決断
鉄道の信号は、発注する鉄道会社から見れば1つの系統として動かなければ意味がない。1928年の設立で3つの工場を1社にまとめたのは、同じ信号保安装置を別々に作っていた生産を一つの窓口に寄せる判断だった。技術は翌年に米国GRSとの契約で補い、生産は1937年からの与野工場への移転で1か所に集めた。戦後に大陸の2工場を失っても再建の拠点を迷わずに済んだのは、この集約が先に済んでいたからである。1950年に関西の需要に応じて開いた大阪工場が電気信号の修理を担ったように、製造から保守までを1社で担う体制がここで固まった。