ジャノメ:月3円の予約掛金で販売した国産ミシンと全役員の退陣
1921年〜滝野川のパイン裁縫機械製作所と標準型本縫ミシン
1921年、小瀬與作氏は、飛松謹一氏が東京・滝野川に工場を持つ龜松茂氏とミシンの製造・販売を開始するため融資を求めているという話を聞いた。小瀬氏は1913年に東京・小石川で小瀬洋紙店を開店した商人であり、ミシンをつくった経験はない。龜松氏は東京高等工業学校機械科を出た技術者で、滝野川町西ケ原の龜松製作所は2棟からなる60坪ほどの工場に工員が約20人いた。第一次世界大戦でドイツ製とスウェーデン製の輸入が途絶えたことで、日本市場はアメリカのシンガー社の独占状態となり、ミシンの輸入額は1914年の22万円から1920年には632万円へ拡大していた。3氏は1921年10月、滝野川にパイン裁縫機械製作所を創設した。
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [1]1921年、小瀬與作は飛松謹一が滝野川の龜松茂とミシンの製造・販売を始めるため融資を求めているとの話を小野連三から聞いた
- [2]小瀬與作は1913年に東京・小石川竹早町で小瀬洋紙店を開業した
- [3]龜松茂は東京高等工業学校機械科出身の技術者で、滝野川町西ケ原の龜松製作所は2棟60坪ほど・工員約20人だった
- [4]第一次世界大戦でドイツ製・スウェーデン製の輸入が途絶えてシンガー社の独占状態となり、ミシン輸入額は1914年22万円から1920年632万円へ拡大した
- ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
- [5]1921年10月、パイン裁縫機械製作所を創設した
試作した手廻し式卓上用ミシンは1本の糸で縫う長舟式で、製作と販売の両面に欠陥が多く、家内手工業の域を出なかった。調達した部品は規格が統一されず質もばらばらで、精緻なカマ部機構の鍛造部品は入手できなかったため、開発から自社で取り組むことになる。1929年3月、垂直半回転式を採用した試作機が完成し、標準型本縫ミシンのパイン100種30型と名づけた。同年11月25日、41歳の小瀬氏が発起人総代となり、龜松氏や飛松氏らと資本金5万円でパインミシン株式会社を設立し、本社を東京丸ノ内昭和ビル内に置いた。1か月前の10月にニューヨーク証券取引所で株価が暴落して日本の失業者は100万人にのぼり、定価145円のミシンを特価116円としても売れなかった。
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [6]パイン裁縫機械製作所の裁縫機械は小型ミシンだったが製作販売面での欠陥も多く家内手工業の域をでなかった
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [7]調達品は規格が統一されず質もばらばらで、カマ部機構の鍛造部品は入手困難だったため自社で開発から取り組むことになった
- [8]1929年3月、垂直半回転式を採用した試作機が完成し、標準型本縫ミシンのパイン100種30型と名づけた
- [9]1929年11月25日、小瀬が発起人総代となり龜松・飛松らと資本金5万円でパインミシン株式会社を設立し、本社を東京丸ノ内昭和ビル内に置いた。小瀬は41歳であった
- [10]1929年10月の世界恐慌で日本の失業者は100万人にのぼり、定価145円のパイン100種30型は特価116円としても売れなかった
参考文献[1]-[10]
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [1]1921年、小瀬與作は飛松謹一が滝野川の龜松茂とミシンの製造・販売を始めるため融資を求めているとの話を小野連三から聞いた
- [2]小瀬與作は1913年に東京・小石川竹早町で小瀬洋紙店を開業した
- [3]龜松茂は東京高等工業学校機械科出身の技術者で、滝野川町西ケ原の龜松製作所は2棟60坪ほど・工員約20人だった
- [4]第一次世界大戦でドイツ製・スウェーデン製の輸入が途絶えてシンガー社の独占状態となり、ミシン輸入額は1914年22万円から1920年632万円へ拡大した
- [7]調達品は規格が統一されず質もばらばらで、カマ部機構の鍛造部品は入手困難だったため自社で開発から取り組むことになった
- [8]1929年3月、垂直半回転式を採用した試作機が完成し、標準型本縫ミシンのパイン100種30型と名づけた
- [9]1929年11月25日、小瀬が発起人総代となり龜松・飛松らと資本金5万円でパインミシン株式会社を設立し、本社を東京丸ノ内昭和ビル内に置いた。小瀬は41歳であった
- [10]1929年10月の世界恐慌で日本の失業者は100万人にのぼり、定価145円のパイン100種30型は特価116円としても売れなかった
- ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
- [5]1921年10月、パイン裁縫機械製作所を創設した
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [6]パイン裁縫機械製作所の裁縫機械は小型ミシンだったが製作販売面での欠陥も多く家内手工業の域をでなかった
1930年〜月掛予約販売の創案と蛇の目ミシンの商標登録
当時の月賦販売では月々の支払いの数倍にあたる頭金を最初に用意しなければならず、それができずにミシンの購入を諦める女性が大多数で、小瀬氏はそうした人々こそ大切にすべき顧客層だと考えた。両国の不動貯金銀行では積立と貸出の2本立てによるニコニコ貯金が人気を呼んでおり、小瀬氏はこの積立をミシンに置き換え、頭金を一時払いでなく積立前受金による満期制度とする月掛予約・月賦販売を1930年秋に創案する。同年12月には東京市内の一部で、月3円の掛金で買える月掛予約販売を試した。大蔵省から銀行法に抵触するおそれを指摘された際は、国産ミシンの育成を訴えて了解を取り付けた。
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [11]月賦は月々の支払いの数倍の頭金が必要で、それができずミシンの購入を諦める女性が大多数であり、小瀬はそうした人々こそ大切にすべき顧客層と考えた
- [12]小瀬は不動貯金銀行のニコニコ貯金の積立をミシンに置き換え、積立前受金による満期制度とする月掛予約・月賦販売を1930年秋に創案した
- [13]1930年12月、東京市内の一部で月3円の掛金で買える月掛予約販売を試行した
- [14]大蔵省から銀行法に抵触するおそれを指摘されたが、国産ミシンの育成を訴えて了解を取り付けた
1931年9月に資本金を30万円へ増やした。同年10月1日、社名を国産パインミシン株式会社に改めた。資金援助していた大阪市西淀川区のミシン部品工場を1933年4月に吸収して恵美須工場とし、翌年には標準型100種ミシンを月に300〜500台つくるまでになる。1934年には中野に工場を新設し、その敷地に日本洋裁学校を開校し、洋裁界で知られた山口千代子氏を校長に招いた。広告の顧問として招かれた嶋田卓彌氏は、新聞広告への反響を番地別の統計に起こし、1枚15、6円かかっていたカタログ請求カードの単価を1年足らずで5円に、3年目の夏には50銭まで下げる。シンガー社が富裕な家庭を相手にしたのに対し、嶋田氏は赤ん坊を背負って市場へ通う庶民層に的を絞り、写真入りの記事広告を出した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- [15]昭和6年9月、資本金を30万円へ増資した
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [16]1931年10月1日、社名を国産パインミシン株式会社とした
- [17]1933年4月に大阪市西淀川区野里町のミシン部品工場を吸収して国産パインミシン恵美須工場とし、翌年には標準型100種ミシンを月に300〜500台製造するにいたった
- [18]1934年に中野工場の敷地内へ日本洋裁学校を設立し、校長に洋裁界で著名な山口千代子を招聘した
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [19]嶋田卓彌は番地別の反響統計をとり、1枚15、6円だったカタログ請求カードの単価を1年足らずで5円、3年目の夏に50銭まで引き下げた
- [20]シンガーが富裕階級を相手にするのに対し、嶋田は赤ん坊をおぶって市場へ通う庶民階級を対象に据え、写真入り記事広告を出した
1935年春には、月掛予約販売を基盤とする直営店システムを全国へ配置する計画がまとまる。同年10月に資本金を100万円へ増額し、11月に社名を帝国ミシン株式会社と改める。標準型本縫ミシンに採用した半回転式カマの下糸巻管が蛇の目模様に似ているとして業界関係者が蛇の目式ミシンと呼び、旧式の長舟式と区別したことに始まる蛇の目ミシンの商標も、1934年の申請を経て同じ11月に登録された。同じ1935年、手狭になった中野工場に代わる新工場の建設に着手し、池貝鉄工所で技術顧問を務めていた長澤寸美遠氏を迎えた。小金井工場は1937年3月に新館が完成し、月産2,000台の日本最大のミシン製造専門工場となる。
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [21]1935年春には月掛予約販売を基盤とした直営店システムの確立とその全国的配置の計画を打ち出した
- [22]1935年10月に資本金を100万円へ増額し、11月に社名を帝国ミシン株式会社と改称した
- [23]商標「蛇の目ミシン」は1934年に登録申請し1935年11月に登録された。半回転式カマの下糸巻管が蛇の目模様に似ているとして業界関係者が「蛇の目式」ミシンと呼んだことに由来する
- [24]1935年、中野工場が狭小となり新工場の建設に着手し、池貝鉄工所の技術顧問だった長澤寸美遠が同年4月に入社を承諾した
- [25]小金井工場の第2次建設計画による新館が1937年3月に完成し、月産2,000台の生産能力を持つ日本最大のミシン製造専門工場となった
参考文献[11]-[25]
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [11]月賦は月々の支払いの数倍の頭金が必要で、それができずミシンの購入を諦める女性が大多数であり、小瀬はそうした人々こそ大切にすべき顧客層と考えた
- [12]小瀬は不動貯金銀行のニコニコ貯金の積立をミシンに置き換え、積立前受金による満期制度とする月掛予約・月賦販売を1930年秋に創案した
- [13]1930年12月、東京市内の一部で月3円の掛金で買える月掛予約販売を試行した
- [14]大蔵省から銀行法に抵触するおそれを指摘されたが、国産ミシンの育成を訴えて了解を取り付けた
- [16]1931年10月1日、社名を国産パインミシン株式会社とした
- [17]1933年4月に大阪市西淀川区野里町のミシン部品工場を吸収して国産パインミシン恵美須工場とし、翌年には標準型100種ミシンを月に300〜500台製造するにいたった
- [18]1934年に中野工場の敷地内へ日本洋裁学校を設立し、校長に洋裁界で著名な山口千代子を招聘した
- [21]1935年春には月掛予約販売を基盤とした直営店システムの確立とその全国的配置の計画を打ち出した
- [22]1935年10月に資本金を100万円へ増額し、11月に社名を帝国ミシン株式会社と改称した
- [23]商標「蛇の目ミシン」は1934年に登録申請し1935年11月に登録された。半回転式カマの下糸巻管が蛇の目模様に似ているとして業界関係者が「蛇の目式」ミシンと呼んだことに由来する
- [24]1935年、中野工場が狭小となり新工場の建設に着手し、池貝鉄工所の技術顧問だった長澤寸美遠が同年4月に入社を承諾した
- [25]小金井工場の第2次建設計画による新館が1937年3月に完成し、月産2,000台の生産能力を持つ日本最大のミシン製造専門工場となった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- [15]昭和6年9月、資本金を30万円へ増資した
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [19]嶋田卓彌は番地別の反響統計をとり、1枚15、6円だったカタログ請求カードの単価を1年足らずで5円、3年目の夏に50銭まで引き下げた
- [20]シンガーが富裕階級を相手にするのに対し、嶋田は赤ん坊をおぶって市場へ通う庶民階級を対象に据え、写真入り記事広告を出した
1949年〜朝鮮の60分店と軍需転換、商号変更
1937年5月、国産ミシンとして最初の対英輸出を行った。同じ年の7月に日中戦争が始まると外国製ミシンの輸入は途絶えてシンガー社はアジアの市場から撤退し、帝国ミシンは支店網を積極展開して1938年6〜7月の営業成績は創業以来最高を記録した。本社には輸出部を置き、アジア大陸の市場開拓に乗り出す。輸出課長となった前田増三氏は、中国・タイ・インド・ブラジルへ蛇の目ブランドのミシンの直輸出を伸ばした。1939年には常務の安藤喜六氏の指揮のもと、朝鮮全道で現地の人を分店主任とする分店組織に着手し、外国品より安い国産ミシンの直営月賦は迎えられて、2、3年の間に60の分店ができた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- [26]1937年5月、国産ミシン最初の対英輸出を行った
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [27]1937年7月の日中戦争勃発で外国製ミシンの輸入は途絶えシンガー社はアジア市場から撤退し、帝国ミシンは支店網を積極展開して1938年6〜7月の営業成績は創業以来最高を記録した
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [28]アジア大陸の市場開拓に乗り出し本社に輸出部を開設した
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [29]前田増三は会社にはじめて設けた輸出課長となり、中国・タイ・インド・ブラジルへ蛇の目ブランドのミシンの直輸出を伸ばした
- [30]1939年に朝鮮全道で現地人を分店主任とする分店組織に着手し、常務の安藤喜六が指揮して2、3年の間に全鮮で60の分店が設けられた
1938年4月に国家総動員法が公布され、7月の鉄鋼配給統制規則で家庭用ミシンはほぼ配給なしとされた。1940年5月にミシンの公定価格が決まった際、月掛予約販売は販売方法が特異であるとして認可されず、国内市場の48%を占めていた帝国ミシンは打撃を受ける。販売の道が細る一方で、1942年には国内メーカーの生産量の50%を占めるに至っていた。同年7月には月掛予約販売の新規契約を止め、1942年3月には月賦販売も停止し、朝鮮半島の月賦販売は1939年11月に止めて1942年末に撤収を終えた。小金井工場のスイス・シップ社製ジグボール盤を陸軍以外で持つのは帝国ミシンだけであり、1943年6月、海軍は沖電気株式会社と業務提携を締結して新兵器を製作するよう申し入れた。提携は事実上の買収であり、小瀬氏はじめ全役員が退陣する。
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [31]1938年4月に国家総動員法が公布され、7月公布の鉄鋼配給統制規則で家庭用ミシンはほぼ配給なしとされた
- [32]1940年5月にミシンの公定価格が決定された際、月掛予約販売は販売方法が特異であるとして認可されず、国内市場占有率48%の帝国ミシンは大きな打撃を受けた
- [34]1940年7月に月掛予約販売の新規契約を停止し、1942年3月に国内の月賦販売を停止した。朝鮮半島での月賦販売は1939年11月に停止し1942年末に撤収を完了した
- [35]1943年6月、海軍から沖電気株式会社と業務提携を結んで新兵器を製作するよう申し入れがあった。小金井工場のスイス・シップ社製ジグボール盤を陸軍以外で所有するのは帝国ミシンのみであった
- [36]提携は事実上の買収であったことから、小瀬はじめ全役員が退陣した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- [33]昭和17年には国内メーカー生産の50%を生産するに至った
1944年2月、帝国精機製造株式会社と改称し、敵潜水艦をとらえる水中電波探知器の製作にあたった。1945年3月15日の東京大空襲では日本橋加賀ビルの本社が焼失し、国内50余りの直営支店も全面閉鎖となる。同年10月、商号を帝国ミシン株式会社へ戻した。戦災を免れた小金井工場は従業員400人で製造を再開し、2か月後には月産1,000台に乗せた。ミシン製造会では帝国ミシン代表の前田増三氏が主導し、1947年に家庭用HA-1型の標準図面を、1949年には部品を含む全国統一の規格寸法を制定した。前田氏らは小瀬氏ら旧経営陣の復帰を求めたが社内の投票に敗れて退社し、1948年2月にリッカーミシン株式会社を創立する。1949年1月、商号を蛇の目ミシン株式会社に改めた。
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [37]1944年2月に帝国精機製造株式会社と改称し、敵潜水艦をとらえる水中電波探知器である音響兵器の製作要請を受けた
- [38]1945年3月15日の東京大空襲で日本橋加賀ビルの本社が焼失し、ほどなく国内五十余の直営支店が全面閉鎖となった
- [40]戦災を免れた小金井工場は従業員400人でミシン製造を再開し、2か月後には月産1,000台に乗せた
- [41]ミシン製造会は帝国ミシン代表の前田主導のもと1947年に家庭用HA-1型の標準図面を完成させ、1949年に部品を含めた全国統一の規格寸法を制定した
- [42]小瀬ら旧役員を復帰させようとして失敗し退社した前田らは、理化学工業社長の平木信二とともに1948年2月にリッカーミシン株式会社を創立した
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [39]終戦の年の10月、再び帝国ミシン株式会社に商号復帰した
- ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
- [43]1949年1月、蛇の目ミシン株式会社へ商号変更した
参考文献[26]-[43]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- [26]1937年5月、国産ミシン最初の対英輸出を行った
- [33]昭和17年には国内メーカー生産の50%を生産するに至った
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- [27]1937年7月の日中戦争勃発で外国製ミシンの輸入は途絶えシンガー社はアジア市場から撤退し、帝国ミシンは支店網を積極展開して1938年6〜7月の営業成績は創業以来最高を記録した
- [31]1938年4月に国家総動員法が公布され、7月公布の鉄鋼配給統制規則で家庭用ミシンはほぼ配給なしとされた
- [32]1940年5月にミシンの公定価格が決定された際、月掛予約販売は販売方法が特異であるとして認可されず、国内市場占有率48%の帝国ミシンは大きな打撃を受けた
- [34]1940年7月に月掛予約販売の新規契約を停止し、1942年3月に国内の月賦販売を停止した。朝鮮半島での月賦販売は1939年11月に停止し1942年末に撤収を完了した
- [35]1943年6月、海軍から沖電気株式会社と業務提携を結んで新兵器を製作するよう申し入れがあった。小金井工場のスイス・シップ社製ジグボール盤を陸軍以外で所有するのは帝国ミシンのみであった
- [36]提携は事実上の買収であったことから、小瀬はじめ全役員が退陣した
- [37]1944年2月に帝国精機製造株式会社と改称し、敵潜水艦をとらえる水中電波探知器である音響兵器の製作要請を受けた
- [38]1945年3月15日の東京大空襲で日本橋加賀ビルの本社が焼失し、ほどなく国内五十余の直営支店が全面閉鎖となった
- [40]戦災を免れた小金井工場は従業員400人でミシン製造を再開し、2か月後には月産1,000台に乗せた
- [41]ミシン製造会は帝国ミシン代表の前田主導のもと1947年に家庭用HA-1型の標準図面を完成させ、1949年に部品を含めた全国統一の規格寸法を制定した
- [42]小瀬ら旧役員を復帰させようとして失敗し退社した前田らは、理化学工業社長の平木信二とともに1948年2月にリッカーミシン株式会社を創立した
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [28]アジア大陸の市場開拓に乗り出し本社に輸出部を開設した
- [39]終戦の年の10月、再び帝国ミシン株式会社に商号復帰した
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [29]前田増三は会社にはじめて設けた輸出課長となり、中国・タイ・インド・ブラジルへ蛇の目ブランドのミシンの直輸出を伸ばした
- [30]1939年に朝鮮全道で現地人を分店主任とする分店組織に着手し、常務の安藤喜六が指揮して2、3年の間に全鮮で60の分店が設けられた
- ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
- [43]1949年1月、蛇の目ミシン株式会社へ商号変更した
筆者考察
パイン裁縫機械製作所に集まった3人が持ち寄ったのは、龜松茂氏の機械の腕と、小瀬與作氏の商いの経験だけであった。1929年に完成した標準型本縫ミシンは、定価145円を特価116円まで下げても売れなかった。この会社を立たせたのはミシンそのものではなく、支払いの側の設計である。頭金の一時払いを積立の満期に置き換えた月掛予約販売は、不動貯金銀行のニコニコ貯金を下敷きにしており、月3円という額が、頭金を用意できずに購入を諦めていた女性たちを買い手に変えた。小瀬氏が大切にすべき顧客層と見たのは、まさにそこであった。
買い手を先に囲い込む仕組みであったから、それを止められたときの打撃も大きかった。1940年の公定価格で月掛予約販売が販売方法の特異を理由に認可されなかったとき、国内市場の48%を握っていた帝国ミシンが失ったのは売上の一部ではなく、需要を先に確保する仕掛けそのものである。小金井工場のスイス・シップ社製ジグボール盤は海軍の関心を引き、1943年の沖電気との提携は事実上の買収となって、小瀬氏以下の全役員が退いた。会社に残ったのは工場と蛇の目の商標であり、月掛予約を組み立てた人々は社外へ散る。戦後の再建がこの人々を呼び戻すところから始まるのは、そのためであった。
出典・参考
5件
- ジャノメ 有価証券報告書【沿革】
- ジャノメ100年史(ジャノメ、2021年)第1部「創業からの半世紀」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」