決断
1939年春、常務の清瀬二郎氏は軍需生産への転換案にただ1人反対し、防災の会社を守った。東京報知機は関東大震災で街路の報知機339基を焼失し、昭和初期の不況も重なって1934年には従業員の一部を解雇するまで追い込まれていた。1935年に保険各社の役員が経営を引き取り、1936年に支配人に迎えた清瀬二郎氏が経理の整理と建物内のパラ式報知機への重点の移し替えを進めた。空襲で東京の設備を失ったあとも、1945年10月に進駐軍から接収建物への火災報知機の設置を受注し、本業へ戻る足場とした。
1939年春、常務の清瀬二郎氏は軍需生産への転換案にただ1人反対し、防災の会社を守った。東京報知機は関東大震災で街路の報知機339基を焼失し、昭和初期の不況も重なって1934年には従業員の一部を解雇するまで追い込まれていた。1935年に保険各社の役員が経営を引き取り、1936年に支配人に迎えた清瀬二郎氏が経理の整理と建物内のパラ式報知機への重点の移し替えを進めた。空襲で東京の設備を失ったあとも、1945年10月に進駐軍から接収建物への火災報知機の設置を受注し、本業へ戻る足場とした。
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