債権者400人の承諾書が必要で、同年12月23日に徴集完了。破産適用を免れるための手段
横浜興信銀行は1920年12月16日に設立総会を開催し、12月25日に開業した。資本金は100万円、払込資本金は25万円で、初代頭取に原富太郎氏、副頭取に井坂孝氏が選ばれた。店舗は七十四銀行の全店舗を継承し、横浜市内の本店と5支店に東京・高崎など5支店を加え、行員70余名で発足した。政府と日本銀行の援助を受けた設立であり、開業翌日には日本銀行経由の政府資金1,600万円で両行の預金払戻しを始めた。原富太郎氏が掲げたのは、特定企業と結び付く機関銀行ではない新しい銀行である。整理完了まで無配当とする公共性の強い出発が、のちに県下の銀行合同で中心を担う素地になったとみられる。
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第1節「重い使命を担って」「開業直後の状況」
- [8]大正9年12月16日設立総会、25日開業。資本金100万円(払込25万円)、頭取原富太郎・副頭取井坂孝。七十四銀行の全店舗(市内本店と5支店、東京・高崎・川崎・京都・大阪支店)と行員70余名を継承。26日から日銀経由の政府貸下げ金1,600万円で預金支払開始。原頭取は機関銀行的要素を持たない銀行を志向
- [9]大正9年12月16日設立総会、25日開業。資本金100万円(払込25万円)、頭取原富太郎・副頭取井坂孝。七十四銀行の全店舗(市内本店と5支店、東京・高崎・川崎・京都・大阪支店)と行員70余名を継承。26日から日銀経由の政府貸下げ金1,600万円で預金支払開始。原頭取は機関銀行的要素を持たない銀行を志向
- [10]大正9年12月16日設立総会、25日開業。資本金100万円(払込25万円)、頭取原富太郎・副頭取井坂孝。七十四銀行の全店舗(市内本店と5支店、東京・高崎・川崎・京都・大阪支店)と行員70余名を継承。26日から日銀経由の政府貸下げ金1,600万円で預金支払開始。原頭取は機関銀行的要素を持たない銀行を志向
- [12]大正9年12月16日設立総会、25日開業。資本金100万円(払込25万円)、頭取原富太郎・副頭取井坂孝。七十四銀行の全店舗(市内本店と5支店、東京・高崎・川崎・京都・大阪支店)と行員70余名を継承。26日から日銀経由の政府貸下げ金1,600万円で預金支払開始。原頭取は機関銀行的要素を持たない銀行を志向
- [13]大正9年12月16日設立総会、25日開業。資本金100万円(払込25万円)、頭取原富太郎・副頭取井坂孝。七十四銀行の全店舗(市内本店と5支店、東京・高崎・川崎・京都・大阪支店)と行員70余名を継承。26日から日銀経由の政府貸下げ金1,600万円で預金支払開始。原頭取は機関銀行的要素を持たない銀行を志向
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [11]横浜財界有力者・市民の支援と政府・日銀の援助のもと、大正9年12月16日に資本金100万円で横浜興信銀行として設立
横浜興信銀行の預金は1922年12月末に2,307万円となり、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ規模に達した。1923年9月1日の関東大震災で本店と市内5店舗、東京支店が焼失し、残ったのは川崎と高崎の2店舗のみ。従業員の半数以上を整理し、9月28日には地元の他行と足並みをそろえて、弁天通の仮営業所で業務を再開した。同年末の預金は2,095万2,000円で、6月末比の減少率は12.6%である。横浜市から託された義捐金に自己資金を加え、1世帯1,000円を上限とする罹災者向けの無担保貸出を総額108万円で実施した。整理銀行の負担を抱えたまま、横浜興信銀行は震災からの立て直しを進めた。
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第2節「関東大震災の試練」
- [14]預金は大正9年12月末993万円→11年12月末2,307万円で、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ。大正12年9月1日の関東大震災で本店・市内5店・東京支店が焼失し川崎・高崎の2店のみ残存。従業員の半数以上を整理し9月28日に弁天通仮営業所で再開。同年末預金2,095万2,000円(6月末比12.6%減)。横浜市寄託の義捐金と自己資金で総額108万円、1世帯1,000円限度の無担保貸出
- [15]預金は大正9年12月末993万円→11年12月末2,307万円で、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ。大正12年9月1日の関東大震災で本店・市内5店・東京支店が焼失し川崎・高崎の2店のみ残存。従業員の半数以上を整理し9月28日に弁天通仮営業所で再開。同年末預金2,095万2,000円(6月末比12.6%減)。横浜市寄託の義捐金と自己資金で総額108万円、1世帯1,000円限度の無担保貸出
- [16]預金は大正9年12月末993万円→11年12月末2,307万円で、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ。大正12年9月1日の関東大震災で本店・市内5店・東京支店が焼失し川崎・高崎の2店のみ残存。従業員の半数以上を整理し9月28日に弁天通仮営業所で再開。同年末預金2,095万2,000円(6月末比12.6%減)。横浜市寄託の義捐金と自己資金で総額108万円、1世帯1,000円限度の無担保貸出
- [17]預金は大正9年12月末993万円→11年12月末2,307万円で、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ。大正12年9月1日の関東大震災で本店・市内5店・東京支店が焼失し川崎・高崎の2店のみ残存。従業員の半数以上を整理し9月28日に弁天通仮営業所で再開。同年末預金2,095万2,000円(6月末比12.6%減)。横浜市寄託の義捐金と自己資金で総額108万円、1世帯1,000円限度の無担保貸出
- [18]預金は大正9年12月末993万円→11年12月末2,307万円で、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ。大正12年9月1日の関東大震災で本店・市内5店・東京支店が焼失し川崎・高崎の2店のみ残存。従業員の半数以上を整理し9月28日に弁天通仮営業所で再開。同年末預金2,095万2,000円(6月末比12.6%減)。横浜市寄託の義捐金と自己資金で総額108万円、1世帯1,000円限度の無担保貸出
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [19]整理銀行としての重荷を背負って設立され、大正12年の関東大震災などを克服
参考文献[1]-[19]
- 横浜銀行六十年史(1980) 第1章第5節「七十四銀行の休業とその影響」
- [1]横浜の七十四銀行が大正9年5月24日に休業。茂木合名の機関銀行で横浜最大の普通銀行。休業時の預金口座約5万5,000口のうち1口2,500円以下が約4万口。県知事井上孝哉の協議で原富太郎ら4名が整理相談役に推挙
- [2]横浜の七十四銀行が大正9年5月24日に休業。茂木合名の機関銀行で横浜最大の普通銀行。休業時の預金口座約5万5,000口のうち1口2,500円以下が約4万口。県知事井上孝哉の協議で原富太郎ら4名が整理相談役に推挙
- [4]横浜の七十四銀行が大正9年5月24日に休業。茂木合名の機関銀行で横浜最大の普通銀行。休業時の預金口座約5万5,000口のうち1口2,500円以下が約4万口。県知事井上孝哉の協議で原富太郎ら4名が整理相談役に推挙
- [5]横浜の七十四銀行が大正9年5月24日に休業。茂木合名の機関銀行で横浜最大の普通銀行。休業時の預金口座約5万5,000口のうち1口2,500円以下が約4万口。県知事井上孝哉の協議で原富太郎ら4名が整理相談役に推挙
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [3]前身は明治11年設立の第七十四国立銀行。大正9年の反動恐慌で破綻
- [11]横浜財界有力者・市民の支援と政府・日銀の援助のもと、大正9年12月16日に資本金100万円で横浜興信銀行として設立
- [19]整理銀行としての重荷を背負って設立され、大正12年の関東大震災などを克服
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第1節「設立への努力」
- [6]大正9年8月24日発表の整理案:市内有志で資本金100万円の新銀行を設立し両行の整理事務一切を引受。預金者約5万5,000人と債権者400人の承諾書が必要で、同年12月23日に徴集完了。破産適用を免れるための手段
- [7]大正9年8月24日発表の整理案:市内有志で資本金100万円の新銀行を設立し両行の整理事務一切を引受。預金者約5万5,000人と債権者400人の承諾書が必要で、同年12月23日に徴集完了。破産適用を免れるための手段
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第1節「重い使命を担って」「開業直後の状況」
- [8]大正9年12月16日設立総会、25日開業。資本金100万円(払込25万円)、頭取原富太郎・副頭取井坂孝。七十四銀行の全店舗(市内本店と5支店、東京・高崎・川崎・京都・大阪支店)と行員70余名を継承。26日から日銀経由の政府貸下げ金1,600万円で預金支払開始。原頭取は機関銀行的要素を持たない銀行を志向
- [9]大正9年12月16日設立総会、25日開業。資本金100万円(払込25万円)、頭取原富太郎・副頭取井坂孝。七十四銀行の全店舗(市内本店と5支店、東京・高崎・川崎・京都・大阪支店)と行員70余名を継承。26日から日銀経由の政府貸下げ金1,600万円で預金支払開始。原頭取は機関銀行的要素を持たない銀行を志向
- [10]大正9年12月16日設立総会、25日開業。資本金100万円(払込25万円)、頭取原富太郎・副頭取井坂孝。七十四銀行の全店舗(市内本店と5支店、東京・高崎・川崎・京都・大阪支店)と行員70余名を継承。26日から日銀経由の政府貸下げ金1,600万円で預金支払開始。原頭取は機関銀行的要素を持たない銀行を志向
- [12]大正9年12月16日設立総会、25日開業。資本金100万円(払込25万円)、頭取原富太郎・副頭取井坂孝。七十四銀行の全店舗(市内本店と5支店、東京・高崎・川崎・京都・大阪支店)と行員70余名を継承。26日から日銀経由の政府貸下げ金1,600万円で預金支払開始。原頭取は機関銀行的要素を持たない銀行を志向
- [13]大正9年12月16日設立総会、25日開業。資本金100万円(払込25万円)、頭取原富太郎・副頭取井坂孝。七十四銀行の全店舗(市内本店と5支店、東京・高崎・川崎・京都・大阪支店)と行員70余名を継承。26日から日銀経由の政府貸下げ金1,600万円で預金支払開始。原頭取は機関銀行的要素を持たない銀行を志向
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第2節「関東大震災の試練」
- [14]預金は大正9年12月末993万円→11年12月末2,307万円で、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ。大正12年9月1日の関東大震災で本店・市内5店・東京支店が焼失し川崎・高崎の2店のみ残存。従業員の半数以上を整理し9月28日に弁天通仮営業所で再開。同年末預金2,095万2,000円(6月末比12.6%減)。横浜市寄託の義捐金と自己資金で総額108万円、1世帯1,000円限度の無担保貸出
- [15]預金は大正9年12月末993万円→11年12月末2,307万円で、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ。大正12年9月1日の関東大震災で本店・市内5店・東京支店が焼失し川崎・高崎の2店のみ残存。従業員の半数以上を整理し9月28日に弁天通仮営業所で再開。同年末預金2,095万2,000円(6月末比12.6%減)。横浜市寄託の義捐金と自己資金で総額108万円、1世帯1,000円限度の無担保貸出
- [16]預金は大正9年12月末993万円→11年12月末2,307万円で、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ。大正12年9月1日の関東大震災で本店・市内5店・東京支店が焼失し川崎・高崎の2店のみ残存。従業員の半数以上を整理し9月28日に弁天通仮営業所で再開。同年末預金2,095万2,000円(6月末比12.6%減)。横浜市寄託の義捐金と自己資金で総額108万円、1世帯1,000円限度の無担保貸出
- [17]預金は大正9年12月末993万円→11年12月末2,307万円で、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ。大正12年9月1日の関東大震災で本店・市内5店・東京支店が焼失し川崎・高崎の2店のみ残存。従業員の半数以上を整理し9月28日に弁天通仮営業所で再開。同年末預金2,095万2,000円(6月末比12.6%減)。横浜市寄託の義捐金と自己資金で総額108万円、1世帯1,000円限度の無担保貸出
- [18]預金は大正9年12月末993万円→11年12月末2,307万円で、横浜の普通銀行では左右田銀行に次ぐ。大正12年9月1日の関東大震災で本店・市内5店・東京支店が焼失し川崎・高崎の2店のみ残存。従業員の半数以上を整理し9月28日に弁天通仮営業所で再開。同年末預金2,095万2,000円(6月末比12.6%減)。横浜市寄託の義捐金と自己資金で総額108万円、1世帯1,000円限度の無担保貸出
1927年〜日本銀行の1,000万円で越えた金融恐慌と、左右田銀行・第二銀行との合同
1927年の金融恐慌で、横浜興信銀行の一般預金は2月末の1,508万円から4月末には1,120万円へ減少した。2か月で4分の1が引き出された背景には、恐慌を機に預金が大銀行へ移る動きがあった。横浜興信銀行は日本銀行から1,000万円を借り入れ、コールローンの回収と貸出の手控えを組み合わせて払出しに応じた。震災手形の再割引は100万円以下の小口で、1924年中に全額を決済していた。横浜興信銀行は、貸出先を厳選する設立以来の方針により、県下15行で早期に全額を決済した2行の1つにあたる。震災手形を早く片付けていたことが、預金流出に日本銀行からの借入で耐えられた理由と推察される。
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第3節「金融恐慌前後の当行」
- [20]昭和2年2月末の一般預金1,508万円が2か月で4分の1引き出され4月末1,120万円に(預金の大銀行集中)。日銀から1,000万円を借入、コールローン回収と貸出手控えで乗切り。震災手形の再割引は100万円以下で大正13年中に全額決済、県下15行で1926年末までに全額決済は当行と横浜貿易銀行のみ。貸出先厳選の方針で固定化を回避
- [21]昭和2年2月末の一般預金1,508万円が2か月で4分の1引き出され4月末1,120万円に(預金の大銀行集中)。日銀から1,000万円を借入、コールローン回収と貸出手控えで乗切り。震災手形の再割引は100万円以下で大正13年中に全額決済、県下15行で1926年末までに全額決済は当行と横浜貿易銀行のみ。貸出先厳選の方針で固定化を回避
- [22]昭和2年2月末の一般預金1,508万円が2か月で4分の1引き出され4月末1,120万円に(預金の大銀行集中)。日銀から1,000万円を借入、コールローン回収と貸出手控えで乗切り。震災手形の再割引は100万円以下で大正13年中に全額決済、県下15行で1926年末までに全額決済は当行と横浜貿易銀行のみ。貸出先厳選の方針で固定化を回避
- [24]昭和2年2月末の一般預金1,508万円が2か月で4分の1引き出され4月末1,120万円に(預金の大銀行集中)。日銀から1,000万円を借入、コールローン回収と貸出手控えで乗切り。震災手形の再割引は100万円以下で大正13年中に全額決済、県下15行で1926年末までに全額決済は当行と横浜貿易銀行のみ。貸出先厳選の方針で固定化を回避
- [25]昭和2年2月末の一般預金1,508万円が2か月で4分の1引き出され4月末1,120万円に(預金の大銀行集中)。日銀から1,000万円を借入、コールローン回収と貸出手控えで乗切り。震災手形の再割引は100万円以下で大正13年中に全額決済、県下15行で1926年末までに全額決済は当行と横浜貿易銀行のみ。貸出先厳選の方針で固定化を回避
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [23]大正12年の関東大震災、昭和2年の金融恐慌などを克服し漸次順調に発展
1927年12月、横浜興信銀行は日本銀行の勧めで、休業した左右田銀行の整理を受託。左右田銀行は震災時に横浜最大の普通銀行であり、多額の震災手形を抱えて同年3月の恐慌で最初に取付けを受けた。1928年1月施行の銀行法が定めた資本金の下限は原則100万円で、東京に支店を持つ銀行には200万円である。政府が単独増資を認めず合同を促したため、横浜興信銀行は1928年に第二銀行・横浜貿易銀行・元町銀行と相次いで合同した。第二銀行は原合名の信用を背景とする名門であり、機関銀行の時代が終わったとみて自ら合同を選んだ。東京に支店を持つ横浜興信銀行は増資の必要から、1932年1月に関東興信銀行を合併した。
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第3節「当行の合同進む」
- [26]昭和2年3月の金融恐慌で休業した左右田銀行の整理を日銀のすすめで受託し、同年12月に財産を引継ぎ。昭和3年1月施行の銀行法は資本金100万円以上(東京・大阪に本支店があれば200万円以上)を原則とし、政府は単独増資を認めず合同を促進。昭和3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行と合同。第二銀行は機関銀行の時代が去ったとして自ら合同を選択
- [27]昭和2年3月の金融恐慌で休業した左右田銀行の整理を日銀のすすめで受託し、同年12月に財産を引継ぎ。昭和3年1月施行の銀行法は資本金100万円以上(東京・大阪に本支店があれば200万円以上)を原則とし、政府は単独増資を認めず合同を促進。昭和3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行と合同。第二銀行は機関銀行の時代が去ったとして自ら合同を選択
- [28]昭和2年3月の金融恐慌で休業した左右田銀行の整理を日銀のすすめで受託し、同年12月に財産を引継ぎ。昭和3年1月施行の銀行法は資本金100万円以上(東京・大阪に本支店があれば200万円以上)を原則とし、政府は単独増資を認めず合同を促進。昭和3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行と合同。第二銀行は機関銀行の時代が去ったとして自ら合同を選択
- [29]昭和2年3月の金融恐慌で休業した左右田銀行の整理を日銀のすすめで受託し、同年12月に財産を引継ぎ。昭和3年1月施行の銀行法は資本金100万円以上(東京・大阪に本支店があれば200万円以上)を原則とし、政府は単独増資を認めず合同を促進。昭和3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行と合同。第二銀行は機関銀行の時代が去ったとして自ら合同を選択
- [31]昭和2年3月の金融恐慌で休業した左右田銀行の整理を日銀のすすめで受託し、同年12月に財産を引継ぎ。昭和3年1月施行の銀行法は資本金100万円以上(東京・大阪に本支店があれば200万円以上)を原則とし、政府は単独増資を認めず合同を促進。昭和3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行と合同。第二銀行は機関銀行の時代が去ったとして自ら合同を選択
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [30]昭和2年12月左右田銀行、3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行を合同し、7年1月関東興信銀行を合併
- [33]昭和2年12月左右田銀行、3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行を合同し、7年1月関東興信銀行を合併
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第3節「関東興信銀行との合併」
- [32]関東興信銀行は関東銀行の整理受託銀行として大正14年設立。東京に3支店を持つ当行は昭和7年末までに資本金200万円以上が必要で、合併による増資となった
1935年7月26日、病を得た原富太郎氏が相談役に退任し、副頭取の井坂孝氏が第2代頭取に就任した。1930年の七十四銀行の第2次整理では、本店新築のための積立金を全額取り崩して整理に充てていた。七十四銀行に残る資産の大半は茂木関係への回収不能債権で、1939年末の総資産の77%にあたる。要弁済額2,083万円に対し、充当できる資金は470万円にとどまった。井坂孝氏ら首脳陣は政府と日本銀行に請願し、1940年末に個人預金者へ未払残額の全額を支払う第3次整理案を成立させた。3次の整理で一般債権約3,100万円のうち約2,900万円を弁済し、横浜興信銀行は1940年末に整理銀行の役割を終えた。
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第4節「経営陣の交替と本店新築」
- [34]昭和10年7月26日の株主総会で原頭取が病のため相談役に退き、井坂副頭取が第2代頭取に就任。昭和5年の七十四銀行第2次整理で本店新築積立金を全額取崩して提供
- [35]昭和10年7月26日の株主総会で原頭取が病のため相談役に退き、井坂副頭取が第2代頭取に就任。昭和5年の七十四銀行第2次整理で本店新築積立金を全額取崩して提供
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第4節「七十四銀行の第3次整理とその結末」
- [36]七十四銀行の残存資産の大半は茂木関係の回収不能債権で昭和14年末総資産の77%。要弁済額2,083万円に対し充当可能資金470万円。政府・日銀へ請願し昭和15年末に第3次整理案成立(個人預金者には未払残額全額支払)。3次の整理で一般債権約3,100万円に対し約2,900万円を弁済(切捨率7%)
- [37]七十四銀行の残存資産の大半は茂木関係の回収不能債権で昭和14年末総資産の77%。要弁済額2,083万円に対し充当可能資金470万円。政府・日銀へ請願し昭和15年末に第3次整理案成立(個人預金者には未払残額全額支払)。3次の整理で一般債権約3,100万円に対し約2,900万円を弁済(切捨率7%)
- [38]七十四銀行の残存資産の大半は茂木関係の回収不能債権で昭和14年末総資産の77%。要弁済額2,083万円に対し充当可能資金470万円。政府・日銀へ請願し昭和15年末に第3次整理案成立(個人預金者には未払残額全額支払)。3次の整理で一般債権約3,100万円に対し約2,900万円を弁済(切捨率7%)
- [39]七十四銀行の残存資産の大半は茂木関係の回収不能債権で昭和14年末総資産の77%。要弁済額2,083万円に対し充当可能資金470万円。政府・日銀へ請願し昭和15年末に第3次整理案成立(個人預金者には未払残額全額支払)。3次の整理で一般債権約3,100万円に対し約2,900万円を弁済(切捨率7%)
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [40]昭和15年末に整理銀行としての役割を終了
参考文献[20]-[40]
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第3節「金融恐慌前後の当行」
- [20]昭和2年2月末の一般預金1,508万円が2か月で4分の1引き出され4月末1,120万円に(預金の大銀行集中)。日銀から1,000万円を借入、コールローン回収と貸出手控えで乗切り。震災手形の再割引は100万円以下で大正13年中に全額決済、県下15行で1926年末までに全額決済は当行と横浜貿易銀行のみ。貸出先厳選の方針で固定化を回避
- [21]昭和2年2月末の一般預金1,508万円が2か月で4分の1引き出され4月末1,120万円に(預金の大銀行集中)。日銀から1,000万円を借入、コールローン回収と貸出手控えで乗切り。震災手形の再割引は100万円以下で大正13年中に全額決済、県下15行で1926年末までに全額決済は当行と横浜貿易銀行のみ。貸出先厳選の方針で固定化を回避
- [22]昭和2年2月末の一般預金1,508万円が2か月で4分の1引き出され4月末1,120万円に(預金の大銀行集中)。日銀から1,000万円を借入、コールローン回収と貸出手控えで乗切り。震災手形の再割引は100万円以下で大正13年中に全額決済、県下15行で1926年末までに全額決済は当行と横浜貿易銀行のみ。貸出先厳選の方針で固定化を回避
- [24]昭和2年2月末の一般預金1,508万円が2か月で4分の1引き出され4月末1,120万円に(預金の大銀行集中)。日銀から1,000万円を借入、コールローン回収と貸出手控えで乗切り。震災手形の再割引は100万円以下で大正13年中に全額決済、県下15行で1926年末までに全額決済は当行と横浜貿易銀行のみ。貸出先厳選の方針で固定化を回避
- [25]昭和2年2月末の一般預金1,508万円が2か月で4分の1引き出され4月末1,120万円に(預金の大銀行集中)。日銀から1,000万円を借入、コールローン回収と貸出手控えで乗切り。震災手形の再割引は100万円以下で大正13年中に全額決済、県下15行で1926年末までに全額決済は当行と横浜貿易銀行のみ。貸出先厳選の方針で固定化を回避
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [23]大正12年の関東大震災、昭和2年の金融恐慌などを克服し漸次順調に発展
- [30]昭和2年12月左右田銀行、3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行を合同し、7年1月関東興信銀行を合併
- [33]昭和2年12月左右田銀行、3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行を合同し、7年1月関東興信銀行を合併
- [40]昭和15年末に整理銀行としての役割を終了
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第3節「当行の合同進む」
- [26]昭和2年3月の金融恐慌で休業した左右田銀行の整理を日銀のすすめで受託し、同年12月に財産を引継ぎ。昭和3年1月施行の銀行法は資本金100万円以上(東京・大阪に本支店があれば200万円以上)を原則とし、政府は単独増資を認めず合同を促進。昭和3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行と合同。第二銀行は機関銀行の時代が去ったとして自ら合同を選択
- [27]昭和2年3月の金融恐慌で休業した左右田銀行の整理を日銀のすすめで受託し、同年12月に財産を引継ぎ。昭和3年1月施行の銀行法は資本金100万円以上(東京・大阪に本支店があれば200万円以上)を原則とし、政府は単独増資を認めず合同を促進。昭和3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行と合同。第二銀行は機関銀行の時代が去ったとして自ら合同を選択
- [28]昭和2年3月の金融恐慌で休業した左右田銀行の整理を日銀のすすめで受託し、同年12月に財産を引継ぎ。昭和3年1月施行の銀行法は資本金100万円以上(東京・大阪に本支店があれば200万円以上)を原則とし、政府は単独増資を認めず合同を促進。昭和3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行と合同。第二銀行は機関銀行の時代が去ったとして自ら合同を選択
- [29]昭和2年3月の金融恐慌で休業した左右田銀行の整理を日銀のすすめで受託し、同年12月に財産を引継ぎ。昭和3年1月施行の銀行法は資本金100万円以上(東京・大阪に本支店があれば200万円以上)を原則とし、政府は単独増資を認めず合同を促進。昭和3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行と合同。第二銀行は機関銀行の時代が去ったとして自ら合同を選択
- [31]昭和2年3月の金融恐慌で休業した左右田銀行の整理を日銀のすすめで受託し、同年12月に財産を引継ぎ。昭和3年1月施行の銀行法は資本金100万円以上(東京・大阪に本支店があれば200万円以上)を原則とし、政府は単独増資を認めず合同を促進。昭和3年4月第二銀行、5月横浜貿易銀行、7月元町銀行と合同。第二銀行は機関銀行の時代が去ったとして自ら合同を選択
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第3節「関東興信銀行との合併」
- [32]関東興信銀行は関東銀行の整理受託銀行として大正14年設立。東京に3支店を持つ当行は昭和7年末までに資本金200万円以上が必要で、合併による増資となった
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第4節「経営陣の交替と本店新築」
- [34]昭和10年7月26日の株主総会で原頭取が病のため相談役に退き、井坂副頭取が第2代頭取に就任。昭和5年の七十四銀行第2次整理で本店新築積立金を全額取崩して提供
- [35]昭和10年7月26日の株主総会で原頭取が病のため相談役に退き、井坂副頭取が第2代頭取に就任。昭和5年の七十四銀行第2次整理で本店新築積立金を全額取崩して提供
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第4節「七十四銀行の第3次整理とその結末」
- [36]七十四銀行の残存資産の大半は茂木関係の回収不能債権で昭和14年末総資産の77%。要弁済額2,083万円に対し充当可能資金470万円。政府・日銀へ請願し昭和15年末に第3次整理案成立(個人預金者には未払残額全額支払)。3次の整理で一般債権約3,100万円に対し約2,900万円を弁済(切捨率7%)
- [37]七十四銀行の残存資産の大半は茂木関係の回収不能債権で昭和14年末総資産の77%。要弁済額2,083万円に対し充当可能資金470万円。政府・日銀へ請願し昭和15年末に第3次整理案成立(個人預金者には未払残額全額支払)。3次の整理で一般債権約3,100万円に対し約2,900万円を弁済(切捨率7%)
- [38]七十四銀行の残存資産の大半は茂木関係の回収不能債権で昭和14年末総資産の77%。要弁済額2,083万円に対し充当可能資金470万円。政府・日銀へ請願し昭和15年末に第3次整理案成立(個人預金者には未払残額全額支払)。3次の整理で一般債権約3,100万円に対し約2,900万円を弁済(切捨率7%)
- [39]七十四銀行の残存資産の大半は茂木関係の回収不能債権で昭和14年末総資産の77%。要弁済額2,083万円に対し充当可能資金470万円。政府・日銀へ請願し昭和15年末に第3次整理案成立(個人預金者には未払残額全額支払)。3次の整理で一般債権約3,100万円に対し約2,900万円を弁済(切捨率7%)
1941年〜一県一行で統合した県下6行と、資本金7億円で決めた横浜銀行への改称
1941年12月、横浜興信銀行は鎌倉・秦野・足柄農商・相模・平塚江陽・明和の県下6行から営業を譲り受けた。合同の背景にあるのは、大蔵省が1936年の一県一行主義の提唱以降に促し、太平洋戦争の開戦で一段と強めた方針である。6行合同で店舗は33支店7出張所増えて県内全域に広がり、預金高は全国普通銀行の25位から16位に上がった。同月に井坂孝氏が頭取を辞任し、日本銀行から高安礼三氏を第3代頭取に迎えた。1945年5月には都南貯蓄銀行も合同し、支店数70を超える県下唯一の地元銀行となった。前年末に七十四銀行の整理を終えて信用を高めていたことも、合同の主体に選ばれた一因と考えられる。
- 横浜銀行六十年史(1980) 第3章第2節「県下6行との合同」「高安頭取と柳沢頭取」
- [41]県下の普通銀行6行(鎌倉・秦野・足柄農商・相模・平塚江陽・明和)と昭和16年12月に営業譲渡形式で合同。33支店7出張所を増加し県内全域の店舗配置に。16年下期末預金2億5,806万円、全国普通銀行の預金高順位25位→16位。16年12月井坂頭取辞任、日銀から高安礼三を第3代頭取に
- [44]県下の普通銀行6行(鎌倉・秦野・足柄農商・相模・平塚江陽・明和)と昭和16年12月に営業譲渡形式で合同。33支店7出張所を増加し県内全域の店舗配置に。16年下期末預金2億5,806万円、全国普通銀行の預金高順位25位→16位。16年12月井坂頭取辞任、日銀から高安礼三を第3代頭取に
- [45]県下の普通銀行6行(鎌倉・秦野・足柄農商・相模・平塚江陽・明和)と昭和16年12月に営業譲渡形式で合同。33支店7出張所を増加し県内全域の店舗配置に。16年下期末預金2億5,806万円、全国普通銀行の預金高順位25位→16位。16年12月井坂頭取辞任、日銀から高安礼三を第3代頭取に
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [42]昭和16年12月に県下普通銀行6行を合同、20年5月に都南貯蓄銀行を合同し支店70カ店超の県下唯一の地元銀行に
- [46]昭和16年12月に県下普通銀行6行を合同、20年5月に都南貯蓄銀行を合同し支店70カ店超の県下唯一の地元銀行に
- 横浜銀行六十年史(1980) 第3章第1節「一県一行主義の推進」
- [43]昭和11年5月に蔵相が一県一行主義を主唱。16年末の太平洋戦争突入で金融統制強化の必要が増し、金融事業整備令を背景に一層強力に推進
1946年8月11日、横浜興信銀行は金融機関経理応急措置法に基づき、資産負債を新旧勘定に分離した。分離後の新勘定は16億7,900万円、旧勘定は11億8,300万円である。政府が増資の基準を不確定資産の3%以上に改めたため、横浜興信銀行は募集超過分も再増資し、1948年10月に資本金1億円で再建整備を終えた。1949年12月、柳沢鉱一氏が頭取を退任し、大蔵省で横浜税関長などを務めた吉村成一氏が第5代頭取に就任した。吉村成一氏は1950年1月に常務取締役の業務分担制を敷き、本部を6部1室12課に改めた。同年5月には七十四銀行の整理に伴う日本銀行借入金を完済し、設立以来の負債を解消した。
- 横浜銀行六十年史(1980) 第3章第3節「当行の再建整備と増資」
- [47]昭和21年8月11日に金融機関経理応急措置法で新旧勘定を分離(新勘定16億7,900万円、旧勘定11億8,300万円)。政府の増資方針変更(不確定資産の3%以上)を受け、募集超過分の再増資を経て昭和23年10月に新資本金1億円
- [48]昭和21年8月11日に金融機関経理応急措置法で新旧勘定を分離(新勘定16億7,900万円、旧勘定11億8,300万円)。政府の増資方針変更(不確定資産の3%以上)を受け、募集超過分の再増資を経て昭和23年10月に新資本金1億円
- [49]昭和21年8月11日に金融機関経理応急措置法で新旧勘定を分離(新勘定16億7,900万円、旧勘定11億8,300万円)。政府の増資方針変更(不確定資産の3%以上)を受け、募集超過分の再増資を経て昭和23年10月に新資本金1億円
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [50]戦後に再建整備を終え、資本金を1億円に増資
- 横浜銀行六十年史(1980) 第4章第2節「吉村頭取の就任と30周年」
- [51]昭和24年12月に柳沢頭取が退き、大蔵省出身(横浜税関長など)の吉村成一が第5代頭取に就任。25年1月に常務取締役の業務分担制と6部1室12課の本部機構へ移行。25年5月に七十四銀行整理に伴う日銀借入金を完済
- [52]昭和24年12月に柳沢頭取が退き、大蔵省出身(横浜税関長など)の吉村成一が第5代頭取に就任。25年1月に常務取締役の業務分担制と6部1室12課の本部機構へ移行。25年5月に七十四銀行整理に伴う日銀借入金を完済
- [53]昭和24年12月に柳沢頭取が退き、大蔵省出身(横浜税関長など)の吉村成一が第5代頭取に就任。25年1月に常務取締役の業務分担制と6部1室12課の本部機構へ移行。25年5月に七十四銀行整理に伴う日銀借入金を完済
朝鮮動乱の反動で貿易・繊維業界が打撃を受け、横浜興信銀行は1953年から1954年にかけて深刻な業績不振に陥った。横浜興信銀行は繊維恐慌の際に救済融資を実施し、1951年には総貸出を総預金の70%程度とする資金運用基準を定めた。横浜正金銀行の存在が大きかった横浜で、1951年4月に外国為替の取扱いを始めた。自己資本の比率を立て直すため増資を重ね、1956年1月末時点の資本金は7億円にのぼる。1955年ごろから、4文字の行名は呼びにくく過去の灰色の歴史を連想させるという意見が行内で強まった。全行員調査で93%が変更に賛成し、横浜市に本店を置く唯一の普通銀行として1957年1月に横浜銀行へ改称した。
- 横浜銀行六十年史(1980) 第4章第4節「行名の変更」
- [54]朝鮮動乱の反動で28〜29年に深刻な事態。昭和30年ごろから4文字で呼びにくい・灰色の歴史につながる等の意見。全行員調査で変更賛成93%。横浜市に本店を置く唯一の普通銀行であることから「横浜銀行」を選び、32年1月に行名変更
- [59]朝鮮動乱の反動で28〜29年に深刻な事態。昭和30年ごろから4文字で呼びにくい・灰色の歴史につながる等の意見。全行員調査で変更賛成93%。横浜市に本店を置く唯一の普通銀行であることから「横浜銀行」を選び、32年1月に行名変更
- [60]朝鮮動乱の反動で28〜29年に深刻な事態。昭和30年ごろから4文字で呼びにくい・灰色の歴史につながる等の意見。全行員調査で変更賛成93%。横浜市に本店を置く唯一の普通銀行であることから「横浜銀行」を選び、32年1月に行名変更
- 横浜銀行六十年史(1980) 第4章第3節「業容拡大への試練」「体質改善への努力」
- [55]繊維恐慌に際し救済融資。昭和26年に資金運用基準を策定(総貸出は総預金の70%程度、有価証券25%程度)。戦前は横浜正金銀行の存在から外為に未進出。増資で昭和27年2月資本金3億円、31年1月末7億円
- [56]繊維恐慌に際し救済融資。昭和26年に資金運用基準を策定(総貸出は総預金の70%程度、有価証券25%程度)。戦前は横浜正金銀行の存在から外為に未進出。増資で昭和27年2月資本金3億円、31年1月末7億円
- [58]繊維恐慌に際し救済融資。昭和26年に資金運用基準を策定(総貸出は総預金の70%程度、有価証券25%程度)。戦前は横浜正金銀行の存在から外為に未進出。増資で昭和27年2月資本金3億円、31年1月末7億円
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [57]昭和26年4月より外国為替の取扱を開始
参考文献[41]-[60]
- 横浜銀行六十年史(1980) 第3章第2節「県下6行との合同」「高安頭取と柳沢頭取」
- [41]県下の普通銀行6行(鎌倉・秦野・足柄農商・相模・平塚江陽・明和)と昭和16年12月に営業譲渡形式で合同。33支店7出張所を増加し県内全域の店舗配置に。16年下期末預金2億5,806万円、全国普通銀行の預金高順位25位→16位。16年12月井坂頭取辞任、日銀から高安礼三を第3代頭取に
- [44]県下の普通銀行6行(鎌倉・秦野・足柄農商・相模・平塚江陽・明和)と昭和16年12月に営業譲渡形式で合同。33支店7出張所を増加し県内全域の店舗配置に。16年下期末預金2億5,806万円、全国普通銀行の預金高順位25位→16位。16年12月井坂頭取辞任、日銀から高安礼三を第3代頭取に
- [45]県下の普通銀行6行(鎌倉・秦野・足柄農商・相模・平塚江陽・明和)と昭和16年12月に営業譲渡形式で合同。33支店7出張所を増加し県内全域の店舗配置に。16年下期末預金2億5,806万円、全国普通銀行の預金高順位25位→16位。16年12月井坂頭取辞任、日銀から高安礼三を第3代頭取に
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」
- [42]昭和16年12月に県下普通銀行6行を合同、20年5月に都南貯蓄銀行を合同し支店70カ店超の県下唯一の地元銀行に
- [46]昭和16年12月に県下普通銀行6行を合同、20年5月に都南貯蓄銀行を合同し支店70カ店超の県下唯一の地元銀行に
- [50]戦後に再建整備を終え、資本金を1億円に増資
- [57]昭和26年4月より外国為替の取扱を開始
- 横浜銀行六十年史(1980) 第3章第1節「一県一行主義の推進」
- [43]昭和11年5月に蔵相が一県一行主義を主唱。16年末の太平洋戦争突入で金融統制強化の必要が増し、金融事業整備令を背景に一層強力に推進
- 横浜銀行六十年史(1980) 第3章第3節「当行の再建整備と増資」
- [47]昭和21年8月11日に金融機関経理応急措置法で新旧勘定を分離(新勘定16億7,900万円、旧勘定11億8,300万円)。政府の増資方針変更(不確定資産の3%以上)を受け、募集超過分の再増資を経て昭和23年10月に新資本金1億円
- [48]昭和21年8月11日に金融機関経理応急措置法で新旧勘定を分離(新勘定16億7,900万円、旧勘定11億8,300万円)。政府の増資方針変更(不確定資産の3%以上)を受け、募集超過分の再増資を経て昭和23年10月に新資本金1億円
- [49]昭和21年8月11日に金融機関経理応急措置法で新旧勘定を分離(新勘定16億7,900万円、旧勘定11億8,300万円)。政府の増資方針変更(不確定資産の3%以上)を受け、募集超過分の再増資を経て昭和23年10月に新資本金1億円
- 横浜銀行六十年史(1980) 第4章第2節「吉村頭取の就任と30周年」
- [51]昭和24年12月に柳沢頭取が退き、大蔵省出身(横浜税関長など)の吉村成一が第5代頭取に就任。25年1月に常務取締役の業務分担制と6部1室12課の本部機構へ移行。25年5月に七十四銀行整理に伴う日銀借入金を完済
- [52]昭和24年12月に柳沢頭取が退き、大蔵省出身(横浜税関長など)の吉村成一が第5代頭取に就任。25年1月に常務取締役の業務分担制と6部1室12課の本部機構へ移行。25年5月に七十四銀行整理に伴う日銀借入金を完済
- [53]昭和24年12月に柳沢頭取が退き、大蔵省出身(横浜税関長など)の吉村成一が第5代頭取に就任。25年1月に常務取締役の業務分担制と6部1室12課の本部機構へ移行。25年5月に七十四銀行整理に伴う日銀借入金を完済
- 横浜銀行六十年史(1980) 第4章第4節「行名の変更」
- [54]朝鮮動乱の反動で28〜29年に深刻な事態。昭和30年ごろから4文字で呼びにくい・灰色の歴史につながる等の意見。全行員調査で変更賛成93%。横浜市に本店を置く唯一の普通銀行であることから「横浜銀行」を選び、32年1月に行名変更
- [59]朝鮮動乱の反動で28〜29年に深刻な事態。昭和30年ごろから4文字で呼びにくい・灰色の歴史につながる等の意見。全行員調査で変更賛成93%。横浜市に本店を置く唯一の普通銀行であることから「横浜銀行」を選び、32年1月に行名変更
- [60]朝鮮動乱の反動で28〜29年に深刻な事態。昭和30年ごろから4文字で呼びにくい・灰色の歴史につながる等の意見。全行員調査で変更賛成93%。横浜市に本店を置く唯一の普通銀行であることから「横浜銀行」を選び、32年1月に行名変更
- 横浜銀行六十年史(1980) 第4章第3節「業容拡大への試練」「体質改善への努力」
- [55]繊維恐慌に際し救済融資。昭和26年に資金運用基準を策定(総貸出は総預金の70%程度、有価証券25%程度)。戦前は横浜正金銀行の存在から外為に未進出。増資で昭和27年2月資本金3億円、31年1月末7億円
- [56]繊維恐慌に際し救済融資。昭和26年に資金運用基準を策定(総貸出は総預金の70%程度、有価証券25%程度)。戦前は横浜正金銀行の存在から外為に未進出。増資で昭和27年2月資本金3億円、31年1月末7億円
- [58]繊維恐慌に際し救済融資。昭和26年に資金運用基準を策定(総貸出は総預金の70%程度、有価証券25%程度)。戦前は横浜正金銀行の存在から外為に未進出。増資で昭和27年2月資本金3億円、31年1月末7億円
出典・参考
16件
- 横浜銀行六十年史(1980) 第1章第5節「七十四銀行の休業とその影響」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第1節「設立への努力」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第1節「重い使命を担って」「開業直後の状況」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第2節「関東大震災の試練」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第3節「金融恐慌前後の当行」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第3節「当行の合同進む」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第3節「関東興信銀行との合併」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第4節「経営陣の交替と本店新築」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第2章第4節「七十四銀行の第3次整理とその結末」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第3章第2節「県下6行との合同」「高安頭取と柳沢頭取」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第3章第1節「一県一行主義の推進」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第3章第3節「当行の再建整備と増資」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第4章第2節「吉村頭取の就任と30周年」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第4章第4節「行名の変更」
- 横浜銀行六十年史(1980) 第4章第3節「業容拡大への試練」「体質改善への努力」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「横浜銀行」