汽車製造:井上勝の汽車製造創立と大阪・東京の二拠点
1896年〜井上勝氏の創業と平岡工場合流による東西二拠点体制
1896年9月、鉄道局長を退任した井上勝氏が大阪府西成郡川北村に汽車製造合資会社を創立した。資本金64万円、出資社員18人には黒田長成・前田利嗣・毛利五郎ら旧大藩諸侯、岩崎久彌・住友吉左衛門・渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・藤田伝三郎ら明治財界の中核が並んだ。後に"鉄道の父"と呼ばれる井上氏が早々に民間車両会社の創立に動いたのは、当時の鉄道資材が輸入一辺倒で外貨が流出し続けた状況を変える目的があった。井上氏自身が掲げた創立趣意の第一項は『外貨を節約することができる』、第三項は『わが国の労働者に職を与えることができる』であり、創業時点から国策的性格を帯びていた。
- 川崎重工業百年史
- [1]1896年9月 鉄道局長を退いた井上勝が大阪府西成郡川北村に汽車製造合資会社を創立
- [2]創立時の資本金は64万円
- [3]出資社員18人に黒田長成・前田利嗣・岩崎久彌・住友吉左衛門・渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎ら旧大名家と財界人が並んだ
1899年6月、東京小石川で平岡工場を経営していた平岡熈氏を副社長に迎え、社名を大阪汽車製造合資会社に変更、資本金を90万円に増資した。同年7月5日に大阪工場で開業式を挙行し、製品目録200部を鉄道作業局と全国67社の民間鉄道会社に発送した。日清戦争後の不況下での開業だったが、開業前から41件・6万円超の引き合いがあり、初年度から安定的に受注を確保した。1901年7月には東京本所区錦糸町の平岡工場一切を譲り受け、社名は再び汽車製造合資会社に戻された。この買収によって、東京と大阪の二拠点体制が成立した。
- 川崎重工業百年史
- [4]1899年6月 平岡熈を副社長に迎え社名を大阪汽車製造合資会社に変更・資本金90万円に増資
- [5]1899年7月 大阪工場で開業式・製品目録200部を鉄道作業局と全国67社の民間鉄道会社へ発送
- [6]開業前から41件・6万円超の引き合いがあった
- [7]1901年 東京本所区錦糸町の平岡工場一切を譲り受け社名を再び汽車製造合資会社に戻した(社名再変更1901/6・平岡工場買収1901/7)
- [8]平岡工場買収により東京と大阪の二拠点体制が成立
1901年8月、わが国民間会社製造の第1号機関車"1B1形"を完成、同系列9号機は鉄道作業局民間発注第1号機"A10形"となり、1911年に川崎造船所製"6700形"が登場するまでの10年間、汽車製造が国産機関車市場を独占した。車輪旋盤など工作機械の自社生産も1899年以降進め、官営・民営鉄道の各工場へ供給した。だが1906年の鉄道国有法で主要顧客が一気に消失、1909年8月には汽車製造・日本車輛・川崎造船所の3社で鉄道用品製造共同事務所を設立、1910年に井上勝氏が急逝、1912年6月に株式会社へ改組し専務取締役に長谷川正五氏が就任するなど、創業16年で官民の構造変化を立て続けに迎えた。
- 川崎重工業百年史
- [9]1901年8月 わが国民間会社製造の第1号機関車「1B1形」完成・同系列9号機が鉄道作業局民間発注第1号機「A10形」
- [10]1911年の川崎造船所製「6700形」登場まで約10年間 汽車製造が国産機関車市場を独占
- [11]1906年 鉄道国有法で主要顧客が一気に消失
- [12]1909年8月 汽車製造・日本車輛・川崎造船所の3社で鉄道用品製造共同事務所を設立
- [13]1910年 創業者 井上勝が急逝
- [14]1912年6月 合資会社を株式会社へ改組・専務取締役に長谷川正五が就任
参考文献[1]-[14]
- 川崎重工業百年史
- [1]1896年9月 鉄道局長を退いた井上勝が大阪府西成郡川北村に汽車製造合資会社を創立
- [2]創立時の資本金は64万円
- [3]出資社員18人に黒田長成・前田利嗣・岩崎久彌・住友吉左衛門・渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎ら旧大名家と財界人が並んだ
- [4]1899年6月 平岡熈を副社長に迎え社名を大阪汽車製造合資会社に変更・資本金90万円に増資
- [5]1899年7月 大阪工場で開業式・製品目録200部を鉄道作業局と全国67社の民間鉄道会社へ発送
- [6]開業前から41件・6万円超の引き合いがあった
- [7]1901年 東京本所区錦糸町の平岡工場一切を譲り受け社名を再び汽車製造合資会社に戻した(社名再変更1901/6・平岡工場買収1901/7)
- [8]平岡工場買収により東京と大阪の二拠点体制が成立
- [9]1901年8月 わが国民間会社製造の第1号機関車「1B1形」完成・同系列9号機が鉄道作業局民間発注第1号機「A10形」
- [10]1911年の川崎造船所製「6700形」登場まで約10年間 汽車製造が国産機関車市場を独占
- [11]1906年 鉄道国有法で主要顧客が一気に消失
- [12]1909年8月 汽車製造・日本車輛・川崎造船所の3社で鉄道用品製造共同事務所を設立
- [13]1910年 創業者 井上勝が急逝
- [14]1912年6月 合資会社を株式会社へ改組・専務取締役に長谷川正五が就任
1912年〜タクマ式ボイラ参入と南砂町工場・丸ビル本社による東京への本拠移転
1912年11月、株式会社として出直すのに合わせ、資本金を270万円へ引き上げた。民営鉄道の買収で顧客は国にほぼ一本化されたが、国有鉄道の発足は車両の発注量を大きく押し上げ、事業規模も膨らんだ。同じ1912年には政府が機関車を全面的に国内で調達する方針を固め、輸入機との競合という創業以来の壁が外れた。第一次世界大戦の特需が訪れたとき、各工場の設備増強はちょうど終わっており、車両に加えて工作機械の販売が大きく伸びた。工作機械は1916年にインドへまとまった数を輸出し、1921年には初の輸出機関車を中国本土へ出荷した。国内の官需を足場にしながら、海外にも製品の出口を広げた10年だった。
- 川崎重工業百年史
- [15]1912年6月に株式会社へ改組し、同年11月に資本金を270万円に増資
- 企業の歴史(明治百年)1968
- [16]国有鉄道の誕生で車両発注が激増し、社業が大きく膨張した
- [18]第一次世界大戦の特需期に各工場の生産設備の拡充が整っており、車両部門に加え工作機械部門の業況が大きく伸びた
- 会社銀行八十年史 1955
- [17]明治45年(1912年)政府が機関車をすべて国産とする方針を確立
- [19]大正5年(1916年)工作機械をインドへ大量輸出、大正10年(1921年)中国本土へ最初の輸出機関車
車両の外で最も大きく育った製品はボイラである。1909年に田熊常吉氏が考案したボイラの特許権を買い取り、改良を加えて1917年から"タクマ式ボイラ"として製造した。当時の国内市場はランカシア型などの輸入品が押さえていたが、約10年でそれらを退け、昭和の初めには国内で使われるボイラの半分超を占めた。橋梁では1905年に台湾縦貫鉄道大肚渓の構桁を架け、1927年には九州の白川橋で国内初のバランスアーチ型を手がけた。以後の納入先は台湾・朝鮮・満州・中国へ及んだ。車両でも、客車に小型ボイラを載せた工藤式蒸気動車を1909年に初瀬鉄道へ納め、台湾と朝鮮にも輸出した。鉄道の発注に左右されにくい収益源が、この時期に芽を出したとみられる。
- 会社銀行八十年史 1955
- [20]1909年に田熊常吉が発明したボイラの特許権を買収して研究改良を加え、大正6年(1917年)タクマ式ボイラの製造を開始
- [22]1905年 台湾縦貫鉄道大肚渓の構桁を建造、昭和2年(1927年)わが国最初のバランスアーチ型白川橋(九州)を架設。橋梁は台湾・朝鮮・満州・中国へ
- [23]1905年 台湾縦貫鉄道大肚渓の構桁を建造、昭和2年(1927年)わが国最初のバランスアーチ型白川橋(九州)を架設。橋梁は台湾・朝鮮・満州・中国へ
- 企業の歴史(明治百年)1968
- [21]タクマ式水管ボイラは外国品をその後10年で駆逐し、昭和初期には国内需要の過半を占めた
- 川崎重工業百年史
- [24]特許工藤式蒸気動車は客車に小型ボイラを積んだ気動車で、1909年の初瀬鉄道を皮切りに台湾・朝鮮へも輸出
1918年、専務の長谷川正五氏はワシントンの国際労働会議へ経営側の顧問として出席し、その経験から8時間労働制を取り入れた。大戦後の米騒動から関東大震災へ続く時期には深川と川崎の2か所に分工場を新設し、長谷川氏自身は1923年に社長へ就任した。1931年には錦糸町の東京支店を南砂町へ移し、敷地は最終的に21万5000㎡と大阪に並ぶ広さになった。東京地区に散っていた分工場もこの地に寄せられ、のちの東京製作所の母体となった。1936年には創業40周年を区切りに本社を丸ノ内の丸ビルへ移し、1939年5月には資本金を2000万円まで積み増した。大阪で生まれた会社が、最大の顧客である国の窓口に近い東京へ工場と本社の中心を移した過程だったと推察される。
- 川崎重工業百年史
- [25]1918年 専務取締役 長谷川正五がワシントンの国際労働会議に経営者顧問として参加し、これを機に8時間労働制を採用。社長就任は1923年
- [27]1918年 専務取締役 長谷川正五がワシントンの国際労働会議に経営者顧問として参加し、これを機に8時間労働制を採用。社長就任は1923年
- [28]1931年 錦糸町の東京支店を南砂町に移転、敷地は最終的に21万5000㎡と大阪に匹敵
- [30]1936年 創業40周年を機に本社を東京丸ノ内の丸ビルへ移転し、増資と工場の大増設を行った
- 企業の歴史(明治百年)1968
- [26]大戦終結後の米騒動・関東大震災の時期に深川と川崎に分工場を設置。昭和6年に南砂町工場を建設し、東京地区の分工場を集約して東京製作所へ発展
- [29]大戦終結後の米騒動・関東大震災の時期に深川と川崎に分工場を設置。昭和6年に南砂町工場を建設し、東京地区の分工場を集約して東京製作所へ発展
- 株式会社年鑑 1950年版
- [31]昭和14年5月 資本金2000万円に増資
参考文献[15]-[31]
- 川崎重工業百年史
- [15]1912年6月に株式会社へ改組し、同年11月に資本金を270万円に増資
- [24]特許工藤式蒸気動車は客車に小型ボイラを積んだ気動車で、1909年の初瀬鉄道を皮切りに台湾・朝鮮へも輸出
- [25]1918年 専務取締役 長谷川正五がワシントンの国際労働会議に経営者顧問として参加し、これを機に8時間労働制を採用。社長就任は1923年
- [27]1918年 専務取締役 長谷川正五がワシントンの国際労働会議に経営者顧問として参加し、これを機に8時間労働制を採用。社長就任は1923年
- [28]1931年 錦糸町の東京支店を南砂町に移転、敷地は最終的に21万5000㎡と大阪に匹敵
- [30]1936年 創業40周年を機に本社を東京丸ノ内の丸ビルへ移転し、増資と工場の大増設を行った
- 企業の歴史(明治百年)1968
- [16]国有鉄道の誕生で車両発注が激増し、社業が大きく膨張した
- [18]第一次世界大戦の特需期に各工場の生産設備の拡充が整っており、車両部門に加え工作機械部門の業況が大きく伸びた
- [21]タクマ式水管ボイラは外国品をその後10年で駆逐し、昭和初期には国内需要の過半を占めた
- [26]大戦終結後の米騒動・関東大震災の時期に深川と川崎に分工場を設置。昭和6年に南砂町工場を建設し、東京地区の分工場を集約して東京製作所へ発展
- [29]大戦終結後の米騒動・関東大震災の時期に深川と川崎に分工場を設置。昭和6年に南砂町工場を建設し、東京地区の分工場を集約して東京製作所へ発展
- 会社銀行八十年史 1955
- [17]明治45年(1912年)政府が機関車をすべて国産とする方針を確立
- [19]大正5年(1916年)工作機械をインドへ大量輸出、大正10年(1921年)中国本土へ最初の輸出機関車
- [20]1909年に田熊常吉が発明したボイラの特許権を買収して研究改良を加え、大正6年(1917年)タクマ式ボイラの製造を開始
- [22]1905年 台湾縦貫鉄道大肚渓の構桁を建造、昭和2年(1927年)わが国最初のバランスアーチ型白川橋(九州)を架設。橋梁は台湾・朝鮮・満州・中国へ
- [23]1905年 台湾縦貫鉄道大肚渓の構桁を建造、昭和2年(1927年)わが国最初のバランスアーチ型白川橋(九州)を架設。橋梁は台湾・朝鮮・満州・中国へ
- 株式会社年鑑 1950年版
- [31]昭和14年5月 資本金2000万円に増資
1940年〜岡山工場の操業と東西2製作所体制、蒸気機関車製造の中止
準戦時期に入ると、国内向けに加えて満鉄用の大形機関車も並行して抱え、機関車の生産は繁忙を極めた。日中戦争後の受注増で大阪工場の敷地は手狭になり、1940年2月に岡山県児島湾の干拓地約33万㎡を新工場用地として取得した。1943年6月に岡山工場は一部で操業を始めたが、物資の統制と不足で建設が進まず、終戦までに完成しなかった。実際にこの工場でつくれたのは、小型ボイラやストーカなど一部の製品にとどまった。一方で1944年1月に阪神電気鋳鋼所を合併し、鋳鋼材料を自前で確保できるようにした。製品では1941年に2000号機関車のC591を完成させ、1943年からD52形の製造に入った。
- 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
- [32]準戦時時代に機関車製造は大いに繁栄し、満鉄用大形機関車の製造も同時に行った(朝倉希一の証言)
- [37]1941年 2000号機関車(C591)完成、1943年 D52形製造開始
- 川崎重工業百年史
- [33]大阪工場が狭隘になったため1940年2月 岡山県児島湾の開墾干拓地約33万㎡を取得し岡山工場建設に着手。小型ボイラ・ストーカ・クレーマなどを若干製造しただけで工場は完成しなかった
- [35]大阪工場が狭隘になったため1940年2月 岡山県児島湾の開墾干拓地約33万㎡を取得し岡山工場建設に着手。小型ボイラ・ストーカ・クレーマなどを若干製造しただけで工場は完成しなかった
- 会社銀行八十年史 1955
- [34]日華事変後の繁忙で岡山製作所の建設に着手、昭和18年6月一部操業開始、物資の統制と不足で終戦までに未完成。昭和19年1月 阪神電気鋳鋼所を合併して資材の自給を図った
- [36]日華事変後の繁忙で岡山製作所の建設に着手、昭和18年6月一部操業開始、物資の統制と不足で終戦までに未完成。昭和19年1月 阪神電気鋳鋼所を合併して資材の自給を図った
1944年5月、大阪本店を大阪製作所、東京支店を東京製作所と改め、丸ビルの本社が2製作所を統括する組織が固まった。同じ年には支店工場の制度を廃し、佃に分工場を置いた。持ち場は製品で分かれ、大阪は機関車にボイラとストーカ、橋桁と鉄骨、工作機械、それに軍需品を受け持った。東京は客貨車と電車、自動車の車体、鉱山向けの機械を担った。軍需品は1932年に砲弾や戦車から始まっていたが、1944年には上陸用舟艇の製造にまで及んだ。橋梁でも1940年に鴨緑江、1943年に青函の可動橋を手がけた。資本金は1945年4月に4000万円となった。重い製品は大阪、客貨車は東京という東西の分担が、戦時量産を支える骨格になったとみられる。
- 川崎重工業百年史
- [38]1944年5月 大阪本店を大阪製作所、東京支店を東京製作所と改称し、丸ビルの本社と2製作所の組織体制が確立。大阪製作所は機関車・ボイラ・ストーカ・橋桁・鉄骨・工作機械・軍需品、東京製作所は客車・貨車・電車・自動車車体・鉱山用諸機械
- [40]1944年5月 大阪本店を大阪製作所、東京支店を東京製作所と改称し、丸ビルの本社と2製作所の組織体制が確立。大阪製作所は機関車・ボイラ・ストーカ・橋桁・鉄骨・工作機械・軍需品、東京製作所は客車・貨車・電車・自動車車体・鉱山用諸機械
- [41]1944年5月 大阪本店を大阪製作所、東京支店を東京製作所と改称し、丸ビルの本社と2製作所の組織体制が確立。大阪製作所は機関車・ボイラ・ストーカ・橋桁・鉄骨・工作機械・軍需品、東京製作所は客車・貨車・電車・自動車車体・鉱山用諸機械
- 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
- [39]1944年 佃分工場設置・支店工場を廃止し製作所とする・上陸用舟艇製造。1940年 鴨緑江橋りょう、1943年 青函可動橋完成
- [43]1944年 佃分工場設置・支店工場を廃止し製作所とする・上陸用舟艇製造。1940年 鴨緑江橋りょう、1943年 青函可動橋完成
- [44]1944年 佃分工場設置・支店工場を廃止し製作所とする・上陸用舟艇製造。1940年 鴨緑江橋りょう、1943年 青函可動橋完成
- 会社銀行八十年史 1955
- [42]昭和7年(1932年)砲弾・戦車等の軍需品の製造を開始
- 株式会社年鑑 1950年版
- [45]昭和20年4月 資本金4000万円に増資
日本鉄道技術協会会長の朝倉希一氏によれば、汽車製造は車両会社のなかで最も大きな戦災を受けたという。1946年には特別経理会社・制限会社に指定された。同年春には組織を簡素化して人員を絞り、電気機関車や微粉炭燃焼装置、暖房設備、オート三輪車の生産に取り組んだ。エンジンまで自製した三輪車"なにわ号"は販売網が育たないまま、28両をつくった1947年に生産を打ち切った。同じ1947年に船田要之助氏が退いて佐々木和三郎氏が社長となり、10月には大ストライキが起きた。1949年、国鉄の電化方針によりC62形を最後に蒸気機関車の製造が止まった。同年に佐々木氏が逝去し、玉置善雄氏が社長を継いだ。創業期からの経営者を失い、2年で社長が2度替わるなかで、戦後の針路を探ることになった。
- 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
- [46]車両会社のうち最も大なる戦災を受けた(朝倉希一 日本鉄道技術協会会長の証言)
- [47]1946年 特別経理会社・制限会社指定、1947年 船田社長退任・佐々木和三郎社長就任・10月大ストライキ、1949年 佐々木社長逝去・玉置善雄社長就任
- [50]1946年 特別経理会社・制限会社指定、1947年 船田社長退任・佐々木和三郎社長就任・10月大ストライキ、1949年 佐々木社長逝去・玉置善雄社長就任
- [52]1946年 特別経理会社・制限会社指定、1947年 船田社長退任・佐々木和三郎社長就任・10月大ストライキ、1949年 佐々木社長逝去・玉置善雄社長就任
- 川崎重工業百年史
- [48]1946年春 機構の簡素化と少数精鋭主義、電気機関車・微粉炭燃焼装置・暖房設備・オート三輪車の生産。なにわ号はエンジンも自社製、販売機構が整わず1947年に28両で中止。1949年 C62形を最後に国鉄の電化方針で蒸気機関車製造中止
- [49]1946年春 機構の簡素化と少数精鋭主義、電気機関車・微粉炭燃焼装置・暖房設備・オート三輪車の生産。なにわ号はエンジンも自社製、販売機構が整わず1947年に28両で中止。1949年 C62形を最後に国鉄の電化方針で蒸気機関車製造中止
- [51]1946年春 機構の簡素化と少数精鋭主義、電気機関車・微粉炭燃焼装置・暖房設備・オート三輪車の生産。なにわ号はエンジンも自社製、販売機構が整わず1947年に28両で中止。1949年 C62形を最後に国鉄の電化方針で蒸気機関車製造中止
参考文献[32]-[52]
- 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
- [32]準戦時時代に機関車製造は大いに繁栄し、満鉄用大形機関車の製造も同時に行った(朝倉希一の証言)
- [37]1941年 2000号機関車(C591)完成、1943年 D52形製造開始
- [39]1944年 佃分工場設置・支店工場を廃止し製作所とする・上陸用舟艇製造。1940年 鴨緑江橋りょう、1943年 青函可動橋完成
- [43]1944年 佃分工場設置・支店工場を廃止し製作所とする・上陸用舟艇製造。1940年 鴨緑江橋りょう、1943年 青函可動橋完成
- [44]1944年 佃分工場設置・支店工場を廃止し製作所とする・上陸用舟艇製造。1940年 鴨緑江橋りょう、1943年 青函可動橋完成
- [46]車両会社のうち最も大なる戦災を受けた(朝倉希一 日本鉄道技術協会会長の証言)
- [47]1946年 特別経理会社・制限会社指定、1947年 船田社長退任・佐々木和三郎社長就任・10月大ストライキ、1949年 佐々木社長逝去・玉置善雄社長就任
- [50]1946年 特別経理会社・制限会社指定、1947年 船田社長退任・佐々木和三郎社長就任・10月大ストライキ、1949年 佐々木社長逝去・玉置善雄社長就任
- [52]1946年 特別経理会社・制限会社指定、1947年 船田社長退任・佐々木和三郎社長就任・10月大ストライキ、1949年 佐々木社長逝去・玉置善雄社長就任
- 川崎重工業百年史
- [33]大阪工場が狭隘になったため1940年2月 岡山県児島湾の開墾干拓地約33万㎡を取得し岡山工場建設に着手。小型ボイラ・ストーカ・クレーマなどを若干製造しただけで工場は完成しなかった
- [35]大阪工場が狭隘になったため1940年2月 岡山県児島湾の開墾干拓地約33万㎡を取得し岡山工場建設に着手。小型ボイラ・ストーカ・クレーマなどを若干製造しただけで工場は完成しなかった
- [38]1944年5月 大阪本店を大阪製作所、東京支店を東京製作所と改称し、丸ビルの本社と2製作所の組織体制が確立。大阪製作所は機関車・ボイラ・ストーカ・橋桁・鉄骨・工作機械・軍需品、東京製作所は客車・貨車・電車・自動車車体・鉱山用諸機械
- [40]1944年5月 大阪本店を大阪製作所、東京支店を東京製作所と改称し、丸ビルの本社と2製作所の組織体制が確立。大阪製作所は機関車・ボイラ・ストーカ・橋桁・鉄骨・工作機械・軍需品、東京製作所は客車・貨車・電車・自動車車体・鉱山用諸機械
- [41]1944年5月 大阪本店を大阪製作所、東京支店を東京製作所と改称し、丸ビルの本社と2製作所の組織体制が確立。大阪製作所は機関車・ボイラ・ストーカ・橋桁・鉄骨・工作機械・軍需品、東京製作所は客車・貨車・電車・自動車車体・鉱山用諸機械
- [48]1946年春 機構の簡素化と少数精鋭主義、電気機関車・微粉炭燃焼装置・暖房設備・オート三輪車の生産。なにわ号はエンジンも自社製、販売機構が整わず1947年に28両で中止。1949年 C62形を最後に国鉄の電化方針で蒸気機関車製造中止
- [49]1946年春 機構の簡素化と少数精鋭主義、電気機関車・微粉炭燃焼装置・暖房設備・オート三輪車の生産。なにわ号はエンジンも自社製、販売機構が整わず1947年に28両で中止。1949年 C62形を最後に国鉄の電化方針で蒸気機関車製造中止
- [51]1946年春 機構の簡素化と少数精鋭主義、電気機関車・微粉炭燃焼装置・暖房設備・オート三輪車の生産。なにわ号はエンジンも自社製、販売機構が整わず1947年に28両で中止。1949年 C62形を最後に国鉄の電化方針で蒸気機関車製造中止
- 会社銀行八十年史 1955
- [34]日華事変後の繁忙で岡山製作所の建設に着手、昭和18年6月一部操業開始、物資の統制と不足で終戦までに未完成。昭和19年1月 阪神電気鋳鋼所を合併して資材の自給を図った
- [36]日華事変後の繁忙で岡山製作所の建設に着手、昭和18年6月一部操業開始、物資の統制と不足で終戦までに未完成。昭和19年1月 阪神電気鋳鋼所を合併して資材の自給を図った
- [42]昭和7年(1932年)砲弾・戦車等の軍需品の製造を開始
- 株式会社年鑑 1950年版
- [45]昭和20年4月 資本金4000万円に増資
出典・参考
5件
- 川崎重工業百年史
- 株式会社年鑑 1950年版
- 会社銀行八十年史 1955
- 企業の歴史(明治百年)1968
- 汽車会社蒸気機関車製造史 1972