第2章 年〜年

赤井電機:円高による収益悪化と三菱電機の第三者割当増資

VHS後発参入の薄利から三菱電機による資本再編へ

1970年〜創業者の急逝と、人に預けた経営が残した空白

高収益の頂点で幹部が抜ける

昭和45年4月、赤井電機は東京証券取引所第一部へ指定替えとなり、同年6月の増資で資本金を30億円へ引き上げた。同期の売上高は172億円、経常利益は31億円と、いずれも創業以来の最高を記録している。しかし足元では人が抜けていた。上場記念に株式を受け取った営業部長や総務部長を含む部課長4人が、昭和44年暮れに相次いで退職している。株価が1,000円を超えたところで持株を売り、1人あたり1,500万円から6,000万円を手にしての離脱だった。報酬を株式で配る仕組みは、社員を会社に縛るどころか、辞める資金を与える装置にもなった。

  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート
    • [1]昭和45年4月に東京証券取引所第一部へ指定替えとなった
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [2]昭和45年4月割当・6月払込の3分の1増資により、資本金は22億5,000万円から30億円となった
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [3]昭和45年11月期の売上高は172億円、経常利益は31億0,000万円、当期純利益は22億2,000万円だった
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [4]昭和44年暮れに営業部長・総務部長など部課長クラス4人が相次いで退職。上場記念に贈られた株式を株価1,000円超で売却し、1,500万円から6,000万円を得ていた
    • [5]昭和44年暮れに営業部長・総務部長など部課長クラス4人が相次いで退職。上場記念に贈られた株式を株価1,000円超で売却し、1,500万円から6,000万円を得ていた
代理店契約を打ち切り自前の販売へ移る

昭和46年11月期は、ドルショックの直撃で配当を5分下げて3割とした。売上高は187億円と伸びたものの、経常利益は前期の31億円から23億3,000万円へ後退している。同年12月には、輸出の起点だった米キャリアホン・ロバーツ社との販売契約を打ち切り、赤井アメリカと赤井商事による自前の販売へ切り替えた。中途採用による即戦力の補充も続け、昭和47年には技術者を年俸250万円から400万円で募る求人を新聞に出した。売る仕組みを他社から自社へ引き取る選択は、為替と現地の在庫を自ら背負う選択でもあった。

  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [6]昭和46年11月期はドルショックの影響で5分減配し、配当は年3割となった
    • [9]昭和47年、技術者を年俸250万円から400万円、貿易部を月給9万円から14万円で募る求人広告を新聞に掲載した
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [7]昭和46年11月期の売上高は187億円、経常利益は23億3,000万円。前期の経常利益は31億0,000万円だった
  • 実業往来 1974年
    • [8]昭和46年12月に米国のキャリアホン・ロバーツ社との販売契約を打ち切り、赤井アメリカ・赤井商事による独自の米国販売へ移行した
創業者の急逝が業績と資本の両方を動かす

昭和48年12月、赤井三郎は志賀高原でスキー中に急逝した。後任には専務の斎藤己之吉が昇格する。翌49年11月期の売上高は247億円と、中間期の見通し275億円を下回る。経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円へ半減した。欧州向けの輸出が輸入規制とコスト高で伸び悩み、材料手当ての借入金が膨らんで金利負担も倍増したためで、配当は1割の減配となる。現金払いで通していた支払いも、同年8月から3割を翌月へ繰り延べた。赤井三郎が持っていた全株の36.3%にあたる2,176万株は、3分の1が三菱グループへ渡った。三菱銀行の526万株を含む940万株が同グループの手に入る。

  • 実業往来 1974年
    • [10]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [11]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [14]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [15]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [16]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [17]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [12]昭和49年11月期の売上高は247億円、経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円。前期はそれぞれ216億円、23億6,000万円、17億5,000万円だった
    • [13]昭和49年11月期の売上高は247億円、経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円。前期はそれぞれ216億円、23億6,000万円、17億5,000万円だった
参考文献[1]-[17]
  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート
    • [1]昭和45年4月に東京証券取引所第一部へ指定替えとなった
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [2]昭和45年4月割当・6月払込の3分の1増資により、資本金は22億5,000万円から30億円となった
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [3]昭和45年11月期の売上高は172億円、経常利益は31億0,000万円、当期純利益は22億2,000万円だった
    • [7]昭和46年11月期の売上高は187億円、経常利益は23億3,000万円。前期の経常利益は31億0,000万円だった
    • [12]昭和49年11月期の売上高は247億円、経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円。前期はそれぞれ216億円、23億6,000万円、17億5,000万円だった
    • [13]昭和49年11月期の売上高は247億円、経常利益は13億1,000万円、当期純利益は7億1,100万円。前期はそれぞれ216億円、23億6,000万円、17億5,000万円だった
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [4]昭和44年暮れに営業部長・総務部長など部課長クラス4人が相次いで退職。上場記念に贈られた株式を株価1,000円超で売却し、1,500万円から6,000万円を得ていた
    • [5]昭和44年暮れに営業部長・総務部長など部課長クラス4人が相次いで退職。上場記念に贈られた株式を株価1,000円超で売却し、1,500万円から6,000万円を得ていた
    • [6]昭和46年11月期はドルショックの影響で5分減配し、配当は年3割となった
    • [9]昭和47年、技術者を年俸250万円から400万円、貿易部を月給9万円から14万円で募る求人広告を新聞に掲載した
  • 実業往来 1974年
    • [8]昭和46年12月に米国のキャリアホン・ロバーツ社との販売契約を打ち切り、赤井アメリカ・赤井商事による独自の米国販売へ移行した
    • [10]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [11]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [14]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [15]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [16]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった
    • [17]昭和48年12月に赤井三郎社長が志賀高原でスキー中に急逝し、専務の斎藤己之吉が社長に昇格。昭和49年11月期は欧州向け輸出の伸び悩みと金利負担の倍増で1割減配となり、同年8月から全支払いの3割を翌月払いに変更した。赤井三郎の持株2,176万株(全株の36.3%)は3分の1が三菱グループへ肩替りされ、三菱銀行526万株を含む合計940万株となった

1975年〜家庭用ビデオへの参入と、規格を持たないままの量産

第二の柱を家庭用ビデオに求める

昭和50年11月、赤井電機は家庭用ビデオテープレコーダーへ参入した。テープを走らせて磁気で記録する構造はオーディオと共通だった。昭和44年に開発した独自方式の「アカイフォーマット」をはじめ、固定ヘッドのビデオを手がけた蓄積もある。上場時点で米国から2,500台のVTRの注文を受けていたことも、この分野を次の収益源と見込む根拠になっていた。実際、昭和50年11月期の売上高は290億円と前期から2割近く伸びている。技術の連続性に依拠して市場を選んだ判断であり、市場の構造そのものを見て選んだ判断ではなかった。

  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート
    • [18]1975年11月に家庭用ビデオテープレコーダーへ参入した
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [19]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発し、それ以前にも固定ヘッドのビデオを製造していた。オープンリールから始まり磁気による記録装置に伝統的に強かった
    • [20]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発し、それ以前にも固定ヘッドのビデオを製造していた。オープンリールから始まり磁気による記録装置に伝統的に強かった
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [21]昭和43年の上場時点で米国から2,500台のVTRテープレコーダーの注文を受けていた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [22]昭和50年11月期の売上高は290億円、経常利益は15億円だった
規格争いに後発で合流する

参入した市場では、規格の主導権を握る競争が先に始まっていた。日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を広げるのは昭和51年以降で、赤井電機の合流はそれよりも後になる。規格を供与する側に立てなければ、技術の使用料は入らず、収益は製品を量産して売った差額だけに絞られる。オーディオ時代に競争の焦点だったヘッドの特許は、家庭用ビデオでは陣営の外側に置かれた。昭和49年11月期に売上高の81%を占めていたテープレコーダーは、10年後に主力の座を明け渡すことになる。

  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート
    • [23]日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を拡大するのは1976年以降で、赤井電機の後発合流はそれ以降だった。規格を握る中核企業ではなかったためライセンス収入は得られなかった
    • [24]日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を拡大するのは1976年以降で、赤井電機の後発合流はそれ以降だった。規格を握る中核企業ではなかったためライセンス収入は得られなかった
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [25]赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有し、それを活かした高級品専門メーカーとして発足していた
  • 赤井電機 会社年鑑 1976年版(単体・セグメント)
    • [26]昭和49年11月期の単体売上構成はテープレコーダー200億1,900万円(81%)、スピーカー・アンプ43億9,200万円(18%)、その他3億0,200万円(1%)
売上を倍にしても利益が伸びない

量産で追う方針は売上高に表れた。昭和50年11月期の290億円は、昭和55年11月期には778億円へと5年で2.7倍に膨らんでいる。だが経常利益は同じ5年間で15億円から11億円へ減った。昭和54年11月期の経常利益は7億円まで落ち、売上高526億円に対する比率は1.3%にとどまる。昭和59年11月期にはビデオが436億6,900万円で売上高の55%を占め、オーディオの364億0,100万円を抜いて主力に立った。主力が入れ替わっても採算は戻らず、規模の拡大が利益の拡大につながらない構造がここで固まった。

  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [27]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
    • [28]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
    • [29]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
  • 赤井電機 会社年鑑 1986年版(単体・セグメント)
    • [30]昭和59年11月期の単体売上構成はビデオ436億6,900万円(55%)、オーディオ364億0,100万円
参考文献[18]-[30]
  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート
    • [18]1975年11月に家庭用ビデオテープレコーダーへ参入した
    • [23]日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を拡大するのは1976年以降で、赤井電機の後発合流はそれ以降だった。規格を握る中核企業ではなかったためライセンス収入は得られなかった
    • [24]日本ビクターがVHSを各社へ供与して陣営を拡大するのは1976年以降で、赤井電機の後発合流はそれ以降だった。規格を握る中核企業ではなかったためライセンス収入は得られなかった
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [19]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発し、それ以前にも固定ヘッドのビデオを製造していた。オープンリールから始まり磁気による記録装置に伝統的に強かった
    • [20]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発し、それ以前にも固定ヘッドのビデオを製造していた。オープンリールから始まり磁気による記録装置に伝統的に強かった
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [21]昭和43年の上場時点で米国から2,500台のVTRテープレコーダーの注文を受けていた
    • [25]赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有し、それを活かした高級品専門メーカーとして発足していた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [22]昭和50年11月期の売上高は290億円、経常利益は15億円だった
    • [27]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
    • [28]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
    • [29]単体の売上高は昭和50年11月期290億円、昭和54年11月期526億円、昭和55年11月期778億円。経常利益は同じ順に15億円、7億円、11億円だった
  • 赤井電機 会社年鑑 1976年版(単体・セグメント)
    • [26]昭和49年11月期の単体売上構成はテープレコーダー200億1,900万円(81%)、スピーカー・アンプ43億9,200万円(18%)、その他3億0,200万円(1%)
  • 赤井電機 会社年鑑 1986年版(単体・セグメント)
    • [30]昭和59年11月期の単体売上構成はビデオ436億6,900万円(55%)、オーディオ364億0,100万円

1981年〜海外販売子会社の破綻と、円高が崩した輸出採算

代理店を販売子会社へ切り替える

昭和55年前後、赤井電機は主戦場の欧州で販売のかたちを変えた。それまでの代理店に代えて、自社の販売子会社を置いたのである。代理店は売り切りの相手だが、販売子会社は在庫を自ら抱え、代金の回収まで負う。現地化の形だけは整えており、昭和55年に設立したアカイ・ドイツでは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質の責任者に据えた。この切り替えは、売る力を手元に引き寄せる代わりに、現地の資金繰りと在庫の負担を本社の決算へ直結させるものだった。同じ昭和55年11月には転換社債の株式転換で資本金が32億1,100万円へ積み上がっている。経営の形を変えたのに、見る仕組みを変えなかったことが後に響く。

  • 日経ビジネス 1983年8月8日号
    • [31]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [32]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [33]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [34]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
    • [35]昭和55年11月20日の転換社債の転換により43万4,000株が増加し、資本金は32億1,100万円となった
海外子会社の債務超過が本社の決算を崩す

昭和57年11月期の決算で、海外子会社7社のうち5社が債務超過に陥った。米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェーの5社で、処理のため本社が32億円の特別損失を計上している。欧州では、後から参入した三洋電機、シャープ、松下電器などの日本メーカーが投げ売りに走り、VTRの価格は20%から30%下落し、赤井電機も値下げで対抗したが、本社は現地法人の売掛金も在庫も実態をつかめていなかったと鈴木礼三常務は述べている『現地の売掛金や在庫の状況が本社で全くつかめなかった』。海外の子会社が出す販売計画を本社は手を加えずに合算し、それを生産計画としていた。損益は昭和56年11月期にはもう経常段階で18億円の赤字に陥っており、続く昭和57年11月期の当期純損失は62億円まで拡大した。

  • 日経ビジネス 1983年8月8日号
    • [36]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [37]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [38]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [39]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [40]昭和56年11月期の経常損益は18億円の赤字、当期純損失は6億円。昭和57年11月期は経常損益14億円の赤字、当期純損失62億円だった
円高が輸出偏重の採算を崩す

昭和60年11月期、赤井電機は税引損益の段階で67億8,000万円の赤字を計上した。この期の為替は1ドル240円で、円高が本格化する前の水準である。輸出比率は87.0%に達しており、採算の前提そのものが海外市況に預けられていた。赤字を埋めるため本社工場の一部を売却し、15億2,200万円の売却益を立てて債務超過を回避した。同期を最後に配当は止まり、無配が続くことになる。前期にあたる昭和59年11月期の売上高は801億円、経常利益は8億円で、規模の割に薄い利益しか残っていなかった。円高は引き金であって原因ではなく、円高の前から赤字が出ていた事実が、採算の崩れは為替より前にあったことを示していた。

  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [41]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [42]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [43]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [44]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [45]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [47]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [46]昭和59年11月期の売上高は801億円、経常利益は8億円、当期純利益は7億円だった
三菱電機を筆頭株主に迎える

提携の下地は前年に敷かれていた。昭和60年10月、赤井電機は三菱電機との提携を開発・設計・製造・販売の全面へ広げると発表している。昭和61年2月には、三菱銀行の常務やダイヤモンドコンピューターサービス社長を務めた岡田眞が社長に就任し、再建策を示した。中核は、三菱電機を引受先とする第三者割当増資400万株で同社を筆頭株主に迎えることで、増資を含む再建計画は同年6月に発表される。1ドル160円で利益の出ない機種の生産を取りやめ、赤字の海外販社を閉鎖し、生産拠点を集約して人員規模を詰めることが再建策の内容だった。掲げた目標は、売上高の構成をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつに割り、国内販売比率を30%まで引き上げることである。輸出で伸びた会社が、輸出を減らす方向へ舵を切った。

  • 日本経済新聞 1985年10月23日
    • [48]1985年10月、三菱電機との提携を開発・設計・製造・販売の全面で強化すると発表した
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [49]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
    • [51]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
    • [52]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
  • 日経産業新聞 1986年6月17日
    • [50]1986年6月、三菱電機を引受先とする第三者割当増資を含む再建計画を発表した
海外の販社を畳み、国内は三菱電機の販売網へ載せる

昭和61年末、赤井電機はアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も引き上げた。減った輸出は国内で埋める算段だった。しかし国内のオーディオ市場はミニコンポやCDラジカセが主流となる。1ロット2万台で作る側と10万台から20万台で作る側とでは、金型への投資効率が違いすぎた。昭和62年4月には国内向けオーディオの開発と生産を三菱電機と統合した。9月から統一ブランド「A&D」で全国4,000店の販売網に載せたが、新ブランドの定着は進まない。輸出比率は昭和62年11月期に78.3%まで下がったが、翌63年11月期には82.3%へ戻っている。昭和63年12月には、かつて売上高の20%以上を占めた北米向けAV機器の輸出停止を決めた。

  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [53]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [54]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [55]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [56]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [57]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [58]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [59]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
  • 日経産業新聞 1988年12月27日
    • [60]1988年12月、AV機器の北米向け輸出を1989年1月に停止する方針を決めた
参考文献[31]-[60]
  • 日経ビジネス 1983年8月8日号
    • [31]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [32]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [33]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [34]昭和55年前後、輸出比率90%の赤井電機は主戦場の欧州で販売チャネルを代理店から販売子会社へ切り換えた。自分のリスクで在庫を持ち資金を回収する現地法人の経営が、売りっ放しの代理店相手の商売と異なるという認識が足りなかったと鈴木礼三常務が述べている。昭和55年設立のアカイ・ドイツは代理店時代の現地人セールス・マネージャーを実質的な責任者であるMDに起用していた
    • [36]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [37]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [38]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
    • [39]昭和57年11月期決算で海外子会社7社中5社(米国・英国・西独・デンマーク・ノルウェー)が債務超過となり、親会社が32億円の特別損失を計上した。欧州では三洋電機・シャープ・松下など後発の日本メーカーの乱売競争でVTRの販売価格が20〜30%下落し、本社は海外子会社が立てた販売計画を鵜呑みにして全体の生産・販売計画を作っていた
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
    • [35]昭和55年11月20日の転換社債の転換により43万4,000株が増加し、資本金は32億1,100万円となった
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [40]昭和56年11月期の経常損益は18億円の赤字、当期純損失は6億円。昭和57年11月期は経常損益14億円の赤字、当期純損失62億円だった
    • [46]昭和59年11月期の売上高は801億円、経常利益は8億円、当期純利益は7億円だった
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [41]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [42]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [43]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [44]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [45]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [47]昭和60年11月期に税引損益で67億8,000万円の赤字を計上。当時の為替は1ドル240円で、円高の前からかなりの赤字を出していた。同期の輸出比率は87.0%。本社工場一部の売却益15億2,200万円を計上し、同期以降は無配が続いた
    • [49]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
    • [51]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
    • [52]1922年生まれの岡田眞は1946年に東京産業大学を卒業して三菱銀行へ入行し、1977年常務、1981年ダイヤモンドコンピューターサービス社長を経て1986年2月に赤井電機社長へ就任。同月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当てて筆頭株主とし、1ドル160円で儲けの出ない機種の生産取りやめ・赤字の海外販社撤収・生産拠点の集約・人員規模の適正化を進めた。目標は売上高構成比をオーディオ・ビデオ・その他で3分の1ずつとし、国内販売比率を30%まで高めることだった
    • [53]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [54]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [55]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [56]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [57]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [58]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
    • [59]1986年末にアカイ・アメリカを閉鎖し、カナダ・スウェーデン・デンマークの現地法人も撤収した。国内のオーディオ市場は家電各社の本格参入でミニコンポ・CDラジカセ中心となり、ワンロット2万台と10万〜20万台とでは金型への投資効率に差があった。1987年4月に国内向けオーディオの開発・生産を三菱電機と統合し、9月から統一ブランド「A&D」を導入して全国4,000店の三菱電機販売網に乗せたが、新ブランドの定着は進まなかった。輸出比率は1987年11月期78.3%、1988年11月期82.3%
  • 日本経済新聞 1985年10月23日
    • [48]1985年10月、三菱電機との提携を開発・設計・製造・販売の全面で強化すると発表した
  • 日経産業新聞 1986年6月17日
    • [50]1986年6月、三菱電機を引受先とする第三者割当増資を含む再建計画を発表した
  • 日経産業新聞 1988年12月27日
    • [60]1988年12月、AV機器の北米向け輸出を1989年1月に停止する方針を決めた

筆者考察

赤井電機が1980年代に失ったのは採算であって、売上高ではない。1975年に290億円だった売上高は、1980年には778億円と5年で2.7倍になっている。同じ5年で経常利益は15億円から11億円へ減った。伸ばしたのは家庭用ビデオだが、赤井電機はVHSの規格を供与する側ではなく、供与を受けて作る側に回っている。規格を握らなければ技術の使用料は入らず、残るのは量産して売った差額だけである。オーディオ時代に高値を支えたヘッドの特許は、ビデオの陣営の外に置かれた。1984年にビデオはオーディオを抜いて主力になったが、売上の順位が変わっても利益の出どころは戻らなかった。

もう一つの綻びは、売り方を変えたのに見る仕組みを変えなかったことにある。1980年前後、赤井電機は欧州の販路を代理店から自社の販売子会社へ切り替えた。代理店は売り切りの相手だが、子会社は在庫を抱え、代金の回収まで負う。それでも本社は、各子会社が出した販売計画をそのまま積んで生産計画を組み続けた。1982年11月期に海外7社のうち5社が債務超過となり、本社が32億円の特別損失を負ったのは、その帰結である。1985年に計上した67億8,000万円の赤字は1ドル240円のもとで出ており、円高はその後に止めを刺したにすぎない。三菱電機を筆頭株主に迎えた1986年の再建策は、この二つの綻びを同時に縫おうとする試みだった。

売上高経常利益率の推移 昭和50年11月期から昭和55年11月期まで(%)

5.2 1975 6 1976 4.5 1977 2.7 1978 1.3 1979 1.4 1980
  • 経常利益を売上高で除した値。出所は赤井電機 会社年鑑(単体業績)。
  • 同じ6期で売上高は290億円から778億円へ2.7倍になった一方、経常利益は15億円から11億円へ減少した。

1970年〜1988年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1970年11月期 単体 172 n/a 31 18.0% 22 n/a
1971年11月期 単体 187 +8.7% 23 12.5% 17 n/a
1972年11月期 単体 195 +4.3% 23 12.1% 17 n/a
1973年11月期 単体 216 +10.8% 23 10.9% 17 n/a
1974年11月期 単体 247 +14.4% 13 5.3% 7 n/a
1975年11月期 単体 290 +17.4% 15 5.2% 5 n/a
1976年11月期 単体 369 +27.2% 22 6.0% 11 n/a
1977年11月期 単体 426 +15.4% 19 4.5% 7 n/a
1978年11月期 単体 476 +11.7% 13 2.7% 4 n/a
1979年11月期 単体 526 +10.5% 7 1.3% 3 n/a
1980年11月期 単体 778 +47.9% 11 1.4% 3 n/a
1981年11月期 単体 905 +16.3% ▲18 ▲2.0% ▲6 n/a
1982年11月期 単体 908 +0.3% ▲14 ▲1.5% ▲62 n/a
1983年11月期 単体 808 ▲11.0% 14 1.7% 20 n/a
1984年11月期 単体 801 ▲0.9% 8 1.0% 7 n/a
1985年11月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年11月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年11月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年11月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

14件
出典・参考
  • 赤井電機 会社年鑑 1976年版(単体・セグメント)
  • 赤井電機 会社年鑑 1986年版(単体・セグメント)
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
  • 日経ビジネス 1983年8月8日号
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
  • 日本経済新聞 1985年10月23日
  • 日経産業新聞 1986年6月17日
  • 日経産業新聞 1988年12月27日
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
  • 野田経済 1970年4月15日号
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
  • 実業往来 1974年
  • 帝国データバンク 赤井電機株式会社レポート

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