都銀に対抗する26エリア戦略と地理情報システムの導入
1996年実施全国網の都市銀行に「面」でどう対抗するか——神奈川を26のエリアに束ねた地域密着の設計
- 概要
- 1996年、都市銀行のリテール攻勢に対して、横浜銀行が神奈川県内の全支店を26の「エリア」に分け、地理情報システムで顧客の分布を地図に可視化してエリア単位の営業に束ねた戦略。1991年に打ち出した地元重視を、データにもとづく地域密着の仕組みへ組み替えた。
- 背景
- 神奈川県では都市銀行が積極的に出店し、店舗数は都銀合計約300店に対して横浜銀行は170店にとどまっていた。県民の多くは東京へ通う「神奈川都民」で、地元というだけの忠誠心は当てにできず、緻密な営業が要った。かつての「ミニ都銀」路線で抱えた不良債権も重かった。
- 内容
- 全支店を地域別に26エリアへ再編し、一つのエリアは預金残高でおよそ3,000億円、都市銀行の支店一つ分に相当した。エリア内で顧客情報を共有し、共同で営業企画を立てた。地理情報システムは自行の預金・口座データに国勢調査などを重ね、シェアの低い「最重要地域」を地図から絞り込んだ。
- 含意
- 県内の預金シェアは上向いたが、「ミニ都銀」時代のツケは残り、1998〜99年の公的資金2,200億円の受け入れへ続いた。全国網の都銀に「面」で対抗し、地域を細かく束ねる発想は、2023年の神奈川銀行子会社化による3行体制にも通じる。
「面」で守る地域密着という選択
この判断の核心は、全国に店舗網を持つ都市銀行に、地方銀行が「面」で対抗しようとした点にある。かつての「ミニ都銀」路線は規模で都銀を追ったが、地元回帰は神奈川という土地を26のエリアへ細かく束ね、その一つひとつを固める発想へ切り替えた。地理情報システムは、勘や慣れに頼ってきた出店や営業を、顧客の分布というデータで裏づける道具だった。地域密着という掛け声を、組織の動き方と情報の使い方にまで落とし込もうとした試みといえる。
もっとも、この戦略が県内シェアや収益にどれだけ効いたかを、単独で測るのは難しい。地元回帰の裏で「ミニ都銀」時代の不良債権は重くのしかかり、横浜銀行は1998年から99年にかけて計2,200億円の公的資金を受け入れる。それでも、神奈川を面としてとらえ、細かく束ねて守るという発想は、2023年の神奈川銀行の子会社化による3行体制にまで続いていく。全国網の都銀に地銀がどう伍していくか——横浜銀行は1990年代半ばに、地域を細かく束ねるという一つの答えを示した。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「ミニ都銀」路線からの地元回帰
首都圏に地盤を置く横浜銀行には、他の地方銀行にはない事情があった。地元の神奈川県では大手の都市銀行が店舗網を積極的に広げ、県内の店舗数は都銀が合わせて約300店に達したのに対し、横浜銀行は170店にとどまっていた。しかも県民の多くは東京へ通う「神奈川都民」で、地元という理由だけで横浜銀行への忠誠心が期待できるわけではない。都銀のリテール攻勢に伍していくには、他行より緻密な営業が要った[1]。
横浜銀行が地元重視を鮮明に打ち出したのは1991年4月である。それ以前は「ミニ都銀」を目指し、国際部門や証券部門を強化して規模の拡大を追い、住宅金融専門会社にも出資していた。1990年6月に頭取へ就いた田中敬は、体力では都銀に劣る以上、地方銀行として特色を出さなければ生き残れないと判断し、方針を転換した。本部を縮小し、神奈川県と東京都南西部の個人取引に人と資金を集めた[2]。
支店の機能別分類が生んだ「隙間」
地元回帰の後、横浜銀行は本部の人員を県内の支店へ回し、副支店長級を店頭のロビーに置いた。現金自動預け払い機だけの「無人店舗」も年に約20カ所新設し、支店を法人客中心の「法人店舗」、個人客中心の「個人店舗」、双方に力を入れる「総合店舗」に分けた。効率は上がったが、この機能別の分類は隙間を生んだ。本部が店舗の種類ごとに管理したため、近くの「法人店舗」と「個人店舗」の連絡は薄く、どちらの地域にも取りこぼす顧客が残る。店舗どうしのつながりが十分に働かなかった[3]。
決断
県内を26のエリアに束ねる
そこで横浜銀行が始めたのがエリア戦略である。神奈川県内の全支店を地域ごとに26の「エリア」へ分け、エリアを単位に動くよう改めた。一つのエリアは預金残高でおよそ3,000億円、その営業範囲は都市銀行の支店一つ分にほぼ相当する。エリア内で顧客情報を共有し、共同で営業の企画を立てて「都銀包囲網」を築く狙いだった。「個人店舗」の法人客を「法人店舗」が受け持つなど、店舗をまたいだ柔軟な対応もできるようにした[4]。
エリアの運営は現場が担った。「大船エリア」では支店長級が月に2回ほど集まり、地域の戦略を話し合って共同企画のキャンペーンを打つ。1996年2月26日には、大船をはじめ複数の支店が優良な顧客の獲得へ足並みをそろえた。本部は支店部にエリア事務局を設けたが、その要員はわずか4人にすぎない。少人数で県内26エリアを支えるために使ったのが、地理情報システムだった[5]。
地理情報システムという武器
地理情報システムは、横浜銀行が持つ独自の情報と外部のデータを地図の上に重ねる仕組みである。預金・貸出の残高や給与振替口座、年金の受取口座といった自行のデータに、市販のデータベースと国勢調査を組み合わせ、専用のソフトで加工した。地域ごとの一人あたり口座数を地図に落とすと、色の濃い地域と薄い地域が一目で分かる。横浜銀行はこれをもとに、シェアの低い「最重要地域」を絞り込んだ[6]。
このシステムは、自行と他行のシェアや店舗網を並べて地図に描ける点に強みがあった。県南西部にシェアの低い地域を見つけ、そこに他の都銀の支店があって同行のシェアが高いことまで、地図の上で見て取れる。もともと横浜銀行は店舗開発のためにこれを入れていた。「駅前のように人通りが多いところで、半径500メートルに1万5,000〜2万世帯あるといったことを調べる程度で、適当に出店していたといわれても仕方がない」。導入を決めた松崎広取締役はそう認めた[7]。
結果
上向く県内シェアと残る不良債権
エリア戦略と地理情報システムの下で、横浜銀行の県内の預金シェアは1990年から95年にかけて上向いた。県内では都市銀行が合計で高いシェアを占め、横浜銀行はそれを下回っていたが、地元の地盤を少しずつ固めていった。立地の効き目も具体的に見えた。横浜市戸塚区の鳥が丘地区では、1988年に現金自動預け払い機を置くと、その周辺の定期預金量が3年で約2割増えた。地図の上で立地と利用を読めば、出店も統廃合も勘だけに頼らずに決められる[8]。
もっとも、地元回帰の裏では、かつての「ミニ都銀」路線が残した不良債権が重かった。1996年初めの時点で、公表分だけでも経営破綻先への債権が684億円、住宅金融専門会社向けが1,614億円あり、延滞や金利減免を含めれば数千億円にのぼるとみられた。1996年3月期の連結経常収益5,837億円に対し、経常損益も最終損益も赤字に沈んだ。今後は新規の出店より店舗の統廃合が課題となり、地元重視と人員の削減をどう両立させるかが次の課題になった[9][10]。
- 日経ビジネス 1996年4月1日号「横浜銀行 地理情報使い顧客把握 26エリアで都銀包囲網」
- 日経ビジネス 1995年1月9日号「平澤貞昭氏[横浜銀行頭取]登場 しぶとくタフに現場主義を貫く」
- 会社年鑑(横浜銀行 連結・1996年3月期)
- 横浜銀行 有価証券報告書【沿革】