嶋田卓彌
経歴1934〜1968年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1934年主要役職の状況(推定含む目安)1968年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間企業 | |||||
| 民間企業 | 国産パインミシン(のち帝国ミシン。現ジャノメ) | 1934 | 入社 | ||
| 1943 | 退社 | ||||
| リッカーミシン | 1948 | 専務取締役 | |||
| 1952 | 退任 | ||||
| 蛇の目ミシン工業(現ジャノメ) | 1953 | 入社 | |||
| 1961 | 取締役社長 | ||||
| 1968 | 社長 退任 | ||||
| 1968 | 相談役 | ||||
社長就任までの出自
出自
1901年に京都市上京区で医師の家に生まれたが、父の死で家計が傾き、尋常小学校を卒業前にやめて大阪・船場の呉服問屋に丁稚として入った。京都のラシャ問屋で手代を務めたのち、1925年に卓彌商店を創業してラシャ地の一着売りを始めた。広告と企画の請負に転じ、国産パインミシンの専務だった小瀬與作氏に招かれて同社の新聞広告を受け持ち、反響の統計を取ってカタログ請求1枚あたりの費用を15、6円から50銭まで下げた。1934年に企画宣伝部長として帝国ミシンの前身に入り、メーカーが家庭へ直接予約月賦で売るための直営支店網を進言した。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1961年、社長の山田忍三氏が健康上の理由で辞意を示しながら会長として残ることを望み、横井英樹氏らが山田忍三氏を支持したことで、3月28日の株主総会は流会の宣言と乱闘に終わった。副社長だった嶋田卓彌氏は井田英一氏(副社長)と連名で従業員に結束を求め、8,000人の従業員と150万人の予約者への責任を掲げた。五人委員会と七人委員会の調停で騒ぎが収まり、同年6月に副社長から社長に就任した。1953年の復帰から直営店網を組み直してきた当事者が、そのまま経営を引き継いだ。
中興ストーリー
中興ストーリー
在任中の主な施策
嶋田卓彌氏:在任中の施策
社長就任の翌年の1962年7月に資本金を7億5,000万円へ増やし、9月に東京と大阪の証券取引所の第二部へ株式を公開した。就任時に281店だった直営支店は3年後に460店となり、月間の出荷台数は3万台から倍増した。1964年には欧州で最大のミシンメーカーである西独のパフ社と提携し、ドリーナミシン有限会社を設けた。1965年には商標を片仮名のジャノメに改め、京橋に本社の新社屋を構えた。1968年11月、前田増三氏(副社長)に社長を譲った。
参考文献4件
参考文献
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- 日経ビジネス 1977年11月21日号「嶋田卓彌氏(蛇の目ミシン工業相談役)いまは欠陥を除くことが先決です」
- 日本企業要覧 1965年版「蛇の目ミシン工業」
- 日本企業要覧 1969年版「蛇の目ミシン工業」
事実根拠:出所(ジャノメ)