第1章 年〜年

赤井電機:赤井電機製作所の創業とテープレコーダー輸出

電蓄用モーターから高級テープレコーダー輸出への特化

1924年〜ラジオ部品と電蓄用モーターから始めた事業の出発点

ソケットとラジオ部品の製造で創業する

赤井電機の起点は、赤井舛吉が大正13年に従業員15名ほどで興した赤井電機製作所にある。扱ったのはソケットとラジオ部品で、完成した機器ではなく、他社の製品に組み込まれる部材だった。昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社へ改め、資本金60万円の株式会社に改組する。昭和10年3月からは自動車電装品やモーター、ラジオ部品の製造へ範囲を広げた。しかし戦災で設備は失われ、事業は一度ゼロに戻った。株式会社となってからも資本金は60万円に据え置かれ、引き上げに動くのは戦後の昭和22年5月、200万円への増資を待つことになる。部品を作る会社が部品のまま終わらなかったのは、この焼け跡からの再出発が、何を作るかを選び直す機会になったからである。

  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [1]赤井舛吉が大正13年に従業員15名程度でソケット・ラジオ部品等の製造を主とする赤井電機製作所を創業した
    • [2]赤井舛吉が大正13年に従業員15名程度でソケット・ラジオ部品等の製造を主とする赤井電機製作所を創業した
    • [3]昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社として株式会社へ改組し、設立時の資本金は60万円。昭和22年5月に200万円へ増資した
    • [6]昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社として株式会社へ改組し、設立時の資本金は60万円。昭和22年5月に200万円へ増資した
  • インベストメント 22(2)(132) 1969年5月
    • [4]昭和10年3月に自動車電装・モーター・ラジオ部品の製造を開始した
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [5]赤井舛吉は大正13年からラジオ部品・ソケット等を製造していたが、戦災ですべてを失った
電蓄用モーターで戦後の生産を立て直す

戦後の再出発を率いたのは、創業者赤井舛吉の養子となった赤井三郎で、昭和22年に24歳で経営の前面へ立った。本社を東京都大田区へ移し、翌23年2月から汎用モーターと電蓄用の小型モーターの製造を始めている。テープレコーダーの駆動に使うモーター技術と、中核部品であるヘッドの開発は、同じ昭和22年から始まっている。それまで作っていた電蓄用モーターは、レコードプレーヤーを回す役目の部品である。完成機を持つ大手の調達先という位置から出られない商材だった。赤井三郎は後年、終戦直後の電蓄用モーターの生産を続けていれば今日のアカイはおそらくなかったと回想している『終戦直後には電蓄のモーターの生産をしていたが、そのままでいたら今日のアカイはまず存在していなかっただろう』。部品の納入先にとどまるのか、完成機を自前で作るのかという分かれ道は、再出発の段階でもう引かれていた。

  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [7]赤井三郎は創業者赤井舛吉の甥にあたる養子で、戦後の昭和22年に24歳で自ら経営を指揮して再出発した
  • インベストメント 22(2)(132) 1969年5月
    • [8]昭和22年5月に本社を東京都大田区へ移し、昭和23年2月から汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始した
    • [10]昭和22年5月に本社を東京都大田区へ移し、昭和23年2月から汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始した
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [9]昭和22年よりテープレコーダーの駆動パーツであるモーター技術と、心臓部分のヘッドの開発を進めた
部品メーカーからセットメーカーへ転じる

昭和26年、赤井電機はテープレコーダーの製造に手を染め、「テープの赤井」と呼ばれる足場を得た。昭和28年には製造を本格化させ、部品メーカーから完成機メーカーへ転換する。転換を支えたのは自社で開発したヘッドの技術で、部品から一貫して作る体制が単なる組立との差になった。同じ昭和28年7月に赤井商事を設立し、国内販売を切り離して担わせた。昭和29年4月にはテープメカニズムのAT-1を世に出している。以後も昭和33年6月にステレオテープレコーダーのMS-60を投入する。昭和37年10月にはクロスフィールドヘッドを備えたM-7を出し、製品の等級を段階的に引き上げた。作る力を先に持ち、販売先を後から探すという順序が、次の輸出特化を呼び込むことになる。

  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [11]昭和26年にテープレコーダーを製造し、「テープの赤井」と呼ばれた
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [12]昭和28年からテープレコーダーの製造を開始し、独自のヘッド技術を用いて単なるパーツメーカーからセットメーカーへ転換した
    • [13]昭和28年からテープレコーダーの製造を開始し、独自のヘッド技術を用いて単なるパーツメーカーからセットメーカーへ転換した
    • [14]昭和28年7月に赤井商事株式会社を設立し、国内販売を担当させた
  • インベストメント 22(2)(132) 1969年5月
    • [15]昭和29年4月にテープメカニズム AT-1 を発売した
    • [16]昭和33年6月にステレオテープレコーダー MS-60 を発売した
    • [17]昭和37年10月にクロスフィールドヘッド付テープレコーダー M-7 を発売した
参考文献[1]-[17]
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [1]赤井舛吉が大正13年に従業員15名程度でソケット・ラジオ部品等の製造を主とする赤井電機製作所を創業した
    • [2]赤井舛吉が大正13年に従業員15名程度でソケット・ラジオ部品等の製造を主とする赤井電機製作所を創業した
    • [3]昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社として株式会社へ改組し、設立時の資本金は60万円。昭和22年5月に200万円へ増資した
    • [6]昭和4年7月15日に商号を赤井電機株式会社として株式会社へ改組し、設立時の資本金は60万円。昭和22年5月に200万円へ増資した
    • [9]昭和22年よりテープレコーダーの駆動パーツであるモーター技術と、心臓部分のヘッドの開発を進めた
    • [12]昭和28年からテープレコーダーの製造を開始し、独自のヘッド技術を用いて単なるパーツメーカーからセットメーカーへ転換した
    • [13]昭和28年からテープレコーダーの製造を開始し、独自のヘッド技術を用いて単なるパーツメーカーからセットメーカーへ転換した
    • [14]昭和28年7月に赤井商事株式会社を設立し、国内販売を担当させた
  • インベストメント 22(2)(132) 1969年5月
    • [4]昭和10年3月に自動車電装・モーター・ラジオ部品の製造を開始した
    • [8]昭和22年5月に本社を東京都大田区へ移し、昭和23年2月から汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始した
    • [10]昭和22年5月に本社を東京都大田区へ移し、昭和23年2月から汎用モーター・電蓄用小型モーターの製造を開始した
    • [15]昭和29年4月にテープメカニズム AT-1 を発売した
    • [16]昭和33年6月にステレオテープレコーダー MS-60 を発売した
    • [17]昭和37年10月にクロスフィールドヘッド付テープレコーダー M-7 を発売した
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [5]赤井舛吉は大正13年からラジオ部品・ソケット等を製造していたが、戦災ですべてを失った
    • [7]赤井三郎は創業者赤井舛吉の甥にあたる養子で、戦後の昭和22年に24歳で自ら経営を指揮して再出発した
    • [11]昭和26年にテープレコーダーを製造し、「テープの赤井」と呼ばれた

1956年〜米キャリホン・ロバーツ社との直接契約による輸出専業化

先発大手を避けて高級機へ集中する

輸出に傾いた理由は、国内に売り場が無かったことにある。テープレコーダーでは先発の大手が既に低価格品の大量生産を確立しており、同じ製品で並べば価格以外に競争の焦点が残らなかった。赤井電機はヘッド技術の特許を多数握っていた。部品から一貫して高度な製品を作る高級品専門メーカーとして発足したため、需要先は海外に限られた。国内で10万円を超えるテープレコーダーを買う層は薄く、高級品メーカーの少ない米国を狙ったことが当たったと赤井三郎は述べている。販売経路は赤井電機から直接海外の代理店へ渡るものと、赤井商事を経て在日米軍のPXへ納めるものの二通りに分かれた。市場を選んだというより、選べる市場が一つしか残っていなかった。

  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [18]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [19]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [20]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [22]販売経路は赤井電機から直接海外代理店へ販売されるものと、赤井商事へ販売されPXに納入されるものの二通りがあった
  • 野田経済 1969年6月11日号
    • [21]赤井三郎は、国内に10万円以上のテープレコーダーを買う層が少なく、高級品メーカーの少ないアメリカを狙ったことが図に当たったと述べた
米キャリホン・ロバーツ社と販売契約を結ぶ

赤井電機の海外展開は、米国のキャリホン・ロバーツ社との販売契約から始まり、商社を通さずに輸出だけで売る経路を得るとともに、「アカイ」を高級品の名として海外に知らしめた。高級品に絞れば業界順位はソニーに続く第2位で、シェアは年々上がった。先発との差は製品の形にも表れた。オープンリールのテープデッキは横置きが普通だったが、同社が縦置きに改めた機種は受けがよく、各国から注文が集まった。名前が海外で通るようになったことで値を高く保てるようになり、経常利益は昭和42年11月期に14億6,000万円、売上高比で19.1%を記録した。

  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [23]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
    • [24]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
    • [25]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [26]従来は横置きだったオープンリール・テープデッキを縦置きにした製品が当たり、世界中から注文が殺到して輸出企業としての基盤を築いた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [27]昭和42年11月期の売上高は76億0,000万円、経常利益は14億6,000万円だった
170の代理店で販売先を世界へ散らす

販路は商社を介さず、各国に置いた代理店で組んだ。代理店の数は170に達し、代理店制による販売網が固まっている。輸出比率は昭和43年5月期の実績で94.2%を占め、国内向けは端数にすぎなかった。仕向地の構成も動いた。米国向けは数年前まで輸出の過半を占めていたが、昭和44年には米国25%、東南アジア30%、欧州20%となり、世界100数カ国へ散った。昭和44年以降は輸出一辺倒の販売政策を改めて国内販売にも人手を割き、国内を担う赤井商事が同年11月に新規上場している。単一の代理店に依存した状態から、地域を分けた網へ移したことで、一国の市況が収益を左右する度合いは下がったとみられる。

  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [28]各国に170の代理店を設けて代理店制による販売網を確立し、昭和43年5月期実績で製品の94.2%が輸出された
    • [29]各国に170の代理店を設けて代理店制による販売網を確立し、昭和43年5月期実績で製品の94.2%が輸出された
  • 野田経済 1969年6月11日号
    • [30]米国向けは数年前まで輸出の過半を占めていたが、昭和44年時点では米国25%・東南アジア30%・欧州20%など世界100数カ国に分散した
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [31]輸出一辺倒の販売政策から国内販売にも力を注ぐようになり、子会社の赤井商事は昭和44年11月に新規上場した
参考文献[18]-[31]
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [18]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [19]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [20]先発大手メーカーが既に低価格品の大量生産を確立していたため、赤井電機はヘッド技術の特許権を多数保有する強みを活かし、部品から一貫生産する高級品専門メーカーとして発足し、需要が海外に限定された
    • [22]販売経路は赤井電機から直接海外代理店へ販売されるものと、赤井商事へ販売されPXに納入されるものの二通りがあった
    • [23]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
    • [24]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
    • [25]米国のキャリホン・ロバーツ社と販売契約を結んで高級品「アカイ」の名を海外に示し、高級品専門の輸出メーカーとしての基礎を築いた。高級品に限れば業界の地位はソニーに次ぐ第2位で、占有率は年々上昇していた
    • [28]各国に170の代理店を設けて代理店制による販売網を確立し、昭和43年5月期実績で製品の94.2%が輸出された
    • [29]各国に170の代理店を設けて代理店制による販売網を確立し、昭和43年5月期実績で製品の94.2%が輸出された
  • 野田経済 1969年6月11日号
    • [21]赤井三郎は、国内に10万円以上のテープレコーダーを買う層が少なく、高級品メーカーの少ないアメリカを狙ったことが図に当たったと述べた
    • [30]米国向けは数年前まで輸出の過半を占めていたが、昭和44年時点では米国25%・東南アジア30%・欧州20%など世界100数カ国に分散した
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [26]従来は横置きだったオープンリール・テープデッキを縦置きにした製品が当たり、世界中から注文が殺到して輸出企業としての基盤を築いた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [27]昭和42年11月期の売上高は76億0,000万円、経常利益は14億6,000万円だった
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [31]輸出一辺倒の販売政策から国内販売にも力を注ぐようになり、子会社の赤井商事は昭和44年11月に新規上場した

1965年〜無借金の収益構造と、東証二部への株式公開

借入金を持たずに内部留保を積む

輸出専業の代理店直販は、収益の形にそのまま表れた。昭和40年11月期に26億9,000万円だった売上高は、昭和44年11月期には142億円へ伸びている。昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%に達した。同じ期間に当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増えた。財政の姿はさらに際立つ。借入金を持たず、現金仕入によって期末の債務が僅少であったため他人資本比率は低かった。自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%にとどまり、内部留保はきわめて厚い。資本金も昭和38年11月の4,000万円から昭和43年10月の15億円へ、5年で37倍に膨らんでいる。

  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [32]単体の売上高は昭和40年11月期26億9,000万円から昭和44年11月期142億円へ、当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増加した
    • [34]単体の売上高は昭和40年11月期26億9,000万円から昭和44年11月期142億円へ、当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増加した
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [33]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [35]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [36]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [37]資本金は昭和38年11月に4,000万円、昭和41年10月に1億5,000万円、昭和42年7月に5億円、昭和43年10月に15億円と推移した
東証二部へ株式を公開する

昭和43年11月21日、赤井電機は東京証券取引所第二部へ株式を上場した。上場時の資本金は15億円、上場株式数は3,000万株、公開株数は500万株で、公開価格は330円だった。従業員は同年5月20日現在で1,331名を数える。同期の売上高は107億円、当期純利益は13億8,000万円で、売上高に対する純利益の比率は12.8%に達した。大株主には赤井三郎の663万6,100株に次いで、専務の斎藤己之吉が116万8,000株を持った。取引金融機関は三菱銀行を筆頭に富士・大和・第一の4行が並ぶ。翌44年4月には大阪と名古屋の両市場にも公開し、昭和45年4月には東証第一部へ指定替えとなった。

  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [38]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [39]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [40]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [42]昭和43年7月31日現在の大株主は赤井三郎663万6,100株、斎藤己之吉116万8,000株、高橋久夫82万8,000株。取引金融機関は三菱銀行・富士銀行・大和銀行・第一銀行
    • [43]昭和43年7月31日現在の大株主は赤井三郎663万6,100株、斎藤己之吉116万8,000株、高橋久夫82万8,000株。取引金融機関は三菱銀行・富士銀行・大和銀行・第一銀行
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [41]昭和43年11月期の売上高は107億円、当期純利益は13億8,000万円だった
  • 野田経済 1969年6月11日号
    • [44]昭和44年4月から大阪・名古屋市場に公開し、昭和45年4月に東京証券取引所第一部へ指定替えとなった
持株の1割を幹部社員へ贈与する

上場は赤井三郎個人の資産を一挙に膨らませた。持株は時価で100億円を超え、昭和45年時点の資産は260億円から270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ全国第2位の高所得者に並んだ。その持株の1割にあたる10億円相当を、上場記念として約100人の幹部社員へ贈った。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を持った。待遇も平均23歳で月額6万6,000円、賞与は年間7カ月と国内で最も高い水準にあった。報酬を株式で配ることは、成果を測る尺度を給与から外へ出す仕組みでもあった。

  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [45]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
    • [47]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
    • [48]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [46]昭和43年11月の株式公開時、赤井三郎は時価100億円を超える持株の1割にあたる約10億円相当を、約100人の幹部社員へ贈与した
技術を更新し続ける前提を置く

昭和44年に独自方式の「アカイフォーマット」を開発して、磁気記録装置で積んだ蓄えを映像にも広げ、翌昭和45年の時点で特許権と実用新案は国内193件、国外155件を数えた。赤井三郎は、技術革新の足が速いエレクトロニクスの分野で同じ製品を五、六年も作り続ければ自滅するしかないと述べ『エレクトロニクス業界では技術革新のテンポがはやい。同じ製品を五、六年もつづけていたら自滅を待つよりない』、技術開発とマーケティングの研究を経営の二本柱とした。高い利益率の源は、製品を入れ替えるこの速さにあった。上場した段階ではすでに米国から2,500台のVTRテープレコーダーを受注しており、それを作る体制づくりを急いでいた。この年、売上高は142億円、経常利益は28億4,000万円に達している。

  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [49]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発した。オープンリールから始まり、磁気による記録装置に伝統的に強くノウハウを蓄積していた
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [50]昭和45年時点で特許権および実用新案は国内193件、国外155件を数え、売上げの85%がテープレコーダー、売上げの95%を輸出していた
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [51]昭和43年の上場時点で米国から2,500台のVTRテープレコーダーの注文を受けており、その生産体制の確立を急いでいた
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [52]昭和44年11月期の売上高は142億円、経常利益は28億4,000万円だった
参考文献[32]-[52]
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
    • [32]単体の売上高は昭和40年11月期26億9,000万円から昭和44年11月期142億円へ、当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増加した
    • [34]単体の売上高は昭和40年11月期26億9,000万円から昭和44年11月期142億円へ、当期純利益は1億1,900万円から20億1,000万円へ増加した
    • [41]昭和43年11月期の売上高は107億円、当期純利益は13億8,000万円だった
    • [52]昭和44年11月期の売上高は142億円、経常利益は28億4,000万円だった
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
    • [33]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [35]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [36]昭和40年11月期以降の売上高伸び率は平均46.2%。借入金がなく現金仕入による期末債務の僅少により他人資本比率が低く、自己資本比率69.2%のうち払込資本比率は9.7%で内部留保はきわめて厚かった
    • [37]資本金は昭和38年11月に4,000万円、昭和41年10月に1億5,000万円、昭和42年7月に5億円、昭和43年10月に15億円と推移した
    • [38]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [39]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [40]昭和43年11月21日に東京証券取引所第二部へ上場。資本金15億円、上場株式数3,000万株、公開株数500万株、公開価格330円、従業員数1,331名(昭和43年5月20日現在)
    • [42]昭和43年7月31日現在の大株主は赤井三郎663万6,100株、斎藤己之吉116万8,000株、高橋久夫82万8,000株。取引金融機関は三菱銀行・富士銀行・大和銀行・第一銀行
    • [43]昭和43年7月31日現在の大株主は赤井三郎663万6,100株、斎藤己之吉116万8,000株、高橋久夫82万8,000株。取引金融機関は三菱銀行・富士銀行・大和銀行・第一銀行
    • [51]昭和43年の上場時点で米国から2,500台のVTRテープレコーダーの注文を受けており、その生産体制の確立を急いでいた
  • 野田経済 1969年6月11日号
    • [44]昭和44年4月から大阪・名古屋市場に公開し、昭和45年4月に東京証券取引所第一部へ指定替えとなった
  • 野田経済 1970年4月15日号
    • [45]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
    • [47]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
    • [48]昭和45年時点で赤井三郎の資産は260億〜270億円とみられ、松下幸之助に次ぐ日本で二番目の高所得者だった。約100名の従業員が平均2万5,000株の自社株を保有し、平均23歳で月額6万6,000円・賞与年間7カ月と日本一の高賃金会社とされた
    • [50]昭和45年時点で特許権および実用新案は国内193件、国外155件を数え、売上げの85%がテープレコーダー、売上げの95%を輸出していた
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」
    • [46]昭和43年11月の株式公開時、赤井三郎は時価100億円を超える持株の1割にあたる約10億円相当を、約100人の幹部社員へ贈与した
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [49]1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発した。オープンリールから始まり、磁気による記録装置に伝統的に強くノウハウを蓄積していた

筆者考察

赤井電機が1968年に売上高純利益率12.8%という水準を達成したのは、テープレコーダーの技術が抜きん出ていたからではない。売る相手を国内から外したからである。先発の大手が低価格品の量産を固めていた国内では、10万円を超える機器を買う客がそもそも薄かった。赤井三郎はその市場を諦め、高級機を買う層が厚い米国へ製品を送る。商社を挟まず各国170の代理店と直接組んだのも同じ理屈で、間に立つ者が減れば、同じ製品から手元に残る利ざやが増える。ヘッドの特許を積み上げたのは、その値段を買い手に納得させるためだった。技術は高値を正当化する道具であって、高値そのものを作ったのは販路の設計である。

この設計には、利益の源が自社の外にあるという弱さが裏側に付いていた。輸出比率94.2%とは、売上高のほぼ全部を為替と各国の市況が決めるという意味である。1969年の仕向地は米国25%、東南アジア30%、欧州20%と散らしてあり、一国の不振には耐えられた。しかし、すべての国に等しく効く変数には、散らしても効き目がない。借入金を持たず、自己資本比率69.2%のうち払込資本を9.7%に抑えて内部留保を積んだ財務は、その変数が動くまでは崩れようがなく見えた。1968年の東証二部上場は、その堅さが最も高く評価された時点にあたる。従業員1,331名の会社が、輸出だけでその評価を得ていた。

単体売上高の推移 昭和40年11月期から昭和44年11月期まで(億円)

26.9 1965 52.1 1966 76 1967 107 1968 142 1969
  • 出所は赤井電機 会社年鑑(単体業績)。決算期は11月20日で年1回。
  • 1968年11月期の当期純利益は13億8,000万円で、売上高に対する比率は12.8%。

1924年〜1969年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年11月期 単体 26 n/a 3 12.2% 1 n/a
1966年11月期 単体 52 +93.7% 12 24.2% 6 n/a
1967年11月期 単体 76 +45.9% 14 19.2% 8 n/a
1968年11月期 単体 107 +40.8% 21 20.2% 13 n/a
1969年11月期 単体 142 +32.7% 28 20.0% 20 n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • 赤井電機 会社年鑑(単体業績)
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
  • 証券 20(12)(237) 1968年12月
  • インベストメント 22(2)(132) 1969年5月
  • 野田経済 1969年6月11日号
  • 野田経済 1970年4月15日号
  • 新評 1972年「インサイドレポート 〝社員不信〟に陥った赤井三郎(赤井電機)社長の経営失点」

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