ジェイテクト:光洋精工のステアリング開発と豊田工機のパワーステアリング生産
1961年〜ミシン・工作機械を移管した光洋機械工業と、1万分の1ミリに挑むベアリング
光洋精工は1961年8月、全額出資の光洋機械工業を設立し、ミシンと工作機械の製造部門をここへ移した。1958年に社長に就任した池田巌氏は本部制を敷き、電子機器も光洋電子という別会社に任せた。資本金は1957年の7億円から1959年の14億円へ増え、規模に見合う組織への組み替えが課題となっていた。一方で国分工場は1960年4月からステアリングの開発と試作に入っていた。池田巌社長は1962年の対談で、光洋機械はベアリング関係の工作機械を主に造り、米国の研磨機メーカーと組んで将来は輸出に回す構想だと語った。1963年5月には米国ユニバーサル・アメリカン社と、金属工作機と自動車修理機械の技術提携を結んだ。本体を軸受と自動車部品に絞り、周辺の事業は子会社ごとに伸ばす狙いだったとみられる。
- ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)「沿革」
- [1]1961年8月、全額出資で光洋機械工業を設立し、ミシン・工作機械部門を分離した
- [4]1960年4月、国分工場でステアリングの開発・試作を始めた
- 企業の現代史〔光洋精工〕「1/10000mmに挑むベアリング」(1962年)
- [2]1958年3月に池田巌が社長に就き、本部制を敷き、光洋機械工業と光洋電子を設立した
- [3]資本金は1957年に7億円、1959年に14億円となり、体質改善の時期にかかっていた
- [5]池田巌は対談で、光洋機械はベアリング関係の工作機械が主で、バンノルマン社との提携で将来は工作機械を輸出する構想と説明した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「光洋精工」
- [6]1963年5月、米国ユニバーサル・アメリカン社と金属工作機・自動車修理機械の技術提携を結んだ
光洋精工が1962年度の経営方針の筆頭に置いたのは『輸出第一主義』であった。当時、日本のベアリング輸出比率は全体で10%を下回ったが、光洋精工は生産の25%を輸出に回した。1963年3月期の輸出比率は28%に上がり、数量と金額の両方で業界の首位を占めた。輸出の裏づけは検査の厳しさで、国分工場は内輪の内径を1万分の1ミリの単位で測ってから出荷した。1962年4月には国分工場の中に中央研究所を置き、材料と加工の試験を集めた。あわせて総額33億円の計画で、国分・高松・徳島・東京の4工場の全工程の自動化を進めた。売上高と利益は1962年以降、ともに業界1位となった。検査の精度を国内の最高規格で示し、それを海外の顧客への信用に換える組み立てだったと思われる。
- 企業の現代史〔光洋精工〕「1/10000mmに挑むベアリング」(1962年)
- [7]1962年度の経営方針の第1項は輸出第一主義だった
- [8]日本全体のベアリング輸出は10%以下だが、光洋精工は25%を輸出していた
- [10]研磨した内輪の内径をエア・マイクロメーターで1/10000mmの精度で測っていた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「光洋精工」
- [9]1963年3月期の輸出比率は28%で、数量・金額とも業界第1位
- [11]1962年4月、国分工場内に中央研究所を設置した
- [12]国分・高松・徳島・東京の各工場で全工程の自動化を進める設備投資計画、総予算33億円
- [13]1962年以降、売上高・利益とも業界第1位
トヨタ自動車工業の工作機械部門から分かれた豊田工機は、1960年代前半に工作機械と自動車部品をおよそ6対4の比率で造っていた。社長は、豊田紡織から移って1957年5月に就任した木村柳太郎氏であった。1962年3月末の役員欄でも、木村柳太郎氏は社長の座にあった。工作機械の約3割はトヨタ自工向けで、自動車部品はクラウンやコロナのシャフト類が主力であった。専用機に偏った品ぞろえを広げるため、1961年7月に仏ソムア社からZ形フライス盤の技術を導入した。1963年度には工作機械設備に2億5000万円、自動車部品設備に1億円を投じる計画を組んだ。APA用のトラック部品は受注が減る傾向にあり、代わりに新しい自動車部品を事業化する方針も示していた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「豊田工機」
- [14]トヨタ自工の工機部が分離独立した工作機械会社で、工作機械と自動車部品の生産比率は大体6対4
- [17]工作機械の約3割がトヨタ自工向け。自動車部品はクラウン・コロナのインナーシャフトなど
- [18]当初は専用機中心。1961年7月、仏ソムア社とZ形フライス盤の技術援助契約を結び汎用機を広げた
- [19]1963年度の設備投資計画は工作機械2億5000万円、自動車部品1億円、計3億5000万円
- [20]APA用トラック部品は受注減少の傾向にあり、新規自動車部品を近く企業化する方針
- 日本企業要覧 1968年版「豊田工機」
- [15]木村柳太郎は1924年に豊田紡織に入社、1957年5月に取締役社長に就任
- 株式会社年鑑 1963年版「豊田工機」
- [16]1962年3月31日現在の社長は木村柳太郎
参考文献[1]-[20]
- ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)「沿革」
- [1]1961年8月、全額出資で光洋機械工業を設立し、ミシン・工作機械部門を分離した
- [4]1960年4月、国分工場でステアリングの開発・試作を始めた
- 企業の現代史〔光洋精工〕「1/10000mmに挑むベアリング」(1962年)
- [2]1958年3月に池田巌が社長に就き、本部制を敷き、光洋機械工業と光洋電子を設立した
- [3]資本金は1957年に7億円、1959年に14億円となり、体質改善の時期にかかっていた
- [5]池田巌は対談で、光洋機械はベアリング関係の工作機械が主で、バンノルマン社との提携で将来は工作機械を輸出する構想と説明した
- [7]1962年度の経営方針の第1項は輸出第一主義だった
- [8]日本全体のベアリング輸出は10%以下だが、光洋精工は25%を輸出していた
- [10]研磨した内輪の内径をエア・マイクロメーターで1/10000mmの精度で測っていた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「光洋精工」
- [6]1963年5月、米国ユニバーサル・アメリカン社と金属工作機・自動車修理機械の技術提携を結んだ
- [9]1963年3月期の輸出比率は28%で、数量・金額とも業界第1位
- [11]1962年4月、国分工場内に中央研究所を設置した
- [12]国分・高松・徳島・東京の各工場で全工程の自動化を進める設備投資計画、総予算33億円
- [13]1962年以降、売上高・利益とも業界第1位
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「豊田工機」
- [14]トヨタ自工の工機部が分離独立した工作機械会社で、工作機械と自動車部品の生産比率は大体6対4
- [17]工作機械の約3割がトヨタ自工向け。自動車部品はクラウン・コロナのインナーシャフトなど
- [18]当初は専用機中心。1961年7月、仏ソムア社とZ形フライス盤の技術援助契約を結び汎用機を広げた
- [19]1963年度の設備投資計画は工作機械2億5000万円、自動車部品1億円、計3億5000万円
- [20]APA用トラック部品は受注減少の傾向にあり、新規自動車部品を近く企業化する方針
- 日本企業要覧 1968年版「豊田工機」
- [15]木村柳太郎は1924年に豊田紡織に入社、1957年5月に取締役社長に就任
- 株式会社年鑑 1963年版「豊田工機」
- [16]1962年3月31日現在の社長は木村柳太郎
1965年〜豊田工機が量産したパワーステアリングと、米国に建てたアメリカン光洋
ステアリングでは、光洋精工が1962年までにボールねじ式の手動ステアリングを市場に出していた。動力で操舵を助けるパワーステアリングに先に入ったのは豊田工機で、1968年9月に自動車用の開発に成功して生産を始めた。豊田工機は1964年時点で、新しい自動車部品を事業化する方針を掲げていた。1968年3月期の売上構成は工作機械56.8%、自動車部品31.6%で、全体の7割がトヨタ自工向けであった。半期の売上高は1967年3月期の4,162,549千円から、1968年3月期には6,836,651千円へ増えた。同じ年の企業史は、増産を続けるトヨタ系からの注文と自動車部品の組み合わせが業績を支えたと記す。トヨタ車の大型化で操舵を軽くする装置が求められ、取引の近さが量産の早さにつながったと推察される。
- 企業の現代史〔光洋精工〕「1/10000mmに挑むベアリング」(1962年)
- [21]ニードルローラーベアリング、ピローブロック、ボールネジ式ステアリングなども市場に送っている
- ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)「沿革」
- [22]1968年9月、豊田工機で自動車用パワーステアリングの開発に成功し生産を開始
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「豊田工機」
- [23]新規自動車部品を近く企業化する方針
- 日本企業要覧 1968年版「豊田工機」
- [24]事業内容は工作機械56.8%・自動車部品31.6%・その他11.6%、全体の7割がトヨタ自工向け
- [25]売上高は1967年3月期4,162,549千円、1968年3月期6,836,651千円(半期決算)
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「豊田工機」
- [26]増産を続けるトヨタ系からの発注と、売上の約3分の1を占める自動車部品の組み合わせで毎期安定した業績
光洋精工は1969年に『光洋精工50年史』を刊行し、1970年1月に創業50周年を迎えた。1969年時点の売上構成は、ころ軸受が48%、玉軸受が37%、その他が15%であった。前の3月期は自動車向けが最大の需要先で、建設機械・農機具・家電向けも伸び、10%の増収と14%の増益を得た。1969年9月払い込みの増資では、手取り28億3700万円の全額を羽村工場の新設と国分・徳島工場の合理化に充てた。羽村工場は同じ1969年に操業を始めた。軸受以外では、1967年7月にリンドバーグ事業部を米社との共同出資でヘビーデューティとして切り出した。ステアリング・工作機械・ミシンなどにも参入し、業界誌はベアリング大手4社の一角と位置づけた。本体の資金は軸受の設備に集め、周辺の事業は分社で持つ体制で節目を越えたと考えられる。
- 『光洋精工50年史』(光洋精工, 1969年)
- [27]『光洋精工50年史』は1969年刊。創業は1921年(大正10年)1月
- 日本企業要覧 1969年版「光洋精工」
- [28]事業内容は玉軸受37%・ころ軸受48%・その他15%
- [29]前3月期は自動車向けが依然トップ、建設機械・農機具・家庭電機も好調で10%増収・14%増益
- [30]9月末払い込みで6割強の増資。手取り28億3700万円は全額を羽村工場新設、国分・徳島工場の合理化などに充当
- [32]1967年7月、リンドバーグ事業部を米国ソラベイシック・インダストリーズ社との共同出資でヘビーデューティ(株)として分離独立
- 日本企業要覧 1974年版「光洋精工」
- [31]1969年に羽村工場が発足。1970年1月に創業50周年
- 銀行時評 13巻9号 1979年9月号「トヨタの軍門に下った光洋精工の“身の振り方”」
- [33]ベアリング大手4社の一角を占め、工作機械・熱処理炉・ミシン・ステアリング・ドライブシャフトなどに多角化
光洋精工は1973年11月、米国サウスカロライナ州に、現地販売会社AMERICAN KOYO CORP.との合弁で軸受の生産会社を設けた。1974年3月期の売上高は455億3000万円で、そのうち輸出が25%を占めた。この時点で米国・カナダ・西独・英国など14か国に現地法人を置き、代理店は22か国に及んだ。こうした販売網を通じた輸出の実績は、軸受業界で1位であった。1964年8月にはシドニーにオーストラリア光洋を設け、補修用の品ぞろえを厚くしてSKFやティムケンを使う顧客に食い込んでいた。1978年版の企業要覧は、現地生産の拠点を6つとし、GMから技術を導入したと記す。輸出で築いた販売網の上に生産を載せ、米国の自動車メーカーへの納入に備えたのだろう。
- ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)「沿革」
- [34]1973年11月、米国サウスカロライナ州に当社とAMERICAN KOYO CORP.との合弁でAMERICAN KOYO BEARING MANUFACTURING CORP.を設立
- 日本企業要覧 1974年版「光洋精工」
- [35]1974年3月期の売上は455億3000万円、全体の輸出比率は25%
- [36]アメリカ・カナダ・西独・イギリスなど14か国に現地法人、駐在員事務所4か国、代理店22か国
- [37]輸出実績は業界第1位
- 日経ビジネス 1976年1月19日
- [38]オーストラリア光洋は1964年8月シドニーに設立。補修市場に向け品ぞろえを広げ、SKF・ティムケンを信頼する顧客に挑んだ
- 日本企業要覧 1978年版「光洋精工」
- [39]現地生産拠点を6つとし、GMから技術導入をはかる
参考文献[21]-[39]
- 企業の現代史〔光洋精工〕「1/10000mmに挑むベアリング」(1962年)
- [21]ニードルローラーベアリング、ピローブロック、ボールネジ式ステアリングなども市場に送っている
- ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)「沿革」
- [22]1968年9月、豊田工機で自動車用パワーステアリングの開発に成功し生産を開始
- [34]1973年11月、米国サウスカロライナ州に当社とAMERICAN KOYO CORP.との合弁でAMERICAN KOYO BEARING MANUFACTURING CORP.を設立
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「豊田工機」
- [23]新規自動車部品を近く企業化する方針
- 日本企業要覧 1968年版「豊田工機」
- [24]事業内容は工作機械56.8%・自動車部品31.6%・その他11.6%、全体の7割がトヨタ自工向け
- [25]売上高は1967年3月期4,162,549千円、1968年3月期6,836,651千円(半期決算)
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「豊田工機」
- [26]増産を続けるトヨタ系からの発注と、売上の約3分の1を占める自動車部品の組み合わせで毎期安定した業績
- 『光洋精工50年史』(光洋精工, 1969年)
- [27]『光洋精工50年史』は1969年刊。創業は1921年(大正10年)1月
- 日本企業要覧 1969年版「光洋精工」
- [28]事業内容は玉軸受37%・ころ軸受48%・その他15%
- [29]前3月期は自動車向けが依然トップ、建設機械・農機具・家庭電機も好調で10%増収・14%増益
- [30]9月末払い込みで6割強の増資。手取り28億3700万円は全額を羽村工場新設、国分・徳島工場の合理化などに充当
- [32]1967年7月、リンドバーグ事業部を米国ソラベイシック・インダストリーズ社との共同出資でヘビーデューティ(株)として分離独立
- 日本企業要覧 1974年版「光洋精工」
- [31]1969年に羽村工場が発足。1970年1月に創業50周年
- [35]1974年3月期の売上は455億3000万円、全体の輸出比率は25%
- [36]アメリカ・カナダ・西独・イギリスなど14か国に現地法人、駐在員事務所4か国、代理店22か国
- [37]輸出実績は業界第1位
- 銀行時評 13巻9号 1979年9月号「トヨタの軍門に下った光洋精工の“身の振り方”」
- [33]ベアリング大手4社の一角を占め、工作機械・熱処理炉・ミシン・ステアリング・ドライブシャフトなどに多角化
- 日経ビジネス 1976年1月19日
- [38]オーストラリア光洋は1964年8月シドニーに設立。補修市場に向け品ぞろえを広げ、SKF・ティムケンを信頼する顧客に挑んだ
- 日本企業要覧 1978年版「光洋精工」
- [39]現地生産拠点を6つとし、GMから技術導入をはかる
1974年〜88億円に膨らんだ累積損失と、トヨタから来た再建役の井村栄三氏
光洋精工は1979年3月期に88億6900万円の損失を計上した。輸出の不振で売上高は前期比6.5%減の948億6800万円となり、円高と在庫調整の遅れが損益を押し下げた。前年の1978年3月期にも6億5000万円の損失を出していた。同業の東洋ベアリングは1976年3月期に経常赤字となると40%の減産に入り、1978年3月期から無配とした。光洋精工は1977年3月期まで経常黒字と配当を保ち、無配は1年遅れの1979年3月期となった。希望退職で約1,200人を減らし、東京工場を閉じて羽村工場へ集約したが、高松工場の扱いは保留された。悪化を伏せて手当てを遅らせた会社ほど傷を広げるとの論評もあり、光洋精工はその例に挙げられた。
- 日本企業要覧 1979年版「光洋精工」
- [40]1979年3月期に88億69百万円余の損失を計上
- [42]輸出不振で売上高948億68百万円余(前期比6.5%減)。円高の影響、在庫調整の遅れで損失
- 経済展望 51巻13号 1979年7月号
- [41]1979年3月期の最終赤字68億8200万円、累損88億6900万円
- 日本企業要覧 1978年版「光洋精工」
- [43]1978年3月期の売上高1,014億8,200万円、当期損失6億5,000万円
- 銀行時評 13巻9号 1979年9月号「トヨタの軍門に下った光洋精工の“身の振り方”」
- [44]東洋ベアリングは1976年3月期に経常赤字を計上すると40%の減産体制に入り、1978年3月期から無配
- [45]光洋精工は1977年3月期まで経常黒字を続け、1979年3月期に1年遅れて無配に転落
- [46]希望退職で1978年に1,200人近くを削減。東京工場を閉鎖・売却し羽村工場へ集約、高松工場は保留
- [47]業績の悪化をできるだけ公表せずやりくりして不況対策に遅れた会社は傷口を大きくすると評し、光洋精工もその例とした
1979年6月、池田巌社長は代表権のない会長に退き、東海理化電機製作所社長の井村栄三氏が光洋精工の社長に就任した。赤字の責任を取って全取締役がいったん辞任し、最大のユーザーで大株主のトヨタ自工に人の派遣を求めた。トヨタグループからは社長を含む5人の役員が入った。これに先立ち、住友銀行・住友信託銀行・協和銀行の3行から財務の実務者を受け入れていた。1979年3月末のトヨタ自工の持株比率は3.75%で、株主順位は4位であった。井村栄三氏は1909年生まれの70歳で、日本電装副社長のまま東海理化・ジェコー・東京焼結金属の再建に当たってきた。トヨタ自工社長の豊田英二氏が井村栄三氏を指名し、井村栄三氏は打診を一度断って代わりの候補を2〜3人挙げたという。
- 経済展望 51巻13号 1979年7月号
- [48]池田巌社長が代表権のない会長に退き、井村栄三・東海理化電機製作所社長が6月末の株主総会で後任社長に選任される運び
- [51]再建の第一歩として住友・住友信託・協和の3行から財務実務者を受け入れていた
- 銀行時評 13巻9号 1979年9月号「トヨタの軍門に下った光洋精工の“身の振り方”」
- [49]88億6900万円の赤字の責任を取り全取締役がいったん辞任し、最大のユーザーで大株主のトヨタ自工に人員派遣を要請
- [50]トヨタグループから社長以下5人の役員を受け入れた
- 日本企業要覧 1979年版「光洋精工」
- [52]1979年3月31日現在の大株主第4位はトヨタ自動車工業、9,594,200株・3.75%
- 日経ビジネス 1979年9月24日
- [53]井村栄三は1909年生まれ・70歳。日本電装副社長のまま1973年東海理化社長、ジェコー・東京焼結金属の再建にも当たった
- [54]トヨタ自工首脳の打診を一度断り代わりを2〜3人推薦したが、豊田英二社長が井村を選んだ
井村栄三社長の再建計画は、ニューライト80(NL80)計画と名づけられた。目標は、1980年の決算期のうちに期間損益の黒字を定着させることに置いた。骨子は、旧徳島工場跡地など100億円を超す資産を売り、150億円の有利子負債を返すことであった。1978年10月の転職援助制度による希望退職で人員の削減は済んでおり、人件費の減少も織り込んだ。井村栄三社長は再建の要諦を『和して闘う』と表し、社内の融和で意欲を引き出したうえで科学的で合理的な行動を求めるとした。トヨタのかんばん方式を持ち込み、解雇によらずに採算を確保できる見通しも伝えられた。一方で井村栄三社長は『トヨタのイメージを下げるような再建計画は打ち出せない』とも語り、実態を報告したうえで判断をトヨタに委ねる立場を示した。
- 経済展望 51巻13号 1979年7月号
- [55]経営再建策は「ニューライト(NL)80計画」と呼ばれる
- [56]1980年の決算期中に期間損益の黒字化を定着させることが目標
- [57]今期中に旧徳島工場跡地など100億円強の資産を売却し、150億円の有利子負債を返済する
- [58]1978年10月実施の転職援助制度による希望退職などで昨年度1,300人の削減を完了し、人件費が削減となる
- [60]かんばん方式の導入など科学的経営管理を徹底すれば、社員解雇をしなくとも軌道に乗る見通し
- 日経ビジネス 1979年9月24日
- [59]井村流再建術の極意は「和して闘う」。明るい雰囲気で従業員のやる気を出させ、そのうえで科学的な考え方と合理的な行動を求める
- [61]井村は、光洋精工の本当の姿をトヨタに報告し、トヨタに決断してもらうと語った
参考文献[40]-[61]
- 日本企業要覧 1979年版「光洋精工」
- [40]1979年3月期に88億69百万円余の損失を計上
- [42]輸出不振で売上高948億68百万円余(前期比6.5%減)。円高の影響、在庫調整の遅れで損失
- [52]1979年3月31日現在の大株主第4位はトヨタ自動車工業、9,594,200株・3.75%
- 経済展望 51巻13号 1979年7月号
- [41]1979年3月期の最終赤字68億8200万円、累損88億6900万円
- [48]池田巌社長が代表権のない会長に退き、井村栄三・東海理化電機製作所社長が6月末の株主総会で後任社長に選任される運び
- [51]再建の第一歩として住友・住友信託・協和の3行から財務実務者を受け入れていた
- [55]経営再建策は「ニューライト(NL)80計画」と呼ばれる
- [56]1980年の決算期中に期間損益の黒字化を定着させることが目標
- [57]今期中に旧徳島工場跡地など100億円強の資産を売却し、150億円の有利子負債を返済する
- [58]1978年10月実施の転職援助制度による希望退職などで昨年度1,300人の削減を完了し、人件費が削減となる
- [60]かんばん方式の導入など科学的経営管理を徹底すれば、社員解雇をしなくとも軌道に乗る見通し
- 日本企業要覧 1978年版「光洋精工」
- [43]1978年3月期の売上高1,014億8,200万円、当期損失6億5,000万円
- 銀行時評 13巻9号 1979年9月号「トヨタの軍門に下った光洋精工の“身の振り方”」
- [44]東洋ベアリングは1976年3月期に経常赤字を計上すると40%の減産体制に入り、1978年3月期から無配
- [45]光洋精工は1977年3月期まで経常黒字を続け、1979年3月期に1年遅れて無配に転落
- [46]希望退職で1978年に1,200人近くを削減。東京工場を閉鎖・売却し羽村工場へ集約、高松工場は保留
- [47]業績の悪化をできるだけ公表せずやりくりして不況対策に遅れた会社は傷口を大きくすると評し、光洋精工もその例とした
- [49]88億6900万円の赤字の責任を取り全取締役がいったん辞任し、最大のユーザーで大株主のトヨタ自工に人員派遣を要請
- [50]トヨタグループから社長以下5人の役員を受け入れた
- 日経ビジネス 1979年9月24日
- [53]井村栄三は1909年生まれ・70歳。日本電装副社長のまま1973年東海理化社長、ジェコー・東京焼結金属の再建にも当たった
- [54]トヨタ自工首脳の打診を一度断り代わりを2〜3人推薦したが、豊田英二社長が井村を選んだ
- [59]井村流再建術の極意は「和して闘う」。明るい雰囲気で従業員のやる気を出させ、そのうえで科学的な考え方と合理的な行動を求める
- [61]井村は、光洋精工の本当の姿をトヨタに報告し、トヨタに決断してもらうと語った
1961年〜1979年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1961年03月期 | 単体 | 109 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 148 | +35.8% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 157 | +6.1% | n/a | 15 | 10.1% | 国分工場内に中央研究所を設置(1962/04) |
| 1964年03月期 | 単体 | 176 | +12.1% | n/a | 13 | 7.8% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 213 | +21.0% | n/a | 11 | 5.4% | シドニーにオーストラリア光洋を設立(1964/08) |
| 1966年03月期 | 単体 | 223 | +4.7% | n/a | 9 | 4.4% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 255 | +14.3% | n/a | 8 | 3.4% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 343 | +34.5% | n/a | 13 | 3.9% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 426 | +24.2% | n/a | 19 | 4.6% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 519 | +21.8% | n/a | 24 | 4.7% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 637 | +22.7% | n/a | 30 | 4.8% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 656 | +3.0% | n/a | 20 | 3.2% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 667 | +1.7% | n/a | 19 | 2.9% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 850 | +27.4% | n/a | 26 | 3.1% | 米国サウスカロライナ州にAMERICAN KOYO BEARING MANUFACTURINGを合弁で設立(1973/11) |
| 1975年03月期 | 単体 | 1,115 | +31.2% | n/a | 26 | 2.4% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 989 | ▲11.3% | n/a | 10 | 1.0% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 1,033 | +4.4% | n/a | 9 | 0.9% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 1,014 | ▲1.8% | 2 | ▲6 | ▲0.6% | 豊田工機が米国イリノイ州にTOYODA MACHINERY USAを設立(1977/10) |
| 1979年03月期 | 単体 | 948 | ▲6.5% | n/a | ▲88 | ▲9.3% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
16件
- ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)「沿革」
- 『光洋精工50年史』(光洋精工, 1969年)
- 企業の現代史〔光洋精工〕「1/10000mmに挑むベアリング」(1962年)
- 株式会社年鑑 1963年版「豊田工機」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「豊田工機」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「光洋精工」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「豊田工機」
- 日経ビジネス 1976年1月19日
- 銀行時評 13巻9号 1979年9月号「トヨタの軍門に下った光洋精工の“身の振り方”」
- 経済展望 51巻13号 1979年7月号
- 日経ビジネス 1979年9月24日
- 日本企業要覧 1968年版「豊田工機」
- 日本企業要覧 1969年版「光洋精工」
- 日本企業要覧 1974年版「光洋精工」
- 日本企業要覧 1978年版「光洋精工」
- 日本企業要覧 1979年版「光洋精工」