ニデック:米国経由の信用と精密小型モータによるHDD市場の独占
1973年〜国内で得られなかった信用の、米国市場からの調達
永守重信氏は、京都府向日市の農家に六人兄弟の末子として生まれ、中学二年のときに父を亡くした。兄三人が中学を出て就職するなか、学業成績を買われて京都市立洛陽高校電気科へ進み、仕送りを受けずに学べる職業訓練大学校の電気科三期生となった。卒業研究で指導を受けた見城尚志氏を通じて小型モータの領域に入り、1967年春に音響機器メーカーのティアックへ入社、1970年には京都の山科精器へ移って、あわせて六年ほど小型モータの研究開発と製造販売に携わった。山科精器では子会社の取締役事業部長として250人を率いたが、他人の会社では自分の裁量が通らないと見て、1973年7月、28歳で日本電産を設立した。当初は35歳での独立を構えており、七年の前倒しであった。
- 日経ビジネス 1989年3月27日号
- [1]永守重信氏は1944年8月に京都府向日市の農家の六人兄弟の末子として生まれ、中学二年で父を亡くし、京都市立洛陽高校電気科を経て職業訓練大学校へ進んだ。1973年に28歳で日本電産を設立した
- [2]永守重信氏は1944年8月に京都府向日市の農家の六人兄弟の末子として生まれ、中学二年で父を亡くし、京都市立洛陽高校電気科を経て職業訓練大学校へ進んだ。1973年に28歳で日本電産を設立した
- [6]永守重信氏は1944年8月に京都府向日市の農家の六人兄弟の末子として生まれ、中学二年で父を亡くし、京都市立洛陽高校電気科を経て職業訓練大学校へ進んだ。1973年に28歳で日本電産を設立した
- 職業能力開発ジャーナル 1991年「訓大こそ我が創業のルーツなり」
- [3]永守重信氏は職業訓練大学校電気科の三期生として1963年3月に上京し、仕送りを受けずに四年間を奨学金で学んだ。卒業研究での見城尚志氏との出会いが小型モータの世界に入る契機となり、1967年春にティアックへ入社した
- [4]永守重信氏は職業訓練大学校電気科の三期生として1963年3月に上京し、仕送りを受けずに四年間を奨学金で学んだ。卒業研究での見城尚志氏との出会いが小型モータの世界に入る契機となり、1967年春にティアックへ入社した
- 日経ビジネス 1998年7月20日号
- [5]永守重信氏はティアックに三年半、山科精器に三年在籍し、山科精器では27歳で取締役事業本部長として250人の電子事業部隊を率いた。1973年7月の独立は目標としていた35歳より七年早かった
- [7]永守重信氏はティアックに三年半、山科精器に三年在籍し、山科精器では27歳で取締役事業本部長として250人の電子事業部隊を率いた。1973年7月の独立は目標としていた35歳より七年早かった
- [8]永守重信氏はティアックに三年半、山科精器に三年在籍し、山科精器では27歳で取締役事業本部長として250人の電子事業部隊を率いた。1973年7月の独立は目標としていた35歳より七年早かった
創業メンバーは永守重信氏を含む四人で、全員が職業訓練大学校の出身だった。出発の場所は、京都市南西部の桂川沿いに建つ染物工場の一階である。前職の音響機器メーカーでの経験を元手に、高級テープデッキや業務用ビデオ、16ミリ映像機器向けの精密小型モータを作った。取引の実績を重く見る国内の完成品メーカーは、名もない新会社を信用できないとみて相手にしなかった。販路は米国へ向き、1974年には米国のスリーエムから5億円を受注し、1976年4月には米国日本電産を設立して現地へ拠点を置いた。性能と価格だけで採否が決まる市場を選んだことが、実績を持たない会社に最初の取引をもたらした。
- 職業能力開発ジャーナル 1991年「訓大こそ我が創業のルーツなり」
- [9]創業に加わった四人は永守重信氏を含め全員が職業訓練大学校の卒業生で、第六期機械科の遠藤氏、同電気科の田辺氏、第七期電気科の小部氏であった
- 日経ビジネス 1998年7月20日号
- [10]日本電産は1973年7月に京都市の桂川のほとりにあった染物工場の一階を借りて操業を始め、当初はテープレコーダー用の精密小型モータを手がけた
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻12号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1988年11月29日 講演要旨)
- [11]永守重信氏が創業以前に音響機器メーカーへ在職していた関係から、日本電産の出発点は高級テープデッキ、業務用ビデオ、16ミリおよび36ミリの高級映像機器向けのモータであった
- 東海総研マネジメント 1994年2月
- [12]日本電産は創業初期の売上の95%を輸出が占め、1974年に米国のスリーエムから5億円を受注した。国内の大手は信用がないとして取引に応じなかった
- [13]日本電産は創業初期の売上の95%を輸出が占め、1974年に米国のスリーエムから5億円を受注した。国内の大手は信用がないとして取引に応じなかった
- 有価証券報告書(沿革)
- [14]1976年4月に米国日本電産を設立した
1974年、日本電産はオムロン創業者の立石一真氏が主宰する京都エンタープライズ・デベロップメントから500万円の出資を受けた。米国での受注に続いて国内の資本からも評価を得たことが金融機関の融資を引き出し、調達した資金は1975年2月に稼働した京都府の亀岡工場へ集中して投じられた。同年4月には直流ブラシレスモータの生産が始まった。創業三か月後の第一次オイルショックと、続く第二次オイルショックを経て省エネルギーが社会的な要請となり、電気機器の開発は消費電力を減らす方向へ動いた。機械式の整流を電子式へ置き換えたブラシレスモータは、その要請に最も近いところにあった。
- 東海総研マネジメント 1994年2月
- [15]日本電産は1974年に京都エンタープライズ・デベロップメントから500万円の出資を受け、その事実が金融機関の融資を引き出した。調達資金は1975年2月に稼働した亀岡工場へ集中投入された
- [16]日本電産は1974年に京都エンタープライズ・デベロップメントから500万円の出資を受け、その事実が金融機関の融資を引き出した。調達資金は1975年2月に稼働した亀岡工場へ集中投入された
- 有価証券報告書(沿革)
- [17]1975年4月に直流ブラシレスモータの生産を開始した
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻12号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1988年11月29日 講演要旨)
- [18]創業時の第一次オイルショックと第二次オイルショックを経て省エネルギーが社会的要請となり、電気機器とモータを使う機器の開発は消費電力を減らす方向へ移った。日本電産が技術的に専門としたのはブラシレスモータであった
- [19]創業時の第一次オイルショックと第二次オイルショックを経て省エネルギーが社会的要請となり、電気機器とモータを使う機器の開発は消費電力を減らす方向へ移った。日本電産が技術的に専門としたのはブラシレスモータであった
参考文献[1]-[19]
- 日経ビジネス 1989年3月27日号
- [1]永守重信氏は1944年8月に京都府向日市の農家の六人兄弟の末子として生まれ、中学二年で父を亡くし、京都市立洛陽高校電気科を経て職業訓練大学校へ進んだ。1973年に28歳で日本電産を設立した
- [2]永守重信氏は1944年8月に京都府向日市の農家の六人兄弟の末子として生まれ、中学二年で父を亡くし、京都市立洛陽高校電気科を経て職業訓練大学校へ進んだ。1973年に28歳で日本電産を設立した
- [6]永守重信氏は1944年8月に京都府向日市の農家の六人兄弟の末子として生まれ、中学二年で父を亡くし、京都市立洛陽高校電気科を経て職業訓練大学校へ進んだ。1973年に28歳で日本電産を設立した
- 職業能力開発ジャーナル 1991年「訓大こそ我が創業のルーツなり」
- [3]永守重信氏は職業訓練大学校電気科の三期生として1963年3月に上京し、仕送りを受けずに四年間を奨学金で学んだ。卒業研究での見城尚志氏との出会いが小型モータの世界に入る契機となり、1967年春にティアックへ入社した
- [4]永守重信氏は職業訓練大学校電気科の三期生として1963年3月に上京し、仕送りを受けずに四年間を奨学金で学んだ。卒業研究での見城尚志氏との出会いが小型モータの世界に入る契機となり、1967年春にティアックへ入社した
- [9]創業に加わった四人は永守重信氏を含め全員が職業訓練大学校の卒業生で、第六期機械科の遠藤氏、同電気科の田辺氏、第七期電気科の小部氏であった
- 日経ビジネス 1998年7月20日号
- [5]永守重信氏はティアックに三年半、山科精器に三年在籍し、山科精器では27歳で取締役事業本部長として250人の電子事業部隊を率いた。1973年7月の独立は目標としていた35歳より七年早かった
- [7]永守重信氏はティアックに三年半、山科精器に三年在籍し、山科精器では27歳で取締役事業本部長として250人の電子事業部隊を率いた。1973年7月の独立は目標としていた35歳より七年早かった
- [8]永守重信氏はティアックに三年半、山科精器に三年在籍し、山科精器では27歳で取締役事業本部長として250人の電子事業部隊を率いた。1973年7月の独立は目標としていた35歳より七年早かった
- [10]日本電産は1973年7月に京都市の桂川のほとりにあった染物工場の一階を借りて操業を始め、当初はテープレコーダー用の精密小型モータを手がけた
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻12号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1988年11月29日 講演要旨)
- [11]永守重信氏が創業以前に音響機器メーカーへ在職していた関係から、日本電産の出発点は高級テープデッキ、業務用ビデオ、16ミリおよび36ミリの高級映像機器向けのモータであった
- [18]創業時の第一次オイルショックと第二次オイルショックを経て省エネルギーが社会的要請となり、電気機器とモータを使う機器の開発は消費電力を減らす方向へ移った。日本電産が技術的に専門としたのはブラシレスモータであった
- [19]創業時の第一次オイルショックと第二次オイルショックを経て省エネルギーが社会的要請となり、電気機器とモータを使う機器の開発は消費電力を減らす方向へ移った。日本電産が技術的に専門としたのはブラシレスモータであった
- 東海総研マネジメント 1994年2月
- [12]日本電産は創業初期の売上の95%を輸出が占め、1974年に米国のスリーエムから5億円を受注した。国内の大手は信用がないとして取引に応じなかった
- [13]日本電産は創業初期の売上の95%を輸出が占め、1974年に米国のスリーエムから5億円を受注した。国内の大手は信用がないとして取引に応じなかった
- [15]日本電産は1974年に京都エンタープライズ・デベロップメントから500万円の出資を受け、その事実が金融機関の融資を引き出した。調達資金は1975年2月に稼働した亀岡工場へ集中投入された
- [16]日本電産は1974年に京都エンタープライズ・デベロップメントから500万円の出資を受け、その事実が金融機関の融資を引き出した。調達資金は1975年2月に稼働した亀岡工場へ集中投入された
- 有価証券報告書(沿革)
- [14]1976年4月に米国日本電産を設立した
- [17]1975年4月に直流ブラシレスモータの生産を開始した
1979年〜ハードディスク装置向けスピンドルモータへの集中と、不況下の45億円
1979年10月、日本電産はハードディスク装置向けスピンドルモータの開発に着手した。磁気ディスク装置は当初の14インチからみるみる小型化し、軽く薄くする要求に応えられるのは、同社が専門としてきたブラシレスモータであった。この分野の製品は99%が受注生産で、カタログ販売は1%にすぎず、ほとんどが顧客との共同研究による別注品となった。顧客であるコンピュータ、航空機、医療機器の各メーカーは秘密の保持が厳しく、要求は一社ごとに異なる。コンピュータの寿命が十か月から18か月という開発競争のなかで新しいモータの要求が絶えず、常時150人から180人の技術者が開発研究に張り付いた。
- 有価証券報告書(沿革)
- [20]1979年10月にハードディスク装置向けスピンドルモータの開発に着手した
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻12号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1988年11月29日 講演要旨)
- [21]磁気ディスク装置は当初の14インチから小型化と薄型化が進み、日本電産の製品は99%が受注生産、カタログ販売は1%であった。顧客は航空機・医療機器・コンピュータの各メーカーで秘密主義が強く、要求が各社で異なるため常時150人から180人の技術者が開発研究に携わった。コンピュータの寿命は十か月から18か月とされた
- [22]磁気ディスク装置は当初の14インチから小型化と薄型化が進み、日本電産の製品は99%が受注生産、カタログ販売は1%であった。顧客は航空機・医療機器・コンピュータの各メーカーで秘密主義が強く、要求が各社で異なるため常時150人から180人の技術者が開発研究に携わった。コンピュータの寿命は十か月から18か月とされた
- [23]磁気ディスク装置は当初の14インチから小型化と薄型化が進み、日本電産の製品は99%が受注生産、カタログ販売は1%であった。顧客は航空機・医療機器・コンピュータの各メーカーで秘密主義が強く、要求が各社で異なるため常時150人から180人の技術者が開発研究に携わった。コンピュータの寿命は十か月から18か月とされた
- [24]磁気ディスク装置は当初の14インチから小型化と薄型化が進み、日本電産の製品は99%が受注生産、カタログ販売は1%であった。顧客は航空機・医療機器・コンピュータの各メーカーで秘密主義が強く、要求が各社で異なるため常時150人から180人の技術者が開発研究に携わった。コンピュータの寿命は十か月から18か月とされた
1984年から1985年にかけての不況は、この集中を試す局面になった。同じモータ業界で勧業電気が倒産し、第三次ベンチャーブームでもてはやされた新興企業も相次いで行き詰まるなか、西の勧業電気になるとの噂が日本電産にも立った。その逆風下で永守重信氏が決めたのは、当時の売上規模に並ぶ45億円を注ぎ込む滋賀第三工場の建設で、腰の引ける金融機関も多かったうえ、監査法人の代表社員の宮村久治氏からは、規模を広げながら単価も下げるのは危うすぎるとの忠告を受けた。永守重信氏は、自分の足で大手の需要家を訪ねて需要をつかんでいると返し、増産に踏み切った。のちにコンピュータ関連の需要が急伸するとこの増産が生き、シェアはさらに高まった。
- 日経ビジネス 1989年3月27日号
- [25]1984年から1985年の不況時、モータ分野では勧業電気が倒産し日本電産も「西の勧業電気か」と噂された。永守重信氏は逆風下で45億円を投じ第三工場(滋賀工場)の建設を断行し、中央新光監査法人代表社員の宮村久治氏の忠告に対し「ユーザーの大手企業を回っているから需要があるのはわかっている」と答えた。当時の売上規模に匹敵する投資であり、結果としてコンピュータ関連需要の急拡大に対応してシェアを高めた
- [26]1984年から1985年の不況時、モータ分野では勧業電気が倒産し日本電産も「西の勧業電気か」と噂された。永守重信氏は逆風下で45億円を投じ第三工場(滋賀工場)の建設を断行し、中央新光監査法人代表社員の宮村久治氏の忠告に対し「ユーザーの大手企業を回っているから需要があるのはわかっている」と答えた。当時の売上規模に匹敵する投資であり、結果としてコンピュータ関連需要の急拡大に対応してシェアを高めた
- [28]1984年から1985年の不況時、モータ分野では勧業電気が倒産し日本電産も「西の勧業電気か」と噂された。永守重信氏は逆風下で45億円を投じ第三工場(滋賀工場)の建設を断行し、中央新光監査法人代表社員の宮村久治氏の忠告に対し「ユーザーの大手企業を回っているから需要があるのはわかっている」と答えた。当時の売上規模に匹敵する投資であり、結果としてコンピュータ関連需要の急拡大に対応してシェアを高めた
- [29]1984年から1985年の不況時、モータ分野では勧業電気が倒産し日本電産も「西の勧業電気か」と噂された。永守重信氏は逆風下で45億円を投じ第三工場(滋賀工場)の建設を断行し、中央新光監査法人代表社員の宮村久治氏の忠告に対し「ユーザーの大手企業を回っているから需要があるのはわかっている」と答えた。当時の売上規模に匹敵する投資であり、結果としてコンピュータ関連需要の急拡大に対応してシェアを高めた
- [30]1984年から1985年の不況時、モータ分野では勧業電気が倒産し日本電産も「西の勧業電気か」と噂された。永守重信氏は逆風下で45億円を投じ第三工場(滋賀工場)の建設を断行し、中央新光監査法人代表社員の宮村久治氏の忠告に対し「ユーザーの大手企業を回っているから需要があるのはわかっている」と答えた。当時の売上規模に匹敵する投資であり、結果としてコンピュータ関連需要の急拡大に対応してシェアを高めた
- 有価証券報告書(沿革)
- [27]1985年に45億円を投じて滋賀第三工場を新設し、ハードディスク装置向けモータの増産に踏み切った
増産を担う人の集め方は、世の採用基準から外れていた。創業の翌年に各大学へ求人票を出しても応募はなく、窮余の策として1976年に始めた学卒定期採用では、大声試験、早飯試験、便所掃除、先着順、留年経験者に限るという選考が年ごとに置かれた。いずれも、動作の速さや人の気づかない箇所への心配りという、永守重信氏が前職で見た優秀な同僚の共通項を測るための課題であった。永守重信氏が社員評価の原点に据えたのは学歴でも年齢でも本来の能力でもなく、情熱・熱意・執念の三つの姿勢で、能力の個人差はせいぜい百倍だが、この三つの差は1万倍以上あると説いた。学歴も入社年次も問わない実力主義のもとで、入社十年の社員の年収には二倍の開きがついた。
- 日経ビジネス 1989年3月27日号
- [31]日本電産は創業翌年に各大学へ求人票を出したが応募者はなく、1976年から学卒定期採用を開始した。判定基準として大声テスト(1976・1977年)、早メシ(1978年)、便所掃除(1979年)、早い者順(1980年)、留年経験者に限る(1981年)を実施した。動作の速さや心配りを測る意図で、入社十年でピンとキリでは年収に二倍の差がついた
- [32]日本電産は創業翌年に各大学へ求人票を出したが応募者はなく、1976年から学卒定期採用を開始した。判定基準として大声テスト(1976・1977年)、早メシ(1978年)、便所掃除(1979年)、早い者順(1980年)、留年経験者に限る(1981年)を実施した。動作の速さや心配りを測る意図で、入社十年でピンとキリでは年収に二倍の差がついた
- [34]日本電産は創業翌年に各大学へ求人票を出したが応募者はなく、1976年から学卒定期採用を開始した。判定基準として大声テスト(1976・1977年)、早メシ(1978年)、便所掃除(1979年)、早い者順(1980年)、留年経験者に限る(1981年)を実施した。動作の速さや心配りを測る意図で、入社十年でピンとキリでは年収に二倍の差がついた
- 職業能力開発ジャーナル 1991年「訓大こそ我が創業のルーツなり」
- [33]永守重信氏は社員評価の基準を学歴・年齢・本来の能力ではなく「情熱」「熱意」「執念」の三つの姿勢に置いた。人が本来持つ能力の個人差はせいぜい百倍だが、この三つの個人差は1万倍以上あるとした
参考文献[20]-[34]
- 有価証券報告書(沿革)
- [20]1979年10月にハードディスク装置向けスピンドルモータの開発に着手した
- [27]1985年に45億円を投じて滋賀第三工場を新設し、ハードディスク装置向けモータの増産に踏み切った
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻12号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1988年11月29日 講演要旨)
- [21]磁気ディスク装置は当初の14インチから小型化と薄型化が進み、日本電産の製品は99%が受注生産、カタログ販売は1%であった。顧客は航空機・医療機器・コンピュータの各メーカーで秘密主義が強く、要求が各社で異なるため常時150人から180人の技術者が開発研究に携わった。コンピュータの寿命は十か月から18か月とされた
- [22]磁気ディスク装置は当初の14インチから小型化と薄型化が進み、日本電産の製品は99%が受注生産、カタログ販売は1%であった。顧客は航空機・医療機器・コンピュータの各メーカーで秘密主義が強く、要求が各社で異なるため常時150人から180人の技術者が開発研究に携わった。コンピュータの寿命は十か月から18か月とされた
- [23]磁気ディスク装置は当初の14インチから小型化と薄型化が進み、日本電産の製品は99%が受注生産、カタログ販売は1%であった。顧客は航空機・医療機器・コンピュータの各メーカーで秘密主義が強く、要求が各社で異なるため常時150人から180人の技術者が開発研究に携わった。コンピュータの寿命は十か月から18か月とされた
- [24]磁気ディスク装置は当初の14インチから小型化と薄型化が進み、日本電産の製品は99%が受注生産、カタログ販売は1%であった。顧客は航空機・医療機器・コンピュータの各メーカーで秘密主義が強く、要求が各社で異なるため常時150人から180人の技術者が開発研究に携わった。コンピュータの寿命は十か月から18か月とされた
- 日経ビジネス 1989年3月27日号
- [25]1984年から1985年の不況時、モータ分野では勧業電気が倒産し日本電産も「西の勧業電気か」と噂された。永守重信氏は逆風下で45億円を投じ第三工場(滋賀工場)の建設を断行し、中央新光監査法人代表社員の宮村久治氏の忠告に対し「ユーザーの大手企業を回っているから需要があるのはわかっている」と答えた。当時の売上規模に匹敵する投資であり、結果としてコンピュータ関連需要の急拡大に対応してシェアを高めた
- [26]1984年から1985年の不況時、モータ分野では勧業電気が倒産し日本電産も「西の勧業電気か」と噂された。永守重信氏は逆風下で45億円を投じ第三工場(滋賀工場)の建設を断行し、中央新光監査法人代表社員の宮村久治氏の忠告に対し「ユーザーの大手企業を回っているから需要があるのはわかっている」と答えた。当時の売上規模に匹敵する投資であり、結果としてコンピュータ関連需要の急拡大に対応してシェアを高めた
- [28]1984年から1985年の不況時、モータ分野では勧業電気が倒産し日本電産も「西の勧業電気か」と噂された。永守重信氏は逆風下で45億円を投じ第三工場(滋賀工場)の建設を断行し、中央新光監査法人代表社員の宮村久治氏の忠告に対し「ユーザーの大手企業を回っているから需要があるのはわかっている」と答えた。当時の売上規模に匹敵する投資であり、結果としてコンピュータ関連需要の急拡大に対応してシェアを高めた
- [29]1984年から1985年の不況時、モータ分野では勧業電気が倒産し日本電産も「西の勧業電気か」と噂された。永守重信氏は逆風下で45億円を投じ第三工場(滋賀工場)の建設を断行し、中央新光監査法人代表社員の宮村久治氏の忠告に対し「ユーザーの大手企業を回っているから需要があるのはわかっている」と答えた。当時の売上規模に匹敵する投資であり、結果としてコンピュータ関連需要の急拡大に対応してシェアを高めた
- [30]1984年から1985年の不況時、モータ分野では勧業電気が倒産し日本電産も「西の勧業電気か」と噂された。永守重信氏は逆風下で45億円を投じ第三工場(滋賀工場)の建設を断行し、中央新光監査法人代表社員の宮村久治氏の忠告に対し「ユーザーの大手企業を回っているから需要があるのはわかっている」と答えた。当時の売上規模に匹敵する投資であり、結果としてコンピュータ関連需要の急拡大に対応してシェアを高めた
- [31]日本電産は創業翌年に各大学へ求人票を出したが応募者はなく、1976年から学卒定期採用を開始した。判定基準として大声テスト(1976・1977年)、早メシ(1978年)、便所掃除(1979年)、早い者順(1980年)、留年経験者に限る(1981年)を実施した。動作の速さや心配りを測る意図で、入社十年でピンとキリでは年収に二倍の差がついた
- [32]日本電産は創業翌年に各大学へ求人票を出したが応募者はなく、1976年から学卒定期採用を開始した。判定基準として大声テスト(1976・1977年)、早メシ(1978年)、便所掃除(1979年)、早い者順(1980年)、留年経験者に限る(1981年)を実施した。動作の速さや心配りを測る意図で、入社十年でピンとキリでは年収に二倍の差がついた
- [34]日本電産は創業翌年に各大学へ求人票を出したが応募者はなく、1976年から学卒定期採用を開始した。判定基準として大声テスト(1976・1977年)、早メシ(1978年)、便所掃除(1979年)、早い者順(1980年)、留年経験者に限る(1981年)を実施した。動作の速さや心配りを測る意図で、入社十年でピンとキリでは年収に二倍の差がついた
- 職業能力開発ジャーナル 1991年「訓大こそ我が創業のルーツなり」
- [33]永守重信氏は社員評価の基準を学歴・年齢・本来の能力ではなく「情熱」「熱意」「執念」の三つの姿勢に置いた。人が本来持つ能力の個人差はせいぜい百倍だが、この三つの個人差は1万倍以上あるとした
1988年〜株式上場と、世界シェア7割が抱えた輸出偏重
1988年3月期の売上高は258億円、経常利益は26億円に達した。同年11月、日本電産は京都証券取引所と大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。創業から株式公開までの15年は、製造業としては異例の速さである。上場直前の資本金は約23億円で、永守重信氏は増資のたびに借り入れて自社株を買い、家族名義を含む持株比率は44.2%に達していた。家屋敷を抵当に入れて保った持分は、上場によって時価およそ250億円へ変わった。永守重信氏は、上場できなければすべてが無になると思い、鬼気迫る思いで漕ぎつけたと述べている。上場の翌月に開かれた講演では、国内の顧客の83%が東京にあることを挙げ、東京市場への株式公開を急ぎたいとも語っていた。
- 日経ビジネス 1989年3月27日号
- [35]日本電産の1988年3月期の業績は売上高258億円、経常利益26億円で、創業から株式公開までの15年は製造業として異例の速さであった。上場直前の資本金は約23億円、永守重信氏の持株比率は家族名義を含め44.2%で、上場により時価およそ250億円となった
- [37]日本電産の1988年3月期の業績は売上高258億円、経常利益26億円で、創業から株式公開までの15年は製造業として異例の速さであった。上場直前の資本金は約23億円、永守重信氏の持株比率は家族名義を含め44.2%で、上場により時価およそ250億円となった
- [38]日本電産の1988年3月期の業績は売上高258億円、経常利益26億円で、創業から株式公開までの15年は製造業として異例の速さであった。上場直前の資本金は約23億円、永守重信氏の持株比率は家族名義を含め44.2%で、上場により時価およそ250億円となった
- [39]日本電産の1988年3月期の業績は売上高258億円、経常利益26億円で、創業から株式公開までの15年は製造業として異例の速さであった。上場直前の資本金は約23億円、永守重信氏の持株比率は家族名義を含め44.2%で、上場により時価およそ250億円となった
- [40]日本電産の1988年3月期の業績は売上高258億円、経常利益26億円で、創業から株式公開までの15年は製造業として異例の速さであった。上場直前の資本金は約23億円、永守重信氏の持株比率は家族名義を含め44.2%で、上場により時価およそ250億円となった
- 証券 1998年50巻11号
- [36]日本電産は1973年7月23日に設立され、1988年11月に大阪証券取引所市場第二部および京都証券取引所へ上場した
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻12号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1988年11月29日 講演要旨)
- [41]永守重信氏は1988年11月29日の講演で、日本国内の顧客の83%が東京であるため早く東京地区に株式を公開したいと述べた
主力のハードディスク装置向けスピンドルモータは、1988年の時点で世界シェアの7割から7割五分を占めた。欧州にも米国にも東南アジアにも有力な競合はいなかった。電気、電子、機械、化学、超精密加工が組み合わさる領域では技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価を得るまでに時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が生まれ、契約期間は短く、そのつどの為替相場で価格が決まる取引の形も効いた。一ドル240円から120円へ円高が進んだ三、四年のあいだ、売上高も利益も過去最高の伸びを示した。研究開発費は第十五期で4億5,000万円と売上高の2%程度にとどまったが、これは研究開発本部の費用だけで、モータの販売見積りには1割五分ほどの開発費が含まれていた。
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻12号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1988年11月29日 講演要旨)
- [42]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [44]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [45]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [46]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [47]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [48]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- 日経ビジネス 1989年3月27日号
- [43]日本電産はコンピュータ関連のハードディスク装置用小型精密モータで世界シェアの70%を占めた
もっとも、この構造は弱さも抱えていた。輸出比率は6割から7割に達し、今後の円高の進展には懸念を持たざるを得ないと永守重信氏自身が認めていた。売上がこの規模になれば大企業が参入してシェアを奪われるのではないかという見方も、取引銀行から寄せられていた。1992年3月期には連結売上高572億円に対して28億円の当期純損失を計上し、翌1993年3月期の純利益も2億円にとどまった。永守重信氏が創業二十周年に掲げた売上高1,000億円に対し、その1993年3月期の連結売上高は699億円であった。関連会社を含む従業員は2,000人前後に増え、親分子分の結束で回してきた組織は限界に近づいていた。単一の市場での独占は、その市場の変動をそのまま業績へ映す構造でもあった。
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻12号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1988年11月29日 講演要旨)
- [49]永守重信氏は日本電産のアキレス腱として、輸出比率が60%から70%と輸出主体であること、前期売上高258億円の規模となり大企業の参入でシェアを奪われるとの懸念を取引銀行などから持たれていることを挙げた
- [50]永守重信氏は日本電産のアキレス腱として、輸出比率が60%から70%と輸出主体であること、前期売上高258億円の規模となり大企業の参入でシェアを奪われるとの懸念を取引銀行などから持たれていることを挙げた
- [52]永守重信氏は1988年11月の講演で、創業二十周年に売上高1,000億円を目標とすると述べた
- 会社年鑑(連結財務)
- [51]日本電産の連結業績は1992年3月期が売上高572億円・当期純損失28億円、1993年3月期が売上高699億円・当期純利益2億円であった
- [53]日本電産の連結業績は1992年3月期が売上高572億円・当期純損失28億円、1993年3月期が売上高699億円・当期純利益2億円であった
- 日経ビジネス 1989年3月27日号
- [54]関連会社を含めた従業員が2,000人前後に達し、上場も果たした日本電産は、それまでの組織原理の限界に来ており、成長の持続と経営の安定には事業構造の本格的な多角化を必要としていた
参考文献[35]-[54]
- 日経ビジネス 1989年3月27日号
- [35]日本電産の1988年3月期の業績は売上高258億円、経常利益26億円で、創業から株式公開までの15年は製造業として異例の速さであった。上場直前の資本金は約23億円、永守重信氏の持株比率は家族名義を含め44.2%で、上場により時価およそ250億円となった
- [37]日本電産の1988年3月期の業績は売上高258億円、経常利益26億円で、創業から株式公開までの15年は製造業として異例の速さであった。上場直前の資本金は約23億円、永守重信氏の持株比率は家族名義を含め44.2%で、上場により時価およそ250億円となった
- [38]日本電産の1988年3月期の業績は売上高258億円、経常利益26億円で、創業から株式公開までの15年は製造業として異例の速さであった。上場直前の資本金は約23億円、永守重信氏の持株比率は家族名義を含め44.2%で、上場により時価およそ250億円となった
- [39]日本電産の1988年3月期の業績は売上高258億円、経常利益26億円で、創業から株式公開までの15年は製造業として異例の速さであった。上場直前の資本金は約23億円、永守重信氏の持株比率は家族名義を含め44.2%で、上場により時価およそ250億円となった
- [40]日本電産の1988年3月期の業績は売上高258億円、経常利益26億円で、創業から株式公開までの15年は製造業として異例の速さであった。上場直前の資本金は約23億円、永守重信氏の持株比率は家族名義を含め44.2%で、上場により時価およそ250億円となった
- [43]日本電産はコンピュータ関連のハードディスク装置用小型精密モータで世界シェアの70%を占めた
- [54]関連会社を含めた従業員が2,000人前後に達し、上場も果たした日本電産は、それまでの組織原理の限界に来ており、成長の持続と経営の安定には事業構造の本格的な多角化を必要としていた
- 証券 1998年50巻11号
- [36]日本電産は1973年7月23日に設立され、1988年11月に大阪証券取引所市場第二部および京都証券取引所へ上場した
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻12号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1988年11月29日 講演要旨)
- [41]永守重信氏は1988年11月29日の講演で、日本国内の顧客の83%が東京であるため早く東京地区に株式を公開したいと述べた
- [42]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [44]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [45]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [46]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [47]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [48]日本電産はハードディスクドライブ用スピンドルモータで約70%から75%の世界シェアを占め、欧州・米国・東南アジアに強力な競争相手がいなかった。超精密機械は電気・電子・機械・化学・超精密加工の複合体で技術が盗まれにくく、新規参入者は品質の評価に時間を要して業界の回転に間に合わない。月に約五十機種が出て契約期間が短く、毎月その時の為替レートで契約するため円高の影響を受けにくく、240円から120円への円高の過程で売上も利益も過去最高の伸びを示した。第十五期の研究開発費は4億5,000万円で売上高比約2%だが、これは研究開発本部の費用のみで、モータの販売見積りには約15%の研究開発費が含まれる
- [49]永守重信氏は日本電産のアキレス腱として、輸出比率が60%から70%と輸出主体であること、前期売上高258億円の規模となり大企業の参入でシェアを奪われるとの懸念を取引銀行などから持たれていることを挙げた
- [50]永守重信氏は日本電産のアキレス腱として、輸出比率が60%から70%と輸出主体であること、前期売上高258億円の規模となり大企業の参入でシェアを奪われるとの懸念を取引銀行などから持たれていることを挙げた
- [52]永守重信氏は1988年11月の講演で、創業二十周年に売上高1,000億円を目標とすると述べた
- 会社年鑑(連結財務)
- [51]日本電産の連結業績は1992年3月期が売上高572億円・当期純損失28億円、1993年3月期が売上高699億円・当期純利益2億円であった
- [53]日本電産の連結業績は1992年3月期が売上高572億円・当期純損失28億円、1993年3月期が売上高699億円・当期純利益2億円であった
筆者考察
1985年の45億円は、賭けではなく引き合いの集計であった。同業の勧業電気が倒産し、金融機関の多くが慎重になるなかで、永守重信氏は当時の売上に匹敵する額を滋賀第三工場へ投じている。ハードディスク装置向けスピンドルモータは受注生産が99%を占め、顧客ごとの別注品で成り立つ。誰が何をいつ必要とするかは商談の段階で見えており、増産の根拠は需要予測ではなく顧客との個別の取り決めにあった。世界シェア7割はその確度の高さの帰結である。ただし同じ構造は、顧客の需要が反転したときにそれを業績へそのまま通す経路にもなった。1992年3月期の当期純損失28億円は、その最初の表れである。
1973年〜1993年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1973年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 4 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 16 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 31 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 62 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | 120 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | 260 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | 454 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | 584 | +28.6% | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 572 | ▲2.1% | ▲28 | ▲4.9% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 699 | +22.2% | 2 | 0.3% | n/a |
出所:職業能力開発ジャーナル 33(7)、会社年鑑
出典・参考
8件
- 有価証券報告書(沿革)
- 会社年鑑(連結財務)
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻12号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1988年11月29日 講演要旨)
- 日経ビジネス 1989年3月27日号
- 職業能力開発ジャーナル 1991年「訓大こそ我が創業のルーツなり」
- 日経ビジネス 1998年7月20日号
- 証券 1998年50巻11号
- 東海総研マネジメント 1994年2月