ジャノメ:ニューホームミシン買収と東証一部上場
1950年〜債権者が呼んだ再建屋と、社外に出ていた月掛予約の組織
1950年4月、元白木屋社長の山田忍三氏が社長に就任した。山田氏は大口債権者の依頼を受けて経営の建て直しにあたった人物で、自らを企業のクリーニング屋と称していた。同年6月、資本金500万円で新会社の蛇の目産業株式会社を設立し、蛇の目ミシン株式会社の設備と経営の一切を譲り受けてその事業を継承する。債務を負った旧会社から事業だけを移す再建の形であった。ただし新会社が引き継いだのは小金井工場と蛇の目の商標であって、戦前に国内市場の半ばを取らせた月掛予約販売の組織ではない。それを組み立て、動かしてきた人々は、このとき社外にいた。
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [1]1950年4月、蛇の目中興の祖といわれた山田忍三が社長に就任した
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [2]元白木屋社長で自ら企業のクリーニング屋と称する山田忍三が、大口債権者の依頼を受けて蛇の目の経営建て直しにあたっていた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- [3]1950年6月、資本金500万円で新会社の蛇の目産業を設立し、蛇の目ミシンの設備・経営の一切を譲り受けてその事業を継承した
戦後の販売は各地の特約代理店に委ねられ、その代理店販売が赤字を生んでいた。月掛予約販売は1940年に公定価格の下で認可されず止まったままで、再開は1952年4月まで待つことになる。一方、1943年に帝国ミシンを退いた嶋田卓彌氏は、1948年に理化学工業と旧経営陣の折半出資でリッカーミシン株式会社を立ち上げ、専務として予約月賦の組織を二度目に組み上げていた。ところが月掛予約という事業の理念をめぐって社長と業務担当の幹部が対立し、1952年春、小瀬與作氏・前田増三氏ら旧蛇の目の役員が連袂辞任する。嶋田氏も責を負って専務を辞し、11人が同時に職を失った。
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [4]山田忍三が建て直しにあたっていた当時の蛇の目は代理店販売の赤字経営だった
- [6]1948年、資本金19万5000円を理化学工業と前田側の折半出資としてリッカーミシンを設立し、社長は平木信二、嶋田卓彌は専務に就いた
- [7]月掛け予約という事業の経営理念をめぐり社長の平木信二と前田増三以下の業務担当幹部が対立し、小瀬與作・前田増三ら旧蛇の目の重役陣が連袂辞任した
- [8]嶋田卓彌も責を負ってリッカーの専務を辞任し、自身を含む11人が同時に職を失った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- [5]新発足後の1952年4月に月掛月賦販売を再開した
1953年1月3日、嶋田氏は熱海伊豆山の旅館で山田氏と会った。山田氏は社内の反対を抑えてでも再建にはこの11人が要ると見ており、給与が高く老齢者もいるとして値切ろうとした。嶋田氏は、より好みをされては困ると押し返し、11人を一括で雇い入れる以外に蛇の目の復興はないと説く『私は十一本のきゅうりを“ひと束いくら”で売るんですよ。より食いされては困ります。いずれにしても“束ねて買う”ことによって、はじめて「蛇の目」は復興します』。出した条件は3つで、直営月賦を一切任せること、製造と販売が別会社では直営組織が立たないため合併して一つの会社にすること、11人から3名を役員に入れることであった。山田氏が返した条件は、一生いばらせろという一つだけであった。11人は昭和通りの販売会社で半年かけて予約販売の計画を練った。
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [9]1953年1月3日、嶋田卓彌は山田忍三の常宿である熱海伊豆山の相模屋で会談した
- [10]山田忍三は社内の反対気運を押さえて蛇の目再建には11人の力が必要と感じていたが、自社より給与が高く老齢者もいるとして値切ろうとした
- [11]嶋田卓彌は、より食いされては困る、「束ねて買う」ことによってはじめて蛇の目は復興すると主張した
- [12]嶋田卓彌が出した条件は、直営月賦を一切任せること、製造と販売の別会社を合併して一つにすること、11人から3名を役員に入れることの3つだった
- [13]条件を呑んだ山田忍三が出した唯一の条件は、そのかわり自分に一生いばらせろというものだった
- [14]11人はそれから半年、昭和通りの蛇の目販売会社で予約販売の計画と準備を練った
参考文献[1]-[14]
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [1]1950年4月、蛇の目中興の祖といわれた山田忍三が社長に就任した
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [2]元白木屋社長で自ら企業のクリーニング屋と称する山田忍三が、大口債権者の依頼を受けて蛇の目の経営建て直しにあたっていた
- [4]山田忍三が建て直しにあたっていた当時の蛇の目は代理店販売の赤字経営だった
- [6]1948年、資本金19万5000円を理化学工業と前田側の折半出資としてリッカーミシンを設立し、社長は平木信二、嶋田卓彌は専務に就いた
- [7]月掛け予約という事業の経営理念をめぐり社長の平木信二と前田増三以下の業務担当幹部が対立し、小瀬與作・前田増三ら旧蛇の目の重役陣が連袂辞任した
- [8]嶋田卓彌も責を負ってリッカーの専務を辞任し、自身を含む11人が同時に職を失った
- [9]1953年1月3日、嶋田卓彌は山田忍三の常宿である熱海伊豆山の相模屋で会談した
- [10]山田忍三は社内の反対気運を押さえて蛇の目再建には11人の力が必要と感じていたが、自社より給与が高く老齢者もいるとして値切ろうとした
- [11]嶋田卓彌は、より食いされては困る、「束ねて買う」ことによってはじめて蛇の目は復興すると主張した
- [12]嶋田卓彌が出した条件は、直営月賦を一切任せること、製造と販売の別会社を合併して一つにすること、11人から3名を役員に入れることの3つだった
- [13]条件を呑んだ山田忍三が出した唯一の条件は、そのかわり自分に一生いばらせろというものだった
- [14]11人はそれから半年、昭和通りの蛇の目販売会社で予約販売の計画と準備を練った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- [3]1950年6月、資本金500万円で新会社の蛇の目産業を設立し、蛇の目ミシンの設備・経営の一切を譲り受けてその事業を継承した
- [5]新発足後の1952年4月に月掛月賦販売を再開した
1954年〜600の特約代理店を直営店へ塗り替えた6年
1954年5月、蛇の目ミシン各地販売株式会社を吸収合併し、商号を蛇の目ミシン工業株式会社に改めた。製造と販売を一つの会社にせよという条件が、ここで履行された。つくり手は高く売りたがり、売り手は安く買いたがる。その利害の対立を、会社の境目ごと消す狙いであった。前田増三氏が取締役営業部長として支店長の販売教育を、川本日出生氏が取締役工場長として生産を担い、常務の嶋田氏は全般の企画と全国の旧代理店の接収にあたる。国内には600近い特約代理店があり、一軒ずつ話をつけて直営店へ塗り替えていく作業となった。1955年時点の直営支店は全国40か所、輸出先は63か国に及んでいた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- [15]1954年5月に蛇の目ミシン各地販売株式会社を吸収合併し、現在の社名である蛇の目ミシン工業へ変更した
- [19]1955年時点で全国40か所に直営支店を擁し、海外63か国に製品を輸出していた
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [16]製造と販売が別会社では製造部門は高く売りたがり販売部門は安く買いたがるため直営組織は成功しない、として合併を条件にした
- [17]支店長のセールス教育は取締役営業部長の前田増三、生産は取締役工場長の川本日出生が担い、常務の嶋田卓彌は全般の企画と全国旧代理店の接収にあたった
- [18]復帰時には国内に600近い特約代理店が存在し、話し合いをつけて直営店に塗り替える必要があった
1954年、シンガー社の日本上陸が業界の問題となった。戦後まだ立ち直っていない国内のミシン企業にとって、資本力で勝る先発社の参入は容易ならざる事態であった。嶋田氏は出張先の宇部で方策を立て、業界を一丸としてシンガー進出反対期成同盟をつくり、山田社長を先頭に国会へ陳情し、すわり込みの手段をとる。関係官庁も事の重大さを認め、シンガー社とパイン社の提携すなわちSP問題の許可は3年余り延びた。この3年は日本のミシン業界にとってきわめて貴重な時間を稼ぐ結果になったと、嶋田氏はのちに書いている。終戦直後に前田氏が提唱した日本のミシン部品のメートル法による規格統一も、この間の原価低下を支える力となった。
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [20]1954年、まだ直営組織が一歩踏み出したころにシンガーの日本上陸という事件が起きた
- [21]戦後満足に立ち直っていない日本のミシン企業にとってシンガーの上陸は容易ならざることだった
- [22]嶋田卓彌は出張先の宇部の旅館でシンガー上陸阻止方策を立案し、業界を一丸としてシンガー進出反対期成同盟をつくり、山田社長を先頭に国会陳情とすわり込みを行った
- [23]関係官庁も重大さを悟り、シンガーとパインの提携すなわちSP問題の許可は3年余り延びた
- [24]この3年が日本のミシン業界にとってきわめて貴重な時を稼ぐ結果となったと嶋田卓彌は述べている
- [25]終戦直後に前田増三が提唱した日本のミシン部品のメートル法への規格統一がコストの低下をはかり、大きな力となっていた
復帰から6年目の1959年、全国の直営店は156店、売上高は年46億円と当初の約12倍に達した。工員1人当たりの月産は7.5台から24.3台へ3.3倍となり、原価は33%低下する。下請けへの支払手形は90日から60日、30日へと短縮し、見込みのある工場には技術援助とともに設備資金を貸し付けた。利益は当初のゼロから1959年には6億7000万円となり、山田氏の就任時に整理で引き下げられていた従業員の賃金も60%増まで戻った。小金井工場では新鋭機の導入が進み、1958年には月間出荷が2万台を超えてJIS実施優良工場の認定を受ける。
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [26]復帰してから6年目の1959年には全国直営店156店、売上は年46億円と当初の約12倍に伸びた
- [27]当初は工員1人当たり月7.5台だった生産が6年目には24.3台と約3.3倍になり、原価は33%低下した
- [28]下請け購買関係の支払手形を当初の90日から60日、30日へ短縮し、有望な下請け工場には技術援助と設備資金を貸し付けた
- [29]利益は当初のゼロから1959年には6億7000万円となり、山田社長就任時に整理で引き下げた従業員賃金も60%増に回復した
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [30]小金井工場では新鋭機を導入し、1958年には月間出荷台数が2万台を超え、のちJIS実施優良工場の認定を受けた
参考文献[15]-[30]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- [15]1954年5月に蛇の目ミシン各地販売株式会社を吸収合併し、現在の社名である蛇の目ミシン工業へ変更した
- [19]1955年時点で全国40か所に直営支店を擁し、海外63か国に製品を輸出していた
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [16]製造と販売が別会社では製造部門は高く売りたがり販売部門は安く買いたがるため直営組織は成功しない、として合併を条件にした
- [17]支店長のセールス教育は取締役営業部長の前田増三、生産は取締役工場長の川本日出生が担い、常務の嶋田卓彌は全般の企画と全国旧代理店の接収にあたった
- [18]復帰時には国内に600近い特約代理店が存在し、話し合いをつけて直営店に塗り替える必要があった
- [20]1954年、まだ直営組織が一歩踏み出したころにシンガーの日本上陸という事件が起きた
- [21]戦後満足に立ち直っていない日本のミシン企業にとってシンガーの上陸は容易ならざることだった
- [22]嶋田卓彌は出張先の宇部の旅館でシンガー上陸阻止方策を立案し、業界を一丸としてシンガー進出反対期成同盟をつくり、山田社長を先頭に国会陳情とすわり込みを行った
- [23]関係官庁も重大さを悟り、シンガーとパインの提携すなわちSP問題の許可は3年余り延びた
- [24]この3年が日本のミシン業界にとってきわめて貴重な時を稼ぐ結果となったと嶋田卓彌は述べている
- [25]終戦直後に前田増三が提唱した日本のミシン部品のメートル法への規格統一がコストの低下をはかり、大きな力となっていた
- [26]復帰してから6年目の1959年には全国直営店156店、売上は年46億円と当初の約12倍に伸びた
- [27]当初は工員1人当たり月7.5台だった生産が6年目には24.3台と約3.3倍になり、原価は33%低下した
- [28]下請け購買関係の支払手形を当初の90日から60日、30日へ短縮し、有望な下請け工場には技術援助と設備資金を貸し付けた
- [29]利益は当初のゼロから1959年には6億7000万円となり、山田社長就任時に整理で引き下げた従業員賃金も60%増に回復した
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [30]小金井工場では新鋭機を導入し、1958年には月間出荷台数が2万台を超え、のちJIS実施優良工場の認定を受けた
1960年〜ニューホーム買収と乱闘総会を経た株式の公開
1960年7月、山田社長の下で嶋田氏が担当し、米国で100年の歴史を持つニューホームミシン社を買収した。全株式を取得して米国における販路を確保する買収で、1965年時点の取得価格は1億821万円と記録されている。輸出額は総売上高から見れば大きな比重ではなかったが、商社に完成品を渡す輸出から、現地の販売会社を自社で保有する体制へ切り替えた点に意味があった。1964年時点の主要な販売先にはニューホームミシンとジョーンズミシン商会が並んでいる。国内で外資の参入を3年遅らせた会社が、同じ時期に相手の本国で販売網を買い取ったことになる。
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [31]1960年7月、山田社長の下で嶋田卓彌が担当し、米国で100年の歴史を持つニューホームミシンを買収した
- 株式会社年鑑 1964年版「蛇の目ミシン工業」
- [32]ニューホームミシンの全株式を買収して米国における販路を確保した
- [34]1962年12月期時点の主なる取引先の販売先としてニューホームミシン、ジョーンズミシン商会などが挙がっている
- 日本企業要覧 1966年版「蛇の目ミシン工業」
- [33]1965年9月末時点でニューホームミシン株300株を1億821万円で所有し、輸出は総売上高から見れば大きくないもののアメリカ市場に加え欧州へ力を入れていた
1961年3月28日の株主総会は、流会の宣言と乱闘に終わった。健康上の理由で辞意を表明した山田氏が会長として残ることを望んだものの実現せず、白木屋の買い占めで知り合った横井英樹氏らが山田氏の側についたためであった。嶋田氏は井田副社長と連名で従業員の結束を訴え、8000人の従業員とその家族、100余社の下請け、全国150万人の予約者に対する責任を説いた。予約者へミシンを引き渡す義務を負う以上、会社は個人のものではないという理屈であった。事態は五人委員会と七人委員会の調停で落着し、同年6月、嶋田氏が副社長から社長に就任する。
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [35]1961年3月28日の総会で山田社長は議長席につくなり流会を宣言し、乱闘総会となった
- [36]健康上の理由で辞意を表明した山田忍三は引き続き会長になるつもりだったが実現せず、白木屋乗っ取り事件で知り合った横井英樹、鈴木一弘、清水行之助らが山田側についた
- [37]嶋田卓彌は井田副社長と連名で全従業員の結束を訴え、当時の従業員8000人とその家族、100余社の下請け工場、全国150万人の予約者を挙げた
- [38]蛇の目は山田個人のものではなく、予約者にかならずミシンを引き渡す社会的な企業として正しく運営する義務があると嶋田卓彌は訴えた
- [39]この事件は五人委員会と七人委員会の尽力で落着し、1961年6月に嶋田卓彌が副社長から社長に就任した
1962年7月に資本金を7億5000万円へ増資し、同年9月4日、東京証券取引所と大阪証券取引所の第二部へ株式を公開した。同年12月期の売上高は67億2090万円、当期純利益は2億4937万円で、従業員は3,796人、家庭用ミシンの生産実績は221,046台であった。嶋田氏の就任時に月間出荷3万台・直営支店281店だったものが、3年後には出荷が倍増し直営店は460を数える。翌1963年には倍額増資に進み、1964年には欧州最大のミシンメーカーである西独パフ社と提携してドリーナミシン有限会社を設立した。
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [40]1962年7月に資本金を7億5000万円へ増資し、同年9月に東京・大阪証券取引所へ公開上場した
- [42]1961年の嶋田社長就任当時は月間出荷3万台、直営支店281店だったが、3年後には出荷が倍増し全国直営店は460を数えた
- [43]公開上場の翌年に倍額増資へ進み、1964年に欧州最大のミシンメーカーである西独パフ社と業務提携してドリーナミシン有限会社を設立した
- 株式会社年鑑 1964年版「蛇の目ミシン工業」
- [41]1962年12月期の売上高は6,720,905千円、当期純利益は249,372千円、従業員は3,796人、家庭用ミシンの生産実績は221,046台で、上場市場は東京第二部(1962年9月4日上場開始)と大阪第二部だった
1965年、商標をカナ文字のジャノメに改め、Jを図案化した社章とともに一新した。同年4月には京橋に本社新社屋を構え、小金井には技術研究所を置く。製品は家庭用ミシンだけで占められ、その内訳は直線縫いが45%、ジグザグが55%と高付加価値の機種へ移っていた。1966年3月期の売上高は94億845万円、月掛予約の契約高は463億9138万円、契約残高は225万口に達する。会社の実体は工場よりも、全国の家庭と結んだ予約の束のほうにあった。1967年4月にダイヤルスーパーを出すと、同年9月の中間期に半期売上高が初めて100億円を超えた。翌1968年9月の中間期は125億円強となり、同年の従業員は4,417名、全国500の直営店に約5,500名の販売員を置いていた。
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [44]1965年に商標名をカナ文字綴りのジャノメとしたのを契機に、JANOMEのイニシャルJを図案化した社章及び商標へ一新した
- [48]1967年4月にスーパー機構を備えたダイヤルスーパーを発売し、1967年9月期は初めて半期売上高が100億円を突破した
- [49]1968年9月期の売上高は125億円強に増大し、従業員は4,417名、全国直営500店に約5,500名のセールスマンを置いていた
- 日本企業要覧 1966年版「蛇の目ミシン工業」
- [45]1965年4月に本社新社屋がジャノメ・レディスセンターとして東京京橋に完成し、技術研究所は東京都小金井市本町に置かれた
- [46]1966年時点の売上は家庭用ミシン100%で、その内訳は直線45%、ジグザグ55%だった
- [47]1966年3月期の売上高は9,408,495千円、月掛予約契約高は46,391,388千円、予約販売の契約残高は225万口で前期比6万口増だった
参考文献[31]-[49]
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- [31]1960年7月、山田社長の下で嶋田卓彌が担当し、米国で100年の歴史を持つニューホームミシンを買収した
- [35]1961年3月28日の総会で山田社長は議長席につくなり流会を宣言し、乱闘総会となった
- [36]健康上の理由で辞意を表明した山田忍三は引き続き会長になるつもりだったが実現せず、白木屋乗っ取り事件で知り合った横井英樹、鈴木一弘、清水行之助らが山田側についた
- [37]嶋田卓彌は井田副社長と連名で全従業員の結束を訴え、当時の従業員8000人とその家族、100余社の下請け工場、全国150万人の予約者を挙げた
- [38]蛇の目は山田個人のものではなく、予約者にかならずミシンを引き渡す社会的な企業として正しく運営する義務があると嶋田卓彌は訴えた
- [39]この事件は五人委員会と七人委員会の尽力で落着し、1961年6月に嶋田卓彌が副社長から社長に就任した
- 株式会社年鑑 1964年版「蛇の目ミシン工業」
- [32]ニューホームミシンの全株式を買収して米国における販路を確保した
- [34]1962年12月期時点の主なる取引先の販売先としてニューホームミシン、ジョーンズミシン商会などが挙がっている
- [41]1962年12月期の売上高は6,720,905千円、当期純利益は249,372千円、従業員は3,796人、家庭用ミシンの生産実績は221,046台で、上場市場は東京第二部(1962年9月4日上場開始)と大阪第二部だった
- 日本企業要覧 1966年版「蛇の目ミシン工業」
- [33]1965年9月末時点でニューホームミシン株300株を1億821万円で所有し、輸出は総売上高から見れば大きくないもののアメリカ市場に加え欧州へ力を入れていた
- [45]1965年4月に本社新社屋がジャノメ・レディスセンターとして東京京橋に完成し、技術研究所は東京都小金井市本町に置かれた
- [46]1966年時点の売上は家庭用ミシン100%で、その内訳は直線45%、ジグザグ55%だった
- [47]1966年3月期の売上高は9,408,495千円、月掛予約契約高は46,391,388千円、予約販売の契約残高は225万口で前期比6万口増だった
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- [40]1962年7月に資本金を7億5000万円へ増資し、同年9月に東京・大阪証券取引所へ公開上場した
- [42]1961年の嶋田社長就任当時は月間出荷3万台、直営支店281店だったが、3年後には出荷が倍増し全国直営店は460を数えた
- [43]公開上場の翌年に倍額増資へ進み、1964年に欧州最大のミシンメーカーである西独パフ社と業務提携してドリーナミシン有限会社を設立した
- [44]1965年に商標名をカナ文字綴りのジャノメとしたのを契機に、JANOMEのイニシャルJを図案化した社章及び商標へ一新した
- [48]1967年4月にスーパー機構を備えたダイヤルスーパーを発売し、1967年9月期は初めて半期売上高が100億円を突破した
- [49]1968年9月期の売上高は125億円強に増大し、従業員は4,417名、全国直営500店に約5,500名のセールスマンを置いていた
筆者考察
1950年に山田忍三氏が引き受けた蛇の目は、工場と商標を持ちながら売り方を持たない会社であった。各地の代理店に委ねた販売は赤字を生み、月掛予約の再開は1952年4月まで待つことになる。山田氏が熱海の旅館で嶋田卓彌氏から買ったのは、11人という人数ではない。戦前の帝国ミシンと戦後のリッカーミシンで二度組み上げられた予約月賦の組織そのものであった。給与の高さを理由に値切ろうとした山田氏に対し、嶋田氏がより好みを拒んで束で売ると言い張ったのは、この組織が優秀な個人の寄せ集めではなく、分解すれば働かない一個の仕組みだったからである。
11人が出した3つの条件のうち、製造と販売の合併が最も重い。1954年の吸収合併で蛇の目ミシン工業となったのは商号の話ではなく、つくり手は高く売りたがり売り手は安く買いたがるという利害の衝突を、会社の境目ごと消す作業であった。600の特約代理店を直営店へ塗り替えた6年で、売上高は46億円と約12倍になり、工員1人当たりの月産は7.5台から24.3台へ伸びて原価は33%下がる。販売を自前で握ったことが、生産の効率まで引き上げた。1966年3月期に463億円の予約契約高と225万口の契約残高を抱えたこの会社の資産は、小金井の設備よりも、全国の家庭と結んだ約束のほうにあった。
出典・参考
5件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「蛇の目ミシン工業」
- 株式会社年鑑 1964年版「蛇の目ミシン工業」
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「蛇の目ミシン工業」
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社、1980年)「嶋田卓彌」
- 日本企業要覧 1966年版「蛇の目ミシン工業」