第2章 年〜年

汽車製造:ディーゼル機関車の製造再開と151系こだま形電車

1950年〜岡山製作所の閉鎖とディーゼル・電気機関車の再開、3社長の相次ぐ病死

国鉄は電化の方針をとり、1949年のC62形を最後に蒸気機関車の新造を打ち切った。汽車製造は創業から半世紀の主力製品をここで失った。翌1950年には、干拓地に建てながら完工に至らなかった岡山製作所を閉じ、大規模な人員整理に踏み切った。同じ年、大阪製作所は大水害にも遭った。1949年前後の従業員は東京製作所1,334人、大阪製作所1,982人、岡山製作所491人で、三拠点のうち最も新しい一つを手放す縮小だった。1946年8月から1950年4月の新旧勘定併合までの3年8カ月で、損失は1億3,314万円に上った。車両会社のなかで戦災の被害は最も重く、設備を直す仕事と戦後の事業方針を決める仕事が同じ時期に重なった。

  • 川崎重工業百年史
    • [1]1949年 国鉄の電化方針によりC62形を最後に蒸気機関車の製造が中止され、大阪製作所は伝統的主力製品を失った
  • 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
    • [2]1950年 岡山製作所閉鎖・大人員整理・大阪製作所大水害(岡山工場は完成を見ないまま1950年4月閉鎖)
    • [5]車両会社のうち最大の戦災を受け、設備の回復と戦後の経営方針策定を同時に迫られた(朝倉希一の証言)
  • 『株式会社年鑑 1950年版』
    • [3]従業員 東京製作所1,334人・大阪製作所1,982人・岡山製作所491人
  • 『株式会社年鑑 1952年版』
    • [4]1946年8月〜1950年4月の期(新旧勘定併合まで)の当期損失金133,140千円

1950年8月、汽車製造は車両各社のうち最も早くディーゼル機関車の製造を再開した。1951年4月には提携先の東洋電機製造を経由して戦後初の電気機関車を受注し、1958年までにEF58形19両、EF15形13両、EH10形6両を納めた。1952年には液体式ディーゼル機関車の製造をわが国で最初に始め、流体変速機を使う液圧式では同業を抑えて多くの両数を受注した。熱の技術も車両へ持ち込み、1951年に国鉄の列車暖房向けに開発した単管式のSG蒸気発生機は、客車を引く電気機関車とディーゼル機関車に独占的に積まれた。蒸気機関車で積んだ機関車の設計力とボイラの技術を、動力の違う新車種とその付属機器へ移し替えた再建だったとみられる。

  • 川崎重工業百年史
    • [6]1950年8月 他社に先駆けてディーゼル機関車の製造を再開
    • [7]1951年4月 戦後初の電気機関車の発注が提携先の東洋電機製造を通じて入った
    • [8]1958年までにEF58形19両・EF15形13両・EH10形6両を製造
    • [10]流体変速機を使った液圧式ディーゼル機関車で他社を制して多数製造
    • [11]1951年 国鉄の列車暖房用に単管式SG蒸気発生機を開発、国鉄の客車用電気機関車・ディーゼル機関車に独占製品として搭載
  • 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
    • [9]1952年 液体式ディーゼル機関車の製造開始(わが国最初)

業績の戻りは技術の転換より遅れた。戦後の車両業界は中国大陸の市場を失って国鉄の予算に依存するほかなく、航空機から転じた会社も加わって生産能力が需要を大きく上回った。汽車製造は機関車で全国の生産能力の21%を抱えながら、稼働能力に対する操業度は66.6%だった。経営の中枢も揺れ、船田要之助氏・佐々木和三郎氏・玉置善雄氏の3社長が相次いで病死し、日本鉄道技術協会会長の朝倉希一氏は後年、その結果を『諸計画において他社に一歩を譲ったような状態となり、経営状態は悪化した』と振り返った。1952年の玉置氏の逝去を経て、1953年に後藤悌次氏が社長に就任した。数字が戻ったのは1951年9月期で、特需の車両修理と国鉄予算の増加に支えられて売上13億9,000万円余りを計上し、1割配当を復活させた。

  • 証券時報(1952年)
    • [12]車両メーカーは戦後中国市場を失い国鉄予算に依存、航空機からの転換メーカーが加わって生産能力が過大となった
    • [13]汽車製造の車両部門は機関車で全国生産能力の21%を占め、稼動能力に対する操業度は66.6%
    • [16]特需車両修理・国鉄予算増加などで立ち直り、1951年9月期に売上13億9千万円強・利益7,100万円、1割配当を復配
  • 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
    • [14]船田要之助・佐々木和三郎・玉置善雄の3社長が相次いで病死した(朝倉希一の証言)
    • [15]1952年 玉置社長逝去、1953年 後藤悌次社長就任
参考文献[1]-[16]
  • 川崎重工業百年史
    • [1]1949年 国鉄の電化方針によりC62形を最後に蒸気機関車の製造が中止され、大阪製作所は伝統的主力製品を失った
    • [6]1950年8月 他社に先駆けてディーゼル機関車の製造を再開
    • [7]1951年4月 戦後初の電気機関車の発注が提携先の東洋電機製造を通じて入った
    • [8]1958年までにEF58形19両・EF15形13両・EH10形6両を製造
    • [10]流体変速機を使った液圧式ディーゼル機関車で他社を制して多数製造
    • [11]1951年 国鉄の列車暖房用に単管式SG蒸気発生機を開発、国鉄の客車用電気機関車・ディーゼル機関車に独占製品として搭載
  • 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
    • [2]1950年 岡山製作所閉鎖・大人員整理・大阪製作所大水害(岡山工場は完成を見ないまま1950年4月閉鎖)
    • [5]車両会社のうち最大の戦災を受け、設備の回復と戦後の経営方針策定を同時に迫られた(朝倉希一の証言)
    • [9]1952年 液体式ディーゼル機関車の製造開始(わが国最初)
    • [14]船田要之助・佐々木和三郎・玉置善雄の3社長が相次いで病死した(朝倉希一の証言)
    • [15]1952年 玉置社長逝去、1953年 後藤悌次社長就任
  • 『株式会社年鑑 1950年版』
    • [3]従業員 東京製作所1,334人・大阪製作所1,982人・岡山製作所491人
  • 『株式会社年鑑 1952年版』
    • [4]1946年8月〜1950年4月の期(新旧勘定併合まで)の当期損失金133,140千円
  • 証券時報(1952年)
    • [12]車両メーカーは戦後中国市場を失い国鉄予算に依存、航空機からの転換メーカーが加わって生産能力が過大となった
    • [13]汽車製造の車両部門は機関車で全国生産能力の21%を占め、稼動能力に対する操業度は66.6%
    • [16]特需車両修理・国鉄予算増加などで立ち直り、1951年9月期に売上13億9千万円強・利益7,100万円、1割配当を復配

1954年〜国鉄資材支給の下での空気ばね台車とモハ90形・こだま形151系

1955年時点で、東京製作所の受注の8割は国鉄が占め、その主要資材の75%は国鉄から支給された。電車1両の価格は約2,000万円だったが、東京製作所が自ら手を加える部分は約800万円にとどまった。売上高に対する純生産高は25%程度で、原価を1割削減しても車両価格はほとんど下がらない構造だった。汽車製造は日本車輌製造に次ぐ業界2位で、蒸気・電気機関車から客電貨車まで全車種を造れるのは汽車製造を含む4社だけだった。国鉄予算の枠に縛られた低い操業は、1956年度に始まった国鉄の民有車両制度と東南アジア向けの賠償車両で幾分和らいだ。価格で差がつかない以上、付加価値を上げる余地は台車や駆動装置のような技術を要する部位に残っていたとみられる。

  • 東商(1955年)
    • [17]東京製作所の受注は国鉄が8割、国鉄発注分は主要資材の75%が支給される
    • [18]電車1両の価格は約2,000万円、国鉄向けでは資材支給のため工場の生産にかかる部分は約800万円
    • [19]販売高に占める純生産高は25%程度で、1割のコスト引下げでも車両1台の低減率は小さい
    • [20]車両業界で日本車輌に次ぐ第2位。蒸気機関車・電気機関車・客電貨車全部を製作するのは日本車輌・川崎車輌・日立製作所・汽車製造の4社のみ
  • 大阪経済評論(1957年)
    • [21]国鉄予算に縛られた低操業が、前年度発足の国鉄民有車両制度と東南アジア向け賠償車両の製作で幾分緩和された

汽車製造は走行装置の技術に力を注いだ。1955年、わが国で最初に空気ばね台車の製造を始め、1957年には同じく国内初の車輪転削盤の製造に入った。1956年に製造を始めたモハ90形は、高速電動機とカルダン駆動、電気ブレーキ、2両を1組とするMM'方式を組み合わせた電車で、のちに101系と改称されて国鉄新性能電車の基本となった。1958年には在来線特急電車の原型となるこだま形151系の製造に入り、東京と大阪の日帰りを実現させた。同じ年に着手した東海形153系では、付随車サロ95の2両で車体外板にステンレス鋼を使った車両を初めて手がけた。台車から車体まで、国鉄が次の世代の電車に求めた仕様を最初期から量産に移した5年間だった。

  • 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
    • [22]1955年 空気ばね台車製造開始(わが国最初)
    • [23]1957年 車輪転削盤製造開始(わが国最初)
  • 川崎重工業百年史
    • [24]1956年製造開始の「モハ90形」は後に「101系」と改称。高速電動機・カルダン駆動・電気ブレーキ・MM'方式などを備え、その後の国鉄電車の基本となった
    • [25]1958年 在来線特急電車の基本となったビジネス特急「こだま形」151系の製造を開始、東京・大阪間の日帰りを実現
    • [26]1958年 東海形153系の製造に着手、ステンレスカーは国鉄東海形電車の「サロ95」2両が最初

電車の実績は受注の立場を変えた。1959年の時点で汽車製造はその2〜3年前から国鉄の電車メーカーに指定されており、こだま・つばめ・はとの特急車も製作していた。1957年度に始まった国鉄の輸送力増強5カ年計画は、電車2,950両、電気機関車942両、ディーゼル機関車620両などの新造を掲げ、車両部門の年間生産高23億円は30億円を超える見通しとなった。半期の売上高は1956年9月期の20億8,311万円から、1957年3月期には31億4,799万円に増え、配当は4期ぶりに8分から1割へ戻った。ただしインド向け貨車の採算割れ輸出も重なって売上高利益率は2.3%にとどまり、車両は量に比べて利益の薄い事業のままだったと考えられる。

  • 経営資料旬報(1959年)
    • [27]2、3年前から国鉄の電車メーカーとして指定され、「こだま号」「つばめ」「はと」等の特急車を製作
  • 大阪経済評論(1957年)
    • [28]国鉄の輸送力増強5カ年計画(1957年度起点)で電気機関車942両・ディーゼル機関車620両・電車2,950両などを新造。車両部門の前年度生産高23億円が今年度30億円を上回る見込み
    • [30]1957年3月期 売上高3,147,994千円・利益金71,533千円、4期ぶりに8分配から1割配へ増配
    • [31]前期にインド向け貨車の出血輸出があり、1957年3月期の売上に対する利益の割合は2.3%
  • 『株式会社年鑑 1957年版』
    • [29]1956年9月期(昭和31年4月〜9月)売上高2,083,110千円
参考文献[17]-[31]
  • 東商(1955年)
    • [17]東京製作所の受注は国鉄が8割、国鉄発注分は主要資材の75%が支給される
    • [18]電車1両の価格は約2,000万円、国鉄向けでは資材支給のため工場の生産にかかる部分は約800万円
    • [19]販売高に占める純生産高は25%程度で、1割のコスト引下げでも車両1台の低減率は小さい
    • [20]車両業界で日本車輌に次ぐ第2位。蒸気機関車・電気機関車・客電貨車全部を製作するのは日本車輌・川崎車輌・日立製作所・汽車製造の4社のみ
  • 大阪経済評論(1957年)
    • [21]国鉄予算に縛られた低操業が、前年度発足の国鉄民有車両制度と東南アジア向け賠償車両の製作で幾分緩和された
    • [28]国鉄の輸送力増強5カ年計画(1957年度起点)で電気機関車942両・ディーゼル機関車620両・電車2,950両などを新造。車両部門の前年度生産高23億円が今年度30億円を上回る見込み
    • [30]1957年3月期 売上高3,147,994千円・利益金71,533千円、4期ぶりに8分配から1割配へ増配
    • [31]前期にインド向け貨車の出血輸出があり、1957年3月期の売上に対する利益の割合は2.3%
  • 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
    • [22]1955年 空気ばね台車製造開始(わが国最初)
    • [23]1957年 車輪転削盤製造開始(わが国最初)
  • 川崎重工業百年史
    • [24]1956年製造開始の「モハ90形」は後に「101系」と改称。高速電動機・カルダン駆動・電気ブレーキ・MM'方式などを備え、その後の国鉄電車の基本となった
    • [25]1958年 在来線特急電車の基本となったビジネス特急「こだま形」151系の製造を開始、東京・大阪間の日帰りを実現
    • [26]1958年 東海形153系の製造に着手、ステンレスカーは国鉄東海形電車の「サロ95」2両が最初
  • 経営資料旬報(1959年)
    • [27]2、3年前から国鉄の電車メーカーとして指定され、「こだま号」「つばめ」「はと」等の特急車を製作
  • 『株式会社年鑑 1957年版』
    • [29]1956年9月期(昭和31年4月〜9月)売上高2,083,110千円

1959年〜住友機械株の大量取得とパナマ運河62両、車両27%への縮小

利益の源泉は車両の外で育った。1953年の製造分から、それまでのタクマ式に代わる名称としてKSKボイラを名乗り、パルプ工場の廃液を回収するボイラや列車用の蒸気発生装置といった自社開発品をそろえた。1957年3月期の売上高のうちボイラ部門は37%を占めて車両部門の47.5%に迫り、利益率は車両を大きく上回った。1959年には大型の吸収式冷凍機を完成させ、同じ年に出水製紙を皮切りとしてパルププラントの一括受注にも成功した。この技術に外から目を付けたのが住友機械で、1959年春ごろから汽車製造株を買い集めて他人名義を含め300万株を超えた。狙いはボイラの技術にあったという。

  • 川崎重工業百年史
    • [32]田熊汽缶製造と名称がまぎらわしいこともあり、1953年の製造分からボイラの名称を「KSKボイラ」に改めた
    • [35]1959年 大型吸収式冷凍機を完成、同年パルププラントの一括受注に成功し出水製紙が皮切り
  • 大阪経済評論(1957年)
    • [33]ボイラ部門はパルプ工場の廃液回収用ボイラ、旅客列車用電気機関車に取り付ける蒸気発生装置など独自の研究品を持つ
    • [34]1957年3月期の売上実績でボイラ部門が全体の37%、車両部門が47.5%。ボイラは鉄道車両より利益率が高い
  • 経済知識(1961年)
    • [36]1959年春ごろ住友機械が汽車製造株を大量に買い占め、他人名義を合わせ300万株を超えたとみられる。狙いはボイラ部門の技術

車両部門は、国内の特殊車両と輸出で新しい需要を拾った。1960年に完成したDD14形は国鉄初のディーゼルロータリー除雪機関車で、自走できず別の機関車と雪かき車を伴っていた蒸気式の作業を1両でこなした。1961年にはパナマ運河で船を引く電気機関車を受注した。閘門部の500‰という急勾配に合わせて東京製作所の構内に試験用の坂を築いて試運転を重ね、クレーン車3両を含む62両を納めた。液圧式ではDD13形を1958年に第1号機から手がけ、全398両のうち209両を製造した。1960年10月からの半期には、東海道新幹線を含む国鉄の計画を背景に車両部門の受注が25億円を超えた。

  • 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
    • [37]1960年 DD14形製造開始
  • 川崎重工業百年史
    • [38]国鉄初のディーゼルロータリー除雪機関車「DD14形」を1960年に完成。従来の蒸気式ロータリー車は自走できず、別の蒸気機関車とかき寄せ雪かき車を要したが、DD14形は1台で作業を引き受けた
    • [39]1961年 パナマ運河引き船用電気機関車を受注。閘門部の500‰の急勾配に備え東京製作所内に通称「パナマ山」を造って試験、合計62両(うち3両はクレーン車)を納入
    • [40]液圧式の国鉄「DD13形」は1958年に第1号機を完成、全398両のうち209両を生産
  • 経済知識(1961年)
    • [41]1961年3月期に入って受注が最も伸びたのは車両部門で、国鉄の東海道新幹線五カ年計画推進もあり25億円を超える受注

1961年の売上高に占める鉄道車両の割合は27%まで下がり、ボイラと化工機の2部門で53%強、橋梁鉄骨が16%、機械が4%を占めた。1959年10月から1960年3月の生産実績でも、鉄道車両は12億2,527万円で合計34億8,483万円の約35%にとどまった。シーメンス・ワルター両社とのベンソンボイラや電気集塵機、フルーハウフ社とのフレキシ・バンなど、技術提携は8件を数えた。資本金は1957年に7億2,000万円、1958年に10億8,000万円、1961年に17億円と増え、1961年からの3年間で20億円の設備資金を見込んだ。蒸気発生機の増産に充てる新工場は、1962年に滋賀製作所として完成する。

  • 経済知識(1961年)
    • [42]各部門の売上高に占める割合は鉄道車両27%、ボイラ・化工機の2部門で53%強、鉄骨・橋梁16%、機械4%
    • [44]西独シーメンス・ワルター両社との提携によるベンソンボイラー・電気集塵機、米フルーハウフ社との技術提携によるフレキシ・バンなど、提携は8件
    • [46]各部門の設備拡充のため昭和36・37・38年の3カ年に総額20億円の資金を必要とする
  • 『株式会社年鑑 1960年版』
    • [43]生産状況(1959年10月〜1960年3月)売上高 鉄道車両1,225,266千円、合計3,484,828千円
  • 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
    • [45]資本金 1957年7億2千万円・1958年10億8千万円・1961年17億円に増資
  • 川崎重工業百年史
    • [47]SG蒸気発生機の増産に対処することを主目的として1962年に滋賀県草津市に滋賀製作所を建設
参考文献[32]-[47]
  • 川崎重工業百年史
    • [32]田熊汽缶製造と名称がまぎらわしいこともあり、1953年の製造分からボイラの名称を「KSKボイラ」に改めた
    • [35]1959年 大型吸収式冷凍機を完成、同年パルププラントの一括受注に成功し出水製紙が皮切り
    • [38]国鉄初のディーゼルロータリー除雪機関車「DD14形」を1960年に完成。従来の蒸気式ロータリー車は自走できず、別の蒸気機関車とかき寄せ雪かき車を要したが、DD14形は1台で作業を引き受けた
    • [39]1961年 パナマ運河引き船用電気機関車を受注。閘門部の500‰の急勾配に備え東京製作所内に通称「パナマ山」を造って試験、合計62両(うち3両はクレーン車)を納入
    • [40]液圧式の国鉄「DD13形」は1958年に第1号機を完成、全398両のうち209両を生産
    • [47]SG蒸気発生機の増産に対処することを主目的として1962年に滋賀県草津市に滋賀製作所を建設
  • 大阪経済評論(1957年)
    • [33]ボイラ部門はパルプ工場の廃液回収用ボイラ、旅客列車用電気機関車に取り付ける蒸気発生装置など独自の研究品を持つ
    • [34]1957年3月期の売上実績でボイラ部門が全体の37%、車両部門が47.5%。ボイラは鉄道車両より利益率が高い
  • 経済知識(1961年)
    • [36]1959年春ごろ住友機械が汽車製造株を大量に買い占め、他人名義を合わせ300万株を超えたとみられる。狙いはボイラ部門の技術
    • [41]1961年3月期に入って受注が最も伸びたのは車両部門で、国鉄の東海道新幹線五カ年計画推進もあり25億円を超える受注
    • [42]各部門の売上高に占める割合は鉄道車両27%、ボイラ・化工機の2部門で53%強、鉄骨・橋梁16%、機械4%
    • [44]西独シーメンス・ワルター両社との提携によるベンソンボイラー・電気集塵機、米フルーハウフ社との技術提携によるフレキシ・バンなど、提携は8件
    • [46]各部門の設備拡充のため昭和36・37・38年の3カ年に総額20億円の資金を必要とする
  • 汽車会社蒸気機関車製造史 1972
    • [37]1960年 DD14形製造開始
    • [45]資本金 1957年7億2千万円・1958年10億8千万円・1961年17億円に増資
  • 『株式会社年鑑 1960年版』
    • [43]生産状況(1959年10月〜1960年3月)売上高 鉄道車両1,225,266千円、合計3,484,828千円

筆者考察

1950年代の汽車製造は、蒸気機関車という単一の主力事業を失ったあと、その事業を支えていた二つの技術を別々に売り直した。機関車の設計力はディーゼル・電気機関車と新性能電車へ、ボイラの熱技術は列車暖房用の蒸気発生機と産業用ボイラへ移った。ただし二つの行き先の収益力は同じではなかった。車両は国鉄が資材の大半を支給するため自社の付加価値が売価の4分の1程度にとどまり、技術で先行しても1957年3月期の売上高利益率は2.3%にとどまった。ボイラは同じ時期、車両を大きく上回る利益率を上げていた。

その差が1961年の売上構成に表れた。車両の比率が3割を切る一方、ボイラと化工機が過半を占め、住友機械が株を買い集めた理由もボイラの技術だったという。国鉄の5カ年計画で車両の受注が膨らんでも、会社の主力事業はすでに車両の外にあった。滋賀製作所の建設は、主力が車両からボイラと化工機へ移ったことを設備の面で確定させる判断だったとみられる。

1950年〜1961年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1950年05月期 単体 50 n/a ▲8 ▲16.6% n/a
1951年05月期 単体 39 ▲22.0% ▲1 ▲3.1% n/a
1952年05月期 単体 57 +47.4% 4 7.8% n/a
1953年05月期 単体 76 +32.6% 3 5.2% n/a
1954年04月期 単体 35 ▲54.0% 1 3.7% n/a
1955年04月期 単体 32 ▲7.1% 0 2.6% n/a
1956年04月期 単体 42 +29.7% 1 3.1% n/a
1957年04月期 単体 75 +79.1% 1 2.6% n/a
1958年04月期 単体 69 ▲8.3% 4 5.9% n/a
1959年04月期 単体 66 ▲3.9% 4 6.3% n/a
1960年04月期 単体 96 +44.8% 4 5.1% n/a
1961年04月期 単体 131 +35.9% 6 4.9% n/a

出所:会社年鑑1955年版、会社年鑑1959年版、会社年鑑1963年版

出典・参考

11件
出典・参考
  • 川崎重工業百年史
  • 『株式会社年鑑 1950年版』
  • 『株式会社年鑑 1952年版』
  • 『株式会社年鑑 1957年版』
  • 『株式会社年鑑 1960年版』
  • 証券時報(1952年)
  • 東商(1955年)
  • 大阪経済評論(1957年)
  • 経営資料旬報(1959年)
  • 経済知識(1961年)
  • 汽車会社蒸気機関車製造史 1972

免責事項およびポリシー