東海理化電機製作所:西枇杷島での設立と自動車用スイッチ・キーロックの製造
1948年〜資本金40万円で始めたトヨタの協力工場と、新三菱重工業への電装品納入
東海理化電機製作所は1948年8月30日、愛知県西春日井郡西枇杷島町で資本金40万円の会社として発足した。設立の目的は、トヨタ自動車工業向けに自動車用スイッチを製作する協力工場となることにあった。所在地は名古屋市の北西部にあたる町で、創立時から自動車用のスイッチとロックの生産・販売を手がけた。1961年時点の代表取締役社長は加藤由雄氏で、本社は西枇杷島町大字下小田井に置かれた。発足時の資本金は、1961年4月に到達した1億円の250分の1にすぎなかった。完成車メーカーの増産に合わせて部品を納める協力工場の立場が、資本の乏しい戦後の町工場に需要の見通しを与えたとみられる。
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- [1]1948年8月30日設立、トヨタ自動車工業の協力工場として自動車スイッチ製作を目的に資本金40万円。本社西枇杷島町大字下小田井、社長加藤由雄、資本金1億円(1961年4月)
- [2]1948年8月30日設立、トヨタ自動車工業の協力工場として自動車スイッチ製作を目的に資本金40万円。本社西枇杷島町大字下小田井、社長加藤由雄、資本金1億円(1961年4月)
- [4]1948年8月30日設立、トヨタ自動車工業の協力工場として自動車スイッチ製作を目的に資本金40万円。本社西枇杷島町大字下小田井、社長加藤由雄、資本金1億円(1961年4月)
- [5]1948年8月30日設立、トヨタ自動車工業の協力工場として自動車スイッチ製作を目的に資本金40万円。本社西枇杷島町大字下小田井、社長加藤由雄、資本金1億円(1961年4月)
- 証券アナリストジャーナル 22(12) 1984年
- [3]創立は1948年8月、名古屋市北西部の西枇杷島町でトヨタの協力工場として自動車用スイッチとロックの生産・販売を開始
発足から4カ月後の1948年12月、キーロックの製造・販売を開始。1984年に社長の村瀬治己氏は、乗車して運転し、降りて施錠するまでに手を触れる部品の大半が自社製品だと説明した。その製品群の起点は、創立期に生産を始めたスイッチとロックの2品目にあった。1961年の会社概要でも、主要事業の筆頭には各種自動車用スイッチとロックが並んだ。航空機・電子機器向けのスイッチと家庭電化品は、その後に続く品目として挙げられた。キーロックはスイッチと同じく運転者が手で扱う小物部品であり、1台分を組で納められる品目だったので、早い段階で加えたのだろう。
- 有価証券報告書 2025年度【沿革】
- [6]1948年12月 キーロックの製造・販売を開始
- 証券アナリストジャーナル 22(12) 1984年
- [7]村瀬治己社長(1984年):運転から降車・施錠までに手で触れるものは大体自社製品。創立時にスイッチとロックの生産・販売を開始
- [8]村瀬治己社長(1984年):運転から降車・施錠までに手で触れるものは大体自社製品。創立時にスイッチとロックの生産・販売を開始
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- [9]1961年の主要事業:各種自動車用スイッチ、ロック、航空機および電子機器スイッチ、家庭電化品の製造
- [10]1961年の主要事業:各種自動車用スイッチ、ロック、航空機および電子機器スイッチ、家庭電化品の製造
1949年3月、東海理化電機製作所は新三菱重工業の協力工場となり、自動車用電装品の製作を始めた。設立から7カ月で、協力工場として納める相手はトヨタ自動車工業と新三菱重工業の2社になった。1961年の主要事業には、航空機・電子機器向けのスイッチと家庭電化品も含まれた。1966年の販売先にはトヨタ自動車のほか、鈴木自動車、三菱重工、東洋工業、本田技研、ダイハツが並んだ。航空機関係と一般電機メーカーも販売先に含まれた。それでも1964年時点で、製品の90%は自動車産業向けだった。トヨタ自動車工業1社の生産計画に受注が左右される状態を和らげるため、設立直後から2社目の協力工場契約を結んだと推察される。
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- [11]1949年3月 新三菱重工業の協力工場となり自動車用電装品の製作を開始。1961年の主要事業に航空機・電子機器スイッチ、家庭電化品
- [12]1949年3月 新三菱重工業の協力工場となり自動車用電装品の製作を開始。1961年の主要事業に航空機・電子機器スイッチ、家庭電化品
- [13]1949年3月 新三菱重工業の協力工場となり自動車用電装品の製作を開始。1961年の主要事業に航空機・電子機器スイッチ、家庭電化品
- 野田経済 1966年2月23日
- [14]1966年の販売先:トヨタ自動車、鈴木自動車、三菱重工、東洋工業、本田技研、ダイハツほか、航空機関係、一般電機メーカー
- [15]1966年の販売先:トヨタ自動車、鈴木自動車、三菱重工、東洋工業、本田技研、ダイハツほか、航空機関係、一般電機メーカー
- 野田経済 1964年4月6日
- [16]1964年:製品の90%が自動車産業向け
参考文献[1]-[16]
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- [1]1948年8月30日設立、トヨタ自動車工業の協力工場として自動車スイッチ製作を目的に資本金40万円。本社西枇杷島町大字下小田井、社長加藤由雄、資本金1億円(1961年4月)
- [2]1948年8月30日設立、トヨタ自動車工業の協力工場として自動車スイッチ製作を目的に資本金40万円。本社西枇杷島町大字下小田井、社長加藤由雄、資本金1億円(1961年4月)
- [4]1948年8月30日設立、トヨタ自動車工業の協力工場として自動車スイッチ製作を目的に資本金40万円。本社西枇杷島町大字下小田井、社長加藤由雄、資本金1億円(1961年4月)
- [5]1948年8月30日設立、トヨタ自動車工業の協力工場として自動車スイッチ製作を目的に資本金40万円。本社西枇杷島町大字下小田井、社長加藤由雄、資本金1億円(1961年4月)
- [9]1961年の主要事業:各種自動車用スイッチ、ロック、航空機および電子機器スイッチ、家庭電化品の製造
- [10]1961年の主要事業:各種自動車用スイッチ、ロック、航空機および電子機器スイッチ、家庭電化品の製造
- [11]1949年3月 新三菱重工業の協力工場となり自動車用電装品の製作を開始。1961年の主要事業に航空機・電子機器スイッチ、家庭電化品
- [12]1949年3月 新三菱重工業の協力工場となり自動車用電装品の製作を開始。1961年の主要事業に航空機・電子機器スイッチ、家庭電化品
- [13]1949年3月 新三菱重工業の協力工場となり自動車用電装品の製作を開始。1961年の主要事業に航空機・電子機器スイッチ、家庭電化品
- 証券アナリストジャーナル 22(12) 1984年
- [3]創立は1948年8月、名古屋市北西部の西枇杷島町でトヨタの協力工場として自動車用スイッチとロックの生産・販売を開始
- [7]村瀬治己社長(1984年):運転から降車・施錠までに手で触れるものは大体自社製品。創立時にスイッチとロックの生産・販売を開始
- [8]村瀬治己社長(1984年):運転から降車・施錠までに手で触れるものは大体自社製品。創立時にスイッチとロックの生産・販売を開始
- 有価証券報告書 2025年度【沿革】
- [6]1948年12月 キーロックの製造・販売を開始
- 野田経済 1966年2月23日
- [14]1966年の販売先:トヨタ自動車、鈴木自動車、三菱重工、東洋工業、本田技研、ダイハツほか、航空機関係、一般電機メーカー
- [15]1966年の販売先:トヨタ自動車、鈴木自動車、三菱重工、東洋工業、本田技研、ダイハツほか、航空機関係、一般電機メーカー
- 野田経済 1964年4月6日
- [16]1964年:製品の90%が自動車産業向け
1953年〜西枇杷島での現工場の買収と、中小企業合理化モデル工場の指定
1953年3月、現工場を買収して本社工場を移転。資本金は1951年3月に1,200千円、1954年5月に4,800千円へ増えた。本社と主要工場は1961年時点でも西枇杷島町にあった。1964年の見学記事は、名古屋市郊外の本社工場で各種自動車用・航空機用の電装品を作る様子を伝えた。同じ記事は採光と設備配置を評価する一方、手狭な点を難点に挙げた。1984年にも同町では西枇杷島製作所が稼働し、大口町の本社工場、豊田市のトヨタ製作所、音羽町の音羽製作所と並ぶ生産拠点の1つとなった。受注の増加に見合う生産の場を自社で持つため、増資を重ねながら工場を取得したと考えられる。
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- [17]1953年3月 現工場を買収し本社工場を移転。資本金 1951年3月1,200千円、1954年5月4,800千円。本社・主要工場は西枇杷島町(1961年)
- [18]1953年3月 現工場を買収し本社工場を移転。資本金 1951年3月1,200千円、1954年5月4,800千円。本社・主要工場は西枇杷島町(1961年)
- [19]1953年3月 現工場を買収し本社工場を移転。資本金 1951年3月1,200千円、1954年5月4,800千円。本社・主要工場は西枇杷島町(1961年)
- 野田経済 1964年4月6日
- [20]1964年見学会:本社工場は名古屋市郊外、自動車用・航空機用電装品を生産。設備配置は手狭が難点
- [21]1964年見学会:本社工場は名古屋市郊外、自動車用・航空機用電装品を生産。設備配置は手狭が難点
- 証券アナリストジャーナル 22(12) 1984年
- [22]1984年の事業所:大口町に本社・本社工場、ほかに西枇杷島製作所・トヨタ製作所・音羽製作所
社長の加藤由雄氏は1966年、多種少量の生産は大企業の方式では成り立たず、その代わり大企業も手がけない領域だと説明した。当時の自動車は生産台数が少なく、モデルチェンジも重なったので、多種少量は避けられなかったという。採算は管理力で補い、1959〜1960年頃に人材を多数採用して設備の自動化や工程・配置の改善に充てた。機械は1種類に保ち、自社製のアタッチメントを替えて多品種を作り分けた。1964年には650種を超える製品をベルトコンベヤーの組立ラインで流し、生産指示室で統制した。規模で劣る部品メーカーが利益を確保する手段として、設備よりも管理の仕組みに経営資源を集中したと思われる。
- 野田経済 1966年2月23日
- [23]加藤由雄社長(1966年):多種少量は大企業の方式ではできず大企業もやらない。生産量が少なくモデルチェンジが重なり止むを得なかった。管理力でカバー、昭和34〜35年頃に人材を多数採用、機械1種類でアタッチメント交換
- [24]加藤由雄社長(1966年):多種少量は大企業の方式ではできず大企業もやらない。生産量が少なくモデルチェンジが重なり止むを得なかった。管理力でカバー、昭和34〜35年頃に人材を多数採用、機械1種類でアタッチメント交換
- [25]加藤由雄社長(1966年):多種少量は大企業の方式ではできず大企業もやらない。生産量が少なくモデルチェンジが重なり止むを得なかった。管理力でカバー、昭和34〜35年頃に人材を多数採用、機械1種類でアタッチメント交換
- [26]加藤由雄社長(1966年):多種少量は大企業の方式ではできず大企業もやらない。生産量が少なくモデルチェンジが重なり止むを得なかった。管理力でカバー、昭和34〜35年頃に人材を多数採用、機械1種類でアタッチメント交換
- 野田経済 1964年4月6日
- [27]1964年:650種超の製品をベルトコンベヤーのアッセンブリー方式で生産、生産指示室でコントロール
1956年1月、東海理化電機製作所は中小企業庁から中小企業合理化モデル工場の指定を受けた。指定はその後も重なり、1964年までに2度を数えた。同じ記事は、650種を超える製品を近代的な生産方式へ移した実績を指定の背景に挙げた。見学会の参加者からは、工場内の整理や品質管理への取り組みを評価する声が上がった。指定の前後に資本金は1955年3月の6,000千円から、1956年9月に10,000千円、1957年12月に30,000千円へ増えた。従業員は1961年5月末に1,026名へ達した。公的機関の評価を得たことは、協力工場が株式の公開を視野に入れる会社へ移る足場になったとみえる。
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- [28]1956年1月 中小企業庁指定の中小企業合理化モデル工場。資本金 1955年3月6,000千円、1956年9月10,000千円、1957年12月30,000千円。従業員1,026名(1961年5月31日)
- [32]1956年1月 中小企業庁指定の中小企業合理化モデル工場。資本金 1955年3月6,000千円、1956年9月10,000千円、1957年12月30,000千円。従業員1,026名(1961年5月31日)
- [33]1956年1月 中小企業庁指定の中小企業合理化モデル工場。資本金 1955年3月6,000千円、1956年9月10,000千円、1957年12月30,000千円。従業員1,026名(1961年5月31日)
- 野田経済 1964年4月6日
- [29]650種超の多種製品の近代的生産への移行に成功し、再度にわたり中小企業合理化モデル工場に指定。見学者は整理整頓・品質管理を評価
- [30]650種超の多種製品の近代的生産への移行に成功し、再度にわたり中小企業合理化モデル工場に指定。見学者は整理整頓・品質管理を評価
- [31]650種超の多種製品の近代的生産への移行に成功し、再度にわたり中小企業合理化モデル工場に指定。見学者は整理整頓・品質管理を評価
参考文献[17]-[33]
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- [17]1953年3月 現工場を買収し本社工場を移転。資本金 1951年3月1,200千円、1954年5月4,800千円。本社・主要工場は西枇杷島町(1961年)
- [18]1953年3月 現工場を買収し本社工場を移転。資本金 1951年3月1,200千円、1954年5月4,800千円。本社・主要工場は西枇杷島町(1961年)
- [19]1953年3月 現工場を買収し本社工場を移転。資本金 1951年3月1,200千円、1954年5月4,800千円。本社・主要工場は西枇杷島町(1961年)
- [28]1956年1月 中小企業庁指定の中小企業合理化モデル工場。資本金 1955年3月6,000千円、1956年9月10,000千円、1957年12月30,000千円。従業員1,026名(1961年5月31日)
- [32]1956年1月 中小企業庁指定の中小企業合理化モデル工場。資本金 1955年3月6,000千円、1956年9月10,000千円、1957年12月30,000千円。従業員1,026名(1961年5月31日)
- [33]1956年1月 中小企業庁指定の中小企業合理化モデル工場。資本金 1955年3月6,000千円、1956年9月10,000千円、1957年12月30,000千円。従業員1,026名(1961年5月31日)
- 野田経済 1964年4月6日
- [20]1964年見学会:本社工場は名古屋市郊外、自動車用・航空機用電装品を生産。設備配置は手狭が難点
- [21]1964年見学会:本社工場は名古屋市郊外、自動車用・航空機用電装品を生産。設備配置は手狭が難点
- [27]1964年:650種超の製品をベルトコンベヤーのアッセンブリー方式で生産、生産指示室でコントロール
- [29]650種超の多種製品の近代的生産への移行に成功し、再度にわたり中小企業合理化モデル工場に指定。見学者は整理整頓・品質管理を評価
- [30]650種超の多種製品の近代的生産への移行に成功し、再度にわたり中小企業合理化モデル工場に指定。見学者は整理整頓・品質管理を評価
- [31]650種超の多種製品の近代的生産への移行に成功し、再度にわたり中小企業合理化モデル工場に指定。見学者は整理整頓・品質管理を評価
- 証券アナリストジャーナル 22(12) 1984年
- [22]1984年の事業所:大口町に本社・本社工場、ほかに西枇杷島製作所・トヨタ製作所・音羽製作所
- 野田経済 1966年2月23日
- [23]加藤由雄社長(1966年):多種少量は大企業の方式ではできず大企業もやらない。生産量が少なくモデルチェンジが重なり止むを得なかった。管理力でカバー、昭和34〜35年頃に人材を多数採用、機械1種類でアタッチメント交換
- [24]加藤由雄社長(1966年):多種少量は大企業の方式ではできず大企業もやらない。生産量が少なくモデルチェンジが重なり止むを得なかった。管理力でカバー、昭和34〜35年頃に人材を多数採用、機械1種類でアタッチメント交換
- [25]加藤由雄社長(1966年):多種少量は大企業の方式ではできず大企業もやらない。生産量が少なくモデルチェンジが重なり止むを得なかった。管理力でカバー、昭和34〜35年頃に人材を多数採用、機械1種類でアタッチメント交換
- [26]加藤由雄社長(1966年):多種少量は大企業の方式ではできず大企業もやらない。生産量が少なくモデルチェンジが重なり止むを得なかった。管理力でカバー、昭和34〜35年頃に人材を多数採用、機械1種類でアタッチメント交換
1960年〜東海理化販売の分離と豊田の用地1万2000坪と、東証・名証二部への上場
1960年7月、東海理化電機製作所は営業部を分離し、東海理化販売を設立した。販売面が広がったことが分離の理由だった。東海理化販売は、のちの東海理化クリエイトである。同年3月には西枇杷島町に宝工業(現 東海理化サービス)も設立。宝工業は1961年6月末に86,150株を持つ大株主となった。1961年3月には新工場の建設を目的に、愛知県豊田地区で12,000坪の土地を買収した。1964年に豊田工場の敷地は1万2448坪となり、トヨタとの連絡を密にし、検査部門を強める拠点と位置づけられた。主要納入先の本拠に近い工場を持つことで、納期と品質への対応を早める狙いがあったとうかがえる。
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- [34]1960年7月 販売面の拡大に伴い営業部を分離独立し東海理化販売を設立。1961年3月 新工場建設目的で豊田地区に12,000坪の土地を買収。大株主に宝工業86,150株
- [35]1960年7月 販売面の拡大に伴い営業部を分離独立し東海理化販売を設立。1961年3月 新工場建設目的で豊田地区に12,000坪の土地を買収。大株主に宝工業86,150株
- [38]1960年7月 販売面の拡大に伴い営業部を分離独立し東海理化販売を設立。1961年3月 新工場建設目的で豊田地区に12,000坪の土地を買収。大株主に宝工業86,150株
- [39]1960年7月 販売面の拡大に伴い営業部を分離独立し東海理化販売を設立。1961年3月 新工場建設目的で豊田地区に12,000坪の土地を買収。大株主に宝工業86,150株
- 有価証券報告書 2025年度【沿革】
- [36]1960年3月 宝工業(現 東海理化サービス)設立、1960年7月 東海理化販売(現 東海理化クリエイト)設立
- [37]1960年3月 宝工業(現 東海理化サービス)設立、1960年7月 東海理化販売(現 東海理化クリエイト)設立
- 野田経済 1964年4月6日
- [40]豊田工場は総坪数1万2448坪、トヨタとの連絡を密にし検査部門を強化するため。1964年に工場1棟300坪完成
東海理化電機製作所の株式は1961年8月1日に店頭売買の承認を受け、8月14日に取引が始まった。紹介した証券会社は日興証券と偕成証券の2社である。同年10月には、東京と名古屋の両証券取引所の市場第二部に上場した。売上高は1959年3月期の747,723千円から、1961年3月期に1,686,727千円へ増えた。資本金は1961年4月に60,000千円から1億円へ増やした。公開直前の株主は534名で、役員が発行済株式の32.2%を持った。1964年には豊田工場の増設に加え、宝飯郡音羽の5万9641坪に新工場を建てる計画も示した。豊田の用地取得で膨らむ設備資金を増資で賄うため、上場に踏み切ったと考えられる。
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- [41]店頭売買承認1961年8月1日・開始8月14日、紹介証券会社 日興証券・偕成証券。売上高 1959年3月期747,723千円、1961年3月期1,686,727千円。株主534名(1961年6月30日)、役員持株32.2%。資本金 1961年4月100,000千円
- [42]店頭売買承認1961年8月1日・開始8月14日、紹介証券会社 日興証券・偕成証券。売上高 1959年3月期747,723千円、1961年3月期1,686,727千円。株主534名(1961年6月30日)、役員持株32.2%。資本金 1961年4月100,000千円
- [44]店頭売買承認1961年8月1日・開始8月14日、紹介証券会社 日興証券・偕成証券。売上高 1959年3月期747,723千円、1961年3月期1,686,727千円。株主534名(1961年6月30日)、役員持株32.2%。資本金 1961年4月100,000千円
- [45]店頭売買承認1961年8月1日・開始8月14日、紹介証券会社 日興証券・偕成証券。売上高 1959年3月期747,723千円、1961年3月期1,686,727千円。株主534名(1961年6月30日)、役員持株32.2%。資本金 1961年4月100,000千円
- [46]店頭売買承認1961年8月1日・開始8月14日、紹介証券会社 日興証券・偕成証券。売上高 1959年3月期747,723千円、1961年3月期1,686,727千円。株主534名(1961年6月30日)、役員持株32.2%。資本金 1961年4月100,000千円
- 有価証券報告書 2025年度【沿革】
- [43]1961年10月 東京・名古屋両証券取引所市場第二部に上場
- 野田経済 1964年4月6日
- [47]1964年:豊田工場の第二期工事でトヨタ増産に対応、音羽(宝飯郡)に総坪数5万9641坪の新工場建設予定地
参考文献[34]-[47]
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- [34]1960年7月 販売面の拡大に伴い営業部を分離独立し東海理化販売を設立。1961年3月 新工場建設目的で豊田地区に12,000坪の土地を買収。大株主に宝工業86,150株
- [35]1960年7月 販売面の拡大に伴い営業部を分離独立し東海理化販売を設立。1961年3月 新工場建設目的で豊田地区に12,000坪の土地を買収。大株主に宝工業86,150株
- [38]1960年7月 販売面の拡大に伴い営業部を分離独立し東海理化販売を設立。1961年3月 新工場建設目的で豊田地区に12,000坪の土地を買収。大株主に宝工業86,150株
- [39]1960年7月 販売面の拡大に伴い営業部を分離独立し東海理化販売を設立。1961年3月 新工場建設目的で豊田地区に12,000坪の土地を買収。大株主に宝工業86,150株
- [41]店頭売買承認1961年8月1日・開始8月14日、紹介証券会社 日興証券・偕成証券。売上高 1959年3月期747,723千円、1961年3月期1,686,727千円。株主534名(1961年6月30日)、役員持株32.2%。資本金 1961年4月100,000千円
- [42]店頭売買承認1961年8月1日・開始8月14日、紹介証券会社 日興証券・偕成証券。売上高 1959年3月期747,723千円、1961年3月期1,686,727千円。株主534名(1961年6月30日)、役員持株32.2%。資本金 1961年4月100,000千円
- [44]店頭売買承認1961年8月1日・開始8月14日、紹介証券会社 日興証券・偕成証券。売上高 1959年3月期747,723千円、1961年3月期1,686,727千円。株主534名(1961年6月30日)、役員持株32.2%。資本金 1961年4月100,000千円
- [45]店頭売買承認1961年8月1日・開始8月14日、紹介証券会社 日興証券・偕成証券。売上高 1959年3月期747,723千円、1961年3月期1,686,727千円。株主534名(1961年6月30日)、役員持株32.2%。資本金 1961年4月100,000千円
- [46]店頭売買承認1961年8月1日・開始8月14日、紹介証券会社 日興証券・偕成証券。売上高 1959年3月期747,723千円、1961年3月期1,686,727千円。株主534名(1961年6月30日)、役員持株32.2%。資本金 1961年4月100,000千円
- 有価証券報告書 2025年度【沿革】
- [36]1960年3月 宝工業(現 東海理化サービス)設立、1960年7月 東海理化販売(現 東海理化クリエイト)設立
- [37]1960年3月 宝工業(現 東海理化サービス)設立、1960年7月 東海理化販売(現 東海理化クリエイト)設立
- [43]1961年10月 東京・名古屋両証券取引所市場第二部に上場
- 野田経済 1964年4月6日
- [40]豊田工場は総坪数1万2448坪、トヨタとの連絡を密にし検査部門を強化するため。1964年に工場1棟300坪完成
- [47]1964年:豊田工場の第二期工事でトヨタ増産に対応、音羽(宝飯郡)に総坪数5万9641坪の新工場建設予定地
1948年〜1962年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 11 | n/a | 0 | 0.0% | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 17 | +54.5% | 0 | 0.0% | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 17 | 0.0% | 1 | 5.9% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
5件
- 有価証券報告書 2025年度【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 22(12) 1984年
- 証券業報 (8)(142) 1961年「株式会社東海理化電機製作所」(新規店頭売買承認会社紹介)
- 野田経済 1964年4月6日
- 野田経済 1966年2月23日