第1章 年〜年

日本信号:三工場統合による日本信号の設立と東証上場

1928年〜月島・大森・千住の三工場を統合した資本金100万円の日本信号と、米国GRSとの技術援助契約

1928年12月、日本信号は資本金100万円で設立された。設立発起人の代表は青山禄郎氏で、製造品目は鉄道の信号保安装置と定めた。新会社の母体は、月島の三村製作所、大森の鉄道信号会社、南千住の塩田鉄工所という3社の工場。3工場の施設と業務は新会社がすべて継承し、それぞれ月島工場・大森工場・千住工場となった。設立の日付は1928年12月27日である。社章には社名の頭文字NとSを組み合わせた意匠を用い、創立時に一般社員から案を募って定めた。同じ信号保安装置を作る工場を1社にまとめたことで、鉄道の発注に対して窓口と生産計画を一本化する狙いがあったとみられる。

  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [1]1928年12月、青山禄郎が設立発起人代表となり、鉄道信号保安装置の製造を目的に月島・南千住・大森の3工場の施設業務を継承し資本金100万円で設立
    • [2]1928年12月、青山禄郎が設立発起人代表となり、鉄道信号保安装置の製造を目的に月島・南千住・大森の3工場の施設業務を継承し資本金100万円で設立
    • [4]1928年12月、青山禄郎が設立発起人代表となり、鉄道信号保安装置の製造を目的に月島・南千住・大森の3工場の施設業務を継承し資本金100万円で設立
  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」
    • [3]1928年12月、三村製作所(月島工場)・鉄道信号会社(大森工場)・塩田鉄工所(千住工場)の3社が合同して発足。社章はNとSの組み合わせで社員公募
    • [6]1928年12月、三村製作所(月島工場)・鉄道信号会社(大森工場)・塩田鉄工所(千住工場)の3社が合同して発足。社章はNとSの組み合わせで社員公募
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本信號」
    • [5]創立1928年12月27日、備考に1928年12月資本金100万円にて設立

設立から10か月後の1929年10月、日本信号は米国の信号メーカーと技術援助の契約を締結した。契約の相手はGeneral Railway Signal Co(GRS)で、目的は自社の技術の向上である。この契約は資本の提携も含んでおり、日本信号は1930年8月に資本金を110万円へ増額した。GRS社との関係は戦後も続き、1949年11月にはGRS社から第1回の外資導入として9,090株を受け入れた。米国の大手と資本でつながったことは、3工場の寄り合いで生まれた会社が設計の手本を得る近道だった可能性が高い。

  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」
    • [7]1929年10月、米国の信号メーカーGeneral Railway Signal Coと技術援助契約を結び技術の向上につとめた
    • [8]1929年10月、米国の信号メーカーGeneral Railway Signal Coと技術援助契約を結び技術の向上につとめた
  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [9]1929年10月ゼネラル・レールウェイ・シグナル社と資本および技術提携契約を締結し、1930年8月資本金を110万円に増額
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信號」
    • [10]沿革に1930年8月米国G.R.S社と資本提携のため110万円に増資、1949年11月G.R.S社より第一回外資導入(9,090株)
    • [11]沿革に1930年8月米国G.R.S社と資本提携のため110万円に増資、1949年11月G.R.S社より第一回外資導入(9,090株)

1932年、日本信号は経済界の不況を受けて、経営の合理化に踏み切った。同年4月には資本金を110万円から100万円へ減資し、資本金は設立時の額に戻った。同じ1932年には千住の工場を閉じ、設備を月島へ移して2工場の体制へ集約。翌1933年に情勢が好転すると事業は拡大に向かい、6月には石川工業所から照明機を作る工場の施設と業務を継承した。設立4年目で減資と工場の閉鎖を選んだのは、受注の波に合わせて固定費を切り詰める判断だったと推察される。

  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [12]経済界の不況に対処し企業の合理化を断行、1932年4月に100万円へ減資。1933年情勢好転、同年6月石川工業所の照明機製作工場の施設・業務を継承
    • [14]経済界の不況に対処し企業の合理化を断行、1932年4月に100万円へ減資。1933年情勢好転、同年6月石川工業所の照明機製作工場の施設・業務を継承
    • [16]経済界の不況に対処し企業の合理化を断行、1932年4月に100万円へ減資。1933年情勢好転、同年6月石川工業所の照明機製作工場の施設・業務を継承
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本信號」
    • [13]備考に1932年4月企業合理化のため10万円を減資
  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」
    • [15]1932年に千住工場を月島工場に移転閉鎖して工場を集約化し、社業の基礎を固めた
参考文献[1]-[16]
  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [1]1928年12月、青山禄郎が設立発起人代表となり、鉄道信号保安装置の製造を目的に月島・南千住・大森の3工場の施設業務を継承し資本金100万円で設立
    • [2]1928年12月、青山禄郎が設立発起人代表となり、鉄道信号保安装置の製造を目的に月島・南千住・大森の3工場の施設業務を継承し資本金100万円で設立
    • [4]1928年12月、青山禄郎が設立発起人代表となり、鉄道信号保安装置の製造を目的に月島・南千住・大森の3工場の施設業務を継承し資本金100万円で設立
    • [9]1929年10月ゼネラル・レールウェイ・シグナル社と資本および技術提携契約を締結し、1930年8月資本金を110万円に増額
    • [12]経済界の不況に対処し企業の合理化を断行、1932年4月に100万円へ減資。1933年情勢好転、同年6月石川工業所の照明機製作工場の施設・業務を継承
    • [14]経済界の不況に対処し企業の合理化を断行、1932年4月に100万円へ減資。1933年情勢好転、同年6月石川工業所の照明機製作工場の施設・業務を継承
    • [16]経済界の不況に対処し企業の合理化を断行、1932年4月に100万円へ減資。1933年情勢好転、同年6月石川工業所の照明機製作工場の施設・業務を継承
  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」
    • [3]1928年12月、三村製作所(月島工場)・鉄道信号会社(大森工場)・塩田鉄工所(千住工場)の3社が合同して発足。社章はNとSの組み合わせで社員公募
    • [6]1928年12月、三村製作所(月島工場)・鉄道信号会社(大森工場)・塩田鉄工所(千住工場)の3社が合同して発足。社章はNとSの組み合わせで社員公募
    • [7]1929年10月、米国の信号メーカーGeneral Railway Signal Coと技術援助契約を結び技術の向上につとめた
    • [8]1929年10月、米国の信号メーカーGeneral Railway Signal Coと技術援助契約を結び技術の向上につとめた
    • [15]1932年に千住工場を月島工場に移転閉鎖して工場を集約化し、社業の基礎を固めた
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本信號」
    • [5]創立1928年12月27日、備考に1928年12月資本金100万円にて設立
    • [13]備考に1932年4月企業合理化のため10万円を減資
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信號」
    • [10]沿革に1930年8月米国G.R.S社と資本提携のため110万円に増資、1949年11月G.R.S社より第一回外資導入(9,090株)
    • [11]沿革に1930年8月米国G.R.S社と資本提携のため110万円に増資、1949年11月G.R.S社より第一回外資導入(9,090株)

1935年〜大連・朝鮮へ渡った信号と、月島・大森を移して集約した与野工場

1935年8月、日本信号は大連工場を開設した。開設の理由は大陸方面の需要への対応である。当時の大陸では鉄道網が急速に広がり、日本信号は大連工場から現地の鉄道へ信号を納めた。太平洋戦争が進むと大陸の需要は年を追って増え、1942年7月には朝鮮工場も開設した。朝鮮工場の開設は大連工場の7年後で、大陸の拠点は2か所となった。戦前の日本信号の事業は、国内と大陸の2方向に分かれて発展した。国内の工場を集約した3年後に大陸へ拠点を出したのは、需要の伸びる市場の近くに生産を置く判断だったと思われる。

  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [17]1935年8月大陸の需要に応ずるため大連工場を開設。太平洋戦争の進展で大陸の需要が逐年増大し、1942年7月朝鮮工場を開設
    • [18]1935年8月大陸の需要に応ずるため大連工場を開設。太平洋戦争の進展で大陸の需要が逐年増大し、1942年7月朝鮮工場を開設
    • [20]1935年8月大陸の需要に応ずるため大連工場を開設。太平洋戦争の進展で大陸の需要が逐年増大し、1942年7月朝鮮工場を開設
    • [21]1935年8月大陸の需要に応ずるため大連工場を開設。太平洋戦争の進展で大陸の需要が逐年増大し、1942年7月朝鮮工場を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」
    • [19]戦前は国内と大陸の二方向に発展。1935年8月大連工場、1942年7月朝鮮工場を開設し、急速に発展した大陸の鉄道に信号を供給
    • [22]戦前は国内と大陸の二方向に発展。1935年8月大連工場、1942年7月朝鮮工場を開設し、急速に発展した大陸の鉄道に信号を供給

1937年10月、日本信号は埼玉県の与野に工場を開設し、月島工場の施設を移した。1938年6月には設備の充実を目的に、資本金を200万円へ増額。同年11月には大森で担っていた生産も与野へ移した。2度の移転を経て、与野工場は名実ともに日本信号の主力工場となった。東京の月島と大森に分かれていた生産は、これで与野の1か所に集約された。与野工場は戦後も埼玉県浦和市上木崎で生産を担い続けた。市街地の2工場を郊外の1か所へ寄せたことで、用地の制約を外して生産を拡張する余地を得たのだろう。

  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [23]1937年10月与野工場を開設し月島工場の施設を移転。1938年6月設備充実のため200万円に増資、同年11月大森工場の大半を与野工場に移転し主力工場となる
    • [24]1937年10月与野工場を開設し月島工場の施設を移転。1938年6月設備充実のため200万円に増資、同年11月大森工場の大半を与野工場に移転し主力工場となる
    • [26]1937年10月与野工場を開設し月島工場の施設を移転。1938年6月設備充実のため200万円に増資、同年11月大森工場の大半を与野工場に移転し主力工場となる
  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」
    • [25]1937年10月与野工場を開設して月島工場の生産部門を移し、1938年11月大森工場の生産部門も移して生産体制の集約化を実施
    • [27]1937年10月与野工場を開設して月島工場の生産部門を移し、1938年11月大森工場の生産部門も移して生産体制の集約化を実施
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本信號」
    • [28]1950年版の工場一覧に与野工場(埼玉県浦和市上木崎)

戦局が急変すると、日本信号は国内工場の疎開を始めた。1945年8月には山形県に宮内工場を開設し、軍需品と整流器の生産にあてた。大森工場に残っていた施設は戦災で焼け、終戦によって大連と朝鮮の2工場も閉鎖に追い込まれた。大陸の2拠点を失った日本信号は、再建の拠点を主力の与野工場に定めた。疎開先として開いた宮内工場も、1950年11月に廃止となった。1949年時点の工場一覧に並ぶのは、与野工場と山形県東置賜郡宮内町の宮内工場である。大陸と東京の拠点を戦争で失ったことで、戦後の生産は郊外の与野工場1か所から立て直すほかなかったとみてよい。

  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [29]戦局の急変で国内工場の疎開を開始し1945年8月宮内工場を開設。大森工場の残存施設は戦災で焼失、終戦で大連・朝鮮両工場は閉鎖。宮内工場は1950年11月廃止
    • [31]戦局の急変で国内工場の疎開を開始し1945年8月宮内工場を開設。大森工場の残存施設は戦災で焼失、終戦で大連・朝鮮両工場は閉鎖。宮内工場は1950年11月廃止
    • [33]戦局の急変で国内工場の疎開を開始し1945年8月宮内工場を開設。大森工場の残存施設は戦災で焼失、終戦で大連・朝鮮両工場は閉鎖。宮内工場は1950年11月廃止
  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」
    • [30]1945年に軍需品・整流器関係を生産する宮内工場(山形)を開設。戦後は大連・朝鮮の2工場を失い、主力の与野工場を中心に再建
    • [32]1945年に軍需品・整流器関係を生産する宮内工場(山形)を開設。戦後は大連・朝鮮の2工場を失い、主力の与野工場を中心に再建
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本信號」
    • [34]1950年版の工場一覧に与野工場(埼玉県浦和市上木崎)と宮内工場(山形県東置賜郡宮内町)
参考文献[17]-[34]
  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [17]1935年8月大陸の需要に応ずるため大連工場を開設。太平洋戦争の進展で大陸の需要が逐年増大し、1942年7月朝鮮工場を開設
    • [18]1935年8月大陸の需要に応ずるため大連工場を開設。太平洋戦争の進展で大陸の需要が逐年増大し、1942年7月朝鮮工場を開設
    • [20]1935年8月大陸の需要に応ずるため大連工場を開設。太平洋戦争の進展で大陸の需要が逐年増大し、1942年7月朝鮮工場を開設
    • [21]1935年8月大陸の需要に応ずるため大連工場を開設。太平洋戦争の進展で大陸の需要が逐年増大し、1942年7月朝鮮工場を開設
    • [23]1937年10月与野工場を開設し月島工場の施設を移転。1938年6月設備充実のため200万円に増資、同年11月大森工場の大半を与野工場に移転し主力工場となる
    • [24]1937年10月与野工場を開設し月島工場の施設を移転。1938年6月設備充実のため200万円に増資、同年11月大森工場の大半を与野工場に移転し主力工場となる
    • [26]1937年10月与野工場を開設し月島工場の施設を移転。1938年6月設備充実のため200万円に増資、同年11月大森工場の大半を与野工場に移転し主力工場となる
    • [29]戦局の急変で国内工場の疎開を開始し1945年8月宮内工場を開設。大森工場の残存施設は戦災で焼失、終戦で大連・朝鮮両工場は閉鎖。宮内工場は1950年11月廃止
    • [31]戦局の急変で国内工場の疎開を開始し1945年8月宮内工場を開設。大森工場の残存施設は戦災で焼失、終戦で大連・朝鮮両工場は閉鎖。宮内工場は1950年11月廃止
    • [33]戦局の急変で国内工場の疎開を開始し1945年8月宮内工場を開設。大森工場の残存施設は戦災で焼失、終戦で大連・朝鮮両工場は閉鎖。宮内工場は1950年11月廃止
  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」
    • [19]戦前は国内と大陸の二方向に発展。1935年8月大連工場、1942年7月朝鮮工場を開設し、急速に発展した大陸の鉄道に信号を供給
    • [22]戦前は国内と大陸の二方向に発展。1935年8月大連工場、1942年7月朝鮮工場を開設し、急速に発展した大陸の鉄道に信号を供給
    • [25]1937年10月与野工場を開設して月島工場の生産部門を移し、1938年11月大森工場の生産部門も移して生産体制の集約化を実施
    • [27]1937年10月与野工場を開設して月島工場の生産部門を移し、1938年11月大森工場の生産部門も移して生産体制の集約化を実施
    • [30]1945年に軍需品・整流器関係を生産する宮内工場(山形)を開設。戦後は大連・朝鮮の2工場を失い、主力の与野工場を中心に再建
    • [32]1945年に軍需品・整流器関係を生産する宮内工場(山形)を開設。戦後は大連・朝鮮の2工場を失い、主力の与野工場を中心に再建
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本信號」
    • [28]1950年版の工場一覧に与野工場(埼玉県浦和市上木崎)
    • [34]1950年版の工場一覧に与野工場(埼玉県浦和市上木崎)と宮内工場(山形県東置賜郡宮内町)

1946年〜特別経理会社から立て直した与野工場と、東証上場・大阪工場で開いた関西の販路

1946年8月、日本信号は特別経理会社の指定を受けた。1948年1月に新旧の勘定を併合し、同年4月には整備計画による旧債務の返済のため資本金を500万円へ増資した。特別経理会社の指定は同年5月に解除された。1949年5月、日本信号は東京証券取引所に株式を上場した。翌6月の資本金2,500万円への増資は、設備資金と運転資金の調達のためである。1949年時点の社長は小野末雄氏で、1960年時点でも小野末雄氏が社長を務めていた。旧債務の整理と設備の復旧を短い期間で進めるには、株式市場からの調達が欠かせなかったと考えられる。

  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [35]1946年8月特別経理会社に指定。1948年4月整備計画による旧債務返済のため500万円に増資。1949年6月設備資金・運転資金調達のため2,500万円に増資
    • [39]1946年8月特別経理会社に指定。1948年4月整備計画による旧債務返済のため500万円に増資。1949年6月設備資金・運転資金調達のため2,500万円に増資
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信號」
    • [36]沿革に1948年1月新旧勘定併合、同年4月500万円に増資。1960年版の社長も小野末雄
    • [41]沿革に1948年1月新旧勘定併合、同年4月500万円に増資。1960年版の社長も小野末雄
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本信號」
    • [37]1948年5月特経指定解除。上場市場は東京、株式分布は1949年5月16日現在、社長小野末雄
    • [40]1948年5月特経指定解除。上場市場は東京、株式分布は1949年5月16日現在、社長小野末雄
  • 日本信号 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1949年5月、東京証券取引所に上場

戦後の日本信号は、関東に偏っていた営業地盤を見直し、再建の第一歩を関西での販売強化に置いた。1947年に名古屋、1948年に大阪、1950年に九州へ、それぞれ支店や出張所を開設した。1949年時点では、名古屋に支店を、大阪市北区曾根崎新地に出張所を置いていた。1960年までに大阪出張所は大阪支店となり、大阪工場と同じ大阪市北区芝田町57に置かれた。1950年には関西方面の需要に応じるため、大阪工場を開設した。大阪工場は、電気信号の修理を主な業務とする工場である。販売の拠点と修理の拠点を同じ地域にそろえたことで、関西の鉄道各社への保守の対応を速める狙いがあったと推測される。

  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」
    • [42]戦後は関東に偏在していた営業地盤を改め関西での販売強化に注力。1947年名古屋、1948年大阪、1950年九州に支店・出張所を開設
    • [43]戦後は関東に偏在していた営業地盤を改め関西での販売強化に注力。1947年名古屋、1948年大阪、1950年九州に支店・出張所を開設
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本信號」
    • [44]支店・工場欄に名古屋支店、大阪出張所(大阪市北区曾根崎新地)
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信號」
    • [45]1960年版の事業所に大阪支店・大阪工場(ともに大阪市北区芝田町57)
  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [46]1950年9月関西方面の需要に応ずるため電気信号の修理を主体とする大阪工場を開設
    • [47]1950年9月関西方面の需要に応ずるため電気信号の修理を主体とする大阪工場を開設

1952年から1954年にかけ、日本信号は国鉄と私鉄各社の新設備に伴う受注で戦後最大の活況を迎えた。輸出でも朝鮮・台湾・タイなど東南アジアからの引き合いが増え、相当量を成約した。資本金は1952年11月に7,500万円、1956年11月に1億5,000万円、1957年11月に3億円へ増えた。1955年4月期に3億円だった売上高は、1960年4月期に697,623千円となった。製品は鉄道信号保安装置を中心に、自動制御装置・交通整理器・火災警報装置へ広がった。1960年4月30日時点の従業員は863名で、事業所は仙台から福岡まで置かれた。1961年8月の増資で、資本金は5億円となった。同年10月には大阪証券取引所にも株式を上場した。

  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [48]1952-54年に国鉄・私鉄各社の新設備に伴い戦後最大の活況。朝鮮・台湾・タイ等から引合が活発化し相当量を成約。1955年4月期売上3億円
    • [49]1952-54年に国鉄・私鉄各社の新設備に伴い戦後最大の活況。朝鮮・台湾・タイ等から引合が活発化し相当量を成約。1955年4月期売上3億円
    • [51]1952-54年に国鉄・私鉄各社の新設備に伴い戦後最大の活況。朝鮮・台湾・タイ等から引合が活発化し相当量を成約。1955年4月期売上3億円
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信號」
    • [50]1952年11月7,500万円、1956年11月1億5,000万円、1957年11月3億円に増資。1960年4月期売上高697,623千円、従業員863名。事業に鉄道信号保安装置・自動制御装置・交通整理器・火災警報装置ほか。出張所は名古屋・九州(福岡)・仙台
    • [52]1952年11月7,500万円、1956年11月1億5,000万円、1957年11月3億円に増資。1960年4月期売上高697,623千円、従業員863名。事業に鉄道信号保安装置・自動制御装置・交通整理器・火災警報装置ほか。出張所は名古屋・九州(福岡)・仙台
    • [53]1952年11月7,500万円、1956年11月1億5,000万円、1957年11月3億円に増資。1960年4月期売上高697,623千円、従業員863名。事業に鉄道信号保安装置・自動制御装置・交通整理器・火災警報装置ほか。出張所は名古屋・九州(福岡)・仙台
    • [54]1952年11月7,500万円、1956年11月1億5,000万円、1957年11月3億円に増資。1960年4月期売上高697,623千円、従業員863名。事業に鉄道信号保安装置・自動制御装置・交通整理器・火災警報装置ほか。出張所は名古屋・九州(福岡)・仙台
  • 株式会社年鑑 1963年版「日本信号」
    • [55]沿革に1961年8月資本金5億円(1:0.5)に増資。上場市場は東京第1部・大阪第1部
  • 日本信号 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1961年10月、大阪証券取引所に上場
参考文献[35]-[56]
  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
    • [35]1946年8月特別経理会社に指定。1948年4月整備計画による旧債務返済のため500万円に増資。1949年6月設備資金・運転資金調達のため2,500万円に増資
    • [39]1946年8月特別経理会社に指定。1948年4月整備計画による旧債務返済のため500万円に増資。1949年6月設備資金・運転資金調達のため2,500万円に増資
    • [46]1950年9月関西方面の需要に応ずるため電気信号の修理を主体とする大阪工場を開設
    • [47]1950年9月関西方面の需要に応ずるため電気信号の修理を主体とする大阪工場を開設
    • [48]1952-54年に国鉄・私鉄各社の新設備に伴い戦後最大の活況。朝鮮・台湾・タイ等から引合が活発化し相当量を成約。1955年4月期売上3億円
    • [49]1952-54年に国鉄・私鉄各社の新設備に伴い戦後最大の活況。朝鮮・台湾・タイ等から引合が活発化し相当量を成約。1955年4月期売上3億円
    • [51]1952-54年に国鉄・私鉄各社の新設備に伴い戦後最大の活況。朝鮮・台湾・タイ等から引合が活発化し相当量を成約。1955年4月期売上3億円
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信號」
    • [36]沿革に1948年1月新旧勘定併合、同年4月500万円に増資。1960年版の社長も小野末雄
    • [41]沿革に1948年1月新旧勘定併合、同年4月500万円に増資。1960年版の社長も小野末雄
    • [45]1960年版の事業所に大阪支店・大阪工場(ともに大阪市北区芝田町57)
    • [50]1952年11月7,500万円、1956年11月1億5,000万円、1957年11月3億円に増資。1960年4月期売上高697,623千円、従業員863名。事業に鉄道信号保安装置・自動制御装置・交通整理器・火災警報装置ほか。出張所は名古屋・九州(福岡)・仙台
    • [52]1952年11月7,500万円、1956年11月1億5,000万円、1957年11月3億円に増資。1960年4月期売上高697,623千円、従業員863名。事業に鉄道信号保安装置・自動制御装置・交通整理器・火災警報装置ほか。出張所は名古屋・九州(福岡)・仙台
    • [53]1952年11月7,500万円、1956年11月1億5,000万円、1957年11月3億円に増資。1960年4月期売上高697,623千円、従業員863名。事業に鉄道信号保安装置・自動制御装置・交通整理器・火災警報装置ほか。出張所は名古屋・九州(福岡)・仙台
    • [54]1952年11月7,500万円、1956年11月1億5,000万円、1957年11月3億円に増資。1960年4月期売上高697,623千円、従業員863名。事業に鉄道信号保安装置・自動制御装置・交通整理器・火災警報装置ほか。出張所は名古屋・九州(福岡)・仙台
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本信號」
    • [37]1948年5月特経指定解除。上場市場は東京、株式分布は1949年5月16日現在、社長小野末雄
    • [40]1948年5月特経指定解除。上場市場は東京、株式分布は1949年5月16日現在、社長小野末雄
    • [44]支店・工場欄に名古屋支店、大阪出張所(大阪市北区曾根崎新地)
  • 日本信号 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1949年5月、東京証券取引所に上場
    • [56]1961年10月、大阪証券取引所に上場
  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」
    • [42]戦後は関東に偏在していた営業地盤を改め関西での販売強化に注力。1947年名古屋、1948年大阪、1950年九州に支店・出張所を開設
    • [43]戦後は関東に偏在していた営業地盤を改め関西での販売強化に注力。1947年名古屋、1948年大阪、1950年九州に支店・出張所を開設
  • 株式会社年鑑 1963年版「日本信号」
    • [55]沿革に1961年8月資本金5億円(1:0.5)に増資。上場市場は東京第1部・大阪第1部

出典・参考

6件
出典・参考
  • 日本信号 有価証券報告書【沿革】
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本信號」
  • 会社銀行八十年史 1955年「日本信号」
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信號」
  • 株式会社年鑑 1963年版「日本信号」
  • 企業の歴史 : 明治百年 1968年「日本信号」

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