ジャノメ の歴史

更新: Author:

創業 1921年
創業者 小瀬與作・亀松茂・飛松謹一
創業地 東京都北区
創業
1921年10月、小瀬與作氏・亀松茂氏・飛松謹一氏が東京・滝野川にパイン裁縫機械製作所を創設した。小瀬氏は1913年に小石川で小瀬洋紙店を創業した商人、亀松氏は東京高等工業学校機械科を出た技術者で、第一次世界大戦で欧州製の輸入が絶えて米シンガー社の独占となった市場を国産機で置き換えようとした。1929年11月に資本金5万円でパインミシン株式会社を設立し、1931年10月に国産パインミシン、1935年11月に帝国ミシンへ改称する。半回転式カマの下糸巻管が蛇の目模様に似ていたことから業界が呼んだ通称も同月に商標登録され、1949年1月の商号となった。2021年10月、創業100年を機に株式会社ジャノメへ改めている。
決断
売り方の設計で伸びた会社が、その設計で積んだ資産の重さに捕まった。1930年秋、小瀬與作氏は頭金の一時払いを積立の満期制度へ置き換えた月掛予約販売を創案し、同年12月に月3円の掛金で東京市内へ試している。1953年には嶋田卓彌氏ら11人を迎えて600近い特約代理店を直営店へ切り替え、1959年に直営156店・売上高46億円、1971年には全国530支店へ達した。だが直営網の経費は1980年代に重くのしかかり、1987年度は38億円の営業赤字となる。厚い資産に目をつけた仕手集団の光進が同年に約20%を取得し、1989年の300億円要求に応じた迂回融資から債務総額は2,355億円へ膨らみ、返済のために旧本社と小金井工場を売却する結果を招いた。
現況
100年目に社名を変えたが、収益を生んでいるのは現在も家庭用ミシンだけである。2025年3月期の連結売上高は363億円、営業利益22億円、純利益17億円。内訳は家庭用機器が売上287億円・利益21億円、IT関連が25億円・4億円で、従業員380名を抱える産業機器は売上48億円に対し4億円の営業損失を出した。産業機器の売上は2018年3月期の69億円から減り、2017年3月期以降はおおむね赤字が続いている。1984年のエレクトロプレス発売から40年を経ても、多角化で作った第2の収益源は家庭用ミシンの利益に支えられたままである。
競合
守ったのは国内市場そのもので、相手は同業ではなく輸入品だった。第一次世界大戦で欧州製の輸入が絶えた市場は米シンガー社の独占となり、ミシンの輸入額は1914年の22万円から1920年に632万円へ増えていた。1937年の日中戦争で輸入が途絶えるとシンガーはアジアから撤退する。1948年には規格統一を主導した前田増三氏らが退社してリッカーミシンを創立し、直営月賦で競う相手となった。1954年のシンガー再上陸に際しては嶋田卓彌氏が業界をまとめて進出反対期成同盟をつくり、提携の許可は3年余り遅れている。輸入を締め出して得た時間が国産の規格と量産を先に固め、以後の競争は、ミシンから情報通信機器へ移ったブラザー工業のように祖業を離れるか、家庭用ミシンに残るかで分かれた。
長期業績の推移 1950〜2025年
ジャノメ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2012年3月期2025年3月期

創業ストーリー 月3円の予約掛金で売った国産ミシンと全役員の退陣 (1921年〜)

創業ストーリー(1)

滝野川のパイン裁縫機械製作所と標準型本縫ミシン

1921年、小瀬與作氏は、飛松謹一氏が東京・滝野川に工場を持つ龜松茂氏とミシンの製造・販売を始めるため融資を求めているという話を聞いた[1]。小瀬氏は1913年に東京・小石川で小瀬洋紙店を開いた商人であり、ミシンをつくった経験はない[2]。龜松氏は東京高等工業学校機械科を出た技術者で、滝野川町西ケ原の龜松製作所は2棟からなる60坪ほどの工場に工員が約20人いた[3]。第一次世界大戦でドイツ製とスウェーデン製の輸入が途絶えたことで、日本市場はアメリカのシンガー社の独占状態となり、ミシンの輸入額は1914年の22万円から1920年には632万円へ拡大していた[4]。3氏は1921年10月、滝野川にパイン裁縫機械製作所を創設した[5]

  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [1]1921年、小瀬與作は飛松謹一が滝野川の龜松茂とミシンの製造・販売を始めるため融資を求めているとの話を小野連三から聞いた
    • [2]小瀬與作は1913年に東京・小石川竹早町で小瀬洋紙店を開業した
    • [3]龜松茂は東京高等工業学校機械科出身の技術者で、滝野川町西ケ原の龜松製作所は2棟60坪ほど・工員約20人だった
    • [4]第一次世界大戦でドイツ製・スウェーデン製の輸入が途絶えてシンガー社の独占状態となり、ミシン輸入額は1914年22万円から1920年632万円へ拡大した
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1921年10月、パイン裁縫機械製作所を創設した

試作した手廻し式卓上用ミシンは1本の糸で縫う長舟式で、製作と販売の両面に欠陥が多く、家内手工業の域を出なかった[6]。調達した部品は規格が統一されず質もばらばらで、精緻なカマ部機構の鍛造部品は入手できなかったため、開発から自社で取り組むことになる[7]。1929年3月、垂直半回転式を採用した試作機が完成し、標準型本縫ミシンのパイン100種30型と名づけた[8]。同年11月25日、41歳の小瀬氏が発起人総代となり、龜松氏や飛松氏らと資本金5万円でパインミシン株式会社を設立し、本社を東京丸ノ内昭和ビル内に置いた[9]。1か月前の10月にニューヨーク証券取引所で株価が暴落して日本の失業者は100万人にのぼり、定価145円のミシンを特価116円としても売れなかった[10]

  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
    • [6]パイン裁縫機械製作所の裁縫機械は小型ミシンだったが製作販売面での欠陥も多く家内手工業の域をでなかった
  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [7]調達品は規格が統一されず質もばらばらで、カマ部機構の鍛造部品は入手困難だったため自社で開発から取り組むことになった
    • [8]1929年3月、垂直半回転式を採用した試作機が完成し、標準型本縫ミシンのパイン100種30型と名づけた
    • [9]1929年11月25日、小瀬が発起人総代となり龜松・飛松らと資本金5万円でパインミシン株式会社を設立し、本社を東京丸ノ内昭和ビル内に置いた。小瀬は41歳であった
    • [10]1929年10月の世界恐慌で日本の失業者は100万人にのぼり、定価145円のパイン100種30型は特価116円としても売れなかった
  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [1]1921年、小瀬與作は飛松謹一が滝野川の龜松茂とミシンの製造・販売を始めるため融資を求めているとの話を小野連三から聞いた
    • [2]小瀬與作は1913年に東京・小石川竹早町で小瀬洋紙店を開業した
    • [3]龜松茂は東京高等工業学校機械科出身の技術者で、滝野川町西ケ原の龜松製作所は2棟60坪ほど・工員約20人だった
    • [4]第一次世界大戦でドイツ製・スウェーデン製の輸入が途絶えてシンガー社の独占状態となり、ミシン輸入額は1914年22万円から1920年632万円へ拡大した
    • [7]調達品は規格が統一されず質もばらばらで、カマ部機構の鍛造部品は入手困難だったため自社で開発から取り組むことになった
    • [8]1929年3月、垂直半回転式を採用した試作機が完成し、標準型本縫ミシンのパイン100種30型と名づけた
    • [9]1929年11月25日、小瀬が発起人総代となり龜松・飛松らと資本金5万円でパインミシン株式会社を設立し、本社を東京丸ノ内昭和ビル内に置いた。小瀬は41歳であった
    • [10]1929年10月の世界恐慌で日本の失業者は100万人にのぼり、定価145円のパイン100種30型は特価116円としても売れなかった
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1921年10月、パイン裁縫機械製作所を創設した
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
    • [6]パイン裁縫機械製作所の裁縫機械は小型ミシンだったが製作販売面での欠陥も多く家内手工業の域をでなかった
創業ストーリー(2)

月掛予約販売の創案と蛇の目ミシンの商標登録

当時の月賦販売では月々の支払いの数倍にあたる頭金を最初に用意しなければならず、それができずにミシンの購入を諦める女性が大多数で、小瀬氏はそうした人々こそ大切にすべき顧客層だと考えた[11]。両国の不動貯金銀行では積立と貸出の2本立てによるニコニコ貯金が人気を呼んでおり、小瀬氏はこの積立をミシンに置き換え、頭金を一時払いでなく積立前受金による満期制度とする月掛予約・月賦販売を1930年秋に創案する[12]。同年12月には東京市内の一部で、月3円の掛金で買える月掛予約販売を試した[13]。大蔵省から銀行法に抵触するおそれを指摘された際は、国産ミシンの育成を訴えて了解を取り付けた[14]

  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [11]月賦は月々の支払いの数倍の頭金が必要で、それができずミシンの購入を諦める女性が大多数であり、小瀬はそうした人々こそ大切にすべき顧客層と考えた
    • [12]小瀬は不動貯金銀行のニコニコ貯金の積立をミシンに置き換え、積立前受金による満期制度とする月掛予約・月賦販売を1930年秋に創案した
    • [13]1930年12月、東京市内の一部で月3円の掛金で買える月掛予約販売を試行した
    • [14]大蔵省から銀行法に抵触するおそれを指摘されたが、国産ミシンの育成を訴えて了解を取り付けた

1931年10月1日、社名を国産パインミシン株式会社に改めた[15]。資金援助していた大阪市西淀川区のミシン部品工場を1933年4月に吸収して恵美須工場とし、翌年には標準型100種ミシンを月に300〜500台つくるまでになる[16]。1934年には中野に工場を設け、その敷地に日本洋裁学校を開校し、洋裁界で知られた山口千代子氏を校長に招いた[17]。広告の顧問として招かれた嶋田卓彌氏は、新聞広告への反響を番地別の統計に起こし、1枚15、6円かかっていたカタログ請求カードの単価を1年足らずで5円に、3年目の夏には50銭まで下げる[18]。シンガー社が富裕な家庭を相手にしたのに対し、嶋田氏は赤ん坊を背負って市場へ通う庶民層に的を絞り、写真入りの記事広告を出した[19]

  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [15]1931年10月1日、社名を国産パインミシン株式会社とした
    • [16]1933年4月に大阪市西淀川区野里町のミシン部品工場を吸収して国産パインミシン恵美須工場とし、翌年には標準型100種ミシンを月に300〜500台製造するにいたった
    • [17]1934年に中野工場の敷地内へ日本洋裁学校を設立し、校長に洋裁界で著名な山口千代子を招聘した
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
    • [18]嶋田卓彌は番地別の反響統計をとり、1枚15、6円だったカタログ請求カードの単価を1年足らずで5円、3年目の夏に50銭まで引き下げた
    • [19]シンガーが富裕階級を相手にするのに対し、嶋田は赤ん坊をおぶって市場へ通う庶民階級を対象に据え、写真入り記事広告を出した

1935年春には、月掛予約販売を基盤とする直営店システムを全国へ配置する計画がまとまる[20]。同年10月に資本金を100万円へ増額し、11月に社名を帝国ミシン株式会社と改める[21]。標準型本縫ミシンに採用した半回転式カマの下糸巻管が蛇の目模様に似ているとして業界関係者が蛇の目式ミシンと呼び、旧式の長舟式と区別したことに始まる蛇の目ミシンの商標も、1934年の申請を経て同じ11月に登録された[22]。同じ1935年、手狭になった中野工場に代わる新工場の建設に着手し、池貝鉄工所で技術顧問を務めていた長澤寸美遠氏を迎えた[23]。小金井工場は1937年3月に新館が完成し、月産2,000台の日本最大のミシン製造専門工場となる[24]

  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [20]1935年春には月掛予約販売を基盤とした直営店システムの確立とその全国的配置の計画を打ち出した
    • [21]1935年10月に資本金を100万円へ増額し、11月に社名を帝国ミシン株式会社と改称した
    • [22]商標「蛇の目ミシン」は1934年に登録申請し1935年11月に登録された。半回転式カマの下糸巻管が蛇の目模様に似ているとして業界関係者が「蛇の目式」ミシンと呼んだことに由来する
    • [23]1935年、中野工場が狭小となり新工場の建設に着手し、池貝鉄工所の技術顧問だった長澤寸美遠が同年4月に入社を承諾した
    • [24]小金井工場の第2次建設計画による新館が1937年3月に完成し、月産2,000台の生産能力を持つ日本最大のミシン製造専門工場となった
  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [11]月賦は月々の支払いの数倍の頭金が必要で、それができずミシンの購入を諦める女性が大多数であり、小瀬はそうした人々こそ大切にすべき顧客層と考えた
    • [12]小瀬は不動貯金銀行のニコニコ貯金の積立をミシンに置き換え、積立前受金による満期制度とする月掛予約・月賦販売を1930年秋に創案した
    • [13]1930年12月、東京市内の一部で月3円の掛金で買える月掛予約販売を試行した
    • [14]大蔵省から銀行法に抵触するおそれを指摘されたが、国産ミシンの育成を訴えて了解を取り付けた
    • [15]1931年10月1日、社名を国産パインミシン株式会社とした
    • [16]1933年4月に大阪市西淀川区野里町のミシン部品工場を吸収して国産パインミシン恵美須工場とし、翌年には標準型100種ミシンを月に300〜500台製造するにいたった
    • [17]1934年に中野工場の敷地内へ日本洋裁学校を設立し、校長に洋裁界で著名な山口千代子を招聘した
    • [20]1935年春には月掛予約販売を基盤とした直営店システムの確立とその全国的配置の計画を打ち出した
    • [21]1935年10月に資本金を100万円へ増額し、11月に社名を帝国ミシン株式会社と改称した
    • [22]商標「蛇の目ミシン」は1934年に登録申請し1935年11月に登録された。半回転式カマの下糸巻管が蛇の目模様に似ているとして業界関係者が「蛇の目式」ミシンと呼んだことに由来する
    • [23]1935年、中野工場が狭小となり新工場の建設に着手し、池貝鉄工所の技術顧問だった長澤寸美遠が同年4月に入社を承諾した
    • [24]小金井工場の第2次建設計画による新館が1937年3月に完成し、月産2,000台の生産能力を持つ日本最大のミシン製造専門工場となった
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
    • [18]嶋田卓彌は番地別の反響統計をとり、1枚15、6円だったカタログ請求カードの単価を1年足らずで5円、3年目の夏に50銭まで引き下げた
    • [19]シンガーが富裕階級を相手にするのに対し、嶋田は赤ん坊をおぶって市場へ通う庶民階級を対象に据え、写真入り記事広告を出した
創業ストーリー(3)

朝鮮の60分店と軍需転換、1949年の商号変更

1937年5月、国産ミシンとして最初の対英輸出を行った[25]。同じ年の7月に日中戦争が始まると外国製ミシンの輸入は途絶えてシンガー社はアジアの市場から撤退し、帝国ミシンは支店網を積極展開して1938年6〜7月の営業成績は創業以来最高を記録した[26]。本社には輸出部を置き、アジア大陸の市場開拓に乗り出す[27]。輸出課長となった前田増三氏は、中国・タイ・インド・ブラジルへ蛇の目ブランドのミシンの直輸出を伸ばした[28]。1939年には常務の安藤喜六氏の指揮のもと、朝鮮全道で現地の人を分店主任とする分店組織に着手し、外国品より安い国産ミシンの直営月賦は迎えられて、2、3年の間に60の分店ができた[29]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
    • [25]1937年5月、国産ミシン最初の対英輸出を行った
  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [26]1937年7月の日中戦争勃発で外国製ミシンの輸入は途絶えシンガー社はアジア市場から撤退し、帝国ミシンは支店網を積極展開して1938年6〜7月の営業成績は創業以来最高を記録した
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
    • [27]アジア大陸の市場開拓に乗り出し本社に輸出部を開設した
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
    • [28]前田増三は会社にはじめて設けた輸出課長となり、中国・タイ・インド・ブラジルへ蛇の目ブランドのミシンの直輸出を伸ばした
    • [29]1939年に朝鮮全道で現地人を分店主任とする分店組織に着手し、常務の安藤喜六が指揮して2、3年の間に全鮮で60の分店が設けられた

1938年4月に国家総動員法が公布され、7月の鉄鋼配給統制規則で家庭用ミシンはほぼ配給なしとされた[30]。1940年5月にミシンの公定価格が決まった際、月掛予約販売は販売方法が特異であるとして認可されず、国内市場の48%を占めていた帝国ミシンは打撃を受ける[31]。同年7月には月掛予約販売の新規契約を止め、1942年3月には月賦販売も停止し、朝鮮半島の月賦販売は1939年11月に止めて1942年末に撤収を終えた[32]。小金井工場のスイス・シップ社製ジグボール盤を陸軍以外で持つのは帝国ミシンだけであり、1943年6月、海軍は沖電気株式会社と業務提携を結んで新兵器を製作するよう申し入れた[33]。提携は事実上の買収であり、小瀬氏はじめ全役員が退陣する[34]

  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [30]1938年4月に国家総動員法が公布され、7月公布の鉄鋼配給統制規則で家庭用ミシンはほぼ配給なしとされた
    • [31]1940年5月にミシンの公定価格が決定された際、月掛予約販売は販売方法が特異であるとして認可されず、国内市場占有率48%の帝国ミシンは大きな打撃を受けた
    • [32]1940年7月に月掛予約販売の新規契約を停止し、1942年3月に国内の月賦販売を停止した。朝鮮半島での月賦販売は1939年11月に停止し1942年末に撤収を完了した
    • [33]1943年6月、海軍から沖電気株式会社と業務提携を結んで新兵器を製作するよう申し入れがあった。小金井工場のスイス・シップ社製ジグボール盤を陸軍以外で所有するのは帝国ミシンのみであった
    • [34]提携は事実上の買収であったことから、小瀬はじめ全役員が退陣した

1944年2月、帝国精機製造株式会社と改称し、敵潜水艦をとらえる水中電波探知器の製作にあたった[35]。1945年3月15日の東京大空襲では日本橋加賀ビルの本社が焼失し、国内50余りの直営支店も全面閉鎖となる[36]。同年10月、商号を帝国ミシン株式会社へ戻した[37]。戦災を免れた小金井工場は従業員400人で製造を再開し、2か月後には月産1,000台に乗せた[38]。ミシン製造会では帝国ミシン代表の前田増三氏が主導し、1947年に家庭用HA-1型の標準図面を、1949年には部品を含む全国統一の規格寸法を制定した[39]。前田氏らは小瀬氏ら旧経営陣の復帰を求めたが社内の投票に敗れて退社し、1948年2月にリッカーミシン株式会社を創立する[40]。1949年1月、商号を蛇の目ミシン株式会社に改めた[41]

  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [35]1944年2月に帝国精機製造株式会社と改称し、敵潜水艦をとらえる水中電波探知器である音響兵器の製作要請を受けた
    • [36]1945年3月15日の東京大空襲で日本橋加賀ビルの本社が焼失し、ほどなく国内五十余の直営支店が全面閉鎖となった
    • [38]戦災を免れた小金井工場は従業員400人でミシン製造を再開し、2か月後には月産1,000台に乗せた
    • [39]ミシン製造会は帝国ミシン代表の前田主導のもと1947年に家庭用HA-1型の標準図面を完成させ、1949年に部品を含めた全国統一の規格寸法を制定した
    • [40]小瀬ら旧役員を復帰させようとして失敗し退社した前田らは、理化学工業社長の平木信二とともに1948年2月にリッカーミシン株式会社を創立した
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
    • [37]終戦の年の10月、再び帝国ミシン株式会社に商号復帰した
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1949年1月、蛇の目ミシン株式会社へ商号変更した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
    • [25]1937年5月、国産ミシン最初の対英輸出を行った
  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
    • [26]1937年7月の日中戦争勃発で外国製ミシンの輸入は途絶えシンガー社はアジア市場から撤退し、帝国ミシンは支店網を積極展開して1938年6〜7月の営業成績は創業以来最高を記録した
    • [30]1938年4月に国家総動員法が公布され、7月公布の鉄鋼配給統制規則で家庭用ミシンはほぼ配給なしとされた
    • [31]1940年5月にミシンの公定価格が決定された際、月掛予約販売は販売方法が特異であるとして認可されず、国内市場占有率48%の帝国ミシンは大きな打撃を受けた
    • [32]1940年7月に月掛予約販売の新規契約を停止し、1942年3月に国内の月賦販売を停止した。朝鮮半島での月賦販売は1939年11月に停止し1942年末に撤収を完了した
    • [33]1943年6月、海軍から沖電気株式会社と業務提携を結んで新兵器を製作するよう申し入れがあった。小金井工場のスイス・シップ社製ジグボール盤を陸軍以外で所有するのは帝国ミシンのみであった
    • [34]提携は事実上の買収であったことから、小瀬はじめ全役員が退陣した
    • [35]1944年2月に帝国精機製造株式会社と改称し、敵潜水艦をとらえる水中電波探知器である音響兵器の製作要請を受けた
    • [36]1945年3月15日の東京大空襲で日本橋加賀ビルの本社が焼失し、ほどなく国内五十余の直営支店が全面閉鎖となった
    • [38]戦災を免れた小金井工場は従業員400人でミシン製造を再開し、2か月後には月産1,000台に乗せた
    • [39]ミシン製造会は帝国ミシン代表の前田主導のもと1947年に家庭用HA-1型の標準図面を完成させ、1949年に部品を含めた全国統一の規格寸法を制定した
    • [40]小瀬ら旧役員を復帰させようとして失敗し退社した前田らは、理化学工業社長の平木信二とともに1948年2月にリッカーミシン株式会社を創立した
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
    • [27]アジア大陸の市場開拓に乗り出し本社に輸出部を開設した
    • [37]終戦の年の10月、再び帝国ミシン株式会社に商号復帰した
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
    • [28]前田増三は会社にはじめて設けた輸出課長となり、中国・タイ・インド・ブラジルへ蛇の目ブランドのミシンの直輸出を伸ばした
    • [29]1939年に朝鮮全道で現地人を分店主任とする分店組織に着手し、常務の安藤喜六が指揮して2、3年の間に全鮮で60の分店が設けられた
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1949年1月、蛇の目ミシン株式会社へ商号変更した
創業ストーリー(4)

山田忍三社長の招聘と嶋田卓彌ら11人の集団入社

1950年4月、大口債権者の依頼を受けた山田忍三氏が、経営の行き詰まった蛇の目ミシン株式会社の社長に就いた[42]。同年6月、山田忍三社長は従来の事業一切を継承する新会社として、資本金500万円の蛇の目産業株式会社を東京都中央区に設立した[43]。販売は特約代理店に頼る卸売りが主で、山田忍三社長は国内市場第一主義と現金取引を掲げ、1951年2月に仙台、9月に京都で地元有力者と販売会社をつくった[44]。1952年4月には東京で月賦販売と月掛予約販売を再開し、掛金は月1,000円とした[45]。特約代理店は同年末に400店を数えたが、売上高が伸びた要因には、現金取引の原則が軽んじられて掛売や手形取引が増えたことも含まれていた[46]

  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第2章「蛇の目ミシン工業株式会社の発足」
    • [42]1950年4月、埼玉銀行が招聘した山田忍三が蛇の目ミシンの社長に就任した。
    • [44]山田は国内市場第一主義と現金取引の方針を打ち出し、1951年2月に仙台、9月に京都で地元有力者をパートナーに販売会社を設立した。
    • [45]1952年4月、東京で月賦販売と月掛予約販売(月1,000円掛)を開始した。
    • [46]1952年末には特約代理店は400店となったが、売上高急伸の要因には現金取引の原則の軽視による掛売・手形取引の増加があった。
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1950年6月、蛇の目ミシンの事業一切を継承して資本金500万円の蛇の目産業株式会社を設立した。

月掛予約を戦前の帝国ミシンで組み立てた嶋田卓彌氏は、戦後にリッカーミシンを興したのち、同僚とともに集団で退職していた[47]。代理店販売の赤字に悩んでいた山田忍三社長はこの一団に目をつけ、嶋田氏は1953年1月3日、熱海伊豆山の宿で山田忍三社長と会う[48]。嶋田氏が出した条件は三つで、直営月賦は11人にすべて任せること、製造と販売が別会社では直営組織は成功しないので合併して一つの会社にすること、その会社の役員に11人から3名を入れることであった[49]。山田忍三社長がこれを受け入れたことで、1954年4月に商号を蛇の目ミシン工業株式会社へ改め[50]、5月に蛇の目ミシン各地販売株式会社を吸収合併した[51]

  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
    • [47]リッカーから日本のミシン月賦創始の実力グループが集団退職した。
    • [48]代理店販売の赤字経営に悩む山田忍三は旧蛇の目グループに目をつけ、嶋田卓彌は1953年1月3日に熱海伊豆山の相模屋で山田と会った。
    • [49]嶋田は直営月賦を11人に一任すること、製造と販売の別会社を合併すること、11人から3名を役員に入れることを条件として示した。
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [50]1954年4月、商号を蛇の目ミシン工業株式会社に変更した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
    • [51]1954年5月、蛇の目ミシン各地販売株式会社を吸収合併して社名を蛇の目ミシン工業に変更した。
  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第2章「蛇の目ミシン工業株式会社の発足」
    • [42]1950年4月、埼玉銀行が招聘した山田忍三が蛇の目ミシンの社長に就任した。
    • [44]山田は国内市場第一主義と現金取引の方針を打ち出し、1951年2月に仙台、9月に京都で地元有力者をパートナーに販売会社を設立した。
    • [45]1952年4月、東京で月賦販売と月掛予約販売(月1,000円掛)を開始した。
    • [46]1952年末には特約代理店は400店となったが、売上高急伸の要因には現金取引の原則の軽視による掛売・手形取引の増加があった。
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1950年6月、蛇の目ミシンの事業一切を継承して資本金500万円の蛇の目産業株式会社を設立した。
    • [50]1954年4月、商号を蛇の目ミシン工業株式会社に変更した。
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
    • [47]リッカーから日本のミシン月賦創始の実力グループが集団退職した。
    • [48]代理店販売の赤字経営に悩む山田忍三は旧蛇の目グループに目をつけ、嶋田卓彌は1953年1月3日に熱海伊豆山の相模屋で山田と会った。
    • [49]嶋田は直営月賦を11人に一任すること、製造と販売の別会社を合併すること、11人から3名を役員に入れることを条件として示した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
    • [51]1954年5月、蛇の目ミシン各地販売株式会社を吸収合併して社名を蛇の目ミシン工業に変更した。
創業ストーリー(5)

全国156直営店と月間出荷2万台の小金井工場

11人が引き受けたのは、全国に600近くあった特約代理店を一店ずつ話し合いで直営店へ塗り替える仕事だった[52]。嶋田氏は全般の企画と山田忍三社長との折衝、旧代理店の接収に当たり、前田増三氏が支店長のセールス教育、川本日出生氏が工場を受け持った[53]。復帰6年目の1959年には全国直営店が156店、売上高は年46億円と当初の約12倍になり、利益は当初のゼロから6億7,000万円へ増えた[54]。工場では下請工場への支払手形を90日から60日、30日へ短縮し、有望な下請には技術援助と設備資金の貸付を行った[55]。工員1人当たりの月産は7.5台から24.3台へ増え、コストは33%下がった[56]

  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
    • [52]国内に600近い特約代理店が存在し、話し合いをつけて直営店に塗りかえて拡げねばならなかった。
    • [53]支店長セールス教育は取締役営業部長の前田増三、取締役工場長は川本日出生、常務の嶋田卓彌が全般の企画と山田忍三社長との折衝と全国旧代理店の接収に当たった。
    • [54]復帰6年目の1959年には全国直営店156店、売り上げは年46億円と当初の約12倍に伸び、利益は当初のゼロから6億7,000万円となった。
    • [55]下請け購買関係の支払手形を当初の90日から60日、30日と短縮し、有望な下請け工場には技術援助と設備資金の貸付を行った。
    • [56]工員一人当たりの月生産は当初の7.5台が6年目には24.3台と約3.3倍になり、コストは33%低下した。

直営組織が動き出した1954年、シンガーの日本上陸が持ち上がる[57]。嶋田氏は業界を束ねてシンガー進出反対期成同盟をつくり、山田忍三社長を先頭に国会へ陳情し、すわり込みの手段をとった[58]。シンガーとパインの提携の許可は3年余り遅れ、その間に国内メーカーは規格統一と量産を進めた[59]。1956年4月には小金井工場がJIS指定工場に選ばれ、家庭用直線縫ミシンのHA-1型とHL-2型が業界初のJIS規格合格品となった[60]。小金井工場の月間出荷台数は1958年に2万台を超えた[61]。1960年9月、米国フリー・ソーイングマシン株式会社のミシン部門の営業と、子会社ニューホームミシン株式会社の全株式を買収した[62]。買収を担当したのは嶋田氏であった[63]

  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
    • [57]1954年、直営組織が一歩踏み出したころにシンガーの日本上陸という事件が起きた。
    • [58]業界を打って一丸としシンガー進出反対期成同盟をつくり、山田忍三社長を先頭として国会陳情し、すわり込みの手段をとった。
    • [59]シンガー・パイン提携(SP問題)の許可は3年余りのび、この3年が日本のミシン業界にとって貴重な時をかせぐ結果となった。
    • [63]1960年7月、山田忍三社長の下、嶋田卓彌が担当して米国で百年の歴史を持つニューホームミシンを買収した。
  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第2章「蛇の目ミシン工業株式会社の発足」
    • [60]1956年4月、小金井工場はJIS指定工場に選ばれ、家庭用直線縫ミシンのHA-1型とHL-2型が業界初のJIS規格合格品に指定された。
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
    • [61]小金井工場では1958年に月間出荷台数が2万台をこえた。
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [62]1960年9月、米国フリーソーイングマシン株式会社のミシン部門の営業と子会社ニューホームミシン株式会社の全株式を買収した。

1961年5月、嶋田卓彌氏が社長に就任した[64]。山田忍三社長の辞任をめぐって株主総会は流会宣言と乱闘に至ったが、嶋田氏は、8,000人の従業員と100余社の下請工場、全国150万人の予約者にミシンを引き渡す義務を掲げて社内をまとめた[65]。就任時の月間出荷は3万台、直営支店は281店で、3年後には出荷が倍増し、直営店は460店に増えた[66]。1962年7月に資本金を7億5,000万円へ増資し、同年9月に東京証券取引所市場第2部へ上場、1963年11月に第1部へ指定替えとなった[67]。1964年11月には東京都八王子市に蛇の目ミシン技術研究所を設け、6つの研究室に100人の研究員を配した[68]

  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第3章「飛躍の時代」
    • [64]1961年5月、嶋田卓彌が社長に就任した。
    • [68]1964年11月、蛇の目ミシン技術研究所を設立し、6つの研究室に100人の研究員が配された。
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
    • [65]総会は流会宣言と乱闘に至ったが、嶋田卓彌は8,000人の従業員と100余社の下請工場、全国150万人の予約者にミシンを引き渡す義務を掲げて社内をまとめた。
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
    • [66]1961年の嶋田卓彌社長就任時は月間出荷3万台、直営支店281店で、3年後には出荷が倍増し全国直営店は460店となった。
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [67]1962年9月に東京証券取引所市場第2部に上場し、1963年11月に東京市場で第1部に上場指定された。
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
    • [52]国内に600近い特約代理店が存在し、話し合いをつけて直営店に塗りかえて拡げねばならなかった。
    • [53]支店長セールス教育は取締役営業部長の前田増三、取締役工場長は川本日出生、常務の嶋田卓彌が全般の企画と山田忍三社長との折衝と全国旧代理店の接収に当たった。
    • [54]復帰6年目の1959年には全国直営店156店、売り上げは年46億円と当初の約12倍に伸び、利益は当初のゼロから6億7,000万円となった。
    • [55]下請け購買関係の支払手形を当初の90日から60日、30日と短縮し、有望な下請け工場には技術援助と設備資金の貸付を行った。
    • [56]工員一人当たりの月生産は当初の7.5台が6年目には24.3台と約3.3倍になり、コストは33%低下した。
    • [57]1954年、直営組織が一歩踏み出したころにシンガーの日本上陸という事件が起きた。
    • [58]業界を打って一丸としシンガー進出反対期成同盟をつくり、山田忍三社長を先頭として国会陳情し、すわり込みの手段をとった。
    • [59]シンガー・パイン提携(SP問題)の許可は3年余りのび、この3年が日本のミシン業界にとって貴重な時をかせぐ結果となった。
    • [63]1960年7月、山田忍三社長の下、嶋田卓彌が担当して米国で百年の歴史を持つニューホームミシンを買収した。
    • [65]総会は流会宣言と乱闘に至ったが、嶋田卓彌は8,000人の従業員と100余社の下請工場、全国150万人の予約者にミシンを引き渡す義務を掲げて社内をまとめた。
  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第2章「蛇の目ミシン工業株式会社の発足」
    • [60]1956年4月、小金井工場はJIS指定工場に選ばれ、家庭用直線縫ミシンのHA-1型とHL-2型が業界初のJIS規格合格品に指定された。
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
    • [61]小金井工場では1958年に月間出荷台数が2万台をこえた。
    • [66]1961年の嶋田卓彌社長就任時は月間出荷3万台、直営支店281店で、3年後には出荷が倍増し全国直営店は460店となった。
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [62]1960年9月、米国フリーソーイングマシン株式会社のミシン部門の営業と子会社ニューホームミシン株式会社の全株式を買収した。
    • [67]1962年9月に東京証券取引所市場第2部に上場し、1963年11月に東京市場で第1部に上場指定された。
  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第3章「飛躍の時代」
    • [64]1961年5月、嶋田卓彌が社長に就任した。
    • [68]1964年11月、蛇の目ミシン技術研究所を設立し、6つの研究室に100人の研究員が配された。
創業ストーリー(6)

西独ドリーナ社と台湾工場、蛇の目電算センターの設立

1964年4月、西独のパフ社と対等出資でドリーナ・ミシンを設立し、翌1965年1月に生産を始めた[69]。資本金は400万マルク、蛇の目ミシン工業の出資比率は50%で、会長はドイツ側のカール・キーファー氏と蛇の目側の社長が1年交代で務めた[70]。経営の基本方針は日独各2人の相談役会が年1回決め、日常業務はドイツ側が仕切り、日本から詰めた2人は出向社員ではなく駐在員として助言と本社連絡に当たった[71]。西独の家庭用ミシン生産会社は10年前の21社から1973年には3社へ減っており、ドリーナ社は1972年7月に生産規模を年6万台から20万台へ引き上げた[72]。蛇の目ミシン工業は日本製の完成品を年約2万台、台湾工場製を約1万台、ドリーナを通して輸出した[73]

  • 日経ビジネス 1973年2月19日号
    • [69]ドリーナ社は1964年4月に設立され、翌1965年1月に生産を開始した。
    • [70]ドリーナ・ミシンの資本金は400万マルク、蛇の目の出資比率は50%、会長はカール・キーファーと前田増三蛇の目社長が1年交代で務めた。
    • [71]経営の基本方針は日独双方各2人の相談役会が年1回決定し、日常業務はドイツ側が仕切り、蛇の目から派遣された2人は出向社員ではなく駐在員であった。
    • [72]西独の家庭用ミシン生産会社は10年前の21社から3社に減り、ドリーナ社は1972年7月から年6万台の生産規模を20万台にふやした。
    • [73]蛇の目は日本製の完成品を年約2万台、台湾工場製を約1万台、ドリーナを通して輸出している。

1968年11月、嶋田卓彌社長は自ら定めた67歳定年の規定に従って退任し、前田増三氏が社長に就任した[74]。前田増三社長は海外戦略として適地適産の原則を示し、自社のミシン製造技術と台湾の労働力を結んで良質で比較的安価なミシンを世界市場へ供給する形をとった[75]。1969年4月、全額出資の台湾・ジャノメミシン株式会社が資本金100万ドルで発足し、台中市の工場は1970年3月から量産に入り、1971年には月産8,000台に達した[76]。販売会社の設立も続き、1968年10月に英国のヨーロッパ・ジャノメミシン、1969年12月にオーストラリア・ジャノメミシン、1977年11月にカナダ・ジャノメミシン、1978年3月にニュージーランド・ジャノメミシンを置いた[77]

  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第3章「飛躍の時代」
    • [74]1968年11月、嶋田卓彌社長は自ら定めた67歳定年の規定に従って退任し、前田増三が社長に就任した。
    • [75]前田は海外戦略として適地適産(国際分業)の原則を示し、自社のミシン製造技術と台湾の豊富な労働力を結合して良質かつ比較的安価なミシンを世界市場に供給する戦略をとった。
    • [76]1969年4月に全額出資の台湾・ジャノメミシン株式会社が資本金100万ドルで発足し、台中市の工場は1970年3月から本格的な量産に入り、1971年には月産8,000台ラインに達した。
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [77]1968年10月に英国にヨーロッパ・ジャノメミシン、1969年12月にオーストラリア・ジャノメミシン、1977年11月にカナダ・ジャノメミシン、1978年3月にニュージーランド・ジャノメミシンを設立した。

1965年9月に完成した京橋の蛇の目ビルでは、いち早く電算機のIBM 360を導入して事務の合理化を進めていた[78]。この電算部門を分離し、1970年10月に株式会社蛇の目電算センターを設立する[79]。本社は蛇の目ビル内に置き、社長は前田増三社長が兼任し、メインフレームと高速OCR機器を用いた受託処理を主力に据えた[80]。1971年3月には技術研究所が、エンボス加工されたクレジットカードの文字を伝票へ転写するインプリンターを開発し、米国からの輸入に頼ってきたこの機器を電算センターが国産品として発売した[81][82]。1971年10月16日、全国に530支店を構えて創業50周年を迎えた[83]。資本金は1971年10月に45億円、1975年6月に60億円、1978年12月に66億円となった[84]

  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第3章「飛躍の時代」
    • [78]1965年9月に完成した蛇の目ビルではいち早く電算機(IBM 360)を導入し、事務の合理化を推進した。
    • [80]蛇の目電算センターの本社は中央区京橋の蛇の目ビル内に置かれ、社長は前田増三が兼任し、当初はメインフレームや高速OCR機器を用いた受託処理が主力事業であった。
    • [81]1971年3月、技術研究所がインプリンターを開発し、株式会社蛇の目電算センターが発売した。
    • [82]インプリンターはエンボス加工されたクレジットカードなどの文字を伝票に転写する機器で、アメリカからの輸入品に頼ってきたものを初めて国産化した。
    • [83]1971年10月16日、全国に530支店を展開して創業50周年を迎えた。
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [79]1970年10月、当社の電算部門が分離して株式会社蛇の目電算センター(現・株式会社ジャノメクレディア)を設立した。
  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第2部 第1章「ドルショック、オイルショックが世界を襲う」
    • [84]資本金は1971年10月に45億円、1975年6月に60億円、1978年12月に66億円に増資した。
  • 日経ビジネス 1973年2月19日号
    • [69]ドリーナ社は1964年4月に設立され、翌1965年1月に生産を開始した。
    • [70]ドリーナ・ミシンの資本金は400万マルク、蛇の目の出資比率は50%、会長はカール・キーファーと前田増三蛇の目社長が1年交代で務めた。
    • [71]経営の基本方針は日独双方各2人の相談役会が年1回決定し、日常業務はドイツ側が仕切り、蛇の目から派遣された2人は出向社員ではなく駐在員であった。
    • [72]西独の家庭用ミシン生産会社は10年前の21社から3社に減り、ドリーナ社は1972年7月から年6万台の生産規模を20万台にふやした。
    • [73]蛇の目は日本製の完成品を年約2万台、台湾工場製を約1万台、ドリーナを通して輸出している。
  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第3章「飛躍の時代」
    • [74]1968年11月、嶋田卓彌社長は自ら定めた67歳定年の規定に従って退任し、前田増三が社長に就任した。
    • [75]前田は海外戦略として適地適産(国際分業)の原則を示し、自社のミシン製造技術と台湾の豊富な労働力を結合して良質かつ比較的安価なミシンを世界市場に供給する戦略をとった。
    • [76]1969年4月に全額出資の台湾・ジャノメミシン株式会社が資本金100万ドルで発足し、台中市の工場は1970年3月から本格的な量産に入り、1971年には月産8,000台ラインに達した。
    • [78]1965年9月に完成した蛇の目ビルではいち早く電算機(IBM 360)を導入し、事務の合理化を推進した。
    • [80]蛇の目電算センターの本社は中央区京橋の蛇の目ビル内に置かれ、社長は前田増三が兼任し、当初はメインフレームや高速OCR機器を用いた受託処理が主力事業であった。
    • [81]1971年3月、技術研究所がインプリンターを開発し、株式会社蛇の目電算センターが発売した。
    • [82]インプリンターはエンボス加工されたクレジットカードなどの文字を伝票に転写する機器で、アメリカからの輸入品に頼ってきたものを初めて国産化した。
    • [83]1971年10月16日、全国に530支店を展開して創業50周年を迎えた。
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
    • [77]1968年10月に英国にヨーロッパ・ジャノメミシン、1969年12月にオーストラリア・ジャノメミシン、1977年11月にカナダ・ジャノメミシン、1978年3月にニュージーランド・ジャノメミシンを設立した。
    • [79]1970年10月、当社の電算部門が分離して株式会社蛇の目電算センター(現・株式会社ジャノメクレディア)を設立した。
  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第2部 第1章「ドルショック、オイルショックが世界を襲う」
    • [84]資本金は1971年10月に45億円、1975年6月に60億円、1978年12月に66億円に増資した。

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

沿革年表 1921〜2022年

ジャノメの沿革1921〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1921〜1949年月3円の予約掛金で売った国産ミシンと全役員の退陣小瀬與作らがパイン裁縫機械製作所を創設
帝国ミシンに商号変更
蛇の目ミシンに商号変更
1950〜1979年直営530支店の月掛予約を北米と西独へ延ばす東京都中央区に蛇の目産業を設立
蛇の目ミシン工業に商号変更
米国フリーソーイングマシンのミシン部門を買収★★★
ニューホームミシンの全株式を買収★★★
東京証券取引所市場第二部に上場
東京証券取引所市場第一部に上場指定
東京都八王子市に蛇の目ミシン技術研究所を設置
東京都中央区京橋に本店を移転
蛇の目電算センターを設立★★★
1980〜1997年サーボプレスと24時間風呂、そして2,355億円の債務高尾新工場が竣工
1998〜2025年583億円判決の決着と、社名をジャノメに改めた100年目小金井工場を高尾工場に集約
山梨工場の営業を会社分割によりジャノメダイカストに移管★★
エルナインターナショナルの全株式を買収★★
東京都八王子市狭間町に本店を移転
齋藤真創業100周年を機にジャノメに商号変更★★★
齋藤真東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行
出典・参考 9件
出典・参考
  • ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
  • ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第2章「蛇の目ミシン工業株式会社の発足」
  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第1部 第3章「飛躍の時代」
  • ジャノメ100年史(蛇の目ミシン工業、2022年)第2部 第1章「ドルショック、オイルショックが世界を襲う」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
  • 日経ビジネス 1973年2月19日号
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」

免責事項およびポリシー