第1章 年〜年

小森コーポレーション:小森機械製作所の創業とオフセット印刷機械の完成

1923年〜震災50日目に本所で看板を掲げた小森機械製作所と、四六半裁のオフセット1号機

1923年10月20日、小森善七氏と弟の小森善一氏は、東京・本所の焼け跡に小森機械製作所を創業した。叔父の小森竹蔵氏が興した小森鉄工所は、同年9月1日の関東大震災で工場を失っている。兄弟は郷里の福井で父の小森善吉氏と協議し、当主の小森善三郎氏が事業を継ぐか否かに関係なく、東京で平版印刷機の工場を独立して興すと決めた。協議を主導したのは、上京から7年間にわたり石版印刷機の製造に携わった小森善一氏である。4年間営業を担った小森善七氏も東京に定住する意思を固め、兄が経営、弟が技術を受け持つ分担が決まった。工場は敷地150坪・建屋40坪のバラックで、震災から50日目の操業開始だった。東京の石版印刷機メーカーの多くが同時に被災しており、早く再開すれば修理と新台の注文を取り込めると兄弟は読んだのだろう。

  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [1]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [2]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [3]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [4]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [5]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [6]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [7]焼跡に簡単なバラックを建て「小森機械製作所」の看板を揚げた。敷地500平方メートル

小森機械製作所は手引石版印刷機の量産に入る一方、動力で動く石版ロール印刷機の開発を進め、1925年に完成させた。小森善一氏はクランクモーションギヤを二重ギヤに改め、横揺れを抑えて毎分28〜29枚の印刷能力を得た。翌1926年、小森善一氏は手差式の四六半裁オフセット印刷機を試作し始めた。1919年に凸版印刷・秀英舎・精美堂を含む6社が日本HB特許を設立し、精美堂と秀英舎は後に別方式の製版装置も導入した。大手各社の写真製版が動き出すと、業界ではオフセットが平版印刷の主流と見なされた。小森機械製作所は石版機械の需要は今後減少すると判断し、オフセット機の開発を死活問題と位置づけた。輸入機はどれも給紙を自動化しており、手差式から入ったのは価格で輸入機と競合しない領域を選んだためと推察される。

  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [8]1925年(創業3年目)に石版ロール印刷機を完成。二重ギヤで横揺れを防ぎ毎分28〜29枚。翌1926年に手差式四六半裁オフセット機の試作に着手。大手印刷会社のプロセス平版導入で平版印刷はオフセットへ移った。輸入機はすべて自動給紙機付き
    • [9]1925年(創業3年目)に石版ロール印刷機を完成。二重ギヤで横揺れを防ぎ毎分28〜29枚。翌1926年に手差式四六半裁オフセット機の試作に着手。大手印刷会社のプロセス平版導入で平版印刷はオフセットへ移った。輸入機はすべて自動給紙機付き
    • [11]1925年(創業3年目)に石版ロール印刷機を完成。二重ギヤで横揺れを防ぎ毎分28〜29枚。翌1926年に手差式四六半裁オフセット機の試作に着手。大手印刷会社のプロセス平版導入で平版印刷はオフセットへ移った。輸入機はすべて自動給紙機付き
    • [12]1925年(創業3年目)に石版ロール印刷機を完成。二重ギヤで横揺れを防ぎ毎分28〜29枚。翌1926年に手差式四六半裁オフセット機の試作に着手。大手印刷会社のプロセス平版導入で平版印刷はオフセットへ移った。輸入機はすべて自動給紙機付き
    • [13]1925年(創業3年目)に石版ロール印刷機を完成。二重ギヤで横揺れを防ぎ毎分28〜29枚。翌1926年に手差式四六半裁オフセット機の試作に着手。大手印刷会社のプロセス平版導入で平版印刷はオフセットへ移った。輸入機はすべて自動給紙機付き
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [10]クランクモーションギヤを二重ギヤに改良し28、29枚のスピードを実現。石版機械は先細りと判断し、オフセットの開発を死活問題と考えた
    • [14]クランクモーションギヤを二重ギヤに改良し28、29枚のスピードを実現。石版機械は先細りと判断し、オフセットの開発を死活問題と考えた

1928年10月、小森善一氏が手がけた手差式のあおり型オフセット印刷機の第1号機が完成。1927年3月の金融恐慌から続く不況で買い手は見つからず、据え付けは半年後の1929年春、三田四国町の栄文堂印刷所となった。小森機械製作所は据え付けを機にオフセット機を完成させたと公表した。1号機は見当のずれや印刷のかすれで順調に稼働せず、小森善一氏は同社に泊まり込んで不良箇所の究明に当たった。半年後には新たに製作した機械と交換し、改良を反映した第2号機は光画房プロセス社に納入されてクレームなく稼働した。当時は講談社の月刊誌「キング」が100万部を超え、表紙と口絵の色刷りをオフセット機で刷る注文は中堅の印刷業者にも広がった。石版機の経験だけではオフセットの精度要求を満たせず、納入先で直す工程が開発の一部になったと思われる。

  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [15]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
    • [17]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
    • [19]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
    • [20]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
    • [22]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
    • [24]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [16]1号機は昭和3年10月完成、不況で買手探しに苦労し半年後に大熊栄文堂の三田四国町工場に納入。見当はずれ・かすれが出て善一が泊り込みで調整。改良した2号機は光画房に納入
    • [18]1号機は昭和3年10月完成、不況で買手探しに苦労し半年後に大熊栄文堂の三田四国町工場に納入。見当はずれ・かすれが出て善一が泊り込みで調整。改良した2号機は光画房に納入
    • [21]1号機は昭和3年10月完成、不況で買手探しに苦労し半年後に大熊栄文堂の三田四国町工場に納入。見当はずれ・かすれが出て善一が泊り込みで調整。改良した2号機は光画房に納入
    • [23]1号機は昭和3年10月完成、不況で買手探しに苦労し半年後に大熊栄文堂の三田四国町工場に納入。見当はずれ・かすれが出て善一が泊り込みで調整。改良した2号機は光画房に納入
参考文献[1]-[24]
  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [1]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [2]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [3]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [4]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [5]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [6]関東大震災で小森鉄工所が焼失し、兄弟は父善吉と協議のうえ東京で平版印刷機製造の工場を独立創業すると決めた。協議を主導したのは石版印刷機製造に7年従事した善一。1923年10月20日、敷地150坪・建屋40坪で小森機械製作所の看板を掲げた(震災50日目)
    • [8]1925年(創業3年目)に石版ロール印刷機を完成。二重ギヤで横揺れを防ぎ毎分28〜29枚。翌1926年に手差式四六半裁オフセット機の試作に着手。大手印刷会社のプロセス平版導入で平版印刷はオフセットへ移った。輸入機はすべて自動給紙機付き
    • [9]1925年(創業3年目)に石版ロール印刷機を完成。二重ギヤで横揺れを防ぎ毎分28〜29枚。翌1926年に手差式四六半裁オフセット機の試作に着手。大手印刷会社のプロセス平版導入で平版印刷はオフセットへ移った。輸入機はすべて自動給紙機付き
    • [11]1925年(創業3年目)に石版ロール印刷機を完成。二重ギヤで横揺れを防ぎ毎分28〜29枚。翌1926年に手差式四六半裁オフセット機の試作に着手。大手印刷会社のプロセス平版導入で平版印刷はオフセットへ移った。輸入機はすべて自動給紙機付き
    • [12]1925年(創業3年目)に石版ロール印刷機を完成。二重ギヤで横揺れを防ぎ毎分28〜29枚。翌1926年に手差式四六半裁オフセット機の試作に着手。大手印刷会社のプロセス平版導入で平版印刷はオフセットへ移った。輸入機はすべて自動給紙機付き
    • [13]1925年(創業3年目)に石版ロール印刷機を完成。二重ギヤで横揺れを防ぎ毎分28〜29枚。翌1926年に手差式四六半裁オフセット機の試作に着手。大手印刷会社のプロセス平版導入で平版印刷はオフセットへ移った。輸入機はすべて自動給紙機付き
    • [15]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
    • [17]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
    • [19]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
    • [20]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
    • [22]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
    • [24]あおり式手差オフセット第1号機は1928年10月完成。不況で納入先が決まらず、半年後の1929年春に三田四国町の栄文堂印刷所に据付け、完成を公表。善一が泊まり込んで欠陥を改良し、半年後に交換。第2号機は光画房プロセス社に納入。雑誌の部数増でオフセットの色刷り需要が中堅業者にも及んだ
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [7]焼跡に簡単なバラックを建て「小森機械製作所」の看板を揚げた。敷地500平方メートル
    • [10]クランクモーションギヤを二重ギヤに改良し28、29枚のスピードを実現。石版機械は先細りと判断し、オフセットの開発を死活問題と考えた
    • [14]クランクモーションギヤを二重ギヤに改良し28、29枚のスピードを実現。石版機械は先細りと判断し、オフセットの開発を死活問題と考えた
    • [16]1号機は昭和3年10月完成、不況で買手探しに苦労し半年後に大熊栄文堂の三田四国町工場に納入。見当はずれ・かすれが出て善一が泊り込みで調整。改良した2号機は光画房に納入
    • [18]1号機は昭和3年10月完成、不況で買手探しに苦労し半年後に大熊栄文堂の三田四国町工場に納入。見当はずれ・かすれが出て善一が泊り込みで調整。改良した2号機は光画房に納入
    • [21]1号機は昭和3年10月完成、不況で買手探しに苦労し半年後に大熊栄文堂の三田四国町工場に納入。見当はずれ・かすれが出て善一が泊り込みで調整。改良した2号機は光画房に納入
    • [23]1号機は昭和3年10月完成、不況で買手探しに苦労し半年後に大熊栄文堂の三田四国町工場に納入。見当はずれ・かすれが出て善一が泊り込みで調整。改良した2号機は光画房に納入

1930年〜延200坪の吾妻橋第2工場を建てた小森印刷機械製作所と、戦災で一夜に失った工場

1933年7月、小森善一氏が前年に出願したインキ練りの機構「練肉軸揺動変更自在装置」が公示され、特許第103960号となった。同年12月、会社は商号を小森印刷機械製作所に改め、歯車の中心に羽ばたくコウモリを置いた商標に替えた。歯車に12の歯を刻んだのは、創業の大正12年を表すためである。手差機の段階では大手印刷会社への売り込みが難しく、小森の機械は先発メーカーより1段低い価格に甘んじた。製品の信用を高めるには、特許や実用新案で公的な認知を得る必要があった。オフセット機の完成は兄弟の父の死去と重なり、会社はオフセットに専念するメーカーを志して商号を改めた。社名に印刷機械を掲げたのは、特許で技術を示し先発メーカーとの価格差を縮める狙いからとみられる。

  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [25]1932年申請の練肉軸揺動変更自在装置が1933年7月に特許第103960号として公示。同年12月、商号を小森印刷機械製作所に変更し、歯車にコウモリの商標に改めた(歯数12は大正12年創業)。手差機は先発メーカー製品より1ランク下の価格で、特許による公的認知が必要だった
    • [27]1932年申請の練肉軸揺動変更自在装置が1933年7月に特許第103960号として公示。同年12月、商号を小森印刷機械製作所に変更し、歯車にコウモリの商標に改めた(歯数12は大正12年創業)。手差機は先発メーカー製品より1ランク下の価格で、特許による公的認知が必要だった
    • [29]1932年申請の練肉軸揺動変更自在装置が1933年7月に特許第103960号として公示。同年12月、商号を小森印刷機械製作所に変更し、歯車にコウモリの商標に改めた(歯数12は大正12年創業)。手差機は先発メーカー製品より1ランク下の価格で、特許による公的認知が必要だった
    • [30]1932年申請の練肉軸揺動変更自在装置が1933年7月に特許第103960号として公示。同年12月、商号を小森印刷機械製作所に変更し、歯車にコウモリの商標に改めた(歯数12は大正12年創業)。手差機は先発メーカー製品より1ランク下の価格で、特許による公的認知が必要だった
    • [31]1932年申請の練肉軸揺動変更自在装置が1933年7月に特許第103960号として公示。同年12月、商号を小森印刷機械製作所に変更し、歯車にコウモリの商標に改めた(歯数12は大正12年創業)。手差機は先発メーカー製品より1ランク下の価格で、特許による公的認知が必要だった
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [26]インキ練り揺動装置(昭和8年)。オフセット機完成が父の死と重なり、オフセット専門メーカーを誓って商号を小森印刷機械製作所に改め、歯車にこうもりの商標とした
    • [28]インキ練り揺動装置(昭和8年)。オフセット機完成が父の死と重なり、オフセット専門メーカーを誓って商号を小森印刷機械製作所に改め、歯車にこうもりの商標とした
    • [32]インキ練り揺動装置(昭和8年)。オフセット機完成が父の死と重なり、オフセット専門メーカーを誓って商号を小森印刷機械製作所に改め、歯車にこうもりの商標とした

1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令により、印刷機械は不急品とされ新台の製造を禁じられた。会社は1936年3月に本所区吾妻橋へ延200坪の第2工場を完成させ、1937年には同工場製の手差機1台を大蔵省印刷局へ初めて納めている。新台を造れなくなった会社は、1939年から陸軍に野戦速刷機を納める指定業者となった。野戦速刷機はトラックに積む小型の手差オフセット機で、以後は陸軍燃料廠や海軍水路部にも手差機を納めた。鋳物の外注先の納期遅れが続いたため、1942年5月に取引先の奥の木鋳工所を設備と従業員ごと買収し、川口鋳工所とした。材料の配給を受けるには軍需の指定業者となる以外に方法がなく、手差オフセットの技術を軍の印刷需要に向けたと考えられる。

  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [33]1936年3月に吾妻橋の第2工場(延200坪)完成、1937年に同工場製の四六半裁手差機を大蔵省印刷局に初納入。1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令で印刷機械の製造禁止。1939年から陸軍の野戦速刷機の納入業者となり、陸軍燃料廠・海軍水路部などへ納入。1942年5月に奥の木鋳工所を買収し川口鋳工所。1944年にS型旋盤・プレーナーを生産する軍需工場
    • [34]1936年3月に吾妻橋の第2工場(延200坪)完成、1937年に同工場製の四六半裁手差機を大蔵省印刷局に初納入。1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令で印刷機械の製造禁止。1939年から陸軍の野戦速刷機の納入業者となり、陸軍燃料廠・海軍水路部などへ納入。1942年5月に奥の木鋳工所を買収し川口鋳工所。1944年にS型旋盤・プレーナーを生産する軍需工場
    • [35]1936年3月に吾妻橋の第2工場(延200坪)完成、1937年に同工場製の四六半裁手差機を大蔵省印刷局に初納入。1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令で印刷機械の製造禁止。1939年から陸軍の野戦速刷機の納入業者となり、陸軍燃料廠・海軍水路部などへ納入。1942年5月に奥の木鋳工所を買収し川口鋳工所。1944年にS型旋盤・プレーナーを生産する軍需工場
    • [37]1936年3月に吾妻橋の第2工場(延200坪)完成、1937年に同工場製の四六半裁手差機を大蔵省印刷局に初納入。1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令で印刷機械の製造禁止。1939年から陸軍の野戦速刷機の納入業者となり、陸軍燃料廠・海軍水路部などへ納入。1942年5月に奥の木鋳工所を買収し川口鋳工所。1944年にS型旋盤・プレーナーを生産する軍需工場
    • [39]1936年3月に吾妻橋の第2工場(延200坪)完成、1937年に同工場製の四六半裁手差機を大蔵省印刷局に初納入。1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令で印刷機械の製造禁止。1939年から陸軍の野戦速刷機の納入業者となり、陸軍燃料廠・海軍水路部などへ納入。1942年5月に奥の木鋳工所を買収し川口鋳工所。1944年にS型旋盤・プレーナーを生産する軍需工場
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [36]野戦速刷機を納入。取引先の奥の木鋳工所が川口市北町の工場を閉鎖するため設備一切を含めて買収し、1942年に小森印刷機械製作所川口鋳工所が発足
    • [38]野戦速刷機を納入。取引先の奥の木鋳工所が川口市北町の工場を閉鎖するため設備一切を含めて買収し、1942年に小森印刷機械製作所川口鋳工所が発足
    • [40]野戦速刷機を納入。取引先の奥の木鋳工所が川口市北町の工場を閉鎖するため設備一切を含めて買収し、1942年に小森印刷機械製作所川口鋳工所が発足

1945年2月下旬、社長の小森善七氏に召集令状が届き、小森善七氏は48歳で3月1日に千葉の本土防衛部隊へ入隊した。直後の3月10日未明の空襲で本所地区は約96%を焼失し、会社の工場と住宅も全焼の被害を受けた。防火責任者だった小森善一氏は、関東大震災の経験を踏まえて従業員を全員避難させ、空襲による死傷者は出なかった。工場は源森川に沿う延焼地帯の末端にあり、木造以外の設備の被害は軽微にとどまった。小森善一氏は焼け残った川口鋳工所にあった木型倉庫を吾妻橋へ手車で運んで移築し、2ヵ月後に応急工場を建てた。終戦後、伊豆大島の工兵隊にいた小森善七氏は陸軍中尉で復員した。失ったのは建屋で、工作機械と技術者と川口の鋳造拠点は残り、再起の条件はそろっていたとうかがえる。

  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [41]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
    • [42]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
    • [43]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
    • [45]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
    • [47]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
    • [49]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [44]工場は源森川沿いの焼跡の終端にあり木造部分のみ焼失。川口鋳工所の木型倉庫を手車で吾妻橋へ移し改築。空襲による死傷者なし
    • [46]工場は源森川沿いの焼跡の終端にあり木造部分のみ焼失。川口鋳工所の木型倉庫を手車で吾妻橋へ移し改築。空襲による死傷者なし
    • [48]工場は源森川沿いの焼跡の終端にあり木造部分のみ焼失。川口鋳工所の木型倉庫を手車で吾妻橋へ移し改築。空襲による死傷者なし
参考文献[25]-[49]
  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [25]1932年申請の練肉軸揺動変更自在装置が1933年7月に特許第103960号として公示。同年12月、商号を小森印刷機械製作所に変更し、歯車にコウモリの商標に改めた(歯数12は大正12年創業)。手差機は先発メーカー製品より1ランク下の価格で、特許による公的認知が必要だった
    • [27]1932年申請の練肉軸揺動変更自在装置が1933年7月に特許第103960号として公示。同年12月、商号を小森印刷機械製作所に変更し、歯車にコウモリの商標に改めた(歯数12は大正12年創業)。手差機は先発メーカー製品より1ランク下の価格で、特許による公的認知が必要だった
    • [29]1932年申請の練肉軸揺動変更自在装置が1933年7月に特許第103960号として公示。同年12月、商号を小森印刷機械製作所に変更し、歯車にコウモリの商標に改めた(歯数12は大正12年創業)。手差機は先発メーカー製品より1ランク下の価格で、特許による公的認知が必要だった
    • [30]1932年申請の練肉軸揺動変更自在装置が1933年7月に特許第103960号として公示。同年12月、商号を小森印刷機械製作所に変更し、歯車にコウモリの商標に改めた(歯数12は大正12年創業)。手差機は先発メーカー製品より1ランク下の価格で、特許による公的認知が必要だった
    • [31]1932年申請の練肉軸揺動変更自在装置が1933年7月に特許第103960号として公示。同年12月、商号を小森印刷機械製作所に変更し、歯車にコウモリの商標に改めた(歯数12は大正12年創業)。手差機は先発メーカー製品より1ランク下の価格で、特許による公的認知が必要だった
    • [33]1936年3月に吾妻橋の第2工場(延200坪)完成、1937年に同工場製の四六半裁手差機を大蔵省印刷局に初納入。1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令で印刷機械の製造禁止。1939年から陸軍の野戦速刷機の納入業者となり、陸軍燃料廠・海軍水路部などへ納入。1942年5月に奥の木鋳工所を買収し川口鋳工所。1944年にS型旋盤・プレーナーを生産する軍需工場
    • [34]1936年3月に吾妻橋の第2工場(延200坪)完成、1937年に同工場製の四六半裁手差機を大蔵省印刷局に初納入。1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令で印刷機械の製造禁止。1939年から陸軍の野戦速刷機の納入業者となり、陸軍燃料廠・海軍水路部などへ納入。1942年5月に奥の木鋳工所を買収し川口鋳工所。1944年にS型旋盤・プレーナーを生産する軍需工場
    • [35]1936年3月に吾妻橋の第2工場(延200坪)完成、1937年に同工場製の四六半裁手差機を大蔵省印刷局に初納入。1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令で印刷機械の製造禁止。1939年から陸軍の野戦速刷機の納入業者となり、陸軍燃料廠・海軍水路部などへ納入。1942年5月に奥の木鋳工所を買収し川口鋳工所。1944年にS型旋盤・プレーナーを生産する軍需工場
    • [37]1936年3月に吾妻橋の第2工場(延200坪)完成、1937年に同工場製の四六半裁手差機を大蔵省印刷局に初納入。1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令で印刷機械の製造禁止。1939年から陸軍の野戦速刷機の納入業者となり、陸軍燃料廠・海軍水路部などへ納入。1942年5月に奥の木鋳工所を買収し川口鋳工所。1944年にS型旋盤・プレーナーを生産する軍需工場
    • [39]1936年3月に吾妻橋の第2工場(延200坪)完成、1937年に同工場製の四六半裁手差機を大蔵省印刷局に初納入。1938年7月の鋼製品製造制限の商工省令で印刷機械の製造禁止。1939年から陸軍の野戦速刷機の納入業者となり、陸軍燃料廠・海軍水路部などへ納入。1942年5月に奥の木鋳工所を買収し川口鋳工所。1944年にS型旋盤・プレーナーを生産する軍需工場
    • [41]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
    • [42]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
    • [43]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
    • [45]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
    • [47]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
    • [49]1945年2月下旬に善七に召集令状、3月1日入隊。3月10日の空襲で本所地区は約96%焼失、工場・住宅全焼。防火責任者の善一が全員を避難させた。源森川沿いで延焼地帯の末端にあり木造以外は軽微な被害。川口鋳工所の木型倉庫を移し2ヵ月後に応急工場。善七は伊豆大島の工兵隊から陸軍中尉として復員
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [26]インキ練り揺動装置(昭和8年)。オフセット機完成が父の死と重なり、オフセット専門メーカーを誓って商号を小森印刷機械製作所に改め、歯車にこうもりの商標とした
    • [28]インキ練り揺動装置(昭和8年)。オフセット機完成が父の死と重なり、オフセット専門メーカーを誓って商号を小森印刷機械製作所に改め、歯車にこうもりの商標とした
    • [32]インキ練り揺動装置(昭和8年)。オフセット機完成が父の死と重なり、オフセット専門メーカーを誓って商号を小森印刷機械製作所に改め、歯車にこうもりの商標とした
    • [36]野戦速刷機を納入。取引先の奥の木鋳工所が川口市北町の工場を閉鎖するため設備一切を含めて買収し、1942年に小森印刷機械製作所川口鋳工所が発足
    • [38]野戦速刷機を納入。取引先の奥の木鋳工所が川口市北町の工場を閉鎖するため設備一切を含めて買収し、1942年に小森印刷機械製作所川口鋳工所が発足
    • [40]野戦速刷機を納入。取引先の奥の木鋳工所が川口市北町の工場を閉鎖するため設備一切を含めて買収し、1942年に小森印刷機械製作所川口鋳工所が発足
    • [44]工場は源森川沿いの焼跡の終端にあり木造部分のみ焼失。川口鋳工所の木型倉庫を手車で吾妻橋へ移し改築。空襲による死傷者なし
    • [46]工場は源森川沿いの焼跡の終端にあり木造部分のみ焼失。川口鋳工所の木型倉庫を手車で吾妻橋へ移し改築。空襲による死傷者なし
    • [48]工場は源森川沿いの焼跡の終端にあり木造部分のみ焼失。川口鋳工所の木型倉庫を手車で吾妻橋へ移し改築。空襲による死傷者なし

1945年〜資本金100万円で株式会社に改めた焼跡の再出発と、足立工場の自動オフセット機

終戦後の会社は、空襲で壊滅した共同印刷の本社工場の復旧を引き受け、1947年7月まで社員を出向させて焼損機の修理にあたった。1946年に新台製造の禁止が解かれると、被災した印刷業者からの修理注文も重なり、修理の受け入れ台数は同年が最も多かった。会社は在庫となっていた野戦速刷機の仕掛品を四六8裁の手差機に改め、ベビーオフセットとして発売した。ベビーオフセットは注文が相次ぎ、1946年2月の金融緊急措置令後の資金繰りを支えた。100人を超える従業員を抱えた小森善七氏は個人企業の限界を感じ、大企業の参入による競合にも備えて法人化を急いだ。1946年12月28日、会社は資本金100万円の株式会社小森印刷機械製作所となり、社長に小森善七氏、専務に小森善一氏が就任した。

  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [50]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [52]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [53]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [55]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [57]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [58]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [51]共同印刷の復興作業に人員を派遣。野戦速刷機の半製品を改良し手差式四六判八裁ベビーオフセットとして発売、資金繰りに貢献。株式会社小森印刷機械製作所、資本金100万円、代表取締役社長小森善七・専務小森善一
    • [54]共同印刷の復興作業に人員を派遣。野戦速刷機の半製品を改良し手差式四六判八裁ベビーオフセットとして発売、資金繰りに貢献。株式会社小森印刷機械製作所、資本金100万円、代表取締役社長小森善七・専務小森善一
    • [56]共同印刷の復興作業に人員を派遣。野戦速刷機の半製品を改良し手差式四六判八裁ベビーオフセットとして発売、資金繰りに貢献。株式会社小森印刷機械製作所、資本金100万円、代表取締役社長小森善七・専務小森善一
    • [59]共同印刷の復興作業に人員を派遣。野戦速刷機の半製品を改良し手差式四六判八裁ベビーオフセットとして発売、資金繰りに貢献。株式会社小森印刷機械製作所、資本金100万円、代表取締役社長小森善七・専務小森善一

1949年12月、会社は大蔵省印刷局から郵便切手用の凸版2色輪転機2台の修復を落札し、焼損のひどい機械を元の性能に戻した。翌1950年、印刷局は自動2色機の購入入札を実施し、自動機の実績がない会社は参加の資格を欠いた。外部の評価は手差オフセットの小森にとどまり、専務の小森善一氏は自動機に移らなければ時代の変化から取り残されると危機感を抱いた。会社は1949年晩秋に売りに出た篠原機械製作所の足立区の工場を、従業員30人の引き継ぎを条件に買収し、1950年1月に足立工場を開設した。同月に資本金を500万円へ増資し、本社工場から移ったのは酒井時蔵氏ら10人。足立工場は全自動の四六全判機OKLを1950年12月に完成させ、1951年4月に大熊栄文堂の兄弟会社へ納めた。

  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [60]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [62]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [64]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [65]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [67]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [68]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [61]印刷局の切手用輪転機修復で評価を得たが、翌年の自動二色機購入では自動機の実績がなく入札資格を欠いた。篠原鉄工所の足立区梅島の工場を従業員30名とともに引き取り足立工場が発足(同書は昭和24年1月と記す)。OKLは大熊栄文堂の兄弟会社に納入
    • [63]印刷局の切手用輪転機修復で評価を得たが、翌年の自動二色機購入では自動機の実績がなく入札資格を欠いた。篠原鉄工所の足立区梅島の工場を従業員30名とともに引き取り足立工場が発足(同書は昭和24年1月と記す)。OKLは大熊栄文堂の兄弟会社に納入
    • [66]印刷局の切手用輪転機修復で評価を得たが、翌年の自動二色機購入では自動機の実績がなく入札資格を欠いた。篠原鉄工所の足立区梅島の工場を従業員30名とともに引き取り足立工場が発足(同書は昭和24年1月と記す)。OKLは大熊栄文堂の兄弟会社に納入
    • [69]印刷局の切手用輪転機修復で評価を得たが、翌年の自動二色機購入では自動機の実績がなく入札資格を欠いた。篠原鉄工所の足立区梅島の工場を従業員30名とともに引き取り足立工場が発足(同書は昭和24年1月と記す)。OKLは大熊栄文堂の兄弟会社に納入

1950年6月の朝鮮動乱の特需で国内経済は持ち直し、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を上回った。1951年春、会社は戦時中に応じられなかった共同印刷から毎分60枚のOKM4台を受注し、同年10月に1号機を据え付けた。1952年春には、大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機の受注。会社はハリス機の修理で知ったストリームフィーダー方式の給紙を採用し、OKS-Cとして同年11月に納めた。浜田精機鉄工所のシェアを崩せなかった大日本印刷での稼働は、会社の評価を高めた。同年10月には自動機OKLを手差式に改めた菊全判の2色機OKWを発表し、1950年代前半の経営を支える機種となった。自動機の実績は、1950年に入札資格を欠いた印刷局向けの案件に挑む前提になったのだろう。

  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [70]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
    • [71]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
    • [73]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
    • [74]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
    • [76]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
    • [77]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [72]朝鮮戦争の特需景気。共同印刷からOKMを受注しデキスターフィーダー付き単色機を製作。超高速四六半裁機OKS-Cの誕生
    • [75]朝鮮戦争の特需景気。共同印刷からOKMを受注しデキスターフィーダー付き単色機を製作。超高速四六半裁機OKS-Cの誕生
参考文献[50]-[77]
  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
    • [50]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [52]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [53]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [55]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [57]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [58]共同印刷本社の戦災復旧を1947年7月まで担った。1946年に新台製造の禁止が解除。修理受入れ台数は1946年が最高。野戦速刷機の仕掛品を四六8裁手差機ベビーオフセットとして発売し資金繰りに寄与。善七は個人企業の限界を痛感し法人化。1946年12月28日、株式会社小森印刷機械製作所(資本金100万円、社長善七・専務善一)
    • [60]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [62]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [64]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [65]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [67]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [68]1949年12月に印刷局の郵便切手用凸版2色輪転機2台の修復を落札。翌1950年の印刷局の自動2色機入札には自動機の実績がなく参加できなかった。善一専務は時代に取り残されると憂慮。1949年晩秋に篠原機械製作所の足立工場の売却情報、従業員30人引継ぎを条件に買収。1950年1月増資で資本金500万円、酒井時蔵ら10人が移った。OKLは1950年12月完成、1951年4月納入
    • [70]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
    • [71]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
    • [73]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
    • [74]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
    • [76]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
    • [77]1950年6月の朝鮮動乱で特需ブーム、1952年度の印刷物出荷額は戦前最高の1939年を超えた。1951年春に共同印刷からOKM4台受注、毎分60枚、1号機を1951年10月に据付。1952年春に大日本印刷から毎分100枚の四六半裁機を受注しストリームフィーダー付きOKS-Cを11月納入。大日本印刷では浜田精機のシェアを崩せずにいた。1952年10月に菊全判手差2色機OKWを発表、20年代後半の経営を支えた
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)
    • [51]共同印刷の復興作業に人員を派遣。野戦速刷機の半製品を改良し手差式四六判八裁ベビーオフセットとして発売、資金繰りに貢献。株式会社小森印刷機械製作所、資本金100万円、代表取締役社長小森善七・専務小森善一
    • [54]共同印刷の復興作業に人員を派遣。野戦速刷機の半製品を改良し手差式四六判八裁ベビーオフセットとして発売、資金繰りに貢献。株式会社小森印刷機械製作所、資本金100万円、代表取締役社長小森善七・専務小森善一
    • [56]共同印刷の復興作業に人員を派遣。野戦速刷機の半製品を改良し手差式四六判八裁ベビーオフセットとして発売、資金繰りに貢献。株式会社小森印刷機械製作所、資本金100万円、代表取締役社長小森善七・専務小森善一
    • [59]共同印刷の復興作業に人員を派遣。野戦速刷機の半製品を改良し手差式四六判八裁ベビーオフセットとして発売、資金繰りに貢献。株式会社小森印刷機械製作所、資本金100万円、代表取締役社長小森善七・専務小森善一
    • [61]印刷局の切手用輪転機修復で評価を得たが、翌年の自動二色機購入では自動機の実績がなく入札資格を欠いた。篠原鉄工所の足立区梅島の工場を従業員30名とともに引き取り足立工場が発足(同書は昭和24年1月と記す)。OKLは大熊栄文堂の兄弟会社に納入
    • [63]印刷局の切手用輪転機修復で評価を得たが、翌年の自動二色機購入では自動機の実績がなく入札資格を欠いた。篠原鉄工所の足立区梅島の工場を従業員30名とともに引き取り足立工場が発足(同書は昭和24年1月と記す)。OKLは大熊栄文堂の兄弟会社に納入
    • [66]印刷局の切手用輪転機修復で評価を得たが、翌年の自動二色機購入では自動機の実績がなく入札資格を欠いた。篠原鉄工所の足立区梅島の工場を従業員30名とともに引き取り足立工場が発足(同書は昭和24年1月と記す)。OKLは大熊栄文堂の兄弟会社に納入
    • [69]印刷局の切手用輪転機修復で評価を得たが、翌年の自動二色機購入では自動機の実績がなく入札資格を欠いた。篠原鉄工所の足立区梅島の工場を従業員30名とともに引き取り足立工場が発足(同書は昭和24年1月と記す)。OKLは大熊栄文堂の兄弟会社に納入
    • [72]朝鮮戦争の特需景気。共同印刷からOKMを受注しデキスターフィーダー付き単色機を製作。超高速四六半裁機OKS-Cの誕生
    • [75]朝鮮戦争の特需景気。共同印刷からOKMを受注しデキスターフィーダー付き単色機を製作。超高速四六半裁機OKS-Cの誕生

出典・参考

2件
出典・参考
  • 小森コーポレーション70年史 1923~1993(1994)
  • 小森印刷機械株式会社社史 五十五年の歩み(1978)

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