第1章 年〜年

ジェイテクト:光洋精工社の創設とトヨタ自動車工業から独立した豊田工機

1921年〜猪飼野で量産を始めたボール・ベアリングと、資本金100万円の光洋精工株式会社

創業者の池田善一郎氏は、1921年1月に大阪市生野区猪飼野へ工場を建て、ボール・ベアリングの本格生産に入った。池田善一郎氏は1896年に香川県小豆島で生まれ、夜間の専門学校で設計を学んだのち、高松で農機具を商っていた。他社の製品を仲介するだけの商売に満足できず、ベアリングの需要が伸びると見て大阪へ戻ったという。1916年ころには南区東清水町の小工場に光洋精工社の看板を掲げ、試作と販売を始めていた。池田善一郎社長自身は1953年に、機械工業が育てば軸受の需要は必ず増えると見込み、輸入品を国産で置き換えたかったと創業の動機を振り返った。創業当初の事業はベアリングの修理で、当時の国内の軸受はほぼ輸入品に依存していた。

  • 『光洋精工50年史』(光洋精工, 1969年)
    • [1]1921年1月、池田善一郎(25歳)が生野区猪飼野に工場を建設しボール・ベアリングの本格生産を開始(創業期)
    • [2]池田善一郎は1896年2月香川県小豆島生まれ、専門学校夜間部で設計を学び、高松で農機具販売に従事
    • [3]製品販売に飽き足らずベアリングの将来性に着目し、再び上阪して研究開発に取り組んだ
    • [4]大正5年ころ南区東清水町に小工場を開き「光洋精工社」の看板で試作研究と販売を行った
  • 日本経済新報 6(14) 1953年5月 池田善一郎
    • [5]池田善一郎は大正10年の創設の動機を、機械工業発展に伴う軸受需要増大の必然と外国製品輸入の防止と述べた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「光洋精工」
    • [6]大正10年1月、当時珍しいベアリング修理工場として創業。当時ベアリングはほぼ外国製品に依存

光洋精工社は1923年にテーパー・ローラー・ベアリングの国産技術を国内で初めて完成させ、1927年には国産軸受の生産で首位に立った。当時、需要家がこの軸受で知る名は米国のティムケンだけで、角度の取り方などの理論も国内に紹介されていなかった。光洋精工社は米国ランジス社やバンノルマン社の研削盤を他社より先に輸入し、用途に合わせて改造してから使った。唐津製作所が試作したセンタレス・グラインダーから着想を得てころの研削方法を考え出し、円筒ころ軸受まで量産できるようにした。材料もレースところに使っていた浸炭鋼をやめ、輸入の軸受鋼へ切り替えた。1955年刊の会社史書は、光洋精工の代表製品に円錐ころ軸受を挙げている。輸入機に自ら手を入れて使う工夫の積み重ねが、後発の工場を国産首位へ押し上げたと思われる。

  • 『光洋精工50年史』(光洋精工, 1969年)
    • [7]大正12年に日本初のテーパー・ローラー・ベアリング国産技術を完成、昭和2年に国産軸受生産のトップ
    • [8]需要家はテーパー・ローラーといえばティムケンの名を知るのみで、角度・円錐頂点の理論的紹介も無かった
    • [9]軌道研削用に米ランジス社・バンノルマン社製の輸入機を他社に先駆け購入し、用途に応じ自社改造
    • [10]唐津製作所のセンタレス・グラインダーにヒントを得てテーパー・ローラー研削技術を考案、シリンドリカル・ローラーも大量生産
    • [11]レース材・ころ材を浸炭鋼から輸入軸受鋼に切り替え
  • 会社銀行八十年史(1955年)「光洋精工」
    • [12]代表的製品として円錐ころ軸受

池田善一郎氏は1935年1月18日、個人経営の光洋精工社を資本金100万円の光洋精工株式会社に改めた。改組の前から全国各地に代理店を置き、事業の中身は株式会社と見劣りしなかった。それでも官公庁へ納める際には、個人企業であることがたびたび取引の障りとなった。経済が戦時体制へ移り、軍需を中心に軸受の需要が広がる見通しも、会社の形を改める理由に加わった。テーパー・ローラー・ベアリングの製造では、政府の優遇と援助も受けていた。改組の翌年9月には資本金400万円の第二光洋精工を設け、のちに主力となる国分工場も建設した。1938年には第二光洋精工を合併し、資本金は500万円に増えた。

  • 『光洋精工50年史』(光洋精工, 1969年)
    • [13]昭和10年1月18日に登記、光洋精工社を光洋精工株式会社(資本金100万円)に改称
    • [14]昭和10年まで池田善一郎の個人経営。内容は株式会社として差支えなく、全国各地に代理店
    • [15]官公庁の需要にこたえるには個人企業であることがしばしば不都合を生じた
    • [16]戦時体制へ移行し軍需主体のベアリング需要拡大が見込まれ、株式会社への変更が必要と認められた
    • [17]テーパー・ローラー・ベアリングの製造に関して政府から優遇され援助を受けた
  • 株式会社年鑑 1953年版「光洋精工」
    • [18]昭和11年9月、資本金400万円の第二光洋精工を設立
    • [20]昭和13年2月、第二光洋精工と合併し資本金500万円
  • 会社銀行八十年史(1955年)「光洋精工」
    • [19]昭和11年9月、現在の主力工場である国分工場を建設
参考文献[1]-[20]
  • 『光洋精工50年史』(光洋精工, 1969年)
    • [1]1921年1月、池田善一郎(25歳)が生野区猪飼野に工場を建設しボール・ベアリングの本格生産を開始(創業期)
    • [2]池田善一郎は1896年2月香川県小豆島生まれ、専門学校夜間部で設計を学び、高松で農機具販売に従事
    • [3]製品販売に飽き足らずベアリングの将来性に着目し、再び上阪して研究開発に取り組んだ
    • [4]大正5年ころ南区東清水町に小工場を開き「光洋精工社」の看板で試作研究と販売を行った
    • [7]大正12年に日本初のテーパー・ローラー・ベアリング国産技術を完成、昭和2年に国産軸受生産のトップ
    • [8]需要家はテーパー・ローラーといえばティムケンの名を知るのみで、角度・円錐頂点の理論的紹介も無かった
    • [9]軌道研削用に米ランジス社・バンノルマン社製の輸入機を他社に先駆け購入し、用途に応じ自社改造
    • [10]唐津製作所のセンタレス・グラインダーにヒントを得てテーパー・ローラー研削技術を考案、シリンドリカル・ローラーも大量生産
    • [11]レース材・ころ材を浸炭鋼から輸入軸受鋼に切り替え
    • [13]昭和10年1月18日に登記、光洋精工社を光洋精工株式会社(資本金100万円)に改称
    • [14]昭和10年まで池田善一郎の個人経営。内容は株式会社として差支えなく、全国各地に代理店
    • [15]官公庁の需要にこたえるには個人企業であることがしばしば不都合を生じた
    • [16]戦時体制へ移行し軍需主体のベアリング需要拡大が見込まれ、株式会社への変更が必要と認められた
    • [17]テーパー・ローラー・ベアリングの製造に関して政府から優遇され援助を受けた
  • 日本経済新報 6(14) 1953年5月 池田善一郎
    • [5]池田善一郎は大正10年の創設の動機を、機械工業発展に伴う軸受需要増大の必然と外国製品輸入の防止と述べた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「光洋精工」
    • [6]大正10年1月、当時珍しいベアリング修理工場として創業。当時ベアリングはほぼ外国製品に依存
    • [12]代表的製品として円錐ころ軸受
    • [19]昭和11年9月、現在の主力工場である国分工場を建設
  • 株式会社年鑑 1953年版「光洋精工」
    • [18]昭和11年9月、資本金400万円の第二光洋精工を設立
    • [20]昭和13年2月、第二光洋精工と合併し資本金500万円

1936年〜トヨタ自動車工業の工機部から独立した豊田工機と、光洋精工の大阪・東京上場

豊田工機は1941年5月1日、トヨタ自動車工業の工機部を切り出した会社として、資本金800万円(払込400万円)で営業を始めた。豊田喜一郎氏は、自動車の量産に要る専用工作機械を外部に発注すれば入手が遅れるとみて、自社で造る体制を求めていた。豊田喜一郎氏は工機部の分離にあたり、『工作機械の会社は儲からん会社であるが、トヨタ自動車工業としてぜひとも必要である』と心に決めていたという。1938年3月には工作機械製造事業法が定められ、工作機械の国産化を促す特典が示された。ただし1936年5月公布の自動車製造事業法と一つの会社で両方の適用を受けることはできず、工機部の分離はこれを機に早まった。社長には豊田利三郎氏、副社長には豊田喜一郎氏、常務には菅隆俊氏が就任し、工場は刈谷町の57,252坪を坪2円83銭で買って建てた。設立後は大量生産向けの専用工作機械を手がけ、多刃旋盤と精密中ぐり盤を国産化した。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「豊田工機」
    • [21]昭和16年5月、トヨタ自動車工業の工機部を分離独立し資本金800万円(払込400万円)で設立
    • [28]工作機械製造事業法の適用を受け大量生産向け専用工作機械を製造、多刃旋盤・精密中ぐり盤の国産化に成功
  • 『豊田工機二十年』(豊田工機, 1961年)
    • [22]1941年4月28日創立総会、公称資本金800万円・半額払込、5月1日営業開始
    • [23]豊田喜一郎は、専用工作機械を他所に頼めば時間がかかるので自分の工場で造るほかなく、工機部を分離独立すべきと考えた
    • [24]喜一郎は工作機械会社は儲からないがトヨタ自動車工業にも国家的にも必要と決心していた
    • [25]昭和13年3月、国産工作機械育成のため工作機械製造事業法を制定し、製造に数多くの恩典を明示
    • [26]同法と昭和11年5月公布の自動車製造事業法は同一会社で同時適用不可で、工機部独立を早めた
    • [27]取締役社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎・常務菅隆俊。刈谷町の57,252坪を坪2円83銭で買収し工場建設

光洋精工は1949年5月に大阪と東京の証券取引所へ株式を上場し、同年7月には名古屋にも上場した。戦時中は合併と買収を重ね、1944年11月には資本金が3,125万円に達していた。敗戦で最大の顧客だった軍を失い、中川工場を閉じ、国分工場で軸受用の工作機械と測定工具を自給していた設備をミシンの生産に振り向けた。1946年8月には工場が賠償指定を受け、全工場の指定が解けたのは1952年4月だった。その間の1948年8月に企業再建整備計画の認可を受け、12月には資本金を1億円に増やして新旧勘定を併合した。再建整備で積み増した株式に売買の場を与え、次の増資で設備資金を調達しやすくすることが上場のねらいだったとみられる。

  • ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)沿革
    • [29]1949年5月大阪・東京証券取引所に上場、同年7月名古屋証券取引所に上場
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「光洋精工」
    • [30]相次ぐ合併・買収で昭和19年11月に資本金3,125万円
    • [32]昭和21年8月賠償工場の指定、27年4月に全工場の指定解除
  • 会社銀行八十年史(1955年)「光洋精工」
    • [31]終戦で最大需要先の軍を失い中川工場を閉鎖、国分工場で自給していた軸受用工作機械・測定工具の設備をミシン生産に転換
  • 株式会社年鑑 1951年版「光洋精工」
    • [33]昭和23年8月企業再建整備計画認可、同年12月資本金1億円に増資・新旧勘定併合
参考文献[21]-[33]
  • 会社銀行八十年史(1955年)「豊田工機」
    • [21]昭和16年5月、トヨタ自動車工業の工機部を分離独立し資本金800万円(払込400万円)で設立
    • [28]工作機械製造事業法の適用を受け大量生産向け専用工作機械を製造、多刃旋盤・精密中ぐり盤の国産化に成功
  • 『豊田工機二十年』(豊田工機, 1961年)
    • [22]1941年4月28日創立総会、公称資本金800万円・半額払込、5月1日営業開始
    • [23]豊田喜一郎は、専用工作機械を他所に頼めば時間がかかるので自分の工場で造るほかなく、工機部を分離独立すべきと考えた
    • [24]喜一郎は工作機械会社は儲からないがトヨタ自動車工業にも国家的にも必要と決心していた
    • [25]昭和13年3月、国産工作機械育成のため工作機械製造事業法を制定し、製造に数多くの恩典を明示
    • [26]同法と昭和11年5月公布の自動車製造事業法は同一会社で同時適用不可で、工機部独立を早めた
    • [27]取締役社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎・常務菅隆俊。刈谷町の57,252坪を坪2円83銭で買収し工場建設
  • ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)沿革
    • [29]1949年5月大阪・東京証券取引所に上場、同年7月名古屋証券取引所に上場
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「光洋精工」
    • [30]相次ぐ合併・買収で昭和19年11月に資本金3,125万円
    • [32]昭和21年8月賠償工場の指定、27年4月に全工場の指定解除
  • 会社銀行八十年史(1955年)「光洋精工」
    • [31]終戦で最大需要先の軍を失い中川工場を閉鎖、国分工場で自給していた軸受用工作機械・測定工具の設備をミシン生産に転換
  • 株式会社年鑑 1951年版「光洋精工」
    • [33]昭和23年8月企業再建整備計画認可、同年12月資本金1億円に増資・新旧勘定併合

1950年〜倍額増資で整えた国分工場と、池田巌氏が継いだ二代目の組織経営

光洋精工は賠償指定が全面的に解けた翌月の1952年5月に資本金を2億円とし、1953年8月には倍額増資で4億円に増やした。池田善一郎社長は1953年5月、輸出で外国製品と競うには品質と価格で上回る必要があるとして、高精度で高能率の機械設備を入れると書いた。1953年夏の国分工場は敷地61,600坪に3,000台近い機械を並べ、1,300名が働いていた。4億円への増資は設備合理化が理由とされ、電気熱処理場の新設や機械の配置替えを三次に分けて進めた。納入先にはトヨタ自動車・いすゞ自動車・日産自動車が並び、特需の比率は7%にとどまった。ミシン工場は光洋ミシンを月5,000台造り、70%を輸出に回した。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「光洋精工」
    • [34]昭和27年4月全工場の賠償指定解除、翌月倍額増資で資本金2億円、28年8月倍額増資で4億円
  • 日本経済新報 6(14) 1953年5月 池田善一郎
    • [35]輸出市場で競争するには品質と価格の優位が絶対とし、高精度・高能率機械設備の入手、工程・品質管理の徹底に努める
  • 野田経済 4(8) 1953年8月
    • [36]国分工場は総坪数61,600坪・建坪14,300坪、機械約3,000台、従業員1,300名(1953年8月)
    • [37]設備合理化などの理由で1対1の増資を発表、8月に資本金4億円の予定。電気熱処理場新設・機械の配置転換を第一次〜第三次で実施
    • [39]特需関係は7%で、多くの比重を平和産業に持つ
    • [40]ミシン工場は光洋ミシンの一貫作業場で月産5,000台、70%を輸出
  • 株式会社年鑑 1953年版「光洋精工」
    • [38]主要取引先にトヨタ自動車・いすゞ自動車・日産自動車・八幡製鉄・富士製鉄

1958年3月11日に創業者の池田善一郎氏が63歳で死去し、池田巌氏が二代目の社長に就任した。池田巌氏は1912年7月生まれで、池田善一郎氏とは血縁の親子ではなく、同族の一人にあたった。1939年に27歳で取締役となり、経理や営業を経て戦後は国分工場長も務め、1953年11月の専務昇進で後継が事実上固まっていた。池田善一郎氏が遺した会社は資本金7億円で、5億7,500万円の再評価積立金などを合わせた自己資本は実質20億円に上り、1割5分の配当を続けていた。1958年6月の経済誌は、同族会社的な体質が残るとみて、二代目の務めを『ワンマンなきあとの空隙を、組織力によつて埋めて行く』ことに置いた。池田善一郎氏自身も1953年に、高度な企業組織では組織で仕事をせねばならないと書いていた。組織化の課題は、創業者の存命中から社内で意識されていたのだろう。

  • 『光洋精工50年史』(光洋精工, 1969年)
    • [41]池田善一郎は昭和32年末に入院、33年3月11日死去、享年63
  • 日本経済新報 11(17) 1958年6月 舜堂
    • [42]初代社長の長逝により池田巌が二代目社長に就任
    • [43]池田巌は明治45年7月生まれ、前社長と血縁の親子ではなく同族の一人
    • [44]昭和14年27歳で取締役、28年11月専務。経理・営業を歴任し戦後国分工場長
    • [45]資本金7億円・再評価積立金5億7,500万円など合計で実質20億円の自己資本、1割5分配当、三大メーカーの一
    • [46]伝統的に同族会社的体質が残り、ワンマン経営から組織による合理的運営への脱皮が新社長の使命とした
  • 日本経済新報 6(14) 1953年5月 池田善一郎
    • [47]高度な企業組織下では組織で仕事をしなければならないと述べた

光洋精工は1960年4月、国分工場でステアリングの開発と試作を始めた。1960年版の年鑑では、主な取引先の先頭にトヨタ自動車工業・いすゞ自動車・日産自動車が並び、富士精密工業と東洋工業も名を連ねた。1953年版の年鑑でも、取引先はトヨタ自動車・いすゞ自動車・日産自動車の3社から始まっていた。国分工場を担う資本も厚くなり、1959年12月の倍額増資で資本金は14億円となっていた。同じ1960年版の年鑑で、トヨタ系の豊田工機は工作機械に次ぐ事業に自動車部品を掲げていた。軸受で築いた自動車メーカーとの取引を足場に、軸受の外の部品へ事業を拡大しようとしたと推察される。

  • ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)沿革
    • [48]1960年4月、国分工場においてステアリングの開発・試作を開始
  • 株式会社年鑑 1960年版「光洋精工」
    • [49]主なる取引先にトヨタ自動車工業・いすゞ自動車・日産自動車・富士精密工業・東洋工業・日本国有鉄道など
    • [51]昭和34年12月資本金14億円に増資(1:1)
  • 株式会社年鑑 1953年版「光洋精工」
    • [50]主要取引先にトヨタ自動車・いすゞ自動車・日産自動車・八幡製鉄・富士製鉄
  • 株式会社年鑑 1960年版「豊田工機」
    • [52]豊田工機の主なる事業内容は1.工作機械 2.自動車部品、筆頭株主トヨタ自動車工業
参考文献[34]-[52]
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「光洋精工」
    • [34]昭和27年4月全工場の賠償指定解除、翌月倍額増資で資本金2億円、28年8月倍額増資で4億円
  • 日本経済新報 6(14) 1953年5月 池田善一郎
    • [35]輸出市場で競争するには品質と価格の優位が絶対とし、高精度・高能率機械設備の入手、工程・品質管理の徹底に努める
    • [47]高度な企業組織下では組織で仕事をしなければならないと述べた
  • 野田経済 4(8) 1953年8月
    • [36]国分工場は総坪数61,600坪・建坪14,300坪、機械約3,000台、従業員1,300名(1953年8月)
    • [37]設備合理化などの理由で1対1の増資を発表、8月に資本金4億円の予定。電気熱処理場新設・機械の配置転換を第一次〜第三次で実施
    • [39]特需関係は7%で、多くの比重を平和産業に持つ
    • [40]ミシン工場は光洋ミシンの一貫作業場で月産5,000台、70%を輸出
  • 株式会社年鑑 1953年版「光洋精工」
    • [38]主要取引先にトヨタ自動車・いすゞ自動車・日産自動車・八幡製鉄・富士製鉄
    • [50]主要取引先にトヨタ自動車・いすゞ自動車・日産自動車・八幡製鉄・富士製鉄
  • 『光洋精工50年史』(光洋精工, 1969年)
    • [41]池田善一郎は昭和32年末に入院、33年3月11日死去、享年63
  • 日本経済新報 11(17) 1958年6月 舜堂
    • [42]初代社長の長逝により池田巌が二代目社長に就任
    • [43]池田巌は明治45年7月生まれ、前社長と血縁の親子ではなく同族の一人
    • [44]昭和14年27歳で取締役、28年11月専務。経理・営業を歴任し戦後国分工場長
    • [45]資本金7億円・再評価積立金5億7,500万円など合計で実質20億円の自己資本、1割5分配当、三大メーカーの一
    • [46]伝統的に同族会社的体質が残り、ワンマン経営から組織による合理的運営への脱皮が新社長の使命とした
  • ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)沿革
    • [48]1960年4月、国分工場においてステアリングの開発・試作を開始
  • 株式会社年鑑 1960年版「光洋精工」
    • [49]主なる取引先にトヨタ自動車工業・いすゞ自動車・日産自動車・富士精密工業・東洋工業・日本国有鉄道など
    • [51]昭和34年12月資本金14億円に増資(1:1)
  • 株式会社年鑑 1960年版「豊田工機」
    • [52]豊田工機の主なる事業内容は1.工作機械 2.自動車部品、筆頭株主トヨタ自動車工業

1921年〜1960年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 48 n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 41 ▲14.6% n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 65 +58.5% n/a n/a n/a

出典・参考

13件
出典・参考
  • ジェイテクト 有価証券報告書(2024年度)沿革
  • 『光洋精工50年史』(光洋精工, 1969年)
  • 株式会社年鑑 1951年版「光洋精工」
  • 株式会社年鑑 1953年版「光洋精工」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「光洋精工」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「豊田工機」
  • 株式会社年鑑 1960年版「光洋精工」
  • 株式会社年鑑 1960年版「豊田工機」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「光洋精工」
  • 日本経済新報 6(14) 1953年5月 池田善一郎
  • 野田経済 4(8) 1953年8月
  • 日本経済新報 11(17) 1958年6月 舜堂
  • 『豊田工機二十年』(豊田工機, 1961年)

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