ホーチキ:東京報知機の設立と日本初の公衆用火災報知機
1918年〜保険会社が100万円を出した東京報知機と、日本橋に据えた公衆用MM式報知機
東京報知機は1918年4月2日の創立総会を経て、資本金100万円(払込金25万円)で発足した。発端は1913年、警視総監の亀井英三郎氏がマニラ市の火災報知機の資料を入手し、技師の原田九郎氏に東京市の設備計画を命じたことにある。原田九郎氏の案は総費用60万円を要し、警視庁の1年分の予算に当たる額で、官の予算では実現の見込みが立たなかった。原田九郎氏は沖電気専務の木下英太郎氏に協力を求め、技師の三好盛晴氏が開発したMM式火災報知機が1914年に特許を得た。関係者は東京火災保険副社長の長松篤棐氏の協力を得て、会社を立てて事業として進めるほかないと判断した。火災の損害を減らす事業は保険会社の利害と重なる。1917年5月に大日本聯合火災保険協会が発足して各社が協調に転じたこともあり、保険各社が出資に応じた。
- ホーチキの70年(1988)「2.東京報知機の誕生」
- [1]1918年4月2日 東京報知機創立総会、資本金100万円・払込25万円、会長 長松篤棐(社長を置かず)
- [6]1918年4月2日 東京報知機創立総会、資本金100万円・払込25万円、会長 長松篤棐(社長を置かず)
- [7]1918年4月2日 東京報知機創立総会、資本金100万円・払込25万円、会長 長松篤棐(社長を置かず)
- [8]1918年4月2日 東京報知機創立総会、資本金100万円・払込25万円、会長 長松篤棐(社長を置かず)
- ホーチキ 有価証券報告書【沿革】
- [2]1918年4月 東京市麹町区有楽町で東京報知機株式会社を設立、資本金100万円
- ホーチキの70年(1988)「1.創立前史」
- [3]1913年 亀井英三郎総監がマニラの火災報知機資料を入手、原田九郎技師に計画を命じる。総費用60万円=警視庁年間予算相当。木下英太郎・三好盛晴が担当しMM式が1914年特許
- [4]1913年 亀井英三郎総監がマニラの火災報知機資料を入手、原田九郎技師に計画を命じる。総費用60万円=警視庁年間予算相当。木下英太郎・三好盛晴が担当しMM式が1914年特許
- [5]1913年 亀井英三郎総監がマニラの火災報知機資料を入手、原田九郎技師に計画を命じる。総費用60万円=警視庁年間予算相当。木下英太郎・三好盛晴が担当しMM式が1914年特許
東京報知機は1919年11月、日本橋区で設置工事を始め、1920年4月1日に国内初となる街頭の火災盗難報知機を竣工させた。構成は街路の発信機24基と、警察署・巡査派出所に置いた受信機12台である。当時の通報手段は1917年4月に警視庁消防部が設けた火災専用電話で、電話の少なさから深夜の通報や似た町名の聞き違いに難があった。事業の仕組みは、自社の費用で設備を据えて東京市から使用料と保守改修費を受け取り、30年後に設備一式を東京府へ無償で寄付する条件である。東京報知機は1921年12月に日本橋区で56基を増やし、1922年12月には神田地区に103基を設置した。日本橋を最初の区域に選んだのは、人と商家が集まり、通報網の効果を示しやすい場所だったためと推察される。
- ホーチキの70年(1988)「3.日本最初のMM式火災報知機」
- [9]1919年11月24日日本橋区で着工、1920年4月1日竣工。街路発信機24基・受信機12台。1921年12月日本橋56基増設、1922年12月神田103基
- [11]1919年11月24日日本橋区で着工、1920年4月1日竣工。街路発信機24基・受信機12台。1921年12月日本橋56基増設、1922年12月神田103基
- [14]1919年11月24日日本橋区で着工、1920年4月1日竣工。街路発信機24基・受信機12台。1921年12月日本橋56基増設、1922年12月神田103基
- ホーチキ 有価証券報告書【沿革】
- [10]1920年4月 わが国初の公衆用火災報知機を日本橋に設置
- ホーチキの70年(1988)「4本社事業場の移転」
- [12]1917年4月 警視庁消防部が火災専用電話を設置。電話が少なく深夜利用や町名の聞き誤りに問題(東京の消防百年の歩み要旨)
- ホーチキの70年(1988)「2.東京報知機の誕生」
- [13]設備を自社費用で東京市に設置し使用料・保守改修費を徴収、30年経過後に東京府へ無償寄付の条件で許可(1918年7月31日付命令書)
報知機だけでは業績が上向かなかったため、東京報知機は1918年、米国のノーザン消防機会社と契約し輸入代理店となった。ノーザン社は日本での代理店を求めており、東京報知機は同社製の手挽きガソリンポンプと消防用ポンプ自動車を輸入して売り始めた。納入先は全国の市町と官庁で、1919年から1923年までの納入実績は手挽きのガソリンポンプが51台、自動車が6台。1921年7月5日には工場と事務所を兼ねる建物として芝愛宕町の木造3階建て、延べ206坪を2万円で取得し、本社を移転した。報知機とポンプはいずれも消防の当局を得意先とする製品である。同じ得意先に2つの製品を納めることで、報知機の受注の波を補う狙いがあったのだろう。
- ホーチキの70年(1988)「5.ノーザン社と輸入販売契約」
- [15]報知機の受注だけでは業績が進展せず、1918年に米国ノーザン消防機会社と輸入販売契約。1919〜1923年に手挽ガソリンポンプ51台・ポンプ自動車6台、販売先は全国の市町と官庁
- [16]報知機の受注だけでは業績が進展せず、1918年に米国ノーザン消防機会社と輸入販売契約。1919〜1923年に手挽ガソリンポンプ51台・ポンプ自動車6台、販売先は全国の市町と官庁
- [17]報知機の受注だけでは業績が進展せず、1918年に米国ノーザン消防機会社と輸入販売契約。1919〜1923年に手挽ガソリンポンプ51台・ポンプ自動車6台、販売先は全国の市町と官庁
- [19]報知機の受注だけでは業績が進展せず、1918年に米国ノーザン消防機会社と輸入販売契約。1919〜1923年に手挽ガソリンポンプ51台・ポンプ自動車6台、販売先は全国の市町と官庁
- ホーチキの70年(1988)「4本社事業場の移転」
- [18]1921年7月5日 芝愛宕町3丁目1番地の木造3階建・延206坪を買収(2万円)し本社事業場を移転
- [20]1921年7月5日 芝愛宕町3丁目1番地の木造3階建・延206坪を買収(2万円)し本社事業場を移転
参考文献[1]-[20]
- ホーチキの70年(1988)「2.東京報知機の誕生」
- [1]1918年4月2日 東京報知機創立総会、資本金100万円・払込25万円、会長 長松篤棐(社長を置かず)
- [6]1918年4月2日 東京報知機創立総会、資本金100万円・払込25万円、会長 長松篤棐(社長を置かず)
- [7]1918年4月2日 東京報知機創立総会、資本金100万円・払込25万円、会長 長松篤棐(社長を置かず)
- [8]1918年4月2日 東京報知機創立総会、資本金100万円・払込25万円、会長 長松篤棐(社長を置かず)
- [13]設備を自社費用で東京市に設置し使用料・保守改修費を徴収、30年経過後に東京府へ無償寄付の条件で許可(1918年7月31日付命令書)
- ホーチキ 有価証券報告書【沿革】
- [2]1918年4月 東京市麹町区有楽町で東京報知機株式会社を設立、資本金100万円
- [10]1920年4月 わが国初の公衆用火災報知機を日本橋に設置
- ホーチキの70年(1988)「1.創立前史」
- [3]1913年 亀井英三郎総監がマニラの火災報知機資料を入手、原田九郎技師に計画を命じる。総費用60万円=警視庁年間予算相当。木下英太郎・三好盛晴が担当しMM式が1914年特許
- [4]1913年 亀井英三郎総監がマニラの火災報知機資料を入手、原田九郎技師に計画を命じる。総費用60万円=警視庁年間予算相当。木下英太郎・三好盛晴が担当しMM式が1914年特許
- [5]1913年 亀井英三郎総監がマニラの火災報知機資料を入手、原田九郎技師に計画を命じる。総費用60万円=警視庁年間予算相当。木下英太郎・三好盛晴が担当しMM式が1914年特許
- ホーチキの70年(1988)「3.日本最初のMM式火災報知機」
- [9]1919年11月24日日本橋区で着工、1920年4月1日竣工。街路発信機24基・受信機12台。1921年12月日本橋56基増設、1922年12月神田103基
- [11]1919年11月24日日本橋区で着工、1920年4月1日竣工。街路発信機24基・受信機12台。1921年12月日本橋56基増設、1922年12月神田103基
- [14]1919年11月24日日本橋区で着工、1920年4月1日竣工。街路発信機24基・受信機12台。1921年12月日本橋56基増設、1922年12月神田103基
- ホーチキの70年(1988)「4本社事業場の移転」
- [12]1917年4月 警視庁消防部が火災専用電話を設置。電話が少なく深夜利用や町名の聞き誤りに問題(東京の消防百年の歩み要旨)
- [18]1921年7月5日 芝愛宕町3丁目1番地の木造3階建・延206坪を買収(2万円)し本社事業場を移転
- [20]1921年7月5日 芝愛宕町3丁目1番地の木造3階建・延206坪を買収(2万円)し本社事業場を移転
- ホーチキの70年(1988)「5.ノーザン社と輸入販売契約」
- [15]報知機の受注だけでは業績が進展せず、1918年に米国ノーザン消防機会社と輸入販売契約。1919〜1923年に手挽ガソリンポンプ51台・ポンプ自動車6台、販売先は全国の市町と官庁
- [16]報知機の受注だけでは業績が進展せず、1918年に米国ノーザン消防機会社と輸入販売契約。1919〜1923年に手挽ガソリンポンプ51台・ポンプ自動車6台、販売先は全国の市町と官庁
- [17]報知機の受注だけでは業績が進展せず、1918年に米国ノーザン消防機会社と輸入販売契約。1919〜1923年に手挽ガソリンポンプ51台・ポンプ自動車6台、販売先は全国の市町と官庁
- [19]報知機の受注だけでは業績が進展せず、1918年に米国ノーザン消防機会社と輸入販売契約。1919〜1923年に手挽ガソリンポンプ51台・ポンプ自動車6台、販売先は全国の市町と官庁
1923年〜関東大震災の損害と、大阪出張所・消防ポンプで探った販路
1923年9月1日の関東大震災で、東京報知機は芝愛宕町の社屋と工場を焼失した。重要書類と在庫の消防ポンプ、製品・部品は運び出しており、数日後には青山で建物を借り、仮の工場で生産を続けた。損害は会社の資産である街路の報知機339基とその線路全部に及び、総額22万8,755円。東京報知機は1924年12月、東京市にMM式報知機504基を新設し、中央と分局の受信機計13台も据え直した。震災の損害もあって、東京報知機の業績はその後も不振が続いた。設備を自社の資産として持つ事業の仕組みは、焼失をそのまま会社の損失に変える弱点を抱えていたとみられる。
- ホーチキの70年(1988)「1.MM式火災報知機の進展と関東大震災後の復旧」
- [21]1923年9月1日震災で社屋・工場焼失、青山に仮工場。街路報知機339基と線路全部焼失、損害22万8,755円。1924年12月東京市にMM式504基・中央受信機1台・分局受信機12台
- [22]1923年9月1日震災で社屋・工場焼失、青山に仮工場。街路報知機339基と線路全部焼失、損害22万8,755円。1924年12月東京市にMM式504基・中央受信機1台・分局受信機12台
- [23]1923年9月1日震災で社屋・工場焼失、青山に仮工場。街路報知機339基と線路全部焼失、損害22万8,755円。1924年12月東京市にMM式504基・中央受信機1台・分局受信機12台
- [24]1923年9月1日震災で社屋・工場焼失、青山に仮工場。街路報知機339基と線路全部焼失、損害22万8,755円。1924年12月東京市にMM式504基・中央受信機1台・分局受信機12台
- ホーチキの70年(1988)「3.日本最初のMM式火災報知機」
- [25]東京海上火災保険百年史:関東大震災で大きな損害を蒙り業績は不振に終始
震災後、東京報知機は1924年1月の函館市を皮切りに、1928年の京都市や若松市など地方都市へMM式報知機の設置を広げた。1925年には大阪府技師の松本修二氏が考案した松本式が特許を得て、大阪の赤尾保商店がその製造と販売を手がけた。大阪市は松本式を採用し、名古屋市・小樽市・福岡市でも松本式が受注を得た。松本式は発信機1基ごとに電線を消防署まで張るため保守費がかさみ、京都市は線路保守の有利さからMM式を選んだ。1923年から1935年までの消防ポンプの販売はガソリンポンプが399台、自動車が111台に上り、ポンプの利益が報知機の赤字を埋める構図である。大阪では1934年12月に船場警察署管内の銀行・商店向け非常報知機48基を完成させ、その保守と営業のため出張所を開設した。
- ホーチキの70年(1988)「1.MM式火災報知機の進展と関東大震災後の復旧」
- [26]1924年1月函館市110基、1928年10月京都市・若松市などでMM式を設置。京都市は線路保守が有利としてMM式を選択
- [29]1924年1月函館市110基、1928年10月京都市・若松市などでMM式を設置。京都市は線路保守が有利としてMM式を選択
- ホーチキの70年(1988)「2.ライバル会社の出現」
- [27]1925年 大阪府技師松本修二の松本式(P型)が特許、赤尾保商店が製造販売。大阪市が採用、名古屋・小樽・福岡も松本式。電線数が多く保守費が大
- [28]1925年 大阪府技師松本修二の松本式(P型)が特許、赤尾保商店が製造販売。大阪市が採用、名古屋・小樽・福岡も松本式。電線数が多く保守費が大
- [30]1925年 大阪府技師松本修二の松本式(P型)が特許、赤尾保商店が製造販売。大阪市が採用、名古屋・小樽・福岡も松本式。電線数が多く保守費が大
- ホーチキの70年(1988)「4.消防ポンプの販売」
- [31]1923〜1935年にガソリンポンプ399台・ポンプ自動車111台を販売、ポンプの利益が報知機部門の欠損を補う
- ホーチキの70年(1988)「3.大阪出張所の開設」
- [32]1934年12月 大阪船場警察署管内の銀行・商店から非常報知機48基を完成、その保守と営業のため大阪出張所を開設
東京報知機は販売を広げるため、1927年に東京市や名古屋市など4市で展示会を計7回催し、消防関係者延べ960人を集めた。1925年から1933年まで毎月30円をかけて宣伝紙「火報」を発行し、1930年には新橋演舞場で報知機を題材にした劇を催した。1932年からは満州に販路を求め、軍向けの汚濁水清浄器など新製品も手がけたが、期待した成果は得られなかった。ポンプ事業でも同業者が増え、値下げ競争が激化。震災後の社会の動揺と金融恐慌に端を発する全国的な不況が及び、1934年には従業員43名のうち9名を解雇した。幹部社員が協議して役員に陳情した結果、1935年10月に役員の交替が決まった。
- ホーチキの70年(1988)「5.苦難に逢着」
- [33]1927年展示会7回・延べ960人、1925〜1933年PR紙「火報」月30円、1930年報知機劇。1932年から満州・新製品も成果出ず、不況で1934年に43名中9名解雇、幹部社員の陳情で1935年10月役員交替
- [34]1927年展示会7回・延べ960人、1925〜1933年PR紙「火報」月30円、1930年報知機劇。1932年から満州・新製品も成果出ず、不況で1934年に43名中9名解雇、幹部社員の陳情で1935年10月役員交替
- [35]1927年展示会7回・延べ960人、1925〜1933年PR紙「火報」月30円、1930年報知機劇。1932年から満州・新製品も成果出ず、不況で1934年に43名中9名解雇、幹部社員の陳情で1935年10月役員交替
- [37]1927年展示会7回・延べ960人、1925〜1933年PR紙「火報」月30円、1930年報知機劇。1932年から満州・新製品も成果出ず、不況で1934年に43名中9名解雇、幹部社員の陳情で1935年10月役員交替
- [38]1927年展示会7回・延べ960人、1925〜1933年PR紙「火報」月30円、1930年報知機劇。1932年から満州・新製品も成果出ず、不況で1934年に43名中9名解雇、幹部社員の陳情で1935年10月役員交替
- ホーチキの70年(1988)「4.消防ポンプの販売」
- [36]ポンプの需要は拡大したが同業者も増え価格競争が激化
参考文献[21]-[38]
- ホーチキの70年(1988)「1.MM式火災報知機の進展と関東大震災後の復旧」
- [21]1923年9月1日震災で社屋・工場焼失、青山に仮工場。街路報知機339基と線路全部焼失、損害22万8,755円。1924年12月東京市にMM式504基・中央受信機1台・分局受信機12台
- [22]1923年9月1日震災で社屋・工場焼失、青山に仮工場。街路報知機339基と線路全部焼失、損害22万8,755円。1924年12月東京市にMM式504基・中央受信機1台・分局受信機12台
- [23]1923年9月1日震災で社屋・工場焼失、青山に仮工場。街路報知機339基と線路全部焼失、損害22万8,755円。1924年12月東京市にMM式504基・中央受信機1台・分局受信機12台
- [24]1923年9月1日震災で社屋・工場焼失、青山に仮工場。街路報知機339基と線路全部焼失、損害22万8,755円。1924年12月東京市にMM式504基・中央受信機1台・分局受信機12台
- [26]1924年1月函館市110基、1928年10月京都市・若松市などでMM式を設置。京都市は線路保守が有利としてMM式を選択
- [29]1924年1月函館市110基、1928年10月京都市・若松市などでMM式を設置。京都市は線路保守が有利としてMM式を選択
- ホーチキの70年(1988)「3.日本最初のMM式火災報知機」
- [25]東京海上火災保険百年史:関東大震災で大きな損害を蒙り業績は不振に終始
- ホーチキの70年(1988)「2.ライバル会社の出現」
- [27]1925年 大阪府技師松本修二の松本式(P型)が特許、赤尾保商店が製造販売。大阪市が採用、名古屋・小樽・福岡も松本式。電線数が多く保守費が大
- [28]1925年 大阪府技師松本修二の松本式(P型)が特許、赤尾保商店が製造販売。大阪市が採用、名古屋・小樽・福岡も松本式。電線数が多く保守費が大
- [30]1925年 大阪府技師松本修二の松本式(P型)が特許、赤尾保商店が製造販売。大阪市が採用、名古屋・小樽・福岡も松本式。電線数が多く保守費が大
- ホーチキの70年(1988)「4.消防ポンプの販売」
- [31]1923〜1935年にガソリンポンプ399台・ポンプ自動車111台を販売、ポンプの利益が報知機部門の欠損を補う
- [36]ポンプの需要は拡大したが同業者も増え価格競争が激化
- ホーチキの70年(1988)「3.大阪出張所の開設」
- [32]1934年12月 大阪船場警察署管内の銀行・商店から非常報知機48基を完成、その保守と営業のため大阪出張所を開設
- ホーチキの70年(1988)「5.苦難に逢着」
- [33]1927年展示会7回・延べ960人、1925〜1933年PR紙「火報」月30円、1930年報知機劇。1932年から満州・新製品も成果出ず、不況で1934年に43名中9名解雇、幹部社員の陳情で1935年10月役員交替
- [34]1927年展示会7回・延べ960人、1925〜1933年PR紙「火報」月30円、1930年報知機劇。1932年から満州・新製品も成果出ず、不況で1934年に43名中9名解雇、幹部社員の陳情で1935年10月役員交替
- [35]1927年展示会7回・延べ960人、1925〜1933年PR紙「火報」月30円、1930年報知機劇。1932年から満州・新製品も成果出ず、不況で1934年に43名中9名解雇、幹部社員の陳情で1935年10月役員交替
- [37]1927年展示会7回・延べ960人、1925〜1933年PR紙「火報」月30円、1930年報知機劇。1932年から満州・新製品も成果出ず、不況で1934年に43名中9名解雇、幹部社員の陳情で1935年10月役員交替
- [38]1927年展示会7回・延べ960人、1925〜1933年PR紙「火報」月30円、1930年報知機劇。1932年から満州・新製品も成果出ず、不況で1934年に43名中9名解雇、幹部社員の陳情で1935年10月役員交替
1935年〜鈴木祥枝氏の再建と、清瀬二郎氏が進駐軍から受けた火災報知機の注文
1935年10月31日の株主総会で旧役員が全員退任し、保険各社の常務級が新たに取締役と監査役に選ばれた。会長に選ばれた山崎清氏は健康上の理由で同年12月24日に辞任し、東京海上火災常務の鈴木祥枝氏が後任の会長となった。支配人の三好盛晴氏も同日に辞任し、1936年2月には三菱信託にいた清瀬二郎氏が支配人に就任した。鈴木祥枝氏は、同窓の清瀬二郎氏を迎えて経営の一切を任せたと回顧している。清瀬二郎氏は着任翌月の重役会に、経理の整理、生産のコスト削減、輸入ポンプの国産化強化など6項目の方針を報告した。営業はMM式に偏った姿勢を改め、建物内に置くパラ式報知機の製造と販売に重点が移った。
- ホーチキの70年(1988)「1.会社の再建」
- [39]1935年10月31日株主総会で役員全員辞任、保険各社役員が就任。会長山崎清は12月24日辞任し鈴木祥枝が会長、支配人三好盛晴も辞任、1936年2月清瀬二郎が支配人
- [40]1935年10月31日株主総会で役員全員辞任、保険各社役員が就任。会長山崎清は12月24日辞任し鈴木祥枝が会長、支配人三好盛晴も辞任、1936年2月清瀬二郎が支配人
- [41]1935年10月31日株主総会で役員全員辞任、保険各社役員が就任。会長山崎清は12月24日辞任し鈴木祥枝が会長、支配人三好盛晴も辞任、1936年2月清瀬二郎が支配人
- ホーチキの70年(1988)「2.戦時体制下の混乱」
- [42]鈴木祥枝回顧:三菱信託にいた同学の清瀬二郎を支配人とし経営一切を任せた。清瀬は1936年3月の重役会に6項目の方針(経理整理・コストダウン・ポンプ国産化・MM式特許契約更改・パラ式重点・生産意欲)
- [43]鈴木祥枝回顧:三菱信託にいた同学の清瀬二郎を支配人とし経営一切を任せた。清瀬は1936年3月の重役会に6項目の方針(経理整理・コストダウン・ポンプ国産化・MM式特許契約更改・パラ式重点・生産意欲)
- [44]鈴木祥枝回顧:三菱信託にいた同学の清瀬二郎を支配人とし経営一切を任せた。清瀬は1936年3月の重役会に6項目の方針(経理整理・コストダウン・ポンプ国産化・MM式特許契約更改・パラ式重点・生産意欲)
1937年の日華事変で軍需が増えると、東京報知機は建物内に置く手動のパラ式報知機で、陸軍14件、海軍7件、関連先22件の受注を得た。1939年春、重役の間で会社を軍需生産に切り替える案が出て、1937年に取締役、1939年に常務取締役となった清瀬二郎氏だけが反対した。清瀬二郎氏は、保険会社が防災のために設けた会社が主義を捨てれば『会社の目的が全然変わる事になる』と述べ、提案は採られなかった。従業員は応召と徴用で1942年の78人から1944年の49人に減った。空襲では東京市内で保守していた発信機1,000余基と、消防署の受信機40台が焼けた。終戦時に残ったMM式報知機は、全国で京都市と函館市の分だけである。
- ホーチキの70年(1988)「2.戦時体制下の混乱」
- [45]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- [46]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- [48]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- [49]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- [50]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- [51]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- ホーチキの70年(1988)「4.終戦時の会社の資産状況」
- [47]清瀬二郎は1936年支配人、1937年取締役、1939年常務取締役、1946年初代取締役社長
清瀬二郎氏は1946年2月26日、会長制を続けてきた東京報知機で創立以来初の社長に就任した。自社資産の報知機設備の大部分を失ったため、清瀬二郎氏は残材で折りたたみ式の弁当箱と小型電熱器を作り、当座の収入を得た。1945年10月初旬には総司令部民間情報局のハリス中尉が来社し、進駐軍の接収建物への火災報知機の設置を求めた。清瀬二郎氏は消防署への通報網を26年手がけてきた国内唯一の会社だと説いた。東京報知機は接収建物全部の設置と完成後の保守を受注した。1948年3月に消防が警察から分離し、1949年4月には大阪市からMM式発信機303基を含む工事を2,110万円で請け負った。資金需要の増大に対し、1948年12月に資本金を500万円、1949年6月に1,500万円へ増資した。
- ホーチキの70年(1988)「4.終戦時の会社の資産状況」
- [52]1946年2月26日清瀬二郎が初代取締役社長。東京市の報知機設備の大部分焼失、弁当箱・小型電熱器で収入。1945年10月初旬GHQ民間情報局ハリス中尉が接収建物への設置を要請
- [53]1946年2月26日清瀬二郎が初代取締役社長。東京市の報知機設備の大部分焼失、弁当箱・小型電熱器で収入。1945年10月初旬GHQ民間情報局ハリス中尉が接収建物への設置を要請
- [54]1946年2月26日清瀬二郎が初代取締役社長。東京市の報知機設備の大部分焼失、弁当箱・小型電熱器で収入。1945年10月初旬GHQ民間情報局ハリス中尉が接収建物への設置を要請
- ホーチキの70年(1988)「2.MM式の躍進」
- [55]清瀬社長が唯一の会社と説明し接収建物全部の設置と保守を受注。1948年3月消防が警察から分離、1949年4月大阪市MM式発信機303基2,110万円受注、1950年4月東京都へMM式設備を寄付
- [56]清瀬社長が唯一の会社と説明し接収建物全部の設置と保守を受注。1948年3月消防が警察から分離、1949年4月大阪市MM式発信機303基2,110万円受注、1950年4月東京都へMM式設備を寄付
- [57]清瀬社長が唯一の会社と説明し接収建物全部の設置と保守を受注。1948年3月消防が警察から分離、1949年4月大阪市MM式発信機303基2,110万円受注、1950年4月東京都へMM式設備を寄付
- ホーチキの70年(1988)「3.関西営業所の設立」
- [58]1948年11月長島弥一郎を会長に迎え、1948年12月資本金500万円、1949年6月1,500万円に増資
参考文献[39]-[58]
- ホーチキの70年(1988)「1.会社の再建」
- [39]1935年10月31日株主総会で役員全員辞任、保険各社役員が就任。会長山崎清は12月24日辞任し鈴木祥枝が会長、支配人三好盛晴も辞任、1936年2月清瀬二郎が支配人
- [40]1935年10月31日株主総会で役員全員辞任、保険各社役員が就任。会長山崎清は12月24日辞任し鈴木祥枝が会長、支配人三好盛晴も辞任、1936年2月清瀬二郎が支配人
- [41]1935年10月31日株主総会で役員全員辞任、保険各社役員が就任。会長山崎清は12月24日辞任し鈴木祥枝が会長、支配人三好盛晴も辞任、1936年2月清瀬二郎が支配人
- ホーチキの70年(1988)「2.戦時体制下の混乱」
- [42]鈴木祥枝回顧:三菱信託にいた同学の清瀬二郎を支配人とし経営一切を任せた。清瀬は1936年3月の重役会に6項目の方針(経理整理・コストダウン・ポンプ国産化・MM式特許契約更改・パラ式重点・生産意欲)
- [43]鈴木祥枝回顧:三菱信託にいた同学の清瀬二郎を支配人とし経営一切を任せた。清瀬は1936年3月の重役会に6項目の方針(経理整理・コストダウン・ポンプ国産化・MM式特許契約更改・パラ式重点・生産意欲)
- [44]鈴木祥枝回顧:三菱信託にいた同学の清瀬二郎を支配人とし経営一切を任せた。清瀬は1936年3月の重役会に6項目の方針(経理整理・コストダウン・ポンプ国産化・MM式特許契約更改・パラ式重点・生産意欲)
- [45]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- [46]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- [48]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- [49]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- [50]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- [51]1937年以降パラ式手動報知機を陸軍14件・海軍7件・関連22件受注。1939年春の軍需工場転換案に清瀬常務が独り反対し不採用。従業員1942年78人→1944年49人、空襲で東京のMM式発信機1,000余基・受信機40台焼失、京都・函館以外のMM式全焼
- ホーチキの70年(1988)「4.終戦時の会社の資産状況」
- [47]清瀬二郎は1936年支配人、1937年取締役、1939年常務取締役、1946年初代取締役社長
- [52]1946年2月26日清瀬二郎が初代取締役社長。東京市の報知機設備の大部分焼失、弁当箱・小型電熱器で収入。1945年10月初旬GHQ民間情報局ハリス中尉が接収建物への設置を要請
- [53]1946年2月26日清瀬二郎が初代取締役社長。東京市の報知機設備の大部分焼失、弁当箱・小型電熱器で収入。1945年10月初旬GHQ民間情報局ハリス中尉が接収建物への設置を要請
- [54]1946年2月26日清瀬二郎が初代取締役社長。東京市の報知機設備の大部分焼失、弁当箱・小型電熱器で収入。1945年10月初旬GHQ民間情報局ハリス中尉が接収建物への設置を要請
- ホーチキの70年(1988)「2.MM式の躍進」
- [55]清瀬社長が唯一の会社と説明し接収建物全部の設置と保守を受注。1948年3月消防が警察から分離、1949年4月大阪市MM式発信機303基2,110万円受注、1950年4月東京都へMM式設備を寄付
- [56]清瀬社長が唯一の会社と説明し接収建物全部の設置と保守を受注。1948年3月消防が警察から分離、1949年4月大阪市MM式発信機303基2,110万円受注、1950年4月東京都へMM式設備を寄付
- [57]清瀬社長が唯一の会社と説明し接収建物全部の設置と保守を受注。1948年3月消防が警察から分離、1949年4月大阪市MM式発信機303基2,110万円受注、1950年4月東京都へMM式設備を寄付
- ホーチキの70年(1988)「3.関西営業所の設立」
- [58]1948年11月長島弥一郎を会長に迎え、1948年12月資本金500万円、1949年6月1,500万円に増資
出典・参考
16件
- ホーチキ 有価証券報告書【沿革】
- ホーチキの70年(1988)「2.東京報知機の誕生」
- ホーチキの70年(1988)「1.創立前史」
- ホーチキの70年(1988)「3.日本最初のMM式火災報知機」
- ホーチキの70年(1988)「4本社事業場の移転」
- ホーチキの70年(1988)「5.ノーザン社と輸入販売契約」
- ホーチキの70年(1988)「1.MM式火災報知機の進展と関東大震災後の復旧」
- ホーチキの70年(1988)「2.ライバル会社の出現」
- ホーチキの70年(1988)「4.消防ポンプの販売」
- ホーチキの70年(1988)「3.大阪出張所の開設」
- ホーチキの70年(1988)「5.苦難に逢着」
- ホーチキの70年(1988)「1.会社の再建」
- ホーチキの70年(1988)「2.戦時体制下の混乱」
- ホーチキの70年(1988)「4.終戦時の会社の資産状況」
- ホーチキの70年(1988)「2.MM式の躍進」
- ホーチキの70年(1988)「3.関西営業所の設立」